インチキの英語でも、英語なしよりはいい

左頁に英文、右頁に訳という英語学習本、収録された小説がなかなか面白かった。

[収録作品]

Stuart Dybek, "Farwell" (1990)
スチュアート・ダイベック「ファーウェル」)

Paul Bowles, "You Are Not I" (1948)
ポール・ボウルズ「あんたはあたしじゃない」)

ボウルズが見た夢に基づいて書かれた。サラ・ドライバーが1981年に映画化。脚本は彼女のパートナーのジム・ジャームッシュ[『ストレンジャー・ザン・パラダイス』デビュー前]

 

Rebecca Brown, "A Vision" (2001)

Linh Dinh, "'!'" (2004)

 

Agnes Owens, "The Dysfunctional Family" (2008)
(アグネス・オーエンズ「機能不全家族」)

Nana Kwame Adjei-Brenyah, "The Finkelstein 5" (2018)
図書館の外にいた五人の黒人の子供の首をチェーンソーで切断した白人が無罪となり、黒人の若者たちは自らの肌にカッターナイフで「5」と刻み、殺された子供の名前を繰り返し唱えながら白人を襲撃する運動「ネーミング」を開始。

Linh Dinh, "'!'" (2004)

無資格がバレても患者から「命の恩人」と弁護された偽医者話がマクラ。半径50マイルに新聞を読んだことがあるものはハノイからきた教師だけという貧しい村の少年が、とある出来事で「機会さえあれば自分はどんな外国語でもたちどころに習得できるのだと確信」、徴兵された部隊で捕虜米兵の言葉をメモに書き留める。

[!以下、結末まで引用するので注意!]

 譫妄状態に陥っていくにつれて、捕虜(略)は何時間もうわごとを言った。(略)

小さなメモ帳に、彼は捕虜の言った取りとめのない言葉をできる限り書き留めた。聞こえた音をそのまま書いたこの記録が、戦後にホー・ムオイが行った英語の授業の土台となったのである。

(略)

あのアメリカ人はきっと、母国語にある単語をほぼすべて口にしたちがいない、と彼は考えた。何しろ夜ごとあんなに夢中で喋りつづけたのだから。 それに、見えない言葉は見える言葉から推論すればいい。

 言葉は数のようなものだ、とホー・ムオイはさらに考えた。 自然発生した一握りの規則を持つ閉じたシステムなのだ、と。紙の上に並べられた言葉は、地味で単調な絵画に似ている。 どんなに風変わりな絵画だって、じっくり見てみればいずれその構成原理を解明できるのなら、言葉についても同じことができるはずでは?

(略)

 本人は抽象画を描いているつもりでも、抽象画などというものはありえない。抽象的に描かれた絵画があるだけだ。水平な面は水平線を含んでいるがゆえにつねに一個の風景である (したがって旅、自己からの逃避、届かないものを示唆する)。垂直な面はすべて扉か肖像である (したがって家、他人、他人としての自分、届かないものを示唆する)。色にもすべて社会的・個人的連想が伴う。

(略)

 ホー・ムオイはさらに、人間が作ったものはすべて複製可能だと信じた。椅子、銃、言語。素材さえあれば何だって複製できる。そして自分にはもろもろの音を記録したメモ帳があるのだ。時計を分解して組み立て直すことができるなら、音の記録をいったんバラバラにして新しい組合せを作り出すことも可能なはずだ。こうして、一個の言語のみならず、一個の文学を作り上げることも夢ではない。

 逮捕された当時、 ホー・ムオイは毎週三晩、何百人もの生徒を相手に、初級、中級、上級の英語クラスを教えていた。25年のあいだ、何百万という語彙を生徒たちに教え込み、英文法の複雑さを、元々組み込まれている矛盾もちゃんと含めて、辛抱強く説明した。英語の詩や短篇小説を授業で読ませさえした(作者は彼自身と上級クラスの生徒たち)。ところが、警察署で取り調べを受けてみると、我らが英語教師は、英語という言語のごく基礎的な知識すら持っていないことが判明した。be 動詞も知らなかったし、 do も知らない。英語に過去時制があることも彼は知らなかった。

(略)

 ホー・ムオイの作り物の英語にあっては、母音は5つではなく24ある。発音はきわめて微妙な陰影に富み、生徒はみなそれら慣れぬ音を相手に、超一流の音楽家のレベルにまで耳を精緻にせねばならない。(略)

形容詞はすべて動詞として使うことができる。Ⅰ will hot you (私はあなたを熱いするでしょう)とか Don't red me (私を赤するな) といったふうに。

(略)

 噂によれば、元生徒の多くが結束して英語のレッスンを続けているという。警察に妨害されるため、毎夜の集会は、石油ランプを灯した地下の隠れ家で開かねばならない。彼らの発する奇妙な音が、方向の定まらぬ風に乗って、近隣の田園を網目状の陰影で包む。

 でもなんでそんなことやってるんだ?とあなたは問うだろう。知らないのか、自分たちが偽の言語を勉強してるってこと?

 普遍的な(いまのところは) 言語として、英語はこれら生徒にとって自分たちの外の世界を体現している。英語こそ世界そのものなのだ。そしてこれらの生徒たちは、いま存在しているベトナムが、その世界に入っていないことを知っている。偽の英語であっても、それにしがみつくことは、もうひと一つの現実の存在を主張することなのだ。

 インチキの英語でも、英語なしよりはいい。いや実際、本当の英語よりいいくらいだ――それはイギリスだのアメリカだのの現実なんかに対応していないのだから。

 フー・ヒー・フー・アー・アタ・マ・ナト・ム・パプ・ム・ホーム。

 

[柴田元彦解説]

ちなみにリン・ディンをアメリカでいち早く評価したのは作家マシュー・シャープ (Matthew Sharpe) である。2004年にシャープが行なったインタビューで、ディンは次のように言っている。(略)

アメリカ人はアメリカを基準にして世界を判断して、そこらじゅうに失敗や不足を見る。そういうのは馬鹿げてると思う。そういうもんじゃないだろう。てゆうか、まあちょっとそういうもんなんだけどさ。[二人笑う]。

 

[収録作品]

Sandra Cisneros, "Those Who Don't" (1984)
 (サンドラ・シスネロス「わかってない奴ら」)
Mark Twain, "How I Edited an Agricultural Newspaper Once" (1870)
 (マーク・トウェイン「私の農業新聞作り」)
Ernest Hemingway, "The Killers" (1927)
 (アーネスト・ヘミングウェイ「殺し屋たち」)
Jim Shepard, "Batting Against Castro" (1996)
 (ジム・シェパード「カストロを迎え撃つ」)
Kevin Barry, "Who's-Dead McCarthy" (2019)
 (ケヴィン・バリー「誰が死んだかマッカーシー

 

ジム・シェパードの経歴で紹介されてるザ・フー円谷英二の短編が気になるが、翻訳はまだ出ていない模様。

ジム・シェパード(Jim Shepard, 1956- )

 歴史的事実を踏まえて作品をしばしば書く作家で、吸血鬼映画の古典「ノスフェラトゥ」を撮影中の微妙な人間関係を描いた作品 ("Nosferatu"、 のち長篇 Nosferatu に発展)、ロックバンド The Who の内実をバンドで一見一番地味なメンバー(ベーシストのJohn Entwhistle) に語らせた作品 ("Won't Get Fooled Again") 等々、どれも周到なリサーチと奔放な想像力が見事に組みあわさっている(略)。この “Batting Against Castro” はカストロが大の野球狂だったという有名な事実を踏まえつつ、そこに当時の権力者バチスタも引き込み、政治のことなど何も知らない野球選手にすべてを語らせた抱腹絶倒の一作となっている。

(略)

日本人読者にとりわけ興味深いのは、『ゴジラ』の緊張をはらんだ製作過程が緻密に描かれ、特撮監督円谷英二とその妻との屈折した関係もそこに盛り込まれている長めの短篇である。はじめ Master of Miniatures という題で単独の小冊子として刊行され(2010)、のち短篇集 You Think That's Bad (2011) に “Gojira, King of the Monsters” の題で収録された。現実の円谷とその妻マサノとの夫婦関係はそこまで屈折していなかったらしい。

“Gojira, Kingof the Monsters”収録

 

"Won't Get Fooled Again"収録