ピーター・ガブリエル  その3

前回の続き。

アルタード・ステーツ』

 夢ごこちになれるという触れこみについその気になって、ピーターは、一九八一年のはじめにサマディ浮遊タンクを買った。ケン・ラッセルの映画「アルタード・ステーツ」で描かれたようなおどろおどろしい感覚遮断装置とはまた違い、このタンクの中は静かでとてもリラックスできる。大きなくさび型の棺桶型のサマディには深さ二十センチの水とエプソム塩が入っていて、人肌の体温に保たれ、無重力感が味わえる。(略)

「[タンクの中で]よく白昼夢にふけったね。そんな状態だといろんなアイディアが浮かんでくるんだ」

 タンクはそれから何年間の間に次々と起こる事件の心の痛手から逃れる場所として役立つことになった。

(略)

 彼がタンクを手に入れたくなったのは、『サイクロンの眼』を読んでからだ。この著者であるアメリカの精神分析学者、ジョン・リリーは、自分の発案したタンクを使って「心理的な自由降下」を試みた。(略)

 リリーの本では、体外離脱の体験があふれんばかりの美文調で描かれている。LSDを試しはじめるくだりでは、ますます気味の悪い世界になってくる。こうした体験談にヒントを得て、パディ・チャイエフスキーは小説『アルタード・ステーツ』を書き、ラッセルの映画はそれをもとに作られた。「わたしが入り込んだ宇宙は、わたしよりもはるかに大きな存在で、わたしはそれらから発せられた光に照らされた塵でしかなく、またそれらの宇宙の中の小さな蟻であり、巨大な頭脳の中のほんのひらめきか、宇宙的コンピューターの中のちっぽけなプログラムでしかなかった……光や音や運動に等しい波、激しい情緒の波が、計り知れない次元でうねっていた」とリリーはこう結んでいる。「人が想像できるものはすべて、何もかも存在している」

 隔離タンクは、ピーターの矛盾した性格の一端を浮き彫りにしている。彼は自制がきかなくなるのが怖くてドラッグにふけったことがなかった。それなのに、隔離タンクは、精神の異常な状態を保証していた。彼はタンクの中で自分を見失いたがっていた。(略)

ピーターはそれをクリエイティブな思考を促すよう使ってきた。(略)タンクは脳のシータ波を刺激する。(略)

 『浮遊の本』の中でマイケル・ハッチソンはこう書いている。「シータの状態は、思いがけない、予想のつかない、夢心地の状態に起きるが、かといって頭の中のイメージはかなり鮮明で、強烈な記憶、とりわけ子供の頃の記憶を伴う。シータは、無意識のコントロール、夢想、自由連想、ふとした洞察、クリエイティブなインスピレーションにつながる。これは神秘的なとらえどころのない状態であり、きわめて生産的、啓発的だ」

(略)

 気分転換になる器械にピーターが初めて興味をもつようになったのは、ジェネシス時代だ。バイオフィードバックの器械を研究しはじめたのもちょうどその頃で、それを使ったらもっと自分を知ることができるのでは、と考えたのだ。この機械は電極を体につけて、脳波や心音など、体の不随意な動きをモニターする。

(略)

「眩惑のブロードウェイ」のステージで、バンドにその器械を取りつけて、モニターされる気分の変化に応じて照明やサウンドを変える、というプランを彼はもっていた。(略)このプランは結局お流れになった。

 一九七五年の休養をとった時期に、ピーターは呼吸亢進を促す"炎の気"と呼ばれるヨガのテクニックを学んだ。

(略)

 一九八二年、四作目のアルバムのレコーディング中、彼はジェリー・マロッタに重力ブーツというものを教えてもらった。このブーツはストラップで脚に固定され(略)重力棒に逆さまにぶらさがっても人間を支えることができるのだ。(略)

逆さまになってストレッチしたり、運動したりすると、背骨と背中のためにうんといいし、血が脳に注がれて内分泌が刺激されるという理屈だ。

(略)

さまざまな教えにこだわりなく影響を受けてきた彼だが、組織だった宗教は自然と避けてきた。「ぼくは宗教活動をやるような人間じゃないんだよ。ある宗教や教会に属したりとかね。禅と老荘思想にはすごく興味がある。その二つは他のどんなものより、ぼくの世の中を見る目とぴったり合っているみたいなんだ。といっても、困ったときの神頼みは今でもやっている。子供の頃からお祈りさせられてきたから、無意識にそうなっちゃうんだよ。だからその辺のところは複雑なものがあるね。ただ、思うに、宗教ってのは、自分の心の中に宗教のための穴をいったん作ってしまうと、始終何かで穴埋めしなくちゃならないんだよ。たとえそれが反宗教であってもね」

 ジルは父、ムーア卿を通じてより深い教会とのつながりを保っている。彼女の父親は(略)爵位を授けられて、今はキリスト教布教協会の副会長をしている。

(略)

 アンナとメラニーは、ロサンゼルスの自己能力実現信徒集会で堅信式と洗礼の両方を受けている。「すてきだったわ、本当にきれいな湖の真ん中の水車小屋で行なわれて、六つの違った宗教の洗礼を受けたんです」とジル

(略)

 ピーターが長いこと愛読している「ホール・アース・カタログ」は、六〇年代の創刊以来ずっと代替テクノロジーを奨励し、環境問題を呼びかけてきた。

(略)

才気煥発のピーター・シュワルツは、『ホール・アース・カタログ』の創刊者、スチュワート・ブランドの親友でもあった。

(略)

 カリフォルニア・ヒッピー上がりをもって任じるシュワルツは、一九七八年にピーターと会ったあと、スペース・シャトルの映画を撮るため参加する飛行計画にピーターを加えたがった。(略)

ピーターに宇宙体験でひらめくインスピレーションをもとにサウンド・トラックを作ってもらいたかったのだ。(略)

映画にゴー・サインが出れば(略)厳しい訓練を受けなければならない、とピーターは言われていた。(略)

 資金援助者を失い、NASAの煮えきらない態度とシャトル計画の遅れもあって、シュワルツは一九七八年末には夢を断念せざるをえなくなった。

(略)

映画の見通しが怪しくなりかけた頃[天才少年シュワルツの子供時代を映画にしたいとハリウッドから声がかかり](略)

彼は、もっと面白いプロットを勧めた。(略)子供の頃彼は(略)国防省の二台のコンピューターに割り込んだ(略)ハッカーのはしりだったのだ。それが「ウォー・ゲーム」という映画になり(略)一億ドルの興行収入を上げた。

眩惑のブロードウェイ、ホドロフスキー、モーゾ

 「眩惑のブロードウェイ」の創作面の主導権と所有権をめぐる争いは、ピーターがジェネシスを抜けたずっと後まで尾を引いていた。(略)

 何の制約もなく自由にストーリーと歌詞を作ってもいいというアーティスティックな部分での承諾をもともとバンドからもらっていたので、ピーターは自分にも当然所有権があると考え、ジェネシスの他のメンバーにいっさい相談しないで版権を所有してしまった。

 その行為自体、すべての曲を民主的に所有しているのを誇りとしていたバンド内に亀裂を招いた。それだけならまだしも、一九七九年、ピーターが、あるシナリオを書いて、昔の仲間をスタジオに呼び戻し、そのシナリオのサウンド・トラック用に同じ曲を再レコーディングするよう頼んだことでますます話がこじれた。

(略)

 「古い曲を焼き直すっていうんで、バンドはちょっと渋っていた。しかも、ぼくが目立ちに目立っていた曲だからね。(略)

あれはぼくのストーリーだから、他のことに好きなように使いたいし、使える権利があるはずだと思っていた。音楽自体は、もちろん共同所有だけどね」

 バンドに再レコーディングする気がないのがはっきりしてくると、ピーターは「眩惑のブロードウェイ」に新しい曲を書き足そうかと考えた。「ぼくなりの『眩惑…』を勝手にレコーディングしても違法じゃなかったと思う。だけど、そこまでやったらバカみたいだしね」

(略)

 七〇年代初期、ピーターは、アレハンドロ・ホドロフスキー監督の映画「エル・トポ」に心酔していた。(略)

一九七九年のはじめ、彼はついにパリの自宅をつきとめ、会うことができた。

(略)

「眩惑のブロードウェイ」は、二十世紀の「天路歴程」になるはずだった。ブロンクス出身でプエルトリカンの若き罪人レエルは、ニューヨーク・シティでひと旗あげようとする。しかし、ストリート・パンクでグラフィティ・アーティストである彼は、思いがけない回り道をさせられ、自分の精神の中に紛れこんでしまう。そこは四次元の世界で、神話の中の生き物や怪奇じみた人物が住んでいた。これはセックスと暴力と死のシュールな物語である。

(略)

「ぼくらは週に四日から六日顔をつきあわせて脚本を練った。ぞくぞくするようなすばらしい時間だったよ」(略)ピーターとホドロフスキーは、一九七九年の夏の間、バースのアシュコム・ハウスで作業を続けた。「彼はすごい人だし、ぼくが自分のキャリアを再評価するうえで、一服の清涼剤になってくれた」

(略)

レエルを自分で演じる計画はあきらめて、代わりに共作者として裏方に回れ、とホドロフスキーはピーターを説得した。「あの頃は彼の歌しか知らなくて。ステージの彼は見たことがなかったからね(略)もっとも今なら、やった方がいいと言うだろうね。彼の役者っぷりを知っているからね」(略)

カリスマ・フィルムはかなり低予算の五万ポンドを工面してくれそうだった。しかし、一九八〇年にピーターがアトランティックから降ろされたとたん、なくてはならないアメリカの出資者を見つけるのに手間取るようになった。(略)三枚目のアルバムは結局売れたにもかかわらず、出資者はまだ納得しなかった。

 ホドロフスキーとの脚本作りもすんで、ピーターは一九八一年の夏には撮影が始まるのを望んでいた。(略)「あれはただ立ち消えになった。バンドの問題も片づかないうちにね」と彼は言っている。衝突は、映画化にならなかったという形で免れたのである。

(略)

 レエルを考えついてから一年とたたない頃、ピーターは"きまぐれなよそ者"モーゾを生み出した。(略)

 モーゾは、ラテン語で書かれた『わが身のあけぼの』という、聖書のソロモンの雅歌をもとにした中世の錬金術の論文にヒントを得ている。この論文はカール・ユングが聖トマス・アクイナスの作だと考え、世に知らしめたものだ。中身は錬金術、宗教の象徴的意味と黙示録のイメージに満ちている。

(略)

ピーターはユング錬金術に関する記述のとりこになった。「ぼくは、こと変身とか変革ということになると昔から夢中だった(略)モーゾがやってくると、現状が揺さぶられる。これは彼が現われた後の苦闘の物語なんだ」

(略)

 ピーターはモーゾの曲を数枚のアルバムにちりばめたいと考えた。それらをひとまとめにしたとき初めて、完全なストーリーになるのだ。その曲とは、黙示録的なビジョンをもった「洪水」、勇猛果敢なる旅の船出を描いた「ダウン・ザ・ドルチェ・ビータ」、モーゾと彼の幻想世界を描いた「オン・ジ・エア」、救済への苦闘を描いた「イクスポージャー」、彼女に否定される気持ちを歌った「レッド・レイン」、そして最後の審判の「ザット・ボイス・アゲイン」だ。

(略)

セカンド・アルバムの「オン・ジ・エア」でモーゾは(略)短波を受信したり、送信して作りあげた幻想の世界の住人として紹介される。「短波のラジオを通して彼は自分の好きなものになれるんだ。でも現実の世界では、一歩街に出れば、人に見向きもされないのさ」

(略)

「洪水」は、ピーターが一番短波無線に狂っている頃に書かれた曲だ。ラジオの電波が、夜大きくなるとすれば、同様に、霊的、テレパシー的な感覚も増大されて、それが洪水のように大衆の意識の中になだれこむのではないかと彼は推測する。素直で、ストレートな人間は、この新しい意識の波に乗れるが、自分の考えや気持ちを隠してきた人間はさ迷ってしまうのだ。

 

洪水の声が聞こえるとき

おまえには家もなく、壁もなくなる

(略)

役者は去り、おまえとわたししかいない

夜明け前におれたちの夜が明けなかったら

やつらは過去のおれたちを使いはたしちまう

(略)

 レコードに登場する、モーゾものの最後の曲は、アルバム「So」の中の「レッド・レイン」と「ザット・ボイス・アゲイン」だ。「レッド・レイン」は抑圧された感情と苦痛を、自然の猛威になぞらえようとする。

 「ザット・ボイス・アゲイン」をピーターはこう説明する。「人と人との間に壁を作ってしまう態度について歌ったんだ。声というのは裁きの声。経験を受け入れる代わりに、いつも分析したり、道徳化したり、評価しようとする、心の中のしつこい声なんだ」

ミルグラム

 「Milgram's 37」ができてから七年後、この曲が「So」のアルバムに収められる頃には、タイトルは「ウィ・ドゥ・ホワット・ウィアー・トールド」に変わり、「Milgram's 37」というサブタイトルがつけられた。曲は脈打つリズムを背景に、じわじわと盛りあがって不気味なお経のようになる。「ぼくらは言われたことをやる」の歌詞の繰り返しのあとに、次のサビがくる。

 

ひとつの疑惑

ひとつの声

ひとつの戦争

ひとつの真実

ひとつの夢

 

 ピーター・ハミルにとっては、ピーターの曲の中で一番納得のいかない作のようだ。「ぼくにはかなり中途半端に思えた。(略)ミルグラムの実験についての意見としても、あるいは歌としても、このままの歌詞じゃいただけない。ミルグラムの実験が言わんとしていることは、"ぼくらは言われたことをやる"じゃないんだよ(略)

ミルグラムのことを何も知らない人間には、カフカ的な不条理の世界を歌っていることになる。肝心なポイントは、もっと深いんだ。ぼくらの心の奥底にあるものなんだよ。(略)

もしも、もっと単純なフレーズに縮めなきゃならないとしたら、"ぼくらの目的は人を喜ばせること"の方がもっと正確だと思うね。

(略)

『ビコ』はどこから見たって立派な大作だ。ありきたりのところを飛び越えてグローバルなものになっているからね。『ウィ・ドゥ・ホワット・ウィアー・トールド(Milgram's 37)』にはそれがないんだ」

 ピーターは長い時間をかけてミルグラム教授の居所を電話で突きとめ、実験のフィルムの一部をビデオかステージで使う許可を求めた。

 「ぼくがあのフィルムに興味をもったのは、中に出てくる人たちがごく普通のアメリカ人って感じで(略)それなのに、同じ人間があんな恐ろしいことをやってのけるんだもんね。まったくあれにはびっくりしたよ。(略)」

[学生にもファンがいたので]教授は暖かく応じてくれた。(略)しかし、二度目の電話でミルグラムの態度が急変した。

 「また世間を騒がせてはコトだっと思って、彼は用心したんだろうと思う。(略)アカデミックな研究とエンターテイメントは、同じ屋根の下では寝られないんですよ、ってね。(略)仲間うちからのプレッシャーもあったんだと思う」

「最後の誘惑」、「バーディ」

彼の音楽が二人のメジャーなハリウッドの監督、マーチン・スコセッシアラン・パーカーを惹きつけたのだ。一九八三年、映画「最後の誘惑」のサウンド・トラックをやってみる気はないかと、最初にアプローチしてきたのはマーチン・スコセッシの方だった。ピーターはスコセッシと仕事をするチャンスができたのをとても喜んだ。

(略)

この映画がキリストをホモセクシャルとして描いたというデマが飛びかい、パラマウントは神経過敏になりはじめた。

 映画の商業的な見通しが暗くなったのは、アメリカ最大の映画館チェーンのオーナーであるサラ・ハッサネインが、台本を読みもしないで自分の劇場では公開したくないと言いだしてからだ。彼は宗教映画にはコリていた。

 パラマウント・スタジオは(略)予算を半分にカットした。

(略)

 アラン・パーカーが映画「バーディ」のサウンド・トラックをピーターに頼んだときは、もっととんとん拍子に進んだ。「ザ・ウォール」で(略)すっかり懲りてしまったパーカーは、またぞろロック・ミュージシャンに声をかけるのをためらっていた。(略)「ピーターはあの世界に染まっていませんよ。珍しい人です。あの業界独特の不安感やいやらしいところがぜんぜんありません。わたしたちはばっちりでした。すごくやさしい男ですよ。ロジャー・ウォーターズみたいな被害妄想狂と仕事したのを思えば、心が洗われるようでしたね」

(略)

 スタジオでは誰かの助力が必要だったので、ピーターはデヴィッド・ローズの勧めでダニエル・ラノアに声をかけた。(略)ハロルド・バッドのアルバム「ザ・パール」でのラノアのプロデュースぶりにひどく感心していたからだ。

(略)

 ピーターはストーリー性を壊さないように、まばらにしか音楽を使わなかった。パーカーはこう語っている。「伝統的なハリウッド映画の音楽は全篇音楽だらけで、陰影がないから効果的でなくなってしまいます。ほんと、アルバムのミキシングも同じことですよ。はじめからおしまいまでがんがん押しまくると、かえって強力じゃなくなります。静かな時があって初めて、がんがん来る曲も生きるんです(略)」

WOMAD

 一回きりのコンサートが六日間のフェスティバルとして組まれるまで話が大きくなり、出しものも幅広い文化のさまざまな伝統音楽からハイテクの西欧音楽まで含まれることになった。

 WOMADのワーカーたちは資金作りに乗り出し、芸術評議会などの公共団体、コカコーラなどの民間のスポンサーも当ってみたが、うまくいかなかった。ピーターは、顔をきかせてヨーロッパとアメリカの音楽業界の人間に渡りをつけた。当時WEAレコード・イギリスの会長をしていたチャールズ・レヴィンソンは、まさに救世主のように見えた。彼は二枚組のアルバムをフェスティバルに先がけてリリースするという条件で、前金十五万ドルを払うことに同意してくれたのだ。(略)

 また、BBCが有名な芸術ドキュメンタリー番組「アリーナ」にフェスティバルの模様を収めようと同意してくれたので、またひとつ突破口が開けたかに見えた。

 ついに日取りが決まり(略)日程は三日間に縮小されていた。(略)

文化的な展示会、講演、映画上映、実演、そして世界各地からの芸術品や工芸品や食品も用意され、四つのステージでは同時にコンサートが開かれる予定だった。

 このフェスティバルのもとになっていた理想主義が、その失敗にひと役買うことになったのだ。一番いい例がフェスティバルのポスターだ。すべてのミュージシャンは知名度や格に関係なく、平等にアルファベット順に並んでいた。もし次の代案が破棄されずに通っていれば、ピーター・ガブリエル、エコー・アンド・ザ・バニーメン、シンプル・マインズといったイギリス勢のアーティストの名が、中国のティアン・ジン、エジプトのレ・ミュージシャン・ドゥ・ナイル、インドネシアのサソノ・ムルヨよりも上に載っていただろう。

(略)

 経済的には、少しずつ入ってくる資金と銀行の支店長の辛抱強さで成り立っていた。ブリストル・レコーダーのスタッフはそれまでに築きあげた数千ポンドの利益をつぎこみ、レコーダーのマーチン・エルボーンは四千ポンド相当の株を現金化し、ピーターは三千ポンドを出資し、資金集めのために行なわれたイベントでさらに数千ポンドを集めていた。資金はそれでも絶対的に不足していた。だから、たとえば、色刷りのプログラムは紙代以外印刷業者に泣いてもらったりするなど、多くの善意や寄付に支えられていた。

 そんな時、博覧会場側が、ピーターやバニーメンのようなロックものは、規約上四千人が限度のシャワリング・パビリオンの中でなくては困ると言ってきた。これで、投資分を取り返すチャンスはつぶれた。(略)彼らは、一九六九年のバースのロック・フェスで起こった、あふれかえった群衆の問題が再発するのを恐れていたからだ。

 「ぼくらは夢をもちすぎて、そのうえ未熟でしたけれど、一番大きな失敗は、会場側の言いなりになったことです。(略)愚の骨頂もいいとこでした」

(略)

 見積りコストは、二十五万ポンドに達しようとしていた。(略)

 BBCとの取り決めは共同プロデュースだった。BBCが器材一切をもちこんで収録するが、「経費」はWOMADもちになっていた。WOMADはアメリカの後援者を見つけていたので、録画したものを世界中のテレビ局に売る権利をもつことができた。「放映権がぼくらの財政の鍵を握っていました。前もって五万ポンド作るように言われましたが、ぼくらのアメリカの共同プロデューサーが結局は金を作ろうとしませんでした。彼らはこの取り決めが一方的だと思っていたんです」

 BBCはイベントの二週間前に降りると突然通告してきた。(略)

「あれはボディブローなんてもんじゃなかったですね。流砂の上にホテルを建てているような気分になってきました。(略)」

(略)

WOMADの二枚組のアルバムは、決定的な収入源になるばかりか、喉から手が出るほどほしい宣伝効果にもなるはずだった。しかし、前年の夏に予定されていたアルバムは延び延びになって(略)フェスティバルの二週間前になってようやくリリースされた。WEAレコードからのアドバンスは分割払いで、その最終分がWOMADに支払われた。「アドバンスがやっと振り込まれて銀行のマイナス残高がきれいになって、またぼくらは金を使い続けました。今から見れば、綱渡りでしたね。でもそうせざるをえませんでした。すべてがもう動き出していて、勢いがついて、ストップしたくてもできなかったんです」

(略)

狂気の沙汰だとピーターにアドバイスし、自分は一切かかわりをもとうとしなかったゲイル・コルソンもその頃にはWOMADの窮状を見るに見かねていた。彼女はヒット・アンド・ランの会計士をバースまで連れてきて、大混乱の収拾をつけようとした。

「会計士が徹夜で負債額を割り出して、土曜の朝には、ぼくらがかれこれ二十五万ポンド近い借金を抱えそうだってことが分かったんです(略)」

(略)

「(略)

 経費を埋めるだけのお客が入りましたか?という質問に、

 ひと言で言えば……ノーだよとピーターは答え、けなげに作り笑いを浮かべようとした。わたしは彼が一週間前に言った、破産宣告法廷みたいなおもしろいところという皮肉をつい思い出してしまった」

 一年半かかったフェスティバルの準備期間中、ずっとピーターは四作目のアルバムの曲作りとレコーディングにかかっていた。

(略)

 ピーターはこう振り返っている。「イベント中に、足もとが崩れかかっているのが分かってきたね。(略)もっとたくさん人が入ると思いこんでいたんだ。鉄道のストライキがあったのも痛かったし、宣伝もぞっとするぐらい行き渡っていなくて。あれは新聞の色刷りの日曜版か何かにもってこいの題材だと思ったのに、残念だったよ(略)

ぼくはかかりっきりで携わっていなかったから、WOMADの連中にあれこれ指図したくなかった。業界のプロの中には最初から疑ってかかって、皮肉な見方をするやつもいたよ。ゲイルなんか特にね。こんなの、うまく行かないわよ。どうのこうのって。ぼくらはこう言ったもんだ、いや、うまくいくね。人はこのアイディアに飛びつくよ、って。ぼくたちは自信過剰で、世間知らずだった。だけど、ぼくとしては大物ロック・スター面して言いたくなかったんだ。こんなふうにしなくちゃだめだ。こうやるのが世間じゃ当り前なんだとかね。その意味じゃぼくもちょっと考えが足りなかったと思う。もっと強く出るべきだったね。これがポシャったとき、借金取りが追い回す値打ちのあるのが、ぼくひとりだなんて思いもしなかったよ」

 ゲイルと会計士は救えるところは救おうとした。(略)

トス・ブルーマンは思い出して言っている。「そのアドバイスの結果、よその国からきたアーティストたち全員にまずキャッシュでギャラが支払われたんです。その頃にはぼくらも深みにはまったって感じで、お尻に火がついたみたいでした。融資者の中には、わざわざぼくらのとこまで出向いてきた人がいて、かんかんでしたね。(略)

ぼくたちは法律的に守られていました。反面、ピーターの肩にかかるプレッシャーは格段に重たくなったと思います。ぼくらが金を借りていた会社が、彼しか金をもっていそうにないのが分かって、個人的に返済を迫るようになりましたから」

 最終負債額は十八万九千ポンドだった。ピーターが一番矢面に立たされ、怒り狂った債権者が戸口にまで押しかけた。「ぼくしか有名なやつがいなかったんだ。ジルなんか、ぼく宛ての脅迫状まで受けとった。(略)もうあんな暮らしは二度とごめんだね」

 救いの手は思わぬところから差しのべられた。ピーターのマネージメント・オフィスを今も五十パーセント所有しているトニー・スミスがこの一大事についてジェネシスと相談したのだ。「俺たちは言ったんだ、なあ、こんなばかな話はないよ。どうして俺たちであいつを助けないんだい?」とフィル・コリンズは言っている。「ピートを路頭に迷わせるわけにゃいかないだろ。といってもそこまで深刻じゃないのがあとで分かったけどさ。俺たちはカンパするか、チャリティ・コンサートをやるか、さもなくばあいつが返せるまで金を貸すって申し出たんだ」

 カンパの申し出は、ピーターの耳には届かずじまいだった。彼が辞退するのは誰もが承知していたからだ。「金をどうこうするのはあんまり誉めたアイディアじゃないってことになって、だったらコンサートをやろうって決めたんだ」とフィルは言っている。その秋、ジェネシスはイギリス・ツアーに出ていて、WOMAD救済のためにもう一日余分にスケジュールを空けるのはむずかしくなかった。

(略)

 「あの当時、ぼくの頭は混乱していたから、やれるものならなんだってやっただろうね」とピーターは言う。「彼らがああいう気持ちでいてくれて、ぼくを救ってくれようとしていることがわかったとき、胸にジーンときた。WOMADの失敗はぼく個人の責任だとは思わないけれど、それでも世間知らずなチームの一員ではあったからね。問題の一部を招いたいろんな決定事項は、自分でまいた種とは思わなかった。ただあることをけしかけて、それをWOMADにやらせたのは事実だからね。(略)」

(略)

 ピーターは一も二もなくこの再結成話に乗ったが、アーティストとしてのこだわりがないわけではないかった。「何年もこのしがらみから抜けようとしてきたくせに、あの時は自分から古巣に飛びこもうとしていたんだからね」

 WOMADのフェスティバルから五週間後に、ジェネシスの再結成の話がロンドンのイブニング・スタンダード紙で報じられた。

(略)

 「ちょうど田舎に帰って家族一同が顔を合わせるようなものだったよ」とピーターは(略)「ほんとにあったかい感じだった。天気はひどかったけどね。音楽的にはいまひとつでも、気持ち的にはすごく深いものがあった。ストラットの葬式のときにもらった遺品のノートに、あのコンサートのことが書いてあって、それを見て彼も感動してたみたいだ」

ゲフィンと契約

アメリカの大手のレコード会社が三枚目のレコードの成功に目をつけ、アメリカでのレコード契約をとりつけようとウの目タカの目になっていた。示された契約金額は一九八〇年にピークで百万ドルに達していた。ピーターに一番関心を示した会社が[設立されたばかりの]ゲフィン・レコードだった。

(略)

[デヴィッド・ゲフィンと同社社長エド・ローゼンブラットがピーターと接触。しかし、因縁のコロドナーがゲフィンに入社していたためピーター側は警戒。本国のストラットンも]アメリカでの出版権を自社のカリスマに任せる新しい契約をしたがっていた。(略)

[ローゼンブラット談]

「ピーターはコロドナーの一件では相当に傷ついていました。でも、コロドナーだって今でもそのことを気に病んでるんです。当時の彼は、ピーターがあそこまで売れるとは思っていなかったんですよ。(略)でも、アーメット・アートガンがピーターをまさか手放すとは、彼も思っていなかったんだと思います。悪いのはジョン・コロドナーじゃなくて、アーメット・アートガンですよ」

 ゲフィンの提示した額は(略)[某社]のアドバンス、百万ドルという最高額を下回っているばかりか、アトランティックの七十五万ドルも下回っていた。ピーターの頭の中に一番大きくあったのは、いずれ印税から差し引かれる莫大なアドバンスではなく、鋭いビジネス感覚があり、アーティスティックな部分でも理解のある会社であって、しかもその会社から創作面で完全に自由でいられることだった。ピーターはデヴィッド・ゲフィンの言葉を信用して、契約に同意した。

 

Peter Gabriel 4: Security

Peter Gabriel 4: Security

Amazon

Peter Gabriel 4』

 ジェネシスを脱退してから六年たっても、ピーターはまだ自信がもてなかった。

(略)

一九八一年の二月、メロディ・メーカー紙のレイ・コールマンに[四枚目のアルバムについて]彼はこう語っている。「パーカッションがうんと入って、普通のドラム・セットはほんの少ししか入らず、ほとんどエレクトロニクスでやる、そういう音楽がぼくの頭の中では鳴ってるんだ。言いかえると、いつもギターやオルガンやピアノでアクセントをつけてきた部分をほとんど取り除いてしまって、もっと裸にしちまおうってことなんだ(略)これがぼくの窮極の方向性だね。次のアルバムではそういう感じがさほど出せないかもしれないけど、今のところぼくが夢中になってるのはその方向性で、それを出そうと必死になっている」

(略)

 ピーターは「われわれのまわりの世界」というテレビ番組やレコードから採った世界中のありとあらゆるリズムをカセットに録音していて、箱一杯分ぐらい局の人間に見せた。毛色の違った音楽的文化をリサーチするのに、その時彼はブリストル・レコーダーの人たちの力を借りていた。それが一九八二年六月のWOMADフェスティバルを企画するきっかけともなったのだ。

(略)

「(略)テクニックを使うんではなく、サウンド的に自分の声の処理の仕方の幅を広げようとしていたんだ。みんなでいろんな雑音を出すんだ。特に、何かで興奮したときの雑音をね。そういう雑音のトーンを変えると、それが全部雰囲気作りになる。クとかグの雑音的な音はそのままリズムになったり、全体の雰囲気を作ったりする。テンションとか興奮を伝えるんだ(略)」

ドラマーのジェリー・マロッタ(略)は、ピーターがどんどんドラム・ボックスに頼りだすのに反発を感じた。(略)「マシーンはマシーンなんだ。感情をマシーンにプログラムするなんて芸当はできっこないよ。(略)」

 アシュコム・ハウスで数週間作業を繰り返した結果、ピーターは十六分のテープで二十七本分、のべの時間にして七時間以上、曲数にして十八曲あまりを作り、そのうちの七本が十分をゆうに越すものだった。

妻の浮気、ロザンナ・アークエット

ピーターが四枚目のアルバムのレコーディングに取り組んでいたのとほぼ同時期の、一九八一年のはじめ、一家はバースに初めて構えた新居であるコテッジを去った。ソールズベリー・ヒルを一望のもとにできる広大なヴィクトリア朝の邸宅にピーターはすっかり惚れこんでしまったのだ。が、ジルに言わせれば、そこは「ばかデカかった」のである。(略)「(略)わたしは新しい家に心から満足しなかったんです。広すぎるし(略)ピーターはほとんどそこにいなかったし、曲作りやアシュコムでアルバムのレコーディングに励んでいましたから」

 半年がすぎると、ジルはその家にもう我慢できなくなってしまった。アシュコムのスタジオでまかないをやっていた料理人がやめようとしていたし、ジルは自分がその役を引き受けると言い出したのだ。(略)

 「よし、わたしだってやってみせるわ、と自分で思ったんです。だって、向こうの暮らしはつまらなかったし、彼にも会っていなかったので(略)子供たちと一緒にアシュコムに引き返して、元の家は放ったらかしにしてしまったんです。(略)

わたしたち家族四人はキッチンの上の一つ部屋で寝ました。だって、バンド全員にそこで寝泊まりをさせていたし、わたしが料理を担当していましたから。

(略)

わたしはその家を切り回し、彼らの洗濯ものから、掃除から、料理まで全部やりました。一日がかりの仕事でしたし、その他にも子供たちの面倒も見ていましたからね。結局、彼ともっと近くなるための方便だったんです。でも、実際はお笑い草もいいとこでした。(略)結局夜の二時頃に彼がベッドに眠りに来て、わたしはとにかくもうクタクタでしたから(略)

とにかく、ピリピリしてしまって、うまく行きませんでした……」

(略)

 一九八二年六月(略)ピーターとプロデューサーのデヴィッド・ロードは、二晩かけてミキシングを終了した後、ゲフィンにマスター・テープをじきじきに渡すためにピーターが単身、ニューヨークへと発った。(略)明け方の白んだクレシェント・スタジオの前で(略)スタッフに見送られながら出立した。ジルとデヴィッド・ロードの姿もその中に混じっていた。

 ジルは回想している。「みんな、ぐったりと来て、呆然としていたと思います。ずっと神経をすりへらしてきましたし、それがすべて終わってしまったんですから。みんなそこにボーッとつっ立って、すべては終わったんだというすごい虚脱感に襲われていました。(略)まるで子供を産んだときみたいでした。子供を奪われたような、みんな取り残されたような感じで」

 みんなでまた会おうねと、ジルはデヴィッドに言った。(略)「本当に虚しい一日でした。わたしは車で出かけるときに、そうだ、デヴィッドに会いに行こう、と思ったんです。そんなに親しいわけじゃなく、実際親しくなかったからそう思ったんですね。ほとんどコミュニケーションがとれていなかったし。でも、彼なら分かりあえるかもしれないと思いました。他の人のところに行ってもよかったし、そういう人はいたんですけど、とにかくデヴィッドに会いに行こうと思いました。一つには彼がすごく安心な存在だったからと、すごくおもしろい人だったから。その晩わたしは車を乗りつけ、ふたりで長いこと話しつづけて、で、最後にはベッドを共にしてしまったんです。とても変な感じでした。(略)

わたしの人生の中であれほど後悔したことはありません。ぼくを傷つけるにしても、もっといい方法はなかったのかと、ピーターは口癖のように言ってました。こうすればピーターが傷つくなんて、別に意識的に考えてたわけじゃありません。ふたりの関係は当時最悪の時期を迎えていたんです。彼の気をひこうとしても、彼は目を向けてくれませんでした。仕事にかかりきりでしたから。君にはぼくを乗り越えられないよ、がピーターの口癖でした。自分にはそれだけの度量があるんだとも。だからわたしは一矢報いることができたんです。でも、彼の方が一枚上手でした」

(略)

 ジルとデヴィッドの関係は、WOMADの騒動があった間中続き、当時はピーターもそのことにぜんぜん気づいていなかった。WOMADの直前の一九八二年六月、ロードは四枚目のアルバムのドイツ・バージョンのプロデュースを手伝い、その間も気づかれないようにしていた。しかし、結局は耐えられなくなり、WOMADフェスティバルの始まる前日に、仮病をつかって、スタジオのエンジニアに自分の仕事を肩代わりしてもらった。

 九月、ピーターはニュー・アルバムのプロモートのためにアメリカに渡り、帰ってきたときに自分が浮気したことをジルに打ち明けた。(略)

 ピーターの告白がジルとデヴィッドの関係を打ち明けるきっかけとなった。ピーターにはまったく寝耳に水だった。

 ピーターは裏切られたと感じ、真夜中にデヴィッドの家まで行った。ふたりともおとなしくて、なかなかカッとしない性格だけに、静かな怒りがこみあげ、それをおたがいにぶつけあった。

 ジルはこんな状態が耐えられなくなり[子供を連れ、貸コテッジヘ](略)

「ピーターから離れて、自分の人生を見直したかったんです」とジルは語っている。デヴィッドとのことははじめはもののはずみだったが、今では自分がどちらの男と一緒にいたいのか決心を固めようとしていたのだ。

(略)

「彼に言ったんです。他の女の人と寝たの?って。彼は、ああ、五人と寝たって言いました。ひどくショックでした」当時ジルは知らなかったが、浮気ではなく本気の相手がひとりいて、それは女優のロザンナ・アークエットだった。

(略)

 ピーターは自分を傷つけるにはデヴィッドがジルにとって格好の相手だと思っていた。一方、ジルを傷つけるには若くてきれいで売れっ子の女優がピーターにとって格好の相手なんだと、ジルはジルで同じように思っていた。(略)

「(略)わたしはとても気性が激しくて、ずいぶん意地悪もしましたけれど、最終的には彼の方が強気なんです。皮肉なんですけど、ある意味ではロザンナがいたからわたしから離れられなかったんです。変な話ですけどね。でも、すべてが逆の立場になって、自分の犯した過ちを考えれば身から出たサビです」

 ジルは一度どうしていいか分からなくなって自殺を計った。(略)ソールズベリー・ヒルまで車で行き、睡眠薬を飲もうと決心した。(略)

[だが3mの土手で]道路が封鎖されていた。ヒッピーのピース・フェスティバルでもやられては困ると、名所旧跡の保存団体ナショナル・トラストがブロックしていたのだ。この丘を有名にしたのはピーターだったから、彼女は何か皮肉なものを感じた。

 「今でこそよかったと思いますけど、その時は神にざまあみろと言われているように思いました。その土手を見たとき、ある意味で我に返ったんです。わたしは車でとって返しました。神様の存在が恐くなって、もう恐くて恐くてたまらなくなりました。自殺を考えたのは、その時が最初で最後でした」

(略)

一方ピーターはアシュコム・ハウスに居残り[ライブ・アルバムのミキシング]

(略)

 この間も、ジルはデヴィッドと会い続けた。デヴィッド・ロードはこう言っている。「相手は別に誰でもよくて、たまたまぼくだったんだと思います。ふたりの関係がひとつの小説だったら、ぼくはただの一章でした。ふたりが別れないように特別何かしたわけじゃありません。ジルとぼくは純粋な関係でした。その絆は実はとても強くて、三角関係でドロドロすることもなく、こっちも大いに勉強になりました。自分自身で決心しなさいと、彼女をひとりぼっちにさせなきゃならないところまで来たんです」

(略)

[ピーターとロザンナ]の関係は海を渡ってとんぼ返りしながら、一年以上続いた。

(略)

 一九八三年の春、ピーターとジルはロンドンにあるロビン&プルー・スキンナー家庭治療協会に行ってみるよう勧められた。以前患者と医者の関係だったコメディアンのジョン・クリーズ(モンティ・パイソンなどで有名)とロビン・スキンナーは共著で『家庭とそれを乗りきる方法』というベストセラーを書いたことがあり、すべての人間関係の非情さを分かりやすく説明していた。おそらくその一番注目すべきところは、「人間はおたがいの育った家庭が似通っているせいで、相手を選ぶ」という件りだろう。本書はこの仮説を理路整然と立証してゆく。

 特にスキンナーは、われわれが不快感をいかに棚上げにしているかを分かりやすく説明している。この棚上げにする行為は、自分の感情を殺すことへとつながり、棚上げ自体が無意識に行なわれるというのだ。

 スキンナーの説明はこうだ。「誰しも自分の家族に愛されたいし、不快な感情を表に出したくはないと思っている。また、同時に自分は十全でありたい、完璧でありたいという願望も強い。ところが、相手の心の中にその棚上げにしていた否定的な部分を嗅ぎとり、惹かれるようになると、われわれは自分自身が棚上げにしていた部分をまた引っぱり出そうと心の底で望むようになるのだ……その相手こそ一緒にやっていける最高の相手でありながら、同時に、一番重荷に感じられて逃れられない相手になるかもしれず、場合によっては一番憎むべき相手になるかもしれないというのは、何ともせつない逆説である」

 ピーターは半信半疑だった。(略)「精神科医なんて、必要ないって思ったんだ。またぞろカリフォルニア人種っぽいナンセンスだと思えてね。今までそんなのに興味もったことなかったし」

 しかし、彼の考えはすぐに変わった。「スキンナーの人たちはすばらしい人たちだった。自分の中にある男の部分と女の部分を出して、それを一緒にやるんだ。どっちの部分がいい悪いじゃなくて、両方ともにそれぞれ独立した意見をもっていたんだ。

(略)

「関係の糸口が見えてきて、傷も少しずつ癒えてきた。彼らと一緒にいないと寂しいとさえ思うようになってきたんだ。家族という単位を通して得られるのは自分に対する意識だと思う。それが得られたし、自分の子供たちをすごく誇りに思っている。二人の子供をとても愛してるんだよ。(略)」

(略)

一九八三年の秋はヨーロッパ・ツアーがあり、八四年の大半は映画音楽作りにかかりきりになった。彼はジルや子供たちとしきりにコンタクトをとり、ジルもピーターも離婚は考えられなくなった。

(略)

 この不自然な状態を喜んでいる者はいなかった。デヴィッド・ロードはこう言っている。「ずいぶん長いこと続いていたし、もうこれ以上考えるのにはみんなうんざりしていました。(略)」

(略)

[ピーターはNYでロザンナと会い、ジルの元へ戻った]

一番大きな理由は、アンナとメラニーへの愛情だった。(略)

[別居から]一年半後、ピーターは家族と再会した。(略)

 ピーターは自分の生活の中で対立する人たちが一度会ってみて、いがみあうのをやめることが肝心だと考えた。そうすれば、ロザンナともいつまでも友達でいられるかもしれないからだ。ジルは納得して、二日間彼と一緒にニューヨークへ行った。

 ジルはこう語っている。「何とかやりおおせると思ったんです。ほら、年のことにしてもね、それに、こっちの方がつきあいが長いんですから。(略)彼女はすごく若くて、生き生きとしていて、エネルギッシュでした」ジルは自分が小さく見えて、その対面は成功とは思えなかった。

 状況が最終的に結着をみたのは、ロザンナが一九八七年のはじめに新しい恋人とロンドンに来たときで、この時の恋人は後に彼女の夫となった。ふたりと一緒に昼食をとるので一緒に来てくれないかと、ピーターはジルを誘った。「ロザンナとのその二回の出会いは、わたしにとってはヒステリックな思い出としてしか残っていません」と彼女は語っている。ジルはまたも自分が小さく見えた。今度は、ロザンナのもっているカリスマ性が、昼食会に同席した人の心を奪ったばかりでなく、そのレストランに来ている男たちの気を引くのも目の当たりにしたからだった。

(略)

 デヴィッド・ロードは一九八四年にピーターとジルが元のさやにおさまって以来、彼女とは一切連絡をとらず、ピーターとはひょっこり出くわしたときに世間話をする程度だ。

ビッグ・タイム

 一九八六年、大成功[ビッグ・タイム]が手招きしていた。ピーターは十一年前からあきらめかけていた成功の味を、今、かみしめようとしていたのだ。(略)

「ビッグ・タイム」で、彼はこうも予言している。「もう少しだ、もう少しで成功できるところなんだ」

(略)

家庭生活の制約から解放されたピーターは、内面的な変貌をとげ、それは彼の歌の中で歌われる変身と軌を一にしていた。(略)

 ジルはこう言っている。「カムバックしたときの彼の決意には並々ならぬものがありました。(略)ぼくは成功したいんだ!成功したいんだよ!このアルバムはそういう中で生まれたんです。自分は人とは違うし、特別で、ユニークで、貴重な存在で(略)突き抜けてやる。成功でも何でもやってやろうじゃないの、って。(略)」

(略)

 ドラムのジェリー・マロッタの存在も次第に影が薄くなっていた。(略)

 一九七七年のピーターの初めてのツアーに参加したメンバーでもあるマロッタ(略)

「最初のツアーをやった後、ぼくはホール&オーツと一緒に仕事をしていた。その後でピーターから電話があって、こう言うんだ。またアルバムを作りたいんだけど、ぜんぜんお金がなくてさ、うんと払えそうにないんだ。で、ぼくはこう言った。お金のことなんかぼくに言うなよ、やってあげるからさ。もし、ぼくにやってほしいんなら、ぼくは行くし、払ってくれれば、いくらでもいいって。ピーターに対してはいつもぼくはそういう感じだった。(略)」

 「So」のとき、マロッタはポール・マッカートニーのアルバムでドラムを叩いていたので、セッションに参加できず、ピーターはそれがおもしろくないんだろうなとマロッタは思っていた。(略)スチュワート・コープランドが、その穴埋めをした。結局、マロッタはピーターとプレイするためにマッカートニーにまる一週間時間を割いてもらった。しかし、前よりもハードになったマロッタのロックっぽいアプローチは、前よりもオカズの少ない、もっとストレートになったピーターのアプローチとだんだん肌が合わなくなっていた。「So」の中でマロッタがこれしかない、これで決まりだと思った曲は「ビッグ・タイム」だった。ところが、コープランドとのセッションのものがレコードでは使われたのだ。(略)「ぼくが参加した中であれは最高のドラミングだった。すごくパワフルで、今までのピーターっぽいトラックに仕上がっていた。文字通り鳥肌が立ったよ。で、ぼくは言ったんだ。なあ、ピーター、これだけはとっておいてくれよ、生きにしといてくれよって。確かに何日か生きにしておいてくれた。ところが、いざフタを開けてみると、レコードになっていたのは(略)もっとファンキーでポップなバージョンだったんだ。(略)ありきたりで、もっとコマーシャルだった」

 マロッタが一番好きなピーターのアルバムは一枚目だった。

(略)

 「So」がリリースされる前の一九八六年のはじめ、ピーターは新しいツアー・バンドのメンバーを選んだ。が、そのラインナップにはラリー・ファーストの名もマロッタの名も並んでいなかった。(略)

「彼はノッティング・ヒル・ゲイトにある喫茶店でぼくを拾って、バースまで乗せていってくれたんだ。彼はほとんど口をきかず、すごくドギマギしていた。きっとすごく気をつかって最悪な気分だったんだろう。ぼくはずっと、いいんだよ、気にしないで、ぜんぜん問題ないよってなだめてた(略)

ただ変に感じたのは、九年も苦労を共にしてきたのに、どうしてぼくと膝をつきあわせて、自分はこういう感じでやりたいんだけど、できるか?って言ってくれなかったんだろうってことだよ。ピーターのことは悪く言いたくないんだ、ふたりとも友達だからね。彼には決定権があるし、彼がボスなんだとしかぼくには言えない。(略)」

(略)

 ラリー・ファーストも同じような経験をした。「彼はすっごくはにかみ屋で、不器用な人間ですね。きまりの悪そうな顔をして、何かすごく口ごもるんですよね。(略)」

スレッジハンマー

彼はレコード会社の圧力に屈し、アルバムにそれなりのタイトルをつけた。ただ、「So」というのはタイトルをつけないのも同然だった。「字の格好がよかっただけで、ほとんど意味はない」とピーターは言っている。

(略)

 アルバムの注意書きに、ピーターはこう書いている。「ぼくがティーンエイジャーの頃に一番ときめきを感じた六〇年代のソウル。この音楽のスピリットとスタイルを再現しようとした、これは試みだ。(略)

ぼくが言わんとしたのは、他のコミュニケーションの方法ではうまく行かない場合でも、時にはセックスが壁を突き破ってくれることもあるってこと」

 スレッジハンマー(げんのう)は突破するための物理的な手段だったのだ。

(略)

 ピーターのもとには、ヴァージン・レコードの当時ビデオ部長だったテッサ・ワッツ女史から一本の見本ビデオが送られてきた。それは、まだ駆け出しのアメリカのビデオ監督スティーヴン・R・ジョンソンの作品だった。(略)中にはジョンソンが大学時代に作った「ホームボディ」なる映画も入っていて、そこで使われている彼のコマ撮りのテクニックに、ワッツは興味をもった。これに最初に目をつけたのはトーキング・ヘッズデヴィッド・バーンで、受賞した「ロード・トゥ・ノーウェア」のビデオでジョンソンのテクニックを利用した。

(略)

 ワッツの予想したとおり、ピーターはジョンソンの見本ビデオに関心を示した。

(略)

「彼の魅力にすっかり負けてしまいましたよ」と語るジョンソンは、シンプルな演奏だけのビデオにすべきだと納得させようとしたが、ピーターはどうしてもアニメ・タイプにしたかったのだ。

(略)

[撮影は]延べ八日間にわたって何と百時間もかかったのだった。ピーターは一コマに対して一回ポーズをとらねばならず、映画の一秒に対して二十五回もポーズをとった。(略)

「(略)機関車のシークエンスは、たった十秒間なんだけど、同じ位置で六時間もじっとしていなきゃならなかった。線路を少しずつ上げていって、汽車が動くにつれて煙も動かさなきゃならなかったんだ。スタジオの照明に当たって何時間もしたら、果物はまあいいんだけど、魚のにおいがひどくてね」(略)

雲間に浮かぶピーターの顔に空がかぶる効果を出すのには六時間かかった。ところが、これは最終的な編集でたったの数秒しか使われなかった。

(略)

 このビデオは(略)十二万ポンドもかかってしまい、十八年間もまともにシングル・チャートを賑わしていないアーティストにとってはとてつもない経済的な賭けだった。

「レッド・レイン」

 ピーターはこう説明している。「何年も前、いまだに忘れられない夢を見たんだ。ぼくは赤と黒のうねるような海を泳いでいて、急に海がものすごい勢いで荒れだした。すると海は二つの白い壁に分かれたんだ。一つの壁からもう一つの壁へと瓶か、はたまた人間の格好をしたものが数珠つなぎになって、赤い水を運び、やがてそれは落ちてもう一つの壁の底で粉々にくだけ散るんだ。ぼくはこれをあるストーリーの中のワン・シーンに使ったんだけど、赤い海と赤い雨は否定された感情や思考を表わしているんだ(略)

感情や苦しさは表に出してやらないと、どんどん悪くなったりふくれあがったりするだけじゃなくて、外の世界にひとりでに出たりするんだと思う、人生では人との関係においてとか。(略)心の嵐を表に出さないと、どしゃ降りの雨になって現われてくるんだ」(略)

「ドント・ギブ・アップ」

[まずジム・オブライエンに監督を依頼]

「ぼくらはドラマティックな台本を作ったんだけど、十一時間目にぼくはパニックになっちゃって、ジムをすごく尊敬してただけにこれは無理だなと思ってぼくの方から手を引いたんだ」

 今度はケヴィン・ゴッドレイとロル・クリムに声をかけた。ふたりはピーターに無精ひげを生やさせ、大恐慌の時代の労働者に見せ、ケイト・ブッシュをその胸に抱かせた。(略)

 「仕上がりにはあまり満足していなかったけど、時間がなかったんだ。あのシングルにはビデオが必要だった」とピーター(略)

 そして今度はポール・サイモンの「ボーイ・イン・ザ・バブル」、トーキング・ヘッズの「アンド・シー・ウォズ」を演出したジム・ブラッシュフィールドを起用した。しかし、ピーターにはやらなければならないことがたくさんあり(略)戻ってくると、みじめったらしい夫と長年苦労した妻を本物の俳優たちが演じた極端にリアルなドラマとなっていた。

 どうしてもあきらめきれなかったピーターは、ブラッシュフィールドにもう一度チャンスを与え、今度は役者を使うのを最小限におさえた。(略)

「あの曲は百パーセントの説得力がなければだめなんだ。ごく個人的だからね。やり方によってはすぐにセンチメンタルになったり、まったくの駄作になりかねない危険性があるんだ。余分に費用を出して作り直したけど、やはりちょっと失敗作だったね」(略)

「ドント・ギブ・アップ」のリメイクにかかった費用の回収は、どうやら彼には望めそうにない。結局、シングルはゴッドレイとクリムのバージョンで発表され、ブラッシュフィールド版のビデオはビデオ・アルバムの売上げに貢献しそうもない気配だ。

エピローグ

 この本がそろそろ出版されようというときになって、ピーター・ガブリエルの私生活に急変が起こった。一九八七年十月、彼はまたジルと別居状態となり、ロザンナ・アークエットと再度接近するようになった。彼女もこの頃にはレコード・プロデューサー兼映画音楽の作曲家ジェームズ・ニュートン=ハワードと別居していたのだ。ピーター・ガブリエルの私生活が常にそうであるように、彼の当時の心境も計りがたかった。