- 伝説の『放射能』英国ツアー
- デヴィッド・ボウイ
- モータリック
- 不気味の谷
- 「ネオン・ライツ」
- 『コンピューター・ワールド』
- フローリアン失踪
- アフリカ・バンバータ、YMO
- ゲイリー・ニューマン
- 「ブルー・マンデー」
前回の続き。
伝説の『放射能』英国ツアー
一九七五年九月十一日、十六歳のアンディ・マクラスキーの世界は今まさに変わろうとしていた。クラフトワークが街へやってきたのだ。リヴァプールの《エンパイア・シアター》は、アルバム『放射能』のための英国ツアーの六番目のライヴ会場だった。
(略)
「会場は四分の一くらいしか埋まっていなかったはずだ(略)あの劇場は二千三百人入れるんだけど、たぶん一階は半分が空席で、バルコニー席にはほとんど誰もいなかったように思う。それどころか、私の何列か前に女の子たちが大勢並んで座ってたんだけど、〈アウトバーン〉が半分過ぎたあたりで、『なんでこんなに長く続くの?三分の曲だと思ってたのに』とか言って、席を立って出ていってしまったんだ!」
だがアンディはその場に釘付けになっていた。「(略)あの日が、私のユーレカ体験の瞬間であり(略)残りの人生が始まった最初の日だったんだ。クラフトワークの音楽はまったく異質のものだった。(略)
一九七五年といえば、長髪や、リードギターのソロや、ベルボトムをはいた薄汚いロッカーの絶頂期で、そんなときにステージ上の彼らを見たんだ。彼らはスーツとネクタイを身につけて、短髪で、そのうち二人は軽食用ワゴンのトレイみたいなものを電子編み針みたいな棒で演奏してて、全員の名前がネオンで描かれて、背後には映像が映し出されていた。ずいぶん前のあのときですら、あれは立派なマルチメディア・ショーだったよ。もちろんロックンロールとは別物さ」
(略)
このクラフトワークの(略)最初の英国ツアーほど、実際に会場に行ったファン(略)によって伝説化されているものはないだろう。(略)
向上心溢れる若いミュージシャンたちの大半を電子音楽へ"宗旨変え"させたツアーなのだ。
(略)
何と言っても、このツアーの最大の呼び物は、ヴォルフガングのスティックを使わない「檻ドラム」だろう。これに用いられた光障壁というメカニズムは現在、動く物体、たとえば侵入者を感知するのに使われている。(略)
ヴォルフガングがさまざまな手ぶりで光線を切り裂くことで、いくつもある電子ドラムを演奏できるよう設計されていた。(略)
カール・バルトスは言う。「誰も持ってないものだった」「かなり時代の先を行ってたんだ。ただし実際に使用したのはごくわずかだった。作動したりしなかったりで、頼りにならなかったのさ!」
ヴォルフガング自身はこのとき、このバンドにおける自分の役割に限界を感じ始めていた。加えて、アルバム『放射能』自体のムードが陰鬱すぎると考えていたのだ。「個人的にはメランコリックすぎると思ったし、自分の演奏パートにもあまり満足してなかった。(略)」
だが、まさにこのメランコリーの感覚こそが人々を夢中にさせ、彼らをクラフトワークの世界に引き込んでいたのだ。
アンディ・マクラスキーは熱弁をふるう。「『放射能』こそが最上のアルバムだよ」「『アウトバーン』も好きだったけど、『放射能』こそが私たちのバイブルだった。私とポール(・ハンフリース、OMDの共同創設メンバー)はこのアルバムを二年間ぶっ続けで聴いてたくらいさ」「クラフトワークの魅力は、メランコリーの要素を持ってるところだった。歌詞や、彼らが使っていた美しいクワイアのサウンド、メロディによって生み出される緊張感があったんだ。ラルフのあの独特な歌い方ですらときおり素朴に聞こえて、なんとも引き込まれたよ」
(略)
シンセサイザーの未来派たち――ウルトラヴォックス、OMD、ヒューマン・リーグ、ヴィサージ、ジョン・フォックス、ゲイリー・ニューマンら――は程度の差こそあれ、本アルバム全編に漂うヨーロッパ主義に酔いしれ、優雅ながらも陰鬱に感情に訴えかけるという音楽の新たな方向性を感じとっていた。
(略)
ヴォルフガング・フリューアは言う。「あのとき、イギリス人は私たちと同じ列車に飛び乗ったんだ。で、私たちの『放射能』ツアーの後、シンセサイザーを使ったニュー・ウェイヴ・ムーヴメントが台頭してきた。私たちを見てギターを投げ捨て、翌日シンセサイザーを買いに走ったグループがたくさんいたんだよ」。やや大げさに聞こえるかもしれないが、彼の言葉には紛れもない真実が感じられる。
『アウトバーン』に比べると、『放射能』はその明白な影響力にもかかわらず、セールスが伸び悩んでいた。ドイツのアルバム・チャートでは二十二位、アメリカでは最高一四〇位止まりで、イギリスではどうやらヒット・チャートにさえ載らなかったようだ。ところが、フランスではこのアルバムは大人気で一位に到達し、「アウトバーン」と並んで十万枚を売り上げ、一九七七年にゴールドディスク賞を受賞した。
デヴィッド・ボウイ
一九七五年当時、現代音楽のカリスマとして偶像視されていたスーパースター、ボウイから支持を得るというのは本当に"大したこと"だった。(略)
当時の彼はイギリスの音楽メディアで引っ張りだこで、熱狂的なファンが彼の一挙一動に注目していたのだ。(略)
彼はメッセージとしてのロックは終わったことをひしひしと感じていたのだ。現に、この時期彼が演っていた音楽(いわゆる"プラスチック・ソウル")は、ロックの陳腐さから抜け出そうとする最初の試みと言っていい。(略)
この年の八月、デヴィッド・ボウイはアンソニー・オグラディにこう語っている。「ロックは最初の約束を果たしていない」「はじめ、ロックは実権も影響力も持たない人たちが声を上げるための"メディア"として登場したはずさ。その当時、人々は本当にロックンロールを必要としてた。今目の前にある状況へ反論するためにロックを使いたい、ロックを足がかりにして世界を変えるような行動を起こそうって燃えていたんだ」「でも今じゃどうだ?ロックは一つの同じところをぐるぐる回ってるだけ。(略)いまやロックは死んだ……歯の抜けた老婆さ。まったく恥ずかしいことだよ」(略)
グラム・ロックは終わりを告げ、それに代わる新しいものは何もないように見えた。解決策の一つはパンクによってもたらされたが、ボウイが目を向けたのは[ドイツ](略)
ボウイの新たな方向性を暗示する作品は、最初はハードで神経症的なファンクと押しの強いシンセサイザーを強烈に混ぜ合わせる形で一九七六年一月に登場した。アルバム『ステイション・トゥ・ステイション』だ。
(略)
このタイトル曲は、出だしが(『ハンキー・ドリー』のような)ピアノのコード進行ではなく、(『ジギー・スターダスト」のような)ドラムの音でもなく、(『アラジンセイン』のような)パワーコードでもなく、(『ダイアモンドの犬』のような)芝居がかった犬の吠え声でもなく、(『ヤング・アメリカン』のような)軽快なラテン系のドラム・ビートでもなく、じっくりとフェードインしてスピーカーからスピーカーへと走るホワイトノイズの奔流で始まっていた。リスナーはまさに不意打ちを食らった。これはロック・ミュージックではなく、ポピュラー音楽でもない。そのパルスを発しているような衝撃のイントロが、やがてゆっくりとした魅惑するような律動へ、魔法の詠唱のような、呪文のごとく悪魔的な激しさでくり返される不穏なリフレインへと移行していく。ボウイのヴォーカルは、実際に歌い出すと――ただし、この九分ある実験的な曲の三分の一を過ぎるまでは始まらないのだが過剰に張り詰めたものがあり、ロックという感じはまったくせず、"劇場"や"電子キャバレー"といった印象をかきたてる。
ポール・バックマスターは、LAでボウイからクラフトワークの音楽を聴かされた当時を振り返る。一九七五年晩秋、二人がニコラス・ローグの映画『地球に落ちてきた男』のサウンドトラック制作をしていたときのことだ。「二人して『アウトバーン』とか『放射能』とかクラフトワークのアルバムを盛んに聴いてたんだ。(略)
本当に彼らのアルバムを楽しんでた。大抵まじめに聴いてたけど、ちょっと笑ってもいたなあ。といっても、別にバカにしてたわけじゃない。彼らの音楽にはなんだか無邪気なところがあって、それがとても魅力的だった。そのうえ真面目くさったユーモアもあったから、なおさら惹かれたんだ」
ボウイの『ステイション・トゥ・ステイション』ツアー(一九七六年)は、彼のインスピレーションの源泉がヨーロッパ化している事実を裏づけるものだった。
(略)
[『メロディ・メーカー』誌記事から]
「頭上に並んだネオンライトとクリーグ灯の補助電源を使ったまばゆい輝きの中、ボウイはステージ上で黒と白の表現主義を体現した。(略)
ロック・コンサート史上、最も想像力に富んだライティングだったと言っても過言ではない」
実は、クラフトワークはこのツアーのサポート役のオファーを受け、それを断っていた。
(略)
だが実質的には、ボウイはクラフトワークをツアーの"サポート"として利用していた。観衆がアリーナに入ると(略)
ステージ背後のスクリーンに映されたルイス・ブニュエルの二〇世紀の名作無声映画『アンダルシアの犬』の映像に合わせ、クラフトワークの最新アルバム『放射能』が大音量で流されていたのだ。女性の眼球がかみそりで真っ二つに切り裂かれる映像と、西ドイツ生まれの不気味な新しい音楽は、観客に意識が解離したような不可思議な感覚をもたらすには充分だった。そうしてボウイの(文字通りにも芸術的にも)目もくらむようなステージが幕を開けたのである。
(略)
[76年一緒にツアーに出たイギーにもクラフトワークを紹介]
イギー・ポップはこう振り返っている。「大きな影響を受けたのは『放射能』だ」「夜は〈ガイガー・カウンター〉を聴きながら眠りについてたんだ」。この頃、ボウイは「コーリング・シスター・ミッドナイト」という新曲を(略)イギーに提供した。おそらくこの時期にボウイが書いていた他のどれよりも、この曲はクラフトワークの影響を強く受けていたと言えるだろう――ゆったりとしているのに神経に障る、ファンクの自由さとシンセサイザーのロボット的な規律正しさを混ぜ合わせた曲だった。ボウイは『ローリングストーン』誌に語っている。「音楽としてのサウンドというより、むしろ質感としてのサウンドを狙ったんだ。ノイズのように人をイライラさせる曲を生み出すのは、理にかなってるように思える」「私のお気に入りのグループは、クラフトワークというドイツのバンドさ――このバンドは"生産性を高める"のを狙ったノイズ・ミュージックを演奏してる。すごくいいアイディアだと思うよ。音楽を演る意義があるってものさ」
(略)
[マクシム・シュミット談]
「パリで、ボウイのコンサートが終わった後のことだった」「彼はシャンゼリゼ通りのナイトクラブ《ランジュ・ブル》を、私的なパーティーのために借りきってたんだ。私がラルフとフローリアンを連れて店へ入っていくと、そこにはボウイと、イギー・ポップと、彼らのお付きの者たちがずらりと並んでた。で、彼らは五分間のスタンディング・オベーションでラルフとフローリアンを迎えたんだ。イギー・ポップは崇拝のまなざしで二人をずっと眺めてたよ。彼もボウイもすっかり魅了されてる様子だった。(略)」
ボウイの支持に対して、このグループが感謝していなかったわけではない。ラルフは一九九一年に語っている。「(略)私たちがしていたことをロックの本流と結びつけてくれた、とても重要なことだった。」「ボウイは私たちを気に入ってるっていろんな人たちに語ってくれてた。ときは七〇年代半ば。ロック関係のメディアが彼の口から出るあらゆる言葉を、まるで神の啓示のように聞いてた時代さ」「ボウイと初めて顔を合わせたのは、彼がヨーロッパ・ツアーの一環としてデュッセルドルフで演奏をしたときだった。彼はメルセデスで移動しながら、他ならぬ『アウトバーン』を聴いてたよ」
(略)
[ヴォルフガング談]
「彼は次のアルバムをクラフトワークと制作したがってた。だからときどきデュッセルドルフへ来ていたんだ。(略)
[ラルフとフローリアンの]二人が共同制作はしないって決めた。二人には二人なりの事情があったんだと思う。
(略)
カール・バルトスは違った形で記憶している。「たしかに、ラルフとフローリアンはデュッセルドルフでボウイとイギーに会ったけど、どの時点であれ、共同制作の企画はなかったと思う。私たちは全員、イギー・ポップとデヴィッド・ボウイを崇拝してたけどね。(略)」
(略)
ボウイ自身は一九九五年のインタビューで、クラフトワークとの共同制作の話はなかったと語っている。「彼らとは何度か会ったけれど、そこまでだった(略)
[『アウトバーン』で]電子楽器のすばらしさを目の当たりにして、これはもう少し詳しく知る必要のある分野だと確信した(略)
クラフトワークの音楽に対する取り組み方自体からは、さほど影響を受けたわけじゃない。彼らの音楽は厳密にコントロールされていてロボット的で、その構造もきわめて細かく計算されている。ほとんどミニマリズムのパロディのようだ。(略)彼らの音楽はスタジオ入りする前にしっかりと準備され、磨き上げられているようだった。一方、私は表現主義的な手法で作品作りをしていた。主人公(私自身)は時代精神(略)に身を任せるだけ。人生を自らコントロールすることはほとんどない。私にとって音楽は、大抵の場合は自然と生まれてくるもの。作品作りはスタジオに入ってから行なうものだったんだ」
(略)
「実は、フローリアンと一緒にアスパラガスを買いに行ったことがあるんだ!(略)『今はアスパラガスの季節で、市場へ品定めしに行くところなんです。よかったら一緒に来ませんか?』って。で、私は即座に『ああ、行くよ』って答えたんだ。あれはすごく楽しい時間だったよ!」
(略)
「[私のメルセデス]を見てフローリアンがしみじみ『なんていい車だ……』って言ったんだ。それで私は『うん、イランの王子様のものだったんだけど、その王子が暗殺されて車が売りに出されたんで、このツアーのために手に入れたんだ』って答えた。するとフローリアンがぼそっとこう言ったんだ、『ああ、いつでも長持ちするのは車のほうなんだよな』って彼にはあらゆる面でそういう尖ったところがある。私はそういう彼の冷たい感情や温かい感情のすべてに影響を受けてた。"工場のフォーク・ミュージック"にね」
モータリック
カンやクラフトワーク、そして何よりノイ!の音楽を目立ったものにしていたのは、どんどん進んでいるような感じ――"モータリック"の感覚――だった。
(略)
このモータリックというリズムの起源はショッキングなほど平凡だ。ミヒャエル・ローターによれば、クラフトワーク在籍中、彼らは気晴らしによくサッカーをしていたという。「(略)クラウスと私は(略)ただサッカーっていう競技を楽しんでた。サッカーでは、走って進んで戻ったりとか、いろいろあるよね?私たちチームはそれが結構うまかったんだ。チームには私と、クラウスと、フローリアン(シュナイダー)が入っててね――彼はすごく足が速かったよ
(略)
私たちは全員、ダーッってボールを追いかけて走るのが大好きだった。速く走るとか、速く動くとか、前へ進むとか、前へ突進するとか。そういう感覚が好きだったんだ。その感覚は私たち全員が共有してたと思う」「私たちがノイ!で表現しようとしたのは、まさに速く動くことの喜びだったんだ」。
(略)
気質的によく似ていたラルフとフローリアンとは違い、ローターとクラウス・ディンガーは正反対だった。そして結局そのことが彼らのバンドに独特の破壊的な切れ味をもたらしていたのだ。デヴィッド・ボウイが言ったように「(ノイ!は)クラフトワークにとって、わがままでアナーキスト的な兄弟だった」ということだろう。
(略)
「ノイ!を言葉で表わすとすれば」とイギー・ポップは言う。「ドラマーは、それを聴いた者の思考が流れ出して、感情が内面から出てきて、心の大部分を占領してしまうような感じのプレイをしていた。(略)
この男はつまらないブルースやロック(略)あらゆる音楽の慣習から抜け出す道を見つけたんだなとわかった。彼のプレイに、ある種牧歌的なサイケを感じたんだ」
不気味の谷
『人間解体』は一九七八年四月、パリでリリースされた。(略)
「ステージ上にいたのはクラフトワークのメンバー(略)ではなく、彼らのダミーだったのだ。赤いシャツ、黒いズボン、黒いネクタイを身に着け、髪型はサブーテオ(イギリスの卓上サッカー・ゲーム)の人形そっくり。そのうえ、顔がクラフトワークの各メンバーに不気味なほどよく似ている。(略)
PAからは新曲が流れ、加工された声がこう言うのが聞こえた。『我々はロボットだ』」。
カール・バルトスは回想する。「ニュー・アルバムの曲に合わせて、フリッツ・ラングの映画『メトロポリス』がくり返し流れていた」「楽器を持ってステージに立つダミーは、とびきりカッコよかったよ。私たちはと言えば、シャンパンの入ったグラスを持ってそこに立っていたんだけど一時間くらいで会場をあとにしたんだ。(略)」
(略)
ヴォルフガングは言う。「私たちは前もって、ミュンヘンにあるオバーマイヤーっていう会社を訪れてたんだ。人形やパベット、マネキンを作っている会社さ(略)
あらゆる角度から写真を撮られたよ。肌の色を正確にとらえるためにね。すべて手作りで、すばらしい出来だったが、途方もなく高かった。一体四千マルクくらいしたはずさ!」
(略)
「人間解体」で注目されたのは(略)アートワークだ。グレーのズボン、赤いシャツ、黒いネクタイ。口紅をつけ、短い髪を撫でつけ、軍事指令に従っているかのように腰に手を当て左を向く四人。元は両大戦間の表現主義的白黒映画(ぶ厚いメイクとコントラストのはっきりした映像が特徴)をベースに作り出したイメージだった。だがこの出で立ちは、彼らの意図とは違った形でたちまち話題になってしまう。多くのファンや批評家たちが「より暗い何かが示唆されている」と深読みをし、中には「クラフトワークはゲイのナチス突撃隊員に変身してしまった」と騒ぐ人まで出てきたのだ。
(略)
実際ヴォルフガングは言っている。「二〇世紀のドイツ映画では、男性も女性のように化粧をしてたんだ」「口紅をして顔中に白粉を塗ってた。昔から、そういう化粧をした男性の例はそれなりにあったんだよ」
(略)
ゲイリー・ニューマンは「私がクラフトワークに夢中になったきっかけは『人間解体』だった」と振り返る。「あの頃、クラフトワークは完全にテクノロジーに魅了されてるようだった。機械を使った音作りを極めてやろうって感じさ。本当に彼らは時代を先取りしてた。私なんか彼らの足元にも及ばないさ。クラフトワークは誰よりも先を進んでたんた。その後に続くミュージシャンたちはもちろん私も含め彼らの作ったものの中からいくつかの要素を拾い上げて、そこに何か別のものを加えただけ。クラフトワークは本物の開拓者だったんだ」。
「ネオン・ライツ」
フローリアンの友人、ウーヴェ・シュミットは語る。「フローリアンは、クラフトワークがときおり誤解を受けることに対して苛立ってたよ」「クラフトワークからインスピレーションを受けたと言いながら、彼らがすごく重視している"ロマンティックな側面"を完全に欠いたような曲を作るミュージシャンには特に腹を立てていた」。もうおわかりだろう。「ネオン・ライツ」は、クラフトワークの曲には魂がないという意見に対する彼らなりの反論だったのだ。
街の灯りに喜びを見出す「ネオン・ライツ」は、現代世界(略)へのラヴ・ソングだ。ジョン・フォックスは言う。「〈ネオン・ライツ〉は息を飲むほど美しい。シナトラがカヴァーすべき曲さ」「それにすごく興味をそそられる曲でもある。それまでの彼らにはなかった方向性の作品だからね。美しく、堂々としていて、ロマンティックな曲だ。クラフトワークって常に斬新なのに見事にバランスを保ってる。この曲なんかその最たる例さ」(略)
ラルフ・ヒュッターはこう語っている。「私たちの基盤はライン川とルール川の交わる工業地帯にある。(略)そういった工場地帯をツアーで回り、その街のノイズに耳を傾けてきたんだ。私たちは元々工業製品が好きだし、自分たちの音楽も工業製品が生み出した声だと思っている。ドイツにはポップ音楽がないんだよ」
彼らのあとを追うように、イギリスのエレクトロニック・ミュージシャンたちも都会に対する強い愛情を表現し始める。工業都市シェフィールドで結成されたヒューマン・リーグもその一つだ。
(略)
一九七九年から一九八〇年にかけてもまだ、クラフトワークは世間的には"成功"を収めていなかった。実は、『人間解体』からのシングルは、イギリスでは一枚もトップ40に入っていない。メディアでは話題にのぼるものの、世間一般にはまだ受け入れられていなかったのだ。ジョン・フォックスは、それでもクラフトワークが音楽シーン最先端にいられたのは、ボウイの後押し以降、イギリスのミュージシャンの多くが彼らをひいきにしたおかげだと語る。「(略)当時のクラフトワークってフランス[以外](略)じゃさほど人気がなかったんだ。彼らを有名にしたのは、間違いなくイギリスのバンドさ。英国バンドが『(一見)ポップでもなければ歌でもない、ただの実験的な青写真』から新たな形のポップ音楽ができるってことを世の中に示したからなんだ。(略)そういうのってイギリス人の得意技なんだ(略)その頃、イギリスは脱工業化時代に突入していた。どの街もやたらと巨大で、汚くて、コントロール不能になってたんだ。パンクっていうのは、そういう時代に反応するためのきっかけだったと言っていい。でも"怒ってばかり"の時期は終わった。(略)見た目はおもしろいけど意味がなかったんだ。それに代わる何かが必要だった。みんなの胸にある驚きや恐怖、美しさ、ロマンス、虚勢、希望、無力感といったものを表現するための何かがね。で、それを可能にしたのがシンセサイザーだったわけさ。ギターよりも音域がめちゃめちゃ広いうえ、一本指で演奏できる。いや、シーケンサーを使えば指一本さえ必要ない。(略)シンセサイザーは、都会で生きる若者が自分たちなりの表現方法を探してるときに、ぴったりのタイミングで登場したんだ」(略)
「クラフトワークの音楽は、ディスコを別にすれば、他のどのジャンルの音楽よりもクラブのサウンド・システムに合ってた。しかもディスコ・ミュージックとは違って型にはまってなかった。そう、彼らは、同じリズムをくり返すディスコ音楽のバスドラムとバーカッションが、クラブのサウンド・システムを通してどう聴こえるかってことまで計算してたんだ。だから彼らの作る音楽は創意に富んでたし、冷たさと熱さを併せ持っていた」「クラブってのは、まだ固定観念に縛られてない若い世代が、あらゆるものを正しい形に作り替える場所だ。で、当時クラブに通ってた若者たちは、クラフトワークがすごく重要な"プロトタイブ"だってことに気づいたんだ。ちょうどローリング・ストーンズやビートルズの世代が、チャック・ベリーやジョン・リー・フッカーの存在に気づいたときみたいにね。こうしてゲイリー・ニューマンやヒューマン・リーグ、ソフト・セル、デペッシュ・モード、ヴィサージといった世代が新たな形を生み出していったんだ」(略)
「何よりも重要なのが、イギリス人は優れたポップ・ソングを作る能力と、あらゆる種類のイメージやスタンスで遊ぶ能力を持っていたということさ。私たちイギリス人は、そういった要素をヨーロッパのエレクトロニクスに加えた。こういうことにかけて、私たちの右に出る者はいないだろう。(略)」
(略)
OMDのアンディ・マクラスキーは語る。「石油精製所とか飛行機とか電話ボックスが、きちんとした歌のテーマになるっていう事実は、すごく心地よいものだった」「実は三作目のアルバムまで『愛』って言葉を一度も使わなかったんだ。この言葉はロック/ポップの陳腐な決まり文句だと思ってたから、絶対に使いたくなくてね。これってクラフトワークから受け継いだ考え方だと思ってる」「ただ、クラフトワークから受け継いだものの中で一番重要だったものは別さ。(略)それは『機械の構造と人間のモラルの間に生じる緊張』さ。(略)
一番最後に変えたのは見た目だね。それまでのアフロとフレア・パンツをやめたんだ。ピーター・サヴィルに『クラフトワークみたいになる必要はないけど、作ってる音楽に合った格好をすべきだ。今はきみたち、まるでヒッピーじゃないか。そんな格好で未来の音楽を作れるか?』って言われてね。(略)だから髪を切って服のスタイルも変えたんだ
(略)
バンドのメンバーを増やそうって決めたばかりの頃は、マルコム(・ホームズ)にドラム・セットを叩かせるつもりはなかったんだ。あれはだらだらしたロックンロールの楽器だからね。代わりに、シンバルのない電子キットを演奏してもらうつもりだった。クリアな音を録るためさ。でも自分たちで作った電子キットがライヴを二度やっただけで壊れてちゃったんだ。で、マルコムがとうとうドラムを叩かせてくれないのならバンドを辞めるって言い出したんだよ」「実は〈メッセージ〉や〈愛のスーヴェニア〉〈オルレアンの少女〉〈エノラ・ゲイの悲劇〉なんかの収録のとき、マルコムはセットを叩いてないんだ。クリーンではっきりした音を録るために、まずはバスドラム、次にスネアドラム、それからハイハットって一つずつ順番に録音していったんだよ。どうしてもだらしない感じは入ってほしくなかったからね」(略)
「私たちは無意識のうちにクラフトワークから"三分半ぶん"のものを抽出して、そこに七〇年代初頭のグラムやポップのキャッチーさをつけ加えてたんだ」「あとクラフトワークはコーラスを使わない。でもOMDはメロディにコーラスをもってきた。だからウケたんだと思う」。
『コンピューター・ワールド』
アルバム『コンピューター・ワールド』には、少なくとも音楽面での未来をハッキリ示した曲が収録されていた。ミニマリスティックで荒々しいビートの「ナンバース」だ。(略)ヒップホップやテクノ、トランスなどすべての起源が感じられる。このビートを生み出したのはカール・バルトス。
(略)
ラルフ・デルパーは言う。「カール、そして彼の前にはミヒャエル・メルテンス(プロパガンダ)が、大きな影響を与えてたと思う」「二人共クラシックのパーカッションを学んでた。これはつまり、ドラムだけじゃなくマリンバや木琴も演奏できるってことさ。こういった楽器の構造はシーケンサーとよく似てる。マリンバの演奏が得意な人は、きっとシーケンサーのプログラミングも得意なはず。構造が一緒だからね」。
(略)
最高に皮肉なのは、このアルバム制作時にクリング・クラング・スタジオにはコンピューターがなかったということ。
(略)
[トーマス・ドルビー談]
「クラフトワークは『人間解体』で、アナログ・エレクトロニック特有のざらついた音を追求した。ダークで、くぐもった、ファズ・ペダルを使ったかのような音だ。一方『コンピューター・ワールド』は驚くほどクリーンだった。一般の人たちがこのセンスに追いつくまで、つまり、私たちの耳がこの音に慣れるまでには数年かかったんだ。それに、当時コンピューターっていうのは、アルバムのタイトルにするほど重要なものじゃないって思われてたからね!(略)」
(略)
このアルバムの中で最も記憶に残るメロディを持つ曲と言えば「コンピューター・ラヴ」だろう。(略)
最初にこの曲のアイディアをひらめいたのはカール・バルトスで、その後ラルフが「また孤独な夜、孤独な夜」という歌詞とベース・ラインをつけたという。
フローリアン失踪
ときおり、あるイベントに参加している当人たちが「これ以上いいときはない」と直感的に理解する瞬間がある。クラフトワークのメンバーも、一九八一年のツアーで各地をまわりながら、これが自分たちの最高潮であること、これまでの十年の努力の結晶であること、そして今がバンドにとって最も爽快な瞬間、最も強い影響力を行使できている瞬間であることに気づいていた。カール・バルトスにとって、このツアーは、クラフトワークの一員として過ごした中で最も幸せなときだった。
「(略)あれが『永遠の青春』というものだったんだろうか?それとも、私たちは単なる傲慢な若者の集団に過ぎなかったんだろうか?今となってはわからない。でもあれは本当にいいときだった」
(略)
ヴォルフガングにはいつも取り巻きがいた。当時の彼についてOMDのアンディは語る。「彼はいい男だった。長い間、エレクトロニック界のセックス・シンボルと言えば彼だったんだ」「エレクトロニック界で一番セクシーだったし、本当にハンサムだった。若い頃の彼はすごく格好よかったんだよ」。ツアー中も相手に困ることはなかった。
(略)
こうしてクラフトワークは、世界六ヵ国で一〇〇回以上のコンサートを開催した。(略)
メルボルンの《プリンセス・シアター》でのコンサート直前、過酷なツアー生活に耐えられなくなったフローリアンが行方不明になるという事件があった。(略)
結局フローリアンが折れて、ぎりぎりで時間に間に合った。しかしこのとき、フローリアンはこう言ったという。「本当は僕なんていなくてもできるだろう」
(略)
ヴォルフガングは言う。「[ツアーが]終わったときは本当に嬉しかった(略)もうあれ以上、舞台には立ちたくなかった。信じられないスケジュールだったよ。あんな規模のツアーをこの先もやるなんて想像もできない状態だった。もう体力的に限界がきてたんだ」。ツアーを終えたクラフトワークは"もうしばらくツアーはご免だ"という気分に襲われた。次に彼らがライヴをするのは、なんとこの九年後のことだ。それまでは、ツアーも、コンサートも、テレビ出演も一切なしだった。
アフリカ・バンバータ、YMO
アフリカ・バンバータ(ケヴィン・ドノヴァン)は一九五七年、サウスブロンクスで、カリブ系ニューヨーカーの両親の間に生まれた。十代の頃からスライ・ストーンやジェームス・ブラウンらの曲をかけながら路上パーティーを開き、それ以前の幼少時代にはもうスタックス・レコード系のミュージシャンやモータウンにどっぷりハマっていた。時は七〇年代。(略)
歩く音楽図書館と化していた彼はさまざまな"党派"の音楽中毒者たちとセッションに明け暮れていた。そしてある日、彼らの前で「ヨーロッパ特急」のレコードをかけたのだ。彼は一九八八年のインタビューで語っている。「最初はなんて妙ちくりんな曲だと思ったよ。ファンキーで、メカニカルで、とことんイカレた曲だと思った」「で、聴けば聴くほど、このファンキーな白人野郎どものことが気になった。どこの出身なんだ?とかさ。それで調べ始めた……俺はレコードのラベルをいつもしっかりと読むほうでね。(略)
彼らの歴史をどんどん掘り下げていくうちに『アウトバーン』に行きあたった。彼らのダブ・アルバムだ。それから《ロック・プール》へ行ったときに、そこのDJ連中から他のアルバムを勧められた。それが『放射能』だった。そのうち他のレコードもチェックして、自分の番組でかけるようになったんだ」
(略)
バンバータはソウルソニック・フォースを「黒人初の電子音楽グループ」にしたかったと語る。「クラフトワークが〈ナンバース〉をリリースしてからも、俺はずっと〈ヨーロッパ特急〉にぞっこんだった。それでふと思ったんだ。ふたつの曲をくっつけたら、ハードなベースとビートの効いたマジでファンキーなナンバーになるんじゃないかって。で、実際にやってみた。ただ、単なるクラフトワークのパクリとは思われなくなかったから、キャプテン・スカイの〈スーパー・スポーム〉って曲もつけたしたんだ。(略)あと、ベーブ・ルースっていうロック・バンドの〈メキシカン〉って曲も組み込んで、仕上げに全体のテンポをアップさせたんだ」。この曲についてカール・バルトスは次のように述べている。「当時としては新鮮で、しかも均整のとれたサウンドだったと思う。TR-808はクラブの客には馴染みが薄いリズムマシンだったしね。それに、あのヴォーカルには"パーティーっぽいノリ"があった。他のレコードじゃ聴けないサウンドだったよ」
(略)
[バンバータ談]
「昔はよく一風変わったレコード・ジャケットを探し歩いたもんさ」「たとえばイエロー・マジック・オーケストラのジャケットを見かけたら、なんたこりゃ、変なジャケットだなって思うわけ。で、実際に手に取ってみる。あのアルバムには〈ファイヤー・クラッカー〉って曲が入ってて、俺は思わず言ったよ。おっ、これなら自分の曲に使えそうだぞって」
(略)
グループのキーパーソンである美男子、坂本龍一は、クラフトワークに大きな影響を受けていると認めている。クラウトロックのファンだった坂本はバンドの他のメンバーを"改宗"させると、クラフトワークの要素を採り入れながら、きわめて日本的な音楽を作り出そうとした。坂本は当時をこう語っている。「日本人はなんでも真似するって言われることに辟易してたんです。当時だったら車とかテレビとか。で、日本発の完全にオリジナルなものを作ってやろうって考えました。あの頃は何もかもが西洋の模倣でしたから。奇しくもYMOがデビューしたのと時を同じくして、日本製の車やテレビが市場に出回りだしてね。エラい騒ぎになりましたよ。アメリカ人の社員が日本車をぶっ壊したりして(笑)。おもしろい時代でした」「クラフトワークの音楽を支える力強いコンセプトには今でも驚かされます。ヴィジュアルに、ロゴに、ライヴ・パフォーマンス。そのすべてが徹底的に計算されてる。ああいうのはいかにもドイツ的で、とうてい真似できないって思いました。で、日本に目を向けると、そこにすべてがあったわけです。いかにも日本的な伝統が存在する一方で、あらゆるものに西洋の影響が色濃く見える。音楽もそう。食べ物も、建物も。要するに、日本文化っていうのはあらゆるものがごっちゃになってる。それこそが、僕らがYMOで表現したかったものでした。そうした混沌とか、ごった煮感とか。だから(クラフトワークがアルバム『テクノ・ポップ』でやったように)自分たちのスタイルを効率化し、洗練させるんじゃなくて、その正反対のことをやりました。すべてを採り入れたんです。テクノだけじゃなく、ジャズやクラシックの要素も少しだけ入ってます。アジア的なものや西洋的なもの、アメリカ的なもの……ハワイ的なものだって混じってるんですよ!」
ゲイリー・ニューマン
米国ヒップホップ・シーンの黎明期に影響を及ぼしたミュージシャンがもう一人いる。英国ポップミュージック界で特に苛烈なバッシングを浴びたゲイリー・ニューマンだ。一九八二年、彼は物笑いの種だった。マーガレット・サッチャーのトーリー党政府を(略)支持すると公言して、主に左寄りの音楽記者に酷評されていたばかりか、音楽ファンの多くからは「ボウイのクローン」と断じられて無視されていたのだ。しかし、二曲の全英ナンバー・ワン・ヒットと、"ニューマノイド"と呼ばれる筋金入りのファンに支えられ、ゲイリーは八〇年代初期の不満を抱く若者たちと心を通わせることができた。彼らは必ずしも国家と戦うことに興味があったわけではない。どちらかと言うと、誰も愛せない、疎外や断絶といったニューマノイドのテーマに共感していた。アウトバーンが自由の象徴で、車は豊かさのシンボルと感じていたクラフトワークとは対照的に、当時二十代前半のニューマンにとっては孤独感や疎外感が"最も身近"なテーマだったのだ。
ニューマン自身は、当時の彼の音楽へのクラフトワークの影響をほとんど認めていない。これは妙な話だが、いつも誠実にインタビューに答えるニューマンだけに、彼が嘘を言っているとは考えにくい。
(略)
「僕にとってのクラフトワークはいつだって、ちょっと気の利いたアイディアでしかなかった」「彼らの作曲能力やレコードはすばらしいけど、たとえば僕が心酔する何人かのレベルには達していない。クラフトワークには感心するよ。ただそれは彼らが開拓者だからで、ある意味、徹底的にテクノロジカルだからだ。何年も時代を先取りしていた。それは誰にも否定できないけど、音楽史に名を刻むような偉大なソングライターかって言えば、そうじゃないと思う」。
(略)
一九八二年頃になると、クラフトワークの音楽は黒人やヒスパニック系、ゲイたちにも愛聴され、街で一番おしゃれなナイトクラブで流され、産声を上げたばかりのDJシーンに多大な影響を及ぼしていた。
「ブルー・マンデー」
おそらく、この世で最もクラフトワークっぽいシングルは(略)「ブルー・マンデー」だろう。ピーター・サヴィルは言う。「(略)間違いなくジョイ・ディヴィジョンは彼らの影響を受けてる。ニュー・オーダーはもっとあからさまだが、状況を考えれば当然の成り行きだった。イアンがいなくなり、あとに残された(略)三人は自分たちのアイデンティティを見つける必要に迫られた。で、彼らはリズムを土台にしたサウンドの中にそれを見つけ、ライターの不在を補った。作詞家が抜けた穴を埋めたんだ」「ある意味、詩を捨ててビートを得たことで、ジョイ・ディヴィジョンからニューオーダーへ移行したと言っていいと思う。
(略)
クラフトワークが体現するアイディアを理解しない限り、〈ブルー・マンデー〉を完璧に理解することはできないんだ」「〈ブルー・マンデー〉はアンコールにプレイするためのナンバーとして作られた。彼らはアンコールが嫌いだったからね。(略)
明らかな意図が見てとれる。自分たちの代わりに、機材に演奏させるっていう狙いがね。こうしたアイディアは疑いようもなくクラフトワーク的だ」
(略)
ニュー・オーダーはリズムと共に現われた。ちょうど新たに購入したリズムマシン、オーバーヘイムDMXで実験をしていた頃に。(略)
[ピーター・フック談]
「(略)ドラム・パターンはドナ・サマーのB面曲から拝借したんだ。で、そのドラム・パターンが完成して出来に満足してたら、スティーヴンが好き勝手にリズムマシンをいじくりまわし始めた。そしたら今まで聞いたこともないような、いい感じの曲ができあがっていったんだ」(略)
「あの曲は細切れになったサウンドの集合体って感じで、作ってるうちにどんどん成長していったんだ。スティーヴンに合わせて、俺はベースをジャムった。エンニオ・モリコーネの曲から盗んだリフで参戦さ。そしたらバーナードもヴォーカルを入れてきたんだ」「あの歌はイアン・カーティスについて歌った歌じゃない。(略)
[たまたまファッツ・ドミノ]のレパートリーに《ブルー・マンデー》って曲があることを知ったんだ。奇しくもその日は月曜日で、みんな気分が沈んでた。だから『今の状況にぴったりのタイトルじゃないか!』ってなったのさ」
次回に続く。