フィールド・レコーディング入門 柳沢英輔

民族音楽のフィールド・レコーディング

ヨーロッパでは、民俗音楽学者で、作曲家、ピアニストとしても有名なバルトーク・ベーラが、一九〇六年から一九一八年頃にかけてハンガリー各地の村に伝わる民俗音楽をエジソンの蠟管式蓄音機を用いて録音し、詳細に採譜、分析することで、その体系化を試みるとともに、自身の作曲にも活かそうとした。バルトークは録音を(ときに再生速度を変えながら) 繰り返し聴くことで音楽の細部を精緻に記録する方法を得たのである。しかし、こうしたやり方には「つねに変化する歌い手の節回しを一回の録音で決定するのは危険だ」という批判もあったという。たしかに民謡を含むいわゆる民俗音楽が、口頭伝承によって常に変化しながら民衆の間に受け継がれていること、またそれらの演奏がしばしば「即興性」を有していることなどを考えれば、その録音から作成された楽譜は楽曲の「ヴァリエーション」のひとつを記録したものに過ぎないとも言えるだろう。

 また一九三〇年代から、アラン・ローマックスは、父のジョン・ローマックスとともに車に録音機材を載せて全米中を回り、各地のフォーク、ブルース、ジャズなどの民俗音楽やオーラル・ヒストリーを収集していった。またその過程でレッド・ベリー、ウディ・ガスリーら多くの伝説的な音楽家を発掘、紹介することになる。(略)

英国人の民俗音楽学者ヒュー・トレイシーは、一九二〇年代から七〇年代にかけてアフリカ各地の民俗音楽を三万五千を超える録音に収め、多数のレコードを出版している。

 民俗音楽学者の録音は学術目的でおこなわれたものであっても、それらの録音がラジオ放送やレコードのリリースによって多くの人に聴かれるようになると(略)アラン・ローマックスらの録音や著書が一九六〇年代の世界的なフォーク・リバイバルに繋がったように、その後の音楽シーンにもさまざまな形で影響を与えた。

(略)

ブライアン・イーノは「アラン・ローマックスがいなかったとしたら、ブルースの爆発もR&Bの運動もなかっただろう。そしてビートルズローリング・ストーンズヴェルヴェット・アンダーグラウンドも生まれなかっただろう」と述べている。

(略)

ハーバード大学の人類学者ジェシー・ウォルター・フュークスは、蠟管式蓄音機に負担がかからないように録音対象の演奏方法を意図的に変えてもらいながら録音をおこなっていた。また一九世紀末から二〇世紀初頭にかけてアメリカ先住民の音楽を多数録音した人類学者のアリス・カニングハム・フレッチャーは、ワシントンDCにある自宅の敷地内に簡素なスタジオを設置し、先住民を家に招待する形で録音をしていた。このように、人類学者の録音は初期の頃からスタジオの技術に基づいていた点も留意すべきである。また一九四三年の台湾において先住民の民俗音楽に関する大規模な学術的録音をおこなった音楽学者の黒沢隆朝の録音のほとんどが、実際には実演者を台北など都市部のスタジオに呼んでおこなっていた。このことからもわかるように、「現地録音」だからと言ってそれが必ずしも「フィールド・レコーデイング」であったわけではないということも指摘しておきたい。

クリス・ワトソン

 最初にフィールド・レコーディストとして世界的にもっとも有名な人物の一人であるクリス・ワトソンを紹介したい。彼は(略)「キャバレー・ヴォルテール」の元メンバーなのだが、その後、フィールド・レコーディングを活動の主軸とするアーティストとして世界的に知られるようになる。またその活動と並行してBBCの自然・生態系ドキュメンタリー番組やラジオ番組の録音技師としても長年仕事をしてきた。ワトソンのフィールド・レコーディングは、自然豊かな環境で野生動物の発する声や動作音を極めて高解像度に捉えたものが多い。しかし、それらの録音は「癒しの音」のように一般的に想像される「自然音」のイメージからは程遠い。(略)時にぞっとするほど不快で、恐怖を感じるほどの力強さと生々しさを持った「野生の音」である。

(略)マイク・ケーブルを一〇〇メートル、二〇〇メートルも伸ばし、動物のねぐらや通り道にマイクをしかけて録音をおこなう。(略)

野生動物がとても警戒心が強く、また危険でもあるために近づいて録音することが難しいという理由からだけではない。録音対象の至近にマイクを置いて録音することでレコーダーの録音レベルを下げることができるため、背景の人為的なノイズを気にせずに録音することができるからだという。

 ワトソンの録音作品は特定のテーマに基づいた音のドキュメンタリーであるとともに、その作品には「音楽」的な要素を強く感じる。この「音楽」的な視点は、彼のミュージシャンとしてのバックグラウンドと関係していることは間違いないだろう。例えば、『Outside the Circle of Fire』の最初のトラック〈Adult Cheetah Resting By Beobab Tree〉に収録されたチーターの断続的な寝息は、エレクトロニック・ミュージックのようにも聞こえるし、〈Corncrake Songs From Territorial Males, Island Of Coll, Western Isles, Scotland〉のウズラクイナ (corncrake) という鳥が縄張りを守るために発する警戒音(?)がポリリズミックに絡み合う様子はミニマル・ミュージックのようでもある。

 またワトソンの録音作品は「耳のための映画 (Cinema for the ears)」と評されるように、編集によって異なる音をモンタージュしたり、重ねることによって描き出される情景と物語性に主眼を置いた作品もある。例えば、『Weather Report』の最初のトラック〈Ol-Olool-O〉はケニアのマサイマラ国立保護区における一四時間のサウンドスケープの録音を一八分に凝縮したものであるが、野生動物の声と天候のダイナミックな変化が織りなす展開に圧倒される。ワトソンによれば、「同じ場所で、異なる時間に、異なる視点から録った音を重ねることで、ハーモニクスやその他の要素が加わっていき、最終的に、その場所の響きを生かした音楽的なものになる」という。つまり、彼は自分の録音作品をある場所のドキュメントというより、その場所の特徴的な響きを抽出し、それを素材として編集した「音楽作品」として位置づけているようだ。

 このように日常生活で聴くことが難しい自然環境音をハイスペックな録音機材を用いて高解像度に収録し、編集によって「音楽性」を付与した作品は、フィールド・レコーディングの魅力がリスナーにわかりやすい形で伝わるだろう。(略)

ただし、フィールド・レコーディングは、そうした非日常のエキゾチックな環境音にとどまらず、我々が日常生活を送るあらゆる環境の音が対象となることも確認しておきたい。また環境の音といった時の環境とは「自然環境」だけでなく、「人工的な」環境ももちろん含まれる。後述するように、私はマイクロフォンを通してさまざまな場所や空間の響きを観察するうちに、「自然」と「人工物」が相互的に織りなす響きにより興味を持つようになっていった。

 

Weather Report

Weather Report

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環境音と一体化する感覚

ここでいう「観察」とは、具体的に言えば、マイクロフォンが拾う音をリアルタイムにヘッドフォン (イヤフォン)で聴くことを指す。

(略)

私は録音中はできる限り音を立てないようじっと動かずにモニター音を聴いていることが多い。また音源との距離や録音レベルが適切であるか、風に吹かれていないか、機械的なノイズが混入していないかなど

(略)

 しかし、こういった実務的な理由以外にも、フィールド・レコーディングにとって観察が重要な理由がある。一〇分、二〇分と集中して現場で録音のモニターをしていると、外部にあるはずの環境音が自分の内部に入りこんで、自分の身体が外部の環境音と一体化しているような感覚に陥ることがあるのだ。例えば、川の音を録音していると、川と私の身体の関係性が裏返しになり、川の内側から音を聴いているかのように感じられることがある。あるいは、森のなかでじっと録音をモニターしていると、鳥や虫などの声の響きが自分の身体に浸透し、私自身が森の一部になったかのような感覚を覚えることもある。

「音楽」のフィールド・レコーディング

 レコードに収録したゴング演奏の多くは、カメラ用三脚の上にステレオバーとピストルグリップを付け、無指向性のコンデンサーマイク二本を二〇センチほど間隔を空けて平行にセットするAB方式で録音した。一般的に「音楽」のフィールド・レコーディングは演奏音以外の音をできるだけ入れないよう単一指向性マイクを使うことが多い。しかし、私は「音楽」の録音でも環境音を録る場合と同じように無指向性マイクを使うことが多い。その理由のひとつは、周囲の環境音や場の響きを含めて「音楽」を収録したいと思っているからである。例えば、民家や集会場のなかで収録した録音を聴くと、屋外の虫の声や犬の泣き声、バイクなどの交通音、子供の声などがいたるところに入っている。それらの環境音は「音楽」の録音にとって不要なノイズではなく、むしろその場の雰囲気、空気感を伝える重要な要素であると私は考えている。さらに言えば、木造家屋の響き、集会場内部の柱や壁、梁、供犠された水牛を繋いでいた綱、水牛の頭骨、周りで静かに見守っている家族や村人の存在、マイクと録音対象との距離感、さらには私と録音対象との関係性や録音にいたるプロセス、そうしたさまざまな文脈が録音内容には自ずと反映されている。そして、こうした現場の特徴的な響きや雰囲気を捉えることが、「音楽」のフィールド・レコーディングにとって重要だと思うのだ。

 もう少し説明すると、「音楽」というものは演奏者や楽器だけでなく、その場を構成するあらゆるモノ、人との相互作用において生成されると私は考えている。それは物理的な場の響きや音響特性、あるいは聴衆の存在や反応が演奏に与える影響といったことだけを指しているわけではない。例えば、ゴング演奏者は、演奏の場の「雰囲気」を感じ取りながら「音楽」を奏でる。つまり、その場の匂い、さまざまなモノが放つ色彩、光の濃淡、湿気を帯びた空気、埃っぽさ、他の奏者や聴衆の身体や視線、録音者と録音機材の存在、外の環境音などを感じ取りながら、自らが発する響きを通してその場と呼応しているのである。またゴングが演奏される場では、多数のゴングの響き(倍音)が重層的に重なり、共鳴し合うことで「うねり」のようなものが生まれ、それが周囲のあらゆるモノや身体を強く振動させる。 そして聴衆(録音者も含む)は、そうした演奏者と場所の響きを介した相互的、反復的なコミュニケーションのなかに自らの身体を参加させ、そのなかに没入していく。その結果、演奏者、聴衆、モノという境界は溶解し、ただその場の全体が「響き」として立ち現れる。すなわち「音楽」のフィールド・レコーディングとは、このような相互行為のプロセスに参入しながら、その響きを内部から観察し、描写する行為なのだ。

 無指向性マイクを使うもうひとつの理由が、周波数特性である。無指向性マイクは単一指向性マイクに比べて周波数特性が広いものが多い。単一指向性マイクはその構造から、音源に近づけるほどに低音が増大する「近接効果」と呼ばれる現象が発生する。この近接効果を緩和するために、「ロールオフ」と呼ばれる低域の感度を落とす補正による調整がされていることが多いのである。したがって、単一指向性マイクでは、もちろん機種にもよるが、直径の大きなこぶ付きゴングが出す身体を揺さぶるような重たい低音の響きを十分に録音することが難しい。それは耳に届く音というより身体に伝わる空気の揺れであり、周波数でいえば20~70ヘルツ程度の非常に低い音である。市販されている「民族音楽」のCDを聴くと、録音あるいは編集の段階でこの辺りのロー(低域)はかなり低減されているように感じる。その理由のひとつとして考えられるのは、低域の音圧レベルが強いと、相対的に中域のメロディやハーモニーが聞こえづらくなるからだ。また屋外の録音では風防をつけても天候によっては風の音が多少なりとも入ってしまうため、風切り音を低減させるために録音あるいは編集の段階でローカットしていることも多い。

 例えば、先述した 『Gongs Vietnam-Laos』もおそらく単一指向性マイクを使っているのであろう、こぶ付きゴングの身体を揺さぶるような低音はあまり聞こえず、逆に平ゴングの旋律やハーモニーははっきりと聞こえる。これはさまざまな再生装置で再生されることを考慮した市販のCDとして正しいバランスと言える。しかし、私には先述したこぶ付きゴングの身体を揺さぶるような低い音により紡がれるリズム(太鼓も含む)こそがゴング音楽の根幹を成していると感じられたため、そこはなるべくカットせずに収録したかったのである。ただし、これは現場で実際に体感するゴング演奏の「リアリティ」をいかに忠実に記録するかということではなく、私がゴング演奏をどのような「音楽」として捉えているのかを表現するために、そのような録音方法をとったということである。

 私が使用した無指向性マイク (Sennheiser MKH8020)は、20ヘルツ以下の超低周波もかなり拾うため (三脚から伝わる振動も拾う)、低音が過多になりやすい。またこぶ付きゴングと太鼓の音は平ゴングの音に比べて相対的な音圧レベルがかなり高いため、マイクからの距離が平ゴングと同じような位置だと、平ゴングの旋律やハーモニーがそれらの音にマスクされて聞こえづらくなる。したがって、マイクから一番近い位置(約二~三メートル)に平ゴングを、少し離れた位置(約四~五メートル)にこぶ付きゴングを、瞬間的な音圧レベルがもっとも高い太鼓はさらに離れた位置で演奏してもらうことで全体のバランスをとった。このように、フィールド・レコーディングの現場では、楽器の演奏形態、演奏音の音圧レベルと周波数、マイクの特性と感度、音源とマイクの距離、風の有無、空間の広さと響き方(残響時間)、周囲のモノや人の位置などさまざまな要素を考慮しながらセッティングを行う必要がある。

soundcloud.com

水中音の録音作品

 トム・ローレンスの『Water Beetles of Pollardstown Fen』は(略)ダブリン近郊にあるユニークな生態系を持つ湿地帯の水中音を録音した作品である。水中のボコボコいう水音の中にアナログ・シンセサイザーか子供の声を変調させたような不思議な電子音響が広がるが、これらはタイコウチ、ミズムシ、ゲンゴロウなどの水生昆虫が発している音だという。なお収録された音は基本的に「非加工」の録音素材を用いているが、いくつかのトラックにおいて人間の可聴域外の音を聞こえるようにしたり、モンタージュや長時間の録音を圧縮したりする編集がおこなわれているようだ。

(略)

この作品を初めて聴いた時は本当に驚いた。池のなかにこのような音響世界が広がっているとは想像したこともなかったからだ。調べてみると、クジラやイルカなどの一部を除いて、水生生物の発する音の世界はまだほとんど研究が進んでいない分野であるようだ。(略)

人間には通常聞こえない世界を可聴化した作品としてサウンドアート的な視点からみても興味深い。

超音波を録る

 もっとも簡単に超音波を発見し、聴く方法はバットディテクターを使うことだ。(略)コウモリの出す超音波を人間の聞こえる範囲の周波数に変換し、その変換された音を聴くことができるというものだ。(略)周波数の変換方式によって、ヘテロダイン式、フリークエンシー・ディビジョン式、タイム・エキスパンション式の三種類がある。へテロダイン式とフリークエンシー・ディビジョン式では、超音波の変換はリアルタイムでおこなわれるため(略)コウモリが超音波を発するのと同時に、バットディテクターから変換された音を聞くことができる。ヘテロダイン式は比較的安価だが、高感度で壊れにくいため自然観察会などでよく使われる。私が主に使用しているヘテロダイン式のバットディテクター (Pettersson D100 )は、本体前面に周波数を設定するアナログのダイヤルとスピーカーが付いている。このダイヤルで設定した周波数の前後約5キロヘルツの周波数の超音波をキャッチし、実際に鳴っている超音波と設定した周波数の差分の周波数が可聴音として聞こえるというものである。つまり、ダイヤルで周波数を40キロヘルツに設定した場合、45キロヘルツ(あるいは50キロヘルツ)の超音波が鳴るとその差分の5キロヘルツが変換された音として聞こえるわけである。

 フリークエンシー・ディビジョン式は、周波数の全域を対象として、設定した値で周波数を分割して、可聴域に変換する。例えば、設定した値が10の場合、40キロヘルツの超音波は4キロへルツに変換される。最後のタイム・エキスパンション式は、入力された超音波信号を録音し、低速(例えば一〇分の一など)で再生することで、可聴域に周波数を下げるというものである。この方式であれば元の超音波信号を保存できるため、パソコンに取り込んで波形編集ソフトで超音波の周波数解析をおこなうことが可能である。この方式のバットディテクターは高価なものが多く、主に学術的な用途で用いられる。

 バットディテクターの音声出力を録音機に接続すればその音を録音することも可能だ(録音機能を持つバットディテクターもある)。街中をこのバットディテクターを持って歩いてみると、普段聴いている音の世界とはまったく異なる音の世界が広がっていることに気づく。(略)ダイヤルを回し周波数を替えていくと、街のいたるところからドローンのような分厚い持続音、断片的なパルス音が浮かび上がってくる。その音源の多くは、街灯などの照明や機械類が発する超高周波音や雑踏の音である。(略)

駐車場の入り口付近ではテクノのキック音のような低いリズミカルなビート音が時々リズムがよれながら聞こえてきた。これはゲート式駐車場で車両を検知するために設置された超音波センサーと思われる(同様に路上のパーキングメーターからも強い超音波が出ていた)。また大通りの歩道を歩いていると低く唸るようなドローン音に加えて、カエルの鳴き声のような高いピッチの音が聞こえる。これはおそらく街灯などの照明から発せられた超音波だろう。また交差点では、ガチャガチャした金属音、ガサガサいう摩擦音が聞こえる。これらの音源は、歩行者のイヤリングや鍵など金属製のモノがぶつかり合う音、服が擦れたり、靴が地面と接触したりする音、コンビニやスーパーのビニール袋などが立てる音のようだ。

 また、夕暮れ時に京都の鴨川沿いの歩道や橋の上では多くのコウモリが強烈なパルス音をリズミカルに発していることがわかった。京都の中心部でこれほど多くのコウモリが飛んでいることに、バットディテクターを使うまで私は気づかなかった。いずれにしても、バットディテクターに繋いだヘッドフォンを外すと、上記の音の多くはほとんどあるいはまったく聞こえてこない。超高周波が織りなすサウンドスケープは、視覚的にありふれた都市の風景からは到底想像できないものなのだ。そして、普段人間に聞こえている音の世界がいかに狭い範囲のものであるのかを実感させられたのである。

 

 そうした日常の生活空間のさまざまな超高周波音を収録したCD『Ultrasonic Scapes』を二〇一一年にリリースした。この作品は、コウモリやセミの声といった自然音から、街の雑踏、機械、照明、自分のノートPCやテレビ(ブラウン管)まで、さまざまな生物やモノが発する超高周波音をバットディテクターを使ってリアルタイムに可聴域に変換し、録音したものである。

プライバシー、著作権の問題

 フィールド・レコーディングは、録音者の意図にかかわらず、その時、その場で偶発的に生じる音がその記録内容には必然的に含まれる。そのなかで作品化に際して問題となりうるのが、会話の声とBGMである。前者について言えば、例えば、カフェなどで隣の席の会話の声を意図的に録音することは盗聴であり、法律上は犯罪にはならないとはいえ、倫理的に問題があるだろう。では、たまたま録音に入り込んだ通行人の会話の声はどうだろうか。(略)

人の声にも著作権や肖像権が認められる場合がある。このように偶発的に入ってしまった会話音の取り扱いは、法律上問題になるかどうかだけでなく、倫理的な面からも十分に配慮して編集をおこなう必要がある。

 また店舗や公共空間などで流れるBGM、電車の発車メロディなどは著作物であるため、それらの音を含んだ録音を用いて作品を制作し、著作権者の許諾を得ずに公開することは著作権を侵害する行為と言える。ただし、著作権法は二〇一三年に法改正がおこなわれ、「付随対象著作物」と言って、例えば、街角の風景をビデオ収録したところ、 本来意図した収録対象だけでなく、ポスター、絵画や街中で流れていた音楽がたまたま録り込まれる場合などは、複製又は翻案された付随対象著作物は、当該著作物の利用に伴って利用することが侵害行為に当たらないとされることになった。

 つまり、街中などでフィールド・レコーディングをしていたときに、たまたま背景に流れていた音楽やBGM、効果音などが録音に入り込んだ場合、(1)その音楽の利用が当該著作物の構成部分として「軽微」であり、(2)録音の対象として意図していた音から分離することが困難であり、(3)著作権者の利益を不当に害することがない場合、その音楽は「付随対象著作物」として著作権者の許諾を得ることなく、利用(複製、上映、演奏、公衆送信、譲渡など)することができるということだ。ただし、この「軽微」な構成部分というのはどのような基準で判断すればいいのか、また意図していた音から「分離することが困難」というのも何をもって「困難」と判断していいのか、その場の全体の音を対象にしていて、特定の音を狙って録音していない場合はどうなるのかなど不明な点も多い。最終的には個別の具体的な事案に応じて司法の場で判断されることになるようだ。いずれにしてもフィールド・レコーディングをおこなう過程で、また何らかの形で録音した音源を公開するにあたり、著作権(および実演家の権利としての著作隣接権)や肖像権、プライバシーの権利には十分配慮しなければならない。

 それでは、フィールド・レコーディング自体は著作物として認められるのだろうか。現行の著作権法では、残念ながら環境音を録音した音はそれだけでは著作物として認められないようだ。もちろん録音した環境音に編集、加工を加え、タイトルをつけてリリースした作品は著作物であるし、また作品化していない音源でもその環境音を初めて録音した収録者としての権利(「レコード製作者」の権利)である著作隣接権は認められる。日本の著作権法 (第二条第一項第一号)によれば、著作物とは 「思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」とある。つまり、フィールド・レコーディングは、これまで本書で述べてきた「録音者の思想や視点を反映した表現である」という主張が、(少なくともそれが作品化される以前の音源については)法律上は認められていないということになる。いわゆるスナップ写真でさえ「被写体の構図やシャッターチャンスの捉え方に創作性がある」として判例によって著作物として認められているのに対し、フィールド・レコーディングが著作物として認められていないというのは納得のいかない話ではある。しかし、これはフィールド・レコーディングに関する世間の認知度や関心が相対的に低いからということもあるだろうが、何らかの形で公開されたフィールド・レコーディングが録音者に無断で使用されて、著作権侵害として訴えられるようなケースがこれまでになかったというだけのことなのかもしれない。