ピーター・ガブリエル その2

前回の続き。

恋愛、そして結婚

 シンガポール在住のイギリス大使代理フィリップ・ムーア氏は、一九六五年の二月にあのローリング・ストーンズを手厚くもてなした。(略)

ムーア氏のふたりの娘、当時十五歳のサリーと十三歳のジルは、父親が他の外交官と違って話が分かるというので鼻が高かった。

(略)

 公用リムジンでお抱え運転手に学校まで送ってもらうのが照れ臭くて、ジルは校門の前で降ろしてくれとせがんだ。シンガポールが英国領から独立国になり、マレーシア連邦を離脱する過渡期のことだ。「姉とわたしは暴動の中を車で行きました。(略)一歩外に出ると、石のつぶてが飛んできたりしました。はらはらしたけど、ステキだったわ」

 一九六五年八月、一家はサリーに戻った。ムーア氏は国防省の広報課のヘッドになり、娘たちは召使つきの邸宅から母親が台所に立つ暮らしに戻った。

(略)

ムーア家の娘はふたりとも、チャーターハウスの姉妹校でギルドフォードの近くにある聖キャサリンズ女子パブリック・スクールに入学した。(略)

[クリスマス・パーティで]ひとりのチャーターハウスの男子生徒が彼女に目をとめた。

(略)

「彼にはどこか人を惹きつける魅力がありました。その後もずっとデートを続けた一番の理由は、彼が男前だったからです(略)

彼のガールフレンドとしてくっついているのはいい気分でした。何たってボーカリストですもの。

(略)

 デブでニキビ面の青二才、というピーターの自分に対するイメージはジルに言わせれば大げさらしい。「(略)自分で思うほど不細工じゃなかったと思うわ」

(略)

ある教師にはた迷惑なかわいがられ方をして幻滅し、腹が立って、彼女はすぐに演劇学校を辞めてしまった。その頃には両親がウェスト・バイフリートからケンジントン・パレスのオールド・バラックスに越してきていた。それは女王陛下から無料で下付された恩賜住居だった。ジルは将来の決心もつかないまま、親もとに戻った。ムーア家の娘たちは反抗的なヒッピーを気取って、王室とは最少限のつきあいしかしなかった。ただ、毎年夏にはスコットランド北東部にある英王室の御用邸、バルモラルに行かねばならなかった。一度、ジルはピーターをお供させたことがある。(略)

「ピーターはアン王女と踊らなくてはいけなくなって、わたしはチャールズ王子と踊らされました。覚えているのは、何だかおかしかったことだけ」

(略)

 ジルの姉のアパートには同級生のクリス・デイヴィソンが同棲していた。彼ものちにはクリス・デ・バーという芸名でポップ・シンガーになっている。

(略)

 半年間姉のところにいて、またうちに戻ってみると、彼女は同じプレッシャーがかかるのを感じた。(略)

 ジルにとって解決法は一つしかなかった。「(略)彼に言ったんです。結婚するか、終わりにするかよ。このロマンティックなプロポーズの返事がこうです。そうか、じゃあ、二つのうちどっちかしかないってことだな、って。彼が娘さんを下さいって言うと、日頃は温厚そのもののうちの父が人が変わったようになって家を出ていったんです。(略)どうやって暮らしを立てていくつもりなんだ?ピーターの稼ぎは週に十ポンドだぞ!(略)ピーターのことが大好きだっただけに、ただただあわてたんでしょうね(略)」

(略)

ジルの父親は、娘が王立のチャペルで式を挙げるのを見たいと、権利をあくまで行使した。(略)「ピーターとわたしは残念でしかたありませんでした。(略)彼はあそこで結婚するのが死ぬほどいやだったし、わたしも同じでした。ふたりとも階級制度に反対で反抗心旺盛でしたから」

 挙式は一九七一年の三月十七日、聖パトリックの祝日に聖ジェームズ教会で、披露宴は聖ジェームズ宮殿で取り行なわれた。「結婚式のことはぼんやりとしか覚えていません。目がくらむほど豪華絢爛で、カリスマ・レコードの立派な人たちが参列してくれたっていうくらいだけで。

(略)

「父の言葉がはっきりと耳に残っています。何はともあれ、おまえはいい母親、いい主婦にはなるだろうな。お次はそれで頑張るしかなさそうでした。(略)

学校の先生をやっちゃいけないなら、意地でも自分の子がほしくなって。自分に合う役どころを見つけるつもりでした」

 ジルは一九七三年、二十二歳の誕生日を迎える前に妊娠した。そして身重ながらジェネシスの(略)アメリカ・ツアーにも同行した。

(略)

 後ろで目立たないようにしているのがどんなにつらいものか、ジルはそのとき知った。ツアーに行きもしないうちからバンドのマネージャーの誰かがこう警告したのを思い出す。「ツアーに女房を連れていくもんじゃない。女房連中は決まって別の男としけこむからな」

 「でもわたしは、ピーターが来てほしいというから行ったんです。そしたら案の定、わたしは浮気してしまいました」(略)お腹の子はかすがいになるどころか、ピーターとジルの精神的な溝をかえって深めることになってしまった。妊娠中で神経過敏な時期にロード・マネージャーのレギス・ボフと関係をもったのは、ジルにすればよくよくのことだったに違いない。

 「わたしだって有名になれるものならなりたかった。学校に上がる頃からずっとそれを夢見てきました。でもサリーも、わたしの姉ですけど、何をやらせてもうまくいかなかったみたい。ふたりとも一生懸命やったつもりなのに(略)

それなのにピーターはステージに上がって妖しい魅力をふりまいて、憧れの的でちやほやされて、それをどうってことがないみたいにしてるんです。わたしは彼がうらやましくてなりませんでした。嫉妬の固まりでした。浮気は注目を浴びるためのわたしのささやかな悲しい努力だったんです

(略)

[夫は]どこへ行くにもお抱え運転手付き、ちやほやされて女の子にきゃあきゃあ騒がれて、それに引きかえ、わたしは?ただのつけ足しじゃないの。(略)

すごくひねくれた見方をするようになって(略)逆恨みもいいところでした。浮気したのはそんな時です。妊娠初期なら誰でもそうですけど、わたしもすっかり気がめいってしまって。毎晩コンサートに行くと必ずきれいな女の子がうろついてるし(略)

ただ自分が必要な存在だってことを知りたかっただけなんです(略)

この浮気はあらゆる問題を引き起こしました。相手の男性はピーターのよき友達だったので、ふたりの仲に生じた亀裂は見て分かるほどでした。口には出さないけれど、ことの重大さがピーターには一番分かっていたんじゃないかしら。だからあんなに辛抱強かったのね。(略)本当に地獄でした(略)

自分こそあのステージに立つべきスター、あるいは女優なんだっていう異常な夢物語をあきらめきれないでいることがそもそもの原因でした(略)

毎晩ピーターを見ていて、彼がスターの座に酔いしれていないのがくやくして。(略)わたしは子供っぽいやり方で彼に一矢報いたかったんでしょう」(略)

ふたりのなれそめからずっとつきまとっていたわだかまりが、今ここにきて噴出した形だった。彼はどう時間を振り分けてもジェネシスとジルの両方を満足させることができなかった。彼女は耳を傾け、目をかけてくれる誰かを必要としていたのだ。

(略)

ピーターはジルとバンドのどちらに気持ちを傾ければいいのか分からず(略)フリードキンと映画の脚本を書く目的でちょっとの間バンドを抜けたのも、そんな行き詰まりと葛藤の表われだったのだ。

(略)

 アンナの出産から九か月、ジルは生まれて初めて自分の時間がほしくなってアンナをピーターに預けた。彼はジェネシスとの最後のステージを終えて、フリーになったところだった。「あの浮気が原因じゃないんでしょうけど、夫婦仲はうまくいっていませんでした。わたしは二週間ギリシャのコルフ島に行って、実は自分の呼び名まで変えたんです。(略)」

 ジルはひとり立ちに憧れ、夫婦は別居を考えた。(略)

 ひとり立ちへの思いを表現するのにジルは一風変わったやり方を選んだ。「バスルームに行って髪の毛を剃っちゃったんです(略)出てきたわたしを見て、ピーターはただ笑うばかりだったのでほっとしました。うちの母なんか、わんわん泣いてましたけど。(略)

一からやり直すんだったら、この髪もいらない、ってね。だから切ったんです。ピーターも後でわたしにつきあって剃ってしまいましたけど。(略)

あれはちょうど悪魔払いみたいなものでした。思い返してみると、ああやって自分を罰したのかもしれません。当時は気づかなかったけど」

 ピーターの安息の日々が夫婦に平和をもたらし、一九七五年のクリスマスの頃にはジルは再度身ごもった。メラニーは一九七六年八月二十三日に、姉と同じパディントン聖マリア病院で生まれた。

 

Peter Gabriel 1: Car

Peter Gabriel 1: Car

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ソロ・デビュー・アルバム

ボブ・エズリンの強引で自己中心的なやり方、ドル記号の入った二十四カラットの金のネックレス、なかでも最悪だったのは彼の口笛(略)

[ラリー・ファースト談]

「(略)気にいらないことをやってるやつのところまで行っちゃあ(略)ビュービュウー鳴らすんです。みんな、あの男に怯えて暮らしてましたよ。(略)

エズリン一派はディナーとしゃれこんで二百ドルのワインを飲んだりね。もちろん勘定はピーターもちで。ピーターとロバート[・フィリップ]とぼくは、ベジタリアンのレストランにいって、ちんまりと知的な会話をして

(略)

エズリンは、アリス・クーパーの全アルバム、ルー・リードの「ベルリン」、キッスの「地獄の軍団」等をプロデュースした経験があった。ジェネシス風にうだうだとやっている暇はなかった。(略)

[エズリン談]

ピーター・ガブリエルとどうして仕事したくなったか、それはまず、あのもって生まれた控え目なところにある。(略)腰の低い男なんだ。(略)

くやしいくらい発想が豊かなんだよ!(略)発想がてんでばらばらな方向にちらばってしまうんだ。だから、いいアイディアの中の、そのまた一番いいやつのところで彼を押さえておく誰かが必要なんだ。わたしの役目はただ編集のみ。不必要な枝葉末節を刈りこんで、根っこのむきだしになった一番大事な部分だけ残すのがわたしの仕事だ。(略)

人はわたしの態度に難癖をつけ、儲け主義だから中身がないと言う。しかし、仕事は仕事だからね。それで金をもらっているプロなんだよ」(略)

ジェネシスにどっぷりつかってきた後だけに、このしたたかなエズリンが新鮮で刺激的に映った。また、ピーターにはこれだけベテランのミュージシャンたちを引っぱっていくだけの自信がなくて、そのためにもエズリンを必要とした。

 ピーター・ガブリエルがここまでアーティストとしての主導権を手放しにしたのは後にも先にもこのときだけだった。

(略)

曲はジェネシスのときのものよりも私的な色合いが濃かった。「サウンドよりも雰囲気や感情に重きを置いている」とピーター(略)「特に自分の過去とおさらばしたかったんだ。またぞろユーロ・ロック的なキーボード中心のロックバンドを作ろうと思えば簡単にできただろうけど……それじゃあ、だめだったんだ。それじゃあ、新境地は開けなかった

(略)

ジェネシスは決してシングル狙いのバンドではなかった。ピーターが在籍中に放った唯一のヒットは(略)

「アイ・ノウ・ファット・アイ・ライク」で[英チャート21位](略)

[一方初ソロ・シングルは]十三位に食い込んだ。「『ソルスベリー・ヒル』は意外だった。第一モノが七インチで、ちょっとヒットしそうにもなかったからね。でもヒットしたときはすっごく嬉しかった。ヒットさせようと思って作ったんじゃないけど、ヒットしたってことが大事だったと思う。(略)」ピーターの住いの近くにあったソールズベリー・ヒルは、南西部の郡に点在する古代塚の一つで、彼はそこをジェネシスを離れてからの第二の人生の希望のシンボルに使っていた。

 

だから、くる日もくる日もそこにいった

型にはまった生活だったけど

言うべきことが頭に浮かばなくて

どのしがらみを断てばいいか分かるまで

景色の一部になった気分だった

ぼくは歯車から抜けて歩きだしたんだ

 

(略)

「これから手に入るかもしれないもののために、今もっているものを捨てる覚悟を描いているんだ。(略)」

(略)

[「洪水」]

神よ、洪水がくる

みんなで血と肉に別れを告げよう

(略)

「この曲を書いたとき、ぼくは短波ラジオに狂っていて、日が沈むにつれて電波が強くなるのが不思議でならなかった。それと同じで霊感のエネルギーも夜には強くなるような気がしてね。黙示録的な夢を見たことがあるんだ。おたがいの心の中を覗けないようにしている霊のバリヤーがすっかり浸食されて、精神の洪水が起きる。腹の底で考えていることを表に出すのに慣れていた人間はその奔流を渡っていけるし、隠しごとばっかりしているようなやつは溺れてしまうっていう夢なんだ(略)

「(略)なま暖かい夏の夜でコテッジの上、ぼくはにある丘の斜面にいた。(略)

エネルギー地点を見つけたような気がして、ひとしきり瞑想してから丘を一目散に駆け降りていって曲を書いたんだよ。『洪水』の場合、ぼくが曲を書いたというより、曲がぼくを書いたって感じだね

(略)

人は世間で思われているよりずっと、他人の考えていることや感じていることをつかむ能力をもっているという意味で、テレパシーは発達するというビジョンをぼくはもっていた。(略)」

 ピーターは、七〇年代末以降に、人の気持ちや社会に大変動が起こると予想した。「ぼくは意識の変化や、その変化をもたらす力に興味がある」

 

Peter Gabriel 2

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セカンド・アルバム

 ピーターのファースト・アルバムに、ロバート・フィリップはしぶしぶ友情出演した。エズリンは(略)ロバートには耐えられないようなスタイルのロック・ギターを弾かせようとした。

「あのアルバムには好きな曲がたくさんあったけど、レコーディングのやり方とピーターが置かれていたようなたぐいのプレッシャーには、今でもぼくはぜんぜん納得がいかないね。基本的に、あれはプロデューサーのアルバムで、プロデューサーが自分のソロ・アルバムを作るためのピーターはだしにされたんだ。(略)

あの時はああいうのが自分には必要だったって、ピーターは今でも言っている。ボブには大いに自信をつけられ、後押しされて支えられたってね。でも、こっちにはこっちなりの考えがある。あのアルバムでは本当にぼくらしくやらせてもらえなかった。ぼくに自分の信念を貫く勇気があったら、二日目には抜けていただろう。(略)

最初は偽名でならアルバムでプレイするって言ったんだ

(略)ロバート・フリップがあの中で弾いてるって感じがしなかったから、ぼくは勘弁してほしかったけどね」

 ロバートはダスティ・ロードという別名でピーターのツアーに参加してもいる。その際、彼はステージの横手のスピーカーの後ろに隠れて演奏すると言ってきかなかった。ギターのパートを自分が弾いていると思われたくなかったのだ。

 それでも、重い腰を上げながらではあったが、ロバートは一九七八年の晩春に(略)ピーターのセカンド・アルバムのプロデュースを引き受けた。

(略)

「ぼくに言わせれば、ピーターは自分で自分のやりたいことがちゃんと分かっているのに、肝心の心がつかないっていう人間だね。(略)

どんなサウンドにすべきか、自分なりに考えていて、頭にあるのを実際にテープに入れて聞くまでは納得しないんだ。ぼくはそれを完璧主義者とも呼ばない。いじくり魔、あるいは煮え切らないやつ、と呼ぶ。(略)

結論から言うと、ピーターは煮え切らないやつだね」(略)

ピーターが垢抜けしようとするのはいいが、度を越すと観客が愛しいと思ってきた粗削りなところも失ってしまう、とフリップは感じた。

(略)

 ピーターはついにブルース・スプリングスティーンのキーボード・プレイヤー、ロイ・ビタンをアルバムに参加させた。ファースト・アルバムのときに立ちはだかったマネージメントの問題をクリヤーすることができたのだ。「仮にだよ、ぼくが彼ぐらいうまいピアニストだったら、きっとあんなふうに弾くだろうなっていう、そのものズバリの演奏をするんだ」とピーターは言っている。トニー・レヴィンとラリー・ファーストはまだ一緒にやってくれていた。

(略)

「D.I.Y」

ぼくがこれから何をするか言わないでくれ

する気はないから

あんたを信じろなんて言わないでくれ

信じてないから

 

「自分の態度を単に修正するよりも、自分のやること自体を変えろ、と言いたいね。言い換えれば、たいていの人間が引き受けてもいいと思っている以上の責任が、まだまだあるってことさ。小さな集団の方が、今よりもずっと自分をコントロールできていいと思うんだ」と彼は言っている。

 ピーターは、「D.I.Y」とか、曲のプロデュースが気にいらなかった。つまり、思ったほどボーカルが軽やかだとは感じられなかったのだ。「ロバートは何もかも新しくしようとしゃかりきだった。最初の方のテイクを生かして、プロデュースもかなりそっけない感じにした。このセカンド・アルバムは前よりのびのびしている。粗削りなところや、失敗した部分もあるにはあるけど、それをそのまま入れるほうが生の感じが出るからね」

 控え目ながら、ピーターは、ファースト・アルバムよりセカンド・アルバムの方がいいと思うと言っていた。が、アメリカのアトランティック・レコードはそういう見方をしなかった。

(略)

 ヒット・アルバムが一枚でもあれば、うんと重宝しただろう。彼の銀行口座は、まだジェネシスの印税に頼っていた。

(略)

 物悲しい曲「インディゴ」は、ツアーで客が会場を去るときにかけられていたポール・ロブソンの曲「オールド・マン・リバー」にインスパイアされたものだ。

 

生き残る術には長けていた

ぼくはいつも悩みを心の底にしまい

隠せる場所に隠そうとしてきた

今ぼくはすべてをさらけだしてる……

 

決着をつけるのも怖くない

ぼくは静かに降りていく

(略)

彼の頭にあったのは、小さな一家の父親が忍び寄る死を前に態度を変え、「今までにないセンチメンタルでロマンチックな感情がどっとあふれる」場面だ。(略)

歌詞はピーターの後の自己発見への旅を予感させていた。

ゲイルフォース・マネージメント

[78年夏、スキンヘッドでステージに]

「目立つため」ではなく(略)精神面、実生活の面で自分を高めるためだった。(略)

ソロ活動はいまだ鳴かず飛ばず(略)かつての同僚たちがスーパー・スターの味を初めて知ろうとし(略)差がくっきりと浮き彫りになった。

(略)

 ジェネシスの六月のネブワースでのコンサートの後、カリスマ・レコードのマネージング・ディレクターのゲイル・コルソン女史が辞職した。トニー・ストラットン・スミス(略)と制作ポリシーをめぐって大喧嘩してしまったのだ。十年間ともに仕事をしておきながら、ストラットは彼女が辞めるときにライバルのレコード会社に入って自分のアーティストを引き抜かせないよう書面にサインさせた。

(略)

 ジェネシスを抜けた後も、ピーターのマネージャーはトニー・スミスが続けていた。(略)ジェネシスのメンバーは不満を募らせていた。こっちだけに専念してくれ、というバンドの圧力をはねのけて、スミスはピーターに義理立てしていた。

(略)

[ゲイルはトニー・スミスから]ジェネシスピーター・ガブリエルのマネージメント会社である、ヒット・アンド・ラン・ミュージックのマネージング・ディレクターの仕事を引き受けてくれないか、という申し出を受けた。(略)

彼女はトニー・スミスとの合意ができ、ふたりでゲイルフォース・マネージメントを設立した。ゲイルとそのアシスタントのノーマ・ビショップは今もジェネシスと同じナイツブリッジのオフィスにいる。そして、トニー・スミスは今もゲイルフォースを通じてピーター・ガブリエルのマネージメントに携わっている。

 

Peter Gabriel 3: Melt

Peter Gabriel 3: Melt

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ゲート・リバーブ誕生

 次のアルバムを作るのに、ピーターは一風変わったスラップ・ハッピーというバンドのギタリスト、アンソニー・モアをプロデューサーとして起用しようと考えた。(略)

「彼はちょっと変わったおもしろいやつで、贅沢なやつなんだ。考え方が前向きで、ぼくの新しいアプローチに彼が自信をつけてくれた」とピーター(略)

曲の作り方も変わりつつあった。コードやメロディの代わりに、はじめにリズムを発展させるようになったのだ。(略)ラリー・ファーストは彼のところに初のプログラムできる(略)PAIAと呼ばれる小さなリズム・ボックスだった。(略)自分の好きなリズムを保存し、それを後で呼び出すことができた。

(略)

「ぼくは八〇年代の曲を書こうという気になって、そのとっかかりはリズム用のトラックだなって思ったんだ。リズムは人間の脊髄に当る。脊髄が変われば、当然、人の体つきも変わるだろ」とピーターは言っていた。リズム・マシーンの力を借りて初めてできた曲は「記憶喪失」だ。「ただリズムの上に曲をかぶせたっていう感じだね。

(略)

 ピーターは同じ方法を試す意欲のあるプロデューサーを必要としていた。そんな時、スージー・アンド・ザ・バンシーズのレコードの雰囲気に感心してしまったのだ。それをプロデュースしたのは二十四歳のスティーヴ・リリーホワイト

(略)

"ひと仕事"頼まれたとき、リリーホワイトは[XTCの全アルバムで使った彼のエンジニア、ヒュー・]パッジャムを誘った。

 集まったときに決めたひとつの鉄則は、普通っぽい音はボツにする、だった。「LP制作を通して、それだけはぼくたちが肝に銘じていた基本事項でした。あの仕事で、ぼく自身も目を見開くいい機会になりましたよ」とリリーホワイト

(略)

 ジェネシスとたもとを分かって以来、ピーターは彼らとはほんのたまに会う程度だった。それも主に、オフィスが同じだからこそだった。一番親しかったのがフィル・コリンズだった。

(略)

「ピーターが新しいアルバムの曲を何曲かリハーサルしたがっていて、ゲイルから聞いた話じゃ、コンスタントにギャラを払う余裕がないから、バンドが作れないっていうことだった」とフィル(略)「だから言ったんだよ。ドラマーがいるんなら、いつでも好きなときに俺を呼んでくれ、って。

(略)

バージン・レコードのタウンハウス・スタジオ(略)第二スタジオは石壁で、音が「はねる」のだ。とりわけシンバルが反響しすぎた。

(略)

「ピーターが突然、シンバルとハイハットが当り前すぎて気にいらないと言いだしたんです。ぼくらは言いましたよ。よくぞ言ってくれた、これでマイクをもっと離せばものすごく広がりのあるサウンドが作れるぞって」とパッジャムは言った。

(略)

フィルは、いまだにレコードにならずじまいの「マルガリータ」という曲のドラム・パターンを作ろうとドラム・セットをあれこれ叩いていた。そうやっているうちに、「返し」のヘッドホンに音を送る安っぽいマイクがひろって作り出す効果に気づくようになった。彼が聞いていた音はゲート・コンプレッサー・ユニットを通っていたのだ。

(略)

「どういうわけか、この器械を入れていたんです。そんな時にフィルがプレイしていて」とパッジャムは言っている。「急にドン、ドン、シューになって……するとそのシューというノイズが次のドン、ドンが始まる前に突然全面に出てくるようになってきました。ぼくはいろいろ遊んでいたんですが、彼がその音に合わせてプレイしはじめたんです。言いかえればノイズが聞こえなくなるようにです。コントロール・ルームにいたピーターはそれをたまたま聞いて言いました。おい、何じゃこれは!聞いてみろよ!って。ぼくらは言ったんです。うん、こりゃ凄い!フィル自身もブッとんだな!って驚いてました。ぼくらが今まで聞いたこともないものでした

(略)

するとピーターがフィルに言ったんです。五分間そいつを叩いてくれ、って。

(略)

ピーターは、恩に着るよ。うちに帰ってこれで曲を作ってくる、と言ったんです」

(略)

 このテクニックは"ゲート・リバーブ"として有名になった。(略)

フィル・コリンズは(略)自作のアルバム「夜の囁き」でもこのゲート・リバーブを多用し(略)初の大ヒットとなった。結果的にはピーターよりもコリンズの方がこのサウンドを作った功労者と見なされた。

「ほんとにばかな話だけど、当時はむかついたね。フィルのアルバムが爆発的に売れて、ぼくは人にこう言われる。あれ、フィル・コリンズの真似をしてる、ってね」

 フィルの見方はすこしばかり違っている。「あれもピートのへそ曲がりのいい例だよ。あいつはアルバムに金属音をひとつも入れたがらなかった。(略)そこで俺は聞いた。俺にどうしてほしいんだ?そしたら、シンバルを叩く代わりに、ドラムを叩いてくれ、だってさ(略)

俺がこのドラム・サウンドを叩きはじめると、ピートがすぐにインターフォンに手をかけて、おい、その音はいいな。十分間やってくれ。それがすんだとき、俺はピートに言ったんだ、これを使う気がないんなら、俺が使いたい。俺に言わせりゃそのドラムのパートを作ったのは、こっちなんだしね。だから使いたいと言ったんだ。その夜は、俺がテープをもって帰った。いいとも、俺が使わないときは使いなよ、って意味でもって帰ったんだ(略)

ここから話がややこしくなるんだけど、自分のサウンドを使うのが、ピートのものを盗んだことになるのかい?俺は自分のサウンドだから使っただけの話で、死ぬまでその言い分を通すつもりだよ。あれは俺の頭から生まれた産物で、ヒューが作ったサウンドであのパートを叩いたのも俺なんだ。俺がサウンドを作ったとまでは言わないが、特別ピートのもの、とも思わなかった。分かるだろ、その辺の微妙なところが

(略)

俺はゲイルに言ったんだ、あのパートは俺が書いたっていうクレジットをアルバムに入れてくれないか、ピートに聞いてくれ、って。あれはかなり俺のもんだって気がしたからね。だからあいつはこう書いた。『侵入者』――ピーター・ガブリエル作、ドラム・パートはフィル・コリンズ作――俺はそれで納得だよ(略)

『夜の囁き』のアルバムが出たとき、みんなに言われたよ。えらくピーターっぽいってね。俺も、ピートのアルバムで俺が作ったドラム・サウンドと似たところがまったくないとは思わなかった。それでも『侵入者』や『夜の囁き』、それに俺のやった他のドラム・パートを全部聞いてもらえれば、どれも別個のものだと分かるよ」

 「フィルはあのアイディアをだまし取ったんじゃないんです」パッジャムは言う。彼は「夜の囁き」を共同プロデュースしたばかりか、さらにジェネシスのプロデュースもこなした。「ただ、フィルは新しいサウンドを作るエンジニアの力とか、熱意とか、他のもろもろのことに感心したんですよ。彼は今までにあんなドラム・サウンドを聞いたことがなかったんです」

 「サード・アルバムをきっかけに、ピーター・ガブリエル・スタイルが生まれたと、ぼくはまじに思ってる」とピーター(略)「二、三草分け的なこともやったしね。ドラマーにシンバルはなしだ!なんて大胆なことを言ってみたり、それに似たようなルールをいくつか決めて、そういうのがアルバムの個性になったんじゃないかな(略)

ぼくはセッションを途中でやめて言ったんだ、このサウンドがドラム・サウンドに革命を起こす、ってね。ぼくが作ったわけじゃないけど、いくつか可能性が見えてきて、それを使ったんだ。ヒューとスティーヴは、ゲート・リバーブを使ってXTCをやったことがあって、その手のレコードとしてはこれが最初じゃないけど。でもゲート・リバーブサウンドの中心になったという意味で、初めてのレコードなんだ

(略)

 「ピーターのサード・アルバムを新たなサウンドの始まりと言って引きあいに出す人が多いようですね。あんまり使い古されて、ぼくなんか少し食傷気味です」スティーヴ・リリーホワイト(略)

「ピーターはかけ値なしにりっぱなアーティストだと思います(略)ものすごい才能の持ち主ですよ。ただ、自分で頑張らないとそれを引き出せないんです。しゃかりきにならないとね。フィルのように楽には行かない。ぼくが会った中でフィルほど苦労知らずの人はいませんし、ぼくが会った中でピーターほど苦労性の人はいません。彼は最後の最後まで決断を延ばすんです。それもただ、自分で自分が何をやっているのか、だましだまし自分を納得させるためにね」

 

ビコ、マリンバ、フェアライト

 リズムに対する新しいアプローチに後押しされ、ピーターは一九七七年の九月から暖めていたアイディアを掘り下げるようになった。南アフリカ政治活動家スティーヴ・ビコの死を報じるニュースが、朝食をとっているときにラジオから耳に入ってきた(略)

[別の日]短波放送をいじっていて、たまたまオランダの放送局を拾った。そのチャンネルでは、スタンリー・ベイカー主演の南アフリカ映画『ディンガカ』のサウンド・トラックが部族的なリズムを流していて、そのサウンドが彼の曲のリズムの核となったのである。「『ビコ』と『ノーマルライフ』はたぶん、ぼくのむかしながらの曲作りとは一番かけ離れたものだろうね。(略)

「ノーマル・ライフ」はボー・ディドリーのメロディの一バリエーションだ。

(略)

 「侵入者」のゲート・リバーブ、「ビコ」のアフロ・リズムもさることながら、ピーターはロック・ミュージックにマリンバを用いた先駆者でもある。(略)

思いつかせたのは(略)スティーヴ・ライヒのアルバム「十八人の音楽家のための音楽」

(略)

 二度目のアメリカ・ツアーでピーターに同行したシド・マクギニスは(略)

カーリー・サイモンとのセッション中、フェアライトの共同開発者(略)カーリー・ボーゲルの訪問を受け、彼の製品を見せてもらった。(略)

ピーターとラリー・ファーストが興味をもつのが分かっていたマクギニスは、ふたりに電話した。「ラリーはあの楽器にそれほど感心しなかった」とピーター(略)「彼は出身が違うからね。音を合成するのは彼のお家芸のひとつで、それをやらせたら天下一品なんだ。ところが、サンプリング・マシーンは、すでにある生の気にいった音を取ってそいつを操作するわけで、彼にはインチキ臭く思えたんだね。何かを作るというより寄せ集めるって感じでさ。ぼくから見れば、夢が実現したようなもんだ。マイク片手に歩き回って何でも収録して(略)自分のパレットに入れて使える(略)」

 ラリーの記憶は、ピーターの記憶と違っている。「こいつはすごいと思ってボーゲルに言ったんです。(略)イギリスにぼくが行ったら電話をくれ、必ず迎えにいくってね。ピーターは昔から限度ってものを知らず、フェアライトのようなハイテクから、ローテクにいたっては安くてひどいアンプを使ったり、器材を酷使したり、使えるものなら何でも使っていました。それもクリエイティブにですけどね。そこがピーターの頭のさえてるところです。両方を使いこなせるんです」

 ボーゲルはラリーと会って数週間後にフェアライト持参でイギリスに渡ったが、約束通りピーターに連絡してフェラアイトをアシュコムまで運び、そこに一週間滞在した。ピーターはフェアライトを即利用した。牛乳瓶を割ったり、煉瓦をぶつけたりして取ったサンプル音を使い、メロディを弾いた。

(略)

スタジオにもうひとり招かれたのが、ピーターの従弟、ステファン・ペインだった。当時彼はシンセサイザーのセッション・プイレヤーとしてキャリアを伸ばそうとしていた。ロンドン・シンセサイザー・センターでシンセサイザーの販売をやっていたので、この楽器にはよく通じていたのだ。

 ペインは(略)この国でのフェアライトの輸入販売をやらせてくれと、ボーゲルに申し出た(略)一九八〇年、ピーターの会社サイコ・システムが設立され(略)フェアライトとシンクラビアの輸入独占権をもった。このキーボードのロールスロイスは、当初、鼠の巣となっていたあばら屋のアシュコム・ハウスからヨーロッパ中に配送された。

(略)

レコーディングの仕上げにかかったとき、ザ・ジャムポール・ウェラーが同じスタジオでレコーディング中だった。彼は誘いに応じて「スルー・ザ・ワイアー」でギターを弾いてくれたのだ。「あの時、どうしてもギターの感じが決まらない曲がひとつあって、ポールにやらせたら一発だった」とピーターは話している。「ぼくらが求めていたリズムは、ポールにすれば得意中の得意だったんだ。彼の繰り出すあのリズムはすばらしかった。体の中に流れるエネルギーみたいなのがあって、プレイにもそれがあるんだ」

アトランティックの失敗

 いろいろな技術を使ってサウンドの壁を破ったことにしろ、ピーターのアメリカのレコード配給会社にしてみれば、金にならないならどうでもいいことだった。レコーディング中、ミュージシャンたちは、アトランティックの製作部長でひげ面のカリフォルニアン、ジョン・コロドナーの度重なる訪問に我慢せねばならなかった。(略)

「彼が音楽で一番いいと思うのは、"腐れマンコの音楽"なんです。この世で一番いいレコードは一番売れるやつなんです。それだけの話です。このアルバムのとき、ちょくちょくやってきては、フンだのハーだの何やらぶつくさ言ってましたよ」とリリーホワイト

(略)

[80年2月]ゲイルは出来立てのテープをもってニューヨークに向かった。(略)

「[創立者のアメット・]アートガンはこう言ったんです。ビコのことを歌った曲を書いても意味がない、アメリカじゃ南アフリカがどうなっているのか、そんなことは誰も知らないからって。『ファミリー・スナップ・ショット』は物騒すぎる(この曲は獲物を狙う暗殺者の思考回路がもとになっている)し、『ノーマル・ライフ』(体制的なことについての曲)を聞くと、ピーターはどこか精神的に問題があるんじゃないか、とこうですもの(略)

あのとき彼らはピーターを降ろすことに決めたんでしょうね。コロドナーはリリーホワイトを見限って、それよりはアメリカの若手の切れ者にやらせたがっていました

(略)

向こうが言うんです(略)ピーターがまたまともになったら次のアルバムを出そう。わたしはそれに答えて、だめですね、彼を取るか取らないか二つに一つですよ。それで彼らは切ったんです」

コロドナーはこのアルバムが"商売上の自殺行為"になると決めつけていた。採算の取れる最低ラインの十万枚も売れるまいと。アトランティックはオプション契約を蹴ったために、カリスマ・レコードに七万五千ポンド払わざるをえなかった。いずれにせよ、契約更新の時期だったので、もしもピーターがアトランティックからアルバムを出したとしてもこれが最後になっただろう。(略)

アメリカ・レコード業界のタテ社会によく見られる目先のことしか考えないこちこちの石頭のいい例だ。このアルバムが予想以上に売れれば、ざまあ見ろってことだ」ところが、実際そのとおりになってピーターは大満足だった。「ゲーム・ウィズアウト・フロンティアーズ」はUKシングル・チャートで初のトップ10入り(略)

[しかし]彼もリリーホワイトも、これをアルバムのファースト・シングルにすべきだと信じるコルソンに猛反対していたのだ。

 これでやっとアメリカの契約から解放され、自分の仕事に理解を示してくれる会社を自由に見つけられると思ってピーターは喜んだ。ところが、トニー・ストラットン・スミスがアメリカでのオプション権をまだもっているとは知らなかったのだ。ストラットンはポリグラムアメリカン・レーベル、マーキュリー・レコードにアルバムを任せた。ピーターとコルソンはマーキュリーに不安をもっていた。マーキュリーは(略)ヨーロッパでは強いが、アメリカでは販売力に欠けていた。この会社は、"レコード業界の墓場”として知られ(略)"水銀中毒"になると悪口をたたく者もいた。ふたりの不安は杞憂にすぎなかった。サード・アルバムはアメリカで二十五万[売れ](略)

ピーターを切ってニ年もたたないうちに、アトランティックは前金七十五万ドルで彼を買い戻したいと言ってきたのだ。

「ファミリー・スナップ・ショット」

曲は『ある暗殺者の日記』に基づいている。(略)[ジョージ・ウォーレス狙撃犯アーサー・ブレマーのメモや走り書きからなる](略)

「あれは読むに耐えない本だったけど、書いたやつがどういう人間か感じはつかめる」ピーターは言う。

(略)

 

別におまえを憎んじゃいない

――おまえが何をしようと構わない

おれたちはこうなる巡り合わせだった

(略)

おれは偉くなりたい

おまえもそんなだったろ

もらえないなら奪うしかない

(略)

「ノーマル・ライフ」では体制に従う人間にありがちな陳腐さをあげつらう。

エルハルト式セミナー

[78年マクフェイルにエルハルト式セミナー訓練(EST)に誘われ、乗り気ではないピーターはジルが出るならとかわしたが、子育てから解放されたい妻が快諾してびっくり]

[ピーターとジルは]ホテルでESTの訓練を受けた。二枚目のソロ・アルバムがリリースされて一か月後のことだ。めいめい、週末の二回の集中講座に一回百七十ポンドずつ払った。

 マスコミはESTのことを暴利をむさぼる、いかがわしい商売のように言っていた。設立者のヴェルナー・エルハルトの経歴を思えば、それも無理からぬことだった。ジャック・ローゼンバーグというのが本名だった彼は、もともとフィラデルフィア出身の車のセールスマンだった。彼は、家庭を捨てて第二の人生に旅立ったのだ。新しい名前は、戦後のドイツ経済を変革した西ドイツの首相、ルードヴィヒ・エルハルト博士と、ロケット科学者ヴェルナー・フォン・ブラウン博士から思いついたものだ。

 ヴェルナー・エルハルトはカリフォルニアに行き、そこでペアレンツという組織に教材を売ってビジネスマンとして成功した。五〇年代後半から六〇年代にかけて盛んだった「人間の潜在能力」の開発に関わるようになって、禅やシルヴァ・マインド・コントロール同様、六〇年代の集団感覚訓練の中心地だったカリフォルニアの、ビッグ・サーにあるエサーレン・インスティテュートで、自分の経験をもとにこの訓練方法を編み出した。(略)

 ESTの訓練は、参加者に自分の奥底の感情や動機、人間関係の深層に強引に対決させて、隠れた潜在能力を解き放つのが目的だった。たとえば、何時間も座り続け、自分の胸の内をさらけ出したり、他人がそうするのを聞くという不快感を経験するのも、自己と直面するプロセスの一環だった。そのうち、腹を立ててわめきだしたり、泣きだしたりする者も続出した。こうした人前であられもない愁嘆場を見せるということ自体、人に感情を見せないよう育てられたピーターとマクフェイルにとっては目から鱗が落ちるような体験だった。

(略)

 ピーターは、ESTのことはカリフォルニアのアングラ雑誌で読んで知っていた。「読んでみてほんとにおっかない気がしたね。(略)

いろんなとこから寄せ集めてきたごちゃまぜの考え方だった。今では一種の乗り物のようなものだっていう見方をしているよ。A地点からB地点へ行くためのね。世間は、エルハルトのことにしても、ボロ儲けしているとかその哲学はうさん臭いとか、とかく厳しい目で見がちだ。でも、ぼくは車を買うときにいちいち、それを作ったやつの哲学的な背景なんか聞きゃしない。車に乗って、ひとっところから別のところに行ければ、それで満足だ(略)

あのセミナーが役に立つ人もいると思うから、二、三人に勧めた。そのうちのひとりは本当に自殺しちまった。そのせいでしたとは思わないけど、ESTにどっぷりつかっていたことも確かだ。前から情緒不安定だったんだよ。それにしてもESTは強烈だ。一番大事な考え方に、『自分の身に降りかかることは自分に責任がある。自分は犠牲者じゃないんだ』っていうのがある。ぼくなんかそれを聞いて、以前だったらたぶんやらなかっただろうなっていうことがうんとできるようになった(略)

誰かを首にしなきゃいけないとかね、昔のぼくだったらほかのやつにやらせたようなことでも、今は自分でやれるんだ。むずかしいところはいっぱいあるけど自分でやった方がすっきりするからね」

[マクフェイル談]

「(略)何時間も、何時間も、何時間も同じ椅子に座ってるんだ。みんながひとりのトレーナーと一緒にいて、相互に影響しあう。すると突然誰かが何かを言いだす。自分の気持ちを訴えたくなるし、自分で自分の気持ちが分かってくるからね。それをくぐり抜けると、立ち上がって何かを言う必要がなくなる。ただそこにいるだけで、気持ちが伝わるんだ(略)

あれは、ぼくたちみんなにとってものすごい衝撃だった、終わってすぐぼくらはピーターのコテッジに行ってまる一週間過したよ。ぼくら四人だけでね。そしてセミナーの訓練を続けたんだ。(略)ぼくらの関係が掘り下げられ、ずっと深いものになって、自然とおたがいが心を開いたんだ。(略)

セミナーの後、[ピーターの]歌詞の性格ががらりと変わったのもその一例だ。(略)ジェネシスのお得意だったたわいもない地の妖精ノームとか小人の妖精ゴブリンとか、おとぎ話みたいなやつから、要するに、すごく曖昧でシンボリックな世界から、ぐっとストレートになって、難解ぶらない、自分の正直な気持ちを書きはじめたんだ。

ドラッグ、ユング

[ジル談]

「ピーターは本当にガラッと変わりました。(略)人とオープンに話せるようになったんです。だからわたしよりも彼の方に極端な変化がありました。

(略)

[ピーター談]

「ぼくが興味あったドラッグはLSDだけだったけど、おっかなくてまだ一度もやったことはなかった。前は強烈な空想ばっかりしていたから、わけが分からなくなるのが怖かったんだろうね。(略)」

 ハッシシは二度経験した。一度目は笑いがとまらず、そのあとで「もどして」しまった。二度目のときはもっと科学的に迫ろうと(略)ハッシシ・ケーキを食べて、ノートとテープレコーダーをもって自分のデスクに座ったのだ。何ともなかったので、もっとたくさん食べたのである。(略)

「二本の金属の柱が、ちょうど温度計の水銀みたいにうなじを駆け昇ってきた。それが今度はすごい勢いで頭の方でぶつかって、ぼくは"来たな"と思った。で、パニックになったんだ」

(略)

 ドラッグに失敗したピーターは、薬を使うよりは知的な方法や霊的な方法に切り替え、今でもその方を好んでいる。(略)

「(略)どこか遠い場所に行って、静かに瞑想にふけるだけなんだけどね。たとえば、空が澄んでいて、月が満月だったりすると、ぼくの心は開かれる。ぼくらは本当は見えている自分の来世を普段はすごく抑えつけていると思うよ(略)」

(略)

 彼はカール・ユングの著作を読みあさっていて、ユングのように夢の体験を書きとめた。

(略)

四枚目のアルバム「ピーター・ガブリエル」はユングへの想いをこめて作られた作品だった。はじめは「アフリカのユング」というタイトルがついていたが、もったいぶった感じに聞こえるのでやめにしたのだ。

(略)

[「リズム・オブ・ザ・ヒート」の]最後の節は、一九二五年、ユングがアフリカにいるときにしたためたものと似通っている。「わたしとヨーロッパの間には何千マイルもの隔たりがある。あらゆる悪魔の母、ヨーロッパ。悪魔の手もここまでは届かない手かせ足かせを解かれたここには電報も電話も手紙も訪問者もない。わたしの心霊力は、奔流となってこの原始的な広がりに嬉々として戻っていくのだ」

(略)

[ピーター談]

「この曲は、カール・ユングスーダン冒険物語だ。偉大なる白人思想家、影の思想の生みの親が、リズムの出現によってビクビクと自分の影にさえ怯えている姿なんだ」

 この曲は、ユングがアフリカを徒歩で苦労しながら旅しているうちに、まさに自分が探していたもの、大陸の神秘的な力に震撼した事件に触れている。(略)訪れた心理学者のために部族の踊りが催されたが、踊りや太鼓のリズムが激しくなっていくにつれ、一同が野生の群れと化してゆくのを見て、ユングは度肝をぬかれた。そこでサイの皮で作った鞭をうならせ、スイスなまりのドイツ語で毒づき、煙草をばらまいて、彼らを闇の中へ追い散らしたという。

次回に続く。