ソウル・サーチン マーヴィン・ゲイとフークワ

ソウルサーチン R&Bの心を求めて

ソウルサーチン R&Bの心を求めて

ハーヴィー・フークワ

新生ムーングロウズ

[ムーングロウズを脱退し、マーヴィンのいるマーキーズを新生ムーングロウズとして率いることに。59年、20歳前のマーヴィンは言った]
「僕はあなたと一生の契約を結んだんだよ。あなたに一生ついていくからね」(略)
「僕はハーヴィーの車に乗って旅立った。(略)あの悲しく、最悪の思い出[父との確執]に決して戻らないことを願いつつ、そこを去ることは幸せだった」

レーベル売却

[資金繰りに困ったときに義弟ベリー・ゴーディーからレーベル売却の誘い、悩むハーヴィー]
最大のネックはマーヴィン・ゲイであった。(略)マーヴィンを含めてレーベルを売り渡せば、それはマーヴィンに対して最大級の裏切り行為になる。(略)
「彼は決してこのことだけは許してくれなかったなあ。何年たっても、あのときのことはよく言われたものだ」

マーヴィン・ゲイ困窮

[79年初来日。ステージで女性客と優雅に踊ってみせたが]
 この頃、マーヴィンはとても金に困っていた。IRSから税金の追徴がきていたり、入ってきた金も、皆、慰謝料として元の妻に渡っていた。しかも、彼はドラッグなどにも手を出し、キャッシュに事欠いていた。そこで、彼は以前からの友人に金を借りようとした。マーヴィンによれば、モータウンのレーベルメイトなどにも借金を申し込んだが、彼らは貸してくれなかった、という。そんなとき、ハーヴィーは何千ドルかを貸した。
[一方ハーヴィーはシルヴェスターを発掘、スターにし、そのバック・コーラス巨漢女性二人組は後にウェザー・ガールズに改名し「ハレルヤ・ハリケーン」(邦題)をヒットさせる]
[傷心のマーヴィンはベルギーで隠遁生活、そこへCBS重役ラーキン・アーノルド]
「何と言っても、彼が住んでいた状況、環境に驚かされた。彼はとても小さなアパートに住んでいた。ガールフレンドがいたが、何も家具はなく、ただ一つベッドがあるだけだった。私が初めて会ったとき、彼は少し落ち込んでいた。だが、再び新しいキャリアを築き上げようと熱望していた。(略)
「私は、なぜあのアルバム[『離婚伝説』]が売れなかったのか、マーヴィンに尋ねた。すると、彼はこれらの作品はレコーディングが完成していないんだ、と言った。レコーディングの途中でモータウンがそれを取り上げ、別の人間にミックスさせ、そして、発売してしまった、というのだ。だから、自分が最後までこのアルバムを手がければ、もっと違ったものになっただろう、と言った。そして、具体的に、この曲ではこんなサウンドにしたかった、これは違っている、サックス・ソロはこうじゃない、と説明してくれた」
 そして、彼がその頃書き溜めていた新しい曲を聴くようになった。そうした新しい作品を聴くうちに、ラーキンはこの人物にはまだまだ輝く才能があると感じ始める。(略)
[CBSは契約を決断。世間から終わったと思われていたマーヴィンはプレッシャーを感じ始める]
デイヴィッド・リッツに「もし、このアルバムが売れなくて、自分がオールディーズのアーティストに成り下がってしまうことには耐えられない。自分は常にヘッドライナーでなければ、我慢できない」と漏らしている。(略)
[この状況を救えるのはハーヴィーしかいないと、ラーキンは依頼。ベルギーに三ヶ月滞在して]
ハーヴィーとマーヴィンは、レコーディングを忘れて人生についてかなりシリアスな話をした。(略)
「なぜわれわれは25年もの間、ずっと働きどおしなのだろう。(略)
マーヴィンはこういう言い方をした。『なぜ、一旦立ち止ってバラの匂いをかいだりすることができないのか。それができる間に』そう、立ち止まって人生を楽しむべきなんだ」(略)
「もしも、自分の身の上に何かが起こったら、必ず子供たちの面倒を見てくれるって約束してくれ」
 彼は音楽に関してこういう話もした。「もし、自分に何かあったら、決して、僕の音楽をあなた以外の誰にもさわらせないでくれ」
 マーヴィンにとっては、モータウンで自分の作品を勝手にいじられたことが、アーティストとしてよほどこたえたのであろう。CBSの作品でも、モータウンの古い作品でも、何かをするときには必ずハーヴィーが立ち会ってくれ、と頼んだ。

McFadden & Whitehead - Aint No Stoppin Us Now (Extend) (1979)

オーティスの前座を二年やったが、18歳、徴兵とホームシックで故郷へ。オーティスからお前たちに歌ってもらいたい曲があると引き止められるも辞退。その曲「スウィート・ソウル・ミュージック」は、アーサー・コンレイが歌いヒット。
楽譜を見たオージェイズの面々に「こんな曲は歌えない」と言われたのが『裏切り者のテーマ』。

マクファーデン&ホワイトヘッド誕生

ジーン・マクファーデンが語る。「テディ・ペンダグラスが何かのアワードの授賞式でこう言ったんだ。『それでは、これから“ウエイク・アップ・エヴリバディー”を歌います。これはギャンブル・アンド・ハフが書いた曲です』とね。信じられるかい? あれはオレたちの大ヒットなのに。(略)あの授賞式でのことは決して忘れないよ。あの事件は自分たちで歌わなければならないと思ったキッカケのひとつだよ」(略)
 ジョンとジーンはギャンブル・アンド・ハフに頼み込んだ。「今度はオレたちにも歌わせてくださいよ」[どうにか説得し](略)
 彼らの思いは何ものもオレたちをとめることはできない、すなわち「エイント・ノー・ストッピン・アス・ナウ」という曲に結実(略)
この大ヒットによってついにシーンの裏方から表舞台へ躍り出たのである。

しかし成功したジョンには「税金の支払」という概念がなく、自己申告しなかったためIRSの査察が入る。しかも金は贅沢し放題で使ってしまっていた。脱税で二年の実刑。出所しても税金に利息と反則金が加わり100万ドルの負債が残っていた。88年初のソロ・アルバムのタイトルは『アイ・ニード・マネー、バッド』(オレには金が本当に必要)。
Minnie Riperton Live on ABC's In Concert

ミニー・リパートン

71年「ブラック・エキスポ」でスティーヴィー・ワンダーにファンだと伝えると、なんとスティーヴィーは売れなかったロータリー・コネクションやのソロを聴いていてミニーの「大ファン」だった。そこからスティーヴィーのレコーディングやツアーに参加。エピックとソロ契約。
「ラヴィン・ユー」

フロリダ時代に、ミニーとリチャードのベイビーを庭先のハンモックに寝かせつけるときにかけていた一曲のデモ・テープがあった。ミニーの高音部分がよく通る明るいスロー・バラードだ。二人とも気に入っていて、アルバムに収録しようとスタジオに行きその曲をレコーディングしてみた。しかし、何度レコーディングしても、どうしてもしっくりこない。庭で子供たちに聴かせるときと、雰囲気が違うのだ。そして、二人ははたと気がついた。スタジオでレコーディングしたこの曲には、庭先でこのデモ・テープをかけていたときに必ず聴こえていた小鳥のさえずりが入っていなかったのだ。そこで、彼らはこれに鳥のさえずりを加えてこの曲を完成させた。