代数的構造 遠山啓

本題に入る前の数学史総括的な部分だけ引用。1972年に書かれた本。

まえがき

 構造という概念はいつごろから数学という学問のなかに登場してきたか?それに答えることはむつかしい。

(略)

それがはじめて意識的な形で姿を見せたのはやはりヒルベルトの1899年の『幾何学の基礎』であったといえよう。ここで構造の概念(略)が確立され、そこから20世紀の現代数学が始まったと見ることができよう。

 そしてそれはこの学問にどのような衝撃を与えただろうか。

 まず第一に、この構造の概念は数学という学問の守備範囲を大きく拡大したということができよう。それまでは、数学の主な研究対象は数や図形であるとされていたが(略)数や図形以外の命題や論理なども数学の枠内に入ってくることになった。そして(略)これまで数学とは縁もゆかりもないと思われていた学問分野と数学とのつながりを新しく創り出した。

(略)

 第二の影響は構成的方法の出現であろう。

 たとえば現代以前の数学の中心であった微分積分学は客観的世界の諸現象を忠実に写し出し、それを精密に分析するための顕微鏡のような役割を果たした。そこには現実世界からの乖離の心配はなかった。

 しかし、構造の内包する構成的方法は、現実世界のなかに対応物を有しない空想的な構成物を創り出したといえよう

(略)

 1つの構造を決定するものがある1つの公理系であるとすると、その公理系の内的整合性、すなわち無矛盾性が証明されねばならない。その証明を目的とする証明論という新しい学問分野を開いたのはヒルベルトであるが、それは彼にとっては自然ななりゆきであった。

 ヒルベルトによって開かれた現代数学は、このようにして、実在と数学との関係について鋭い疑問を提起したといえる。(略)

  1972年5月

構造とは何か

(略)数学と言う学問の底に一貫して流れているものはいったい何であろうか。

(略)

数だけがこの学問の唯一の柱であったか、というと多くの疑問が起こってくる。

(略)

人間のどのような特性が数学を創造し、発展させてきたか(略)

人間にだけ高度に恵まれている、形態に対する認識能力が数学の本当の起源なのだ、ということである。

 それは今日流行の表現を借りれば、パターン認識の能力であるといってもよい。今日、驚異的な能力をもったコンピューターが出現しつつあるが、それは一定のプログラムを設定してやれば人間をはるかに超える能力を発揮することはよく知られている。だが、このことに幻惑されて人間の能力について悲観的になる人がいるとしたら、それは愚かなことだ。人間は自分自身よりはるかに速く走る自動車や、飛ぶないことのできる飛行機を創り出したが、そのことによって人間不信になる必要がないのと同じく、自分自身より速く計算できるコンピューターがつくられたことによって、人間の知能に対する絶望感に陥る必要は少しもない。

 コンピューターがどれほど発達してもおそらく人間を追い越すことのできない能力が人間には備わっている。それこそ、ここでいうパターン認識そのものである。

 "あ"という字は、書家の書いたものと、幼児の書いたものとでは大きな違いがあっても、同じ字であることを認識できる。そのことさえおそらくコンピューターにとっては至難のわざであろう。(略)

コンピューターに欠けているのは、それらの膨大な情報量から必要なものだけを取り出して、不必要なものを捨てる能力である。これはいわば抽象とその裏側になっている捨象の能力なのである。この点では人間がコンピューターの追従を許さないのである。

(略)

 そしてこのような能力こそが数学という学問を創り出す源泉となったものであると思われる。

(略)

集合・構造・公理

 構造という言葉を正式に数学のなかに導入したのは、ブルバキである。

(略)

[引用があってから]

 ブルバキのこの言葉は『数学の建築術』という小論文から引用したものであるが、構造を建築に喩えたのは適切であると思われる。

 建築物はどうしてできるか。まず土台、柱、梁などの建築材料を集めて、それをどこかに集積するであろう。ここまではまだそれは材料の集合にすぎない。土台の上に柱が立ち、柱と柱を梁がつなぐ、というようにはなっていない。つまりそれはまだ組み立てられていないのであるから、それは単なる物体の集まり、つまり集合にすぎないのである。

 この状態から出発して、土台が置かれ、土台の上に柱が立てられ、柱と柱が梁でつながれ、その間に壁がつくられて、1つの建物ができ上がる。そうなるともうそれは単なる建築材料の集合ではなくなり、要素どうしが一定の相互関係、たとえば"この土台の上にはこの柱が立つ"、"この柱とこの柱とはこの梁でつなぐ"……などの相互関係で結びつけられた1つの構造となる。つまり構造とは集合に要素どうしの相互関係がつけ加えられたものである。図式的に書くと、つぎのようになるだろう。

  構造=集合+相互関係

(略)

論証の出現

 [ギリシャ七賢人ターレス]は"2等辺3角形の底角は等しい"という定理をはじめて証明したと伝えられている。(略)

証明という論理的方法すなわち論証の方法が登場したことは数学史における画期的な出来事であった。

 経験的な科学であり、現実的世界と直接密着していた数学は、このときから論理の力によって、その内部で自己増殖することが可能となった。それは数学にとって離陸を意味していた。その離陸は数学に測り知れない力と展望と与えたと同時に、数学が現実から遊離する危険をももち込んだのである。

(略)

その方法を集大成したのはアレキサンドリアユークリッドであった。(略)

しかし、ユークリッドの方法は万能ではなく、他の面では大きな欠陥をもっていた。(略)それは確かに、静止し変化しないものに対しては威力をもっていたが、運動し変化するものには適用しにくいものであった。

 ユークリッドの『原論』は長いあいだ、数学書の模範とみなされ[たが](略)

 もちろん、長い時代のあいだには例外も起こり得る。そのもっとも著しい例はアルキメデスであった。彼は動的な方法を駆使して、今日の微分積分学の一歩手前のところまで到達したのであった。彼の達成は長い中世的数学における狂い咲きともいうべきものであったが、同時代によって継承されることはできなかった。

 中世的数学の枠を打ち破って動的な方法をはじめて確立したのはデカルトであった。そのことによって彼は近代数学の基礎をおいたのである。

(略)

 ユークリッドの方法が静止した図形の研究に適しているのに対して、座標を用いる解析幾何学は、平面上の任意の点を座標で表わし得るから、点の運動を描写することができるようになり、運動や変化をとらえることができるようになった。そのことは不動と静止の中世的数学から運動と変化の近代数学への大きな転換を意味していた。

 デカルトが活動した17世紀は"科学革命"という言葉が使われるほど、自然科学が飛躍的に進歩した時代であった。(略)

そこで決定的な役割を演じたのは微分積分学であった。数学のこの新しい分野はニュートン力学を創り出すために生まれたといっても過言ではないくらいである。

 そして微分積分学にとって欠くことのできないものは関数概念の形成であった。functionという言葉は1694年にライプニッツが書いた微分方程式に関する論文のなかにはじめて登場した。このことは興味がある。なぜなら微分方程式の目的は未知の関数を決定することだからである。

 関数は近代数学の中心概念であるが、それは因果関係の数学的表現だといえる。そのさい独立変数が原因であり、従属変数が結果である。だから、それは近代自然科学の主役となることができたのである。未知の自然法則の探究は数学的には未知の関数の探究に帰着することが多い。

(略)

 ニュートンはこの微分方程式という強力な道具を駆使して、太陽系の運動法則を明らかにしたのである。これが近代数学の性格を決定したといっても過言ではない。

代数学の出発点

 その発展の過程がよく示しているように、近代数学自然法則の探究のための道具として発展したのであり、それはあたかも自然の秘密を映し出す精巧なカメラのような性格をもっていた。

 これに対して、現代数学の構造という概念が生まれたのはいつであったかをはっきり決定することはむつかしい。E.T.ベル(1883-1960)は1801年に公表されたガウスの『整数論研究』がその端緒であるという。これも1つの注目すべき見解である。

 整数論にはその学問の性格からいって、自然法則の直接的反映とは見なすことのできない高度の構造――今日の言葉では代数的構造――が登場してくる。たとえば mod m に対する既約剰余系がつくる乗法群などは自然現象のなかにその原型を見出すことはできない。あるいはまたオイラーによって帰納的に発見され、ガウスによってはじめて証明された2次剰余の相互法則のごときものもやはり自然法則のなかには発見することはできない。

 そういう点からみると、ガウスの創造した整数論は現代数学の先駆をなしたということができよう。しかし、構造が真の意味で意識的に提起されたのは100年後1899年のヒルベルトの『幾何学の基礎』であろう。

 この論文の一応の目標はユークリッド幾何学のよって立つべき必要かつ十分な公理系を打ち立てることにあった。しかし、その到達した点は、一幾何学の基礎づけに終わるものではなく、その影響は数学全体に波及したのである。

 元来、幾何学の公理系を設定することはきわめて困難な仕事である。なぜなら点、直線、面という諸要素が、一定の直観的な意味をもっていて、そのためにかえってはじめに設定された公理系には含まれていない命題が知らず知らずのうちに潜入してくるおそれがあるからである。

 そのことを避けるためには点、直線、面という言葉からは一切の常識的な意味をあらかじめ奪い去っておかねばならない。事実ヒルベルトはそのようにしたのである。そこでは点、直線、平面は単なる記号にすぎないものとされたのである。逆説によって人々を驚かすことを好んだヒルベルト

「ここでいう点、直線、平面は机、椅子、コップで置き換えてもよい」

とも言った。

 公理もしくはその集まりである公理系とは、そのようなもののあいだに規定された相互関係の型にすぎないものとなった。

 このようにして点、直線、平面はそれ自身としての固有の性質をはぎとられて、一片の記号と化したのであるが、それらをヒルベルトは無定義語と名づけた。したがってそのあいだに規定された相互関係としての公理系も仮説的なものと化したのである。だからヒルベルトにおける公理はユークリッドの『原論』における公理とは同じ公理という言葉を使っていても、根本的に異なった意味をもつようになった。(略)

カントルの集合論

 19世紀の後半に登場したカントルの集合論はごうごうたる賛否の渦をまき起こした。クロネッカー(1823-1891)のような全面的な否定論者もあり、またデデキント(1831-1916)のような支持者もあった。そのなかでヒルベルト集合論を高く評価していた。彼はつぎのようにいっている。

「カントルが我々のために創り出した楽園(集合論)から、何人も我々を追放することはできない」

 

 集合論はいろいろの特徴をもっているが、そのなかで数学的原子論ともいうべき、徹底した分析的傾向をあげることができる。それは研究すべき対象を最小の単位まで分解するのである。たとえば直線は原子としての点まで分解され、逆に直線は点の集合と見なされる。このような観点はカントルによってはじめて打ち出されたものである。カントルは3角級数の研究を通じて直線を点集合と見る観点に導かれたのであった。

 カントルはこの数学的原子論を武器として数学全体の革命へと歩み出したのであった。彼はすべての図形を点にまで分解することによって、それまでの常識をつぎつぎと打ち破っていった。たとえば彼は平面上の点の集合とは直線上の点の集合と同じ濃度をもつことを証明したのであった。常識的には2次元の平面が1次元の直線よりはるかに多くの点を含むだろうと想像されるのであるが、それが同数であるということは意外な結論である。このことを証明したとき、当のカントル自身が驚いたほどであった。そして親友のデデキントに「我それを見れども、我信ぜず」と書き送った。

 このことは1次元の直線をいちど原子的な点にまで分解し、それを適当に並べかえると2次元の平面となることを示している。すなわち、次元数は1対1対応によっていくらでも変わってしまうものであることを物語っている。だから、次元数を保存するためには1対1対応に連続性という条件を付加しなければならないことが明らかになった。このことは後でブローウェル(1881-1966)によって証明されたが、これはトポロジーの重要な跳躍点となった。

 このような数学的原子論ともいうべき集合論はすべての構造を解体するはたらきをもっていたが、そこから構造を回復するには相互関係を導入する公理系を必要としたのは当然である。そしてその課題がヒルベルトによって受け継がれたのである。

無限の論理

 カントルの集合論はいかなる思考法を包含しているだろうか。それをここで総括しておこう。

 まず第1にさきに述べたように数学的原子論ともよぶべき徹底した分析的方法である。このために無限集合の困難を新しくつくり出したのであった。

 第2の特徴はすべてのものを空間化すること、もしくは外延化することである。

(略)

 あるアメリカ・インディアンの部族は日数を数えるのには集合数が使われることはなく、もっぱら順序数が用いられ、第1日、第2日という表現しかもっていないという。たしかに時間的に継起する第1日と第2日とは同時には存在しない。したがってそれを1日、2日と集合数によって数えることはできない。つまり時間的継起は空間的併存とは異なっている。その意味ではその部族の考え方は厳密であるといえる。

 しかし、時間的継起を強いて空間的併存として考えるところに人間の思考の進歩があった。集合論はこの傾向をさらに徹底したものといえよう。

 このことは無限集合に対する特別な考え方となって鮮やかに表面化する。

 たとえば自然数は1、2、3、4、……という数であるが、1、2、3、4、……と数えていく操作の立場に立つと、それはあくまで時間のなかで継起し、いつまでたっても終わらない行為である。それは限りなく未来に向かって開いている。無限をこのようなものとしてとらえることは、アリストテレスのいわゆる可能性の無限といわれるものであった。カントルが現われる以前の数学は無限をもっぱらこのような可能性の無限として理解してきた。それはいかなる限界を設定しても、それを超えることのできる可能性をもつ無限、いわば動的無限である。

 しかし、直線を点の集合と見るとき、直線はそこに動かずに存在しているのだから、それを構成している個々の点は空間的に同時に存在しているものと考えるほかはない。言語学の術語をかりていえば、それは通時的ではなく共時的な存在なのである。

 このようにして無限集合は各要素が数えるという操作から一応独立に空間的同時存在として考えられることになった。カントルはそれを実無限とよんだ。そして無限集合があたかも有限集合であるかのように取り扱うことができるようになった。

 群の具体的内容について詳しく述べる前に、ここではまず、群の一般的定義を与えよう。

 一言にしていうと、群とは操作の集まりである。もともと、近代以前の数学は数、量、図形などを研究対象としてきた。それらはいずれも"もの"の概念であった。

 このようなとき、ライプニッツは関数を導入することによって"はたらき"もしくは操作そのものを数学の新しい研究対象として導入した。これは数学史における画期的な出来事であったといえよう。

   y=f(x)

において、yは"はたらき"を受ける"もの"であるが、f()はそれらとは異なる"はたらき"もしくは操作そのものであった。名詞的な"もの"に対して動詞的な"はたらき"なのである。

 このようにしてライプニッツは近代数学における解析学の主要な目標である関数を登場させることに成功したのである。