ボビー・ギレスピー自伝 その4

前回の続き。

ストーン・ローゼズハッピー・マンデーズ、エクスタシー

[ある日、ヴァージン・メガストア]に入ると、"ヴェロシティ・ガール”にそっくりな曲が流れていた。俺はカウンターに行き、「この曲は誰のだ?」と店員に訊いた。

ストーン・ローゼズ」と彼は言い、こう続けた。「明日の夜ギグをやるんだ。俺が主催してるんだけど、来る?ゲストリストに名前を入れておくよ」。

「ああ」と俺は答えた。「ちょっと面白そうだな……」。

 俺はイネスとカレンを連れてギグに行き、3人ともストーン・ローゼズに感心した。 誰も聞いたことのないバンドで、あんなに自信たっぷりなフロントマンは見たことがなかった。彼らには何かがあった。ライヴには40人ほどしかいなかったが。4曲5曲やったところでイアン・ブラウンが「OK、これで終わりだ」と言い、本当にそれでおしまいだった。すごいと思っていたので、俺は残念だった。(略)地元マンチェスターでは満員の観客が彼らに熱狂していたが、ここブライトンではまったくの無名だった……あの時は、まだ。

(略)

 事態が変わったのはマッギーがマンチェスターに引っ越した時だ。(略)ジェフ・バレットがファクトリーやハッピー・マンデーズニュー・オーダーの広報だったので、彼はハシエンダにはずっと通っていた。アシッド・ハウスに改宗しつつあるのはマッギーとバレットだった。俺たちはまだジョニー・サンダースMC5、ストゥージズ、ロックンロールの世界に入れ込んでいた。

(略)

[とあるパーティーでキレたマッギーが無関係の]ダフィの両耳をつかみ、頭を壁に叩きつけた。(略)

 俺はマッギーを怒鳴りつけた。(略)

「こいつが俺のケツを蹴ったんだぞ!」

「おまえのケツなんて蹴ってない、アシュトンがおまえのケツを蹴ったんだ!」。

 階上は乱痴気騒ぎになっていて、もうめちゃくちゃだった。俺が初めてアシッド・ハウスに触れたのは、そんなふうだった。

 あとで自分でエクスタシーをやった時に、バレットとマッギーがあの晩なんであんなことをしたのか、俺は理解するようになった。あいつらはまったく別のレベルにいたのだ。 エクスタシーをやるとアシッド・ハウスやエレクトロニック・サウンドのような、温かく柔らかな低音が聴きたくなる。ハイエナジーのロックンロール、切り裂くようなギターの音はスピードがキマった頭向けだ。ヘロインをやるとサザン・ソウルが心地よく、大麻にジャマイカのレゲエとダブがぴったりなのと同じだ。それぞれのドラッグはそれぞれ違うサウンドを求めるのだ。

 

 1988年初め、俺とカレンはマッギーに連れられ、ハッピー・マンデーズのギグに行った。(略)マッギーはバックステージに行き、戻ってくると「口を開けろ」と言った。彼はショーン・ライダーからEことエクスタシーを買っていて、1錠ずつ俺とカレンの口に投げ込んだ。(略)

俺の最初のEはハッピー・マンデーズから買ったものだ。かなりクールな話だと思う。俺の自慢だ。なのにそれはさっぱり効かなかった。

作詞、ボビー・ブランド

書きたいことはわかっていたが、何について書くべきか、モチーフが見つけられなかった。"アイム・ルージング・モア・ザン・アイル・エヴァー・ハヴ"や"ユアー・ジャスト・トゥー・ダーク・トゥ・ケア"のような歌詞が書けるのはわかっていた。どちらも実体験、俺の人生の出来事についての曲だ。だが俺はもうちょっと間口を広げたかった。セカンド・アルバムの数曲、ハイエナジーのロックの曲には本当に安っぽい歌詞が乗っている。いいロックの歌詞をどう書くべきか、よくわからなかったからだ。響きがいい言葉を集めてはみたが、意味はほとんどなかった。スペースを埋めていただけで、心からの言葉じゃなかった。

(略)

フェルトのローレンスに、それについて助言を求めたことがある。彼はこう答えた。「スピードについて書いてみればいい。"スピード・アンセム"っていう曲を書けばいいじゃないか。おまえはいつもスピードの話をしてるんだから」。

(略)

バラッドのほうがうまく歌詞が書けた。ゆるやかな曲調だと、ただそれに心を開けばよかった。でもロックな曲になると、ブルージーなメロディをどう乗せればいいかがわからない。

(略)

俺はブルーズやソウルの作詞家の書き方が好きだった。シンプルで、直接的で、正直で、ヒットさせるために作った曲にさえ、ストレートで容赦ない正直さがある。

(略)

 ボビー・"ブルー"・ブランドのようなアーティストには本当に魅了された。彼のアルバム『トゥー・ステップス・フロム・ザ・ブルーズ』は洗練されたブルーズのソングライティング、ミュージシャンシップの完璧な一例だ。(略)

ボビーが「見知らぬ土地で見知らぬ人間になる、それを俺は知っている」と歌うと、世界でもっとも孤独なサウンドを聴いている気になる。(略)

「この街に愛はないのか?」と彼が歌う時、それ以上に真実を伝える言葉があるだろうか?(略)名曲"エイント・ノー・ラヴ・イン・ザ・ハート・オブ・ザ・シティ"を聴いて、あの崇高さに触れてほしい。

 さらには偉大なO・V・ライトもいる。肉欲の炎に焼かれ、硫黄の匂いが染み込んだ彼の声は、火と氷のヴィジョンを作りだす。彼のレコードの数々は、ミシシッピ・デルタの錬金術というオカルトだ。それを導いたのは名プロデューサー、ウィリー・ミッチェル。O・Vの世界では、苦痛と欲望はひとつのコインの両面だ。彼の曲はすべて、病んだ愛、セックス、罪、そして赦しを乞う哀願をつづる暗い物語だ。

(略)

 当時、俺はリチャード・メルツァーの『ロックの美学 (The Aesthetics of Rock)』 [メルツァーはロック批評を始めた人物とされる] に傾倒していた。

(略)

彼はロックンロールをハイ・アートに高めようとしていたし、俺自身ロックンロールはハイ・アートだと信じている。

(略)

 この頃、俺はとにかくバンドを軌道に乗せようとしていた 。まだ失業手当をもらいながら、悩み、苦しみ、ちょっとした鬱にもなっていた。カレンはバークレイ銀行で働いていたので、俺は平日ずっとひとりきりで、ブライトンを歩き回り、最後はレコード屋にたどりついた。ノース・レインはすごい場所だった。本当にいいレコード屋が6軒ほどあり、俺はそれを全部見て回ってから海辺に戻り、古い埠頭のそばで座っていた。冬も、夏も、春や秋も、陽が沈むのを眺めていた。(略)

失業手当で食っていることが俺の心を蝕んでいた。

アシッド・ハウス

 1989年の夏の間に俺たちはどんどんアシッド・ハウスにハマり、クラブに通いだした。スロッブはちょっと出だしが遅かったが、イネスとカレン、俺はすぐに熱中した。

(略)

そこでは誰もが自分を自由に表現していて、眉をひそめられることもない。暴力の危険や性差別もなく、みんなそこにいる理由はひとつだけだった。この驚異的な音楽、新しくコンテンポラリーな、電子のソウル・ミュージックで踊ること。永遠の「いま」でダンスすること。自分が完全にその瞬間にいると感じたのを覚えている。(略)どのブラザーもどのシスターも、みんながスターだった。アシッド・ハウスの素晴らしさのひとつに、そういったヒエラルキーのなさがある(だがのちにはそうなってしまう。スーパースターDJが持ちあげられ、大金が動き、ミニストリー・オブ・サウンドのようなスーパークラブが登場して、あのカルチャーは大衆資本主義に搾取された)。シュームに満ちていたのは生の祝祭だった。あの時まで、俺が関わっていた音楽やシーンは、パンク、ポストパンク、ロックンロール・カルチャー全般に至るまで、怒りやニヒリズム、絶望に動かされていた。俺がそうしたものを愛したのは、俺自身そうやって世界に関わっていたからだ。(略)傷心や苦悩、痛みを語る音楽を愛していたし、人間関係や政治に対してシニカルな見方をしていた。好きなドラッグはスピードこと硫酸アンフェタミンで、それが俺の疎外感、孤独感を煽っていた。でもエクスタシーは、まったく違う心理的トリップだった。俺の人生は自分でも気づかないうちに変わりつつあった。

 決定的だったのは、ウェザオールが「NME」でプライマル・スクリームのライヴ評を書いた時だ。

(略)

 マッギーはみんなのためにエクスタシーを買い、パーティを開いていた。俺たちは全員、ミセス・サッチャーの施策のおかげで「事業手当」をもらっていた。自分の銀行口座に1000ポンドあることを失業保険局に証明し、事業計画をでっちあげれば、あとは手当をもらうのに毎週事務所に通わずにすむ。これは1年間続き、とても便利だった。

対照的なインディとアシッド

 夏中ずっと、俺たちはイギリスをツアーしていた。(略)

 UKインディは自己満足的でエリート主義で、いくつものルールで縛られていた。美意識がピューリタン並みに厳格で、グラマラスなもの、セクシュアルなものにはすべて疑いの目が向けられた。『ソニック・フラワー・グルーヴ』のフォークっぽいサイケから、2枚目でいきなり泥臭いブルーズ・ロックに変わったのは、初期のファンの一部にとっては飛躍しすぎていてついていけなかった。(略)

インディのライヴにはいつも惨めな雰囲気が漂っていて、観客も大抵決まりきったつまらない格好だった。一方アシッド・シーンにはエナジーが溢れ、きれいでファッショナブルな女の子たちがコムデギャルソンやボディマップのようなハイブランドからスポーツウェアまで、思い思いの服を着ていた。みんなフレッシュでクリーンで、気さくだった。あのシーンの聖餐、ドラッグがエクスタシーだったせいだ。 インディ・シーンは主にビールで、俺はあれが好きになれなかった。パブは俺向きじゃない。皆ドラッグさえやらず、酒を飲むだけだった。ふたつのシーンはまったく正反対だった。俺たちがギグを始めた頃は観客も少なく、国中の小さな会場を回り、それが新鮮でエキサイティングだった。でも80年代後半にはインディのエナジーは失われていた 。俺にとっては、あのシーンはもう終わっていた。

(略)

脱構築され、独創性に富んだ、延々と続く未来的な音楽。アンドリュ―・ウェザオールがまだ誰も聴いたことのないトラックを初めてかける場にいるのは、まるで秘密結社の入会の儀式だった。(略)俺たちはそのトリップに目覚めていた。いわば、モダンなサイケデリアだ。(略)ウェザオールはリスナーの想像力に魔法をかけ、分子構造を変容させる音楽の力を理解していた。体が心臓を動かすと、脳に作用し、恐怖心が消え、人と人がこれまでになく近づく。エクスタシーをやると、見知らぬ人はひとりもいなかった。全員がケミカルなブラザーフッドシスターフッドで結ばれていた。みんなが同じビートに合わせて動き、踊り、体という枷や社会という牢獄から抜けだす。ブラザーよ、シスターよ、カム・トゥゲザー。ひとつになるのだ。

(略)

マンチェスターではマッドチェスターが爆発していた。(略)

ストーン・ローゼズとインスパイラル・カーペッツは60年代に影響されたサイケ・ロックの現代版をやっていた。しかしマンデーズの音楽は他とは違う、まったく独自のものだった。彼らに先駆者はいない。せいぜい、カンくらいだろうか。

(略)

 俺たちがやっていたライヴには、それぞれ200人ほどの観客しかいなかった。ほとんど無観客に近いこともあった。バーミンガムの近く、JBズ・ダドリーでのギグでは、せいぜい20人ほどだったのを覚えている。それほど熱心なファンのうちのふたりがコーナーショップのティジンダー・シンとベン・エアーズだった。彼らは何年も経ってからあの場にいたこと、すごいライヴだったと話してくれた。

(略)

 ツアーの最終ギグは12月の終わり(略)チケットはあまり売れなかった。この頃、ニルヴァーナが話題になりはじめていた。(略)

ティム・トゥーハーが俺にこう言った。「フライヤーを作ったんだ。アストリアのニルヴァーナのギグに行って、配ろうと思う。プライマル・スクリームを観にきてもらわなきゃな。グランジのキッズが、おまえらがやってることを気に入るかもしれない」。

 俺は「わかった、俺も行くよ」と答えた。ついでにあのギグを観てもいいな、と思いながら。

 凍えるような水曜の夜、ティムと俺はアストリアの外に立ち、まったく無関心なニルヴァーナとマッドハニーのファンに自分たちのフライヤーを手渡した。俺は黒革のバイカー・ジャケットにジーンズ、ティムは『マイ・プライベート・アイダホ』のリヴァー・フェニックスみたいな格好をしていた。ロックンロールの浮浪児ふたりだ。(略)俺たちは30分ほどで諦めて会場に入ろうとしたが、チケットは売り切れていた。最低だった。

 

 プライマル・クリームのギグでDJをしてもらえるほど、俺たちはウェザオールと親しくなっていた。

(略)

サブテラニアのライヴでは(略)Eをやったが、いいアイデアとは言えなかった。(略)俺の場合、Eをやると何もかもがふにゃっとしてしまう。感覚や認識力がうまく同調しなくなり、時間もゆっくり進む。俺はビートがつかめず、曲があちこちで滑りまくった。逆にスピードをやると感覚が研ぎ澄まされ、焦点が定まる。俺の存在そのものが、バンドが刻むロックのリズムにびしっとハマるのだ。ツインギターから出るゴジラ級のパワーは、スピードが俺に与える、救世主になったようなフィーリングにぴったりだった。エクスタシーはロックンロールをやる時のドラッグじゃない。ソフトで愛情に溢れすぎている。

 クリエイションからは、もう誰もライヴに来ていなかった。ひとりもだ。興味を持つ人間はいなかった。アンコールではシン・リジィの"ドント・ビリーヴ・ア・ワード”を演奏した。感心なことにジェフ・バレットはその場にいて、ライヴのあと、「あのシン・リジィのカバーは最低だった」と言った。(略)

あの頃は、シン・リジィの曲をやるなんていちばん格好悪いものとされていた。アシッド・ハウスとマッドチェスターの全盛期、「NME」は 「ロック信者」と呼ぶものを全部こき下ろしていた。(略)

するとウェザオールがにっこり笑いながら近づいてきて、こう言った。「"ドント・ビリーヴ・ア・ワード"のカバーはすごくよかった。最高だったよ」。彼の目は何かに興奮し、熱中している時はいつもそうだったように、きらきら輝いていた。「ああ、シン・リジィは好き?」と俺は訊いた。「フィル・ライノットが死ぬ10日前に、俺は彼からサインをもらったんだ」とウェザオール。なんて奴だ、と俺は思った。こいつは最高だ。俺たちは兄弟だ。それはあの夜に証明された。

"ローデッド"誕生

 アイデアを出したのはジェフ・バレット、もしくはアンドリュー・イネスだったかもしれない。"アイム・ルージング・モア・ザン・アイル・エヴァー・ハヴ"をアンドリュー・ウェザオールにリミクスさせよう、と。

(略)

 ウェザオールが作った最初のヴァージョンでは、オリジナル・トラックの下で轟音のブレイクビーツが鳴っていた。 ほとんどインストゥルメンタルで、イネスの素晴らしくファンキーな、スーパーフライ風のギターが大々的にフィーチャーされている。だが正直な話、どこか不明確で方向性がなく(略)

彼が俺たちの曲を脱構築し、新たに想像もしなかったようなものにするのを楽しみにしていたので、がっかりした。マッギーは聴くとこう言った。「これじゃリリースできないな。もう一度彼をスタジオに送り返して、やり直させろ」。(略)

問題は、彼が俺たちの曲をリスペクトしすぎていることだった。今回もほぼ全部インストで、俺のヴォーカルが少し入っているものの、付け加えられているのはいくつかのファンキーなロックのブレイクだけ。彼は大体のところ、オリジナルのアレンジに忠実だった。俺たちはまだ満足がいかなかったが、期待は持てた。マッギーは3度目にして最後の機会として、彼をスタジオに送り込んだ。その時だ、イネスが有名なセリフをウェザオールにつぶやいたのは。「ファンなのを忘れろ、おまえはこの曲を壊さなきゃいけない」。

(略)

カントリー・ソウルの不義のバラッド"アイム・ルージング・モア・ザン・アイル・エヴァー・ハヴ" は、アシッド・ハウスの怪物ヒット曲へと変身した。それはすぐに世界中のダンスフロアで"ローデッド"として知られることになる。あの曲が人生を一変させることに、俺たちはその時まだ気づいていなかった。

(略)

ステージに出る前にウェザオールがかけた音楽を耳にして、俺たちのファンは極端に感情的な反応を見せた。それはトライバルな敵がい心だった。まったく、何がいけない?

 "アイム・ルージング・モア~"のリミクスを聴くと、マッギーはすぐに「絶対これをシングルにしなきゃいけない、天才的だ!」と言った。(略)

イネスは朝の4時か5時にうちに電話をかけてきた。「ボビー、いまサブテラニアのパーティに行ってたんだ。で、ウェザオールが "ローデッド"の白盤をかけたんだよ(略)そしたらクラブ中が爆発したんだ!」。信じられないような反応だったという。喜び、興奮したイネスは誇らしげに、デキシーズのケヴィン・ローランドとクラッシュのミック・ジョーンズが――ふたりとも俺たちのヒーローだ――曲が終わると握手をしにきたと言った。

(略)

 俺たちはスペインとフランス、イタリアを回る短いツアーに出発した。(略)

イタリアで俺たちは、まったく観客がいない巨大なテントでライヴをやっていた。

(略)

また失業手当に逆戻りかと思うと、恐怖と鬱で頭がいっぱいになった。マッギーがもう1枚レコードを作る予算を組むのも、将来音楽で生計を立てていくのも、俺には想像できなかった。普通の仕事に就くしかない、そう思っていた。

(略)

 すると突然、国中のクラブやDJが"ローデッド"の白盤を欲しがりだした。噂では、クラブで一大センセーションになっているという。マッギーは毎日のように電話で報告してきた。「ボビー、嘘じゃない。ものすごいことになるぞ。 レコードがどんどん売れてる。大ヒットするかもしれない」。俺はちょっと頭が追いつかなかった。B面のつもりだった"ローデッド"が、いまや"アイム・ルージング・モア〜"との両A面シングルとしてリリースされていた。そしてクラブ・シーンで野火のように広がり、人々が熱狂していた。ザップ・クラブではそれを目の当たりにした。曲がかかるとフロアが一気に沸きたつのだ。俺とスロッブはそばに立ち、「すげえ!」と圧倒されていた。あんなのは人生で経験したことがなかった。俺の場合、メリー・チェインでさえ起きなかった。メリー・チェインでの体験はアンダーグラウンドで、サブカルチャーでのセンセーションだったのだから。(略)

"ローデッド"は公営住宅に住むようなキッズにも届こうとしていた。何百人、何千人もが集まるレイヴに通い、ドラッグをやるようなキッズだ。

(略)

あらゆるメディアで「今週のシングル」となった。一大現象だった。UKシングル・チャートでは16位になり、小さなインディペンデント・レーベルにしてはかなりの偉業だった。

(略)

「NME」も再び取材を申し込んできた。インタビューはウェザオールと一緒に受け(略)ふたりの撮影では、彼が帽子を脱いで顔を隠した。当時は失業手当をもらっていたので、身元がバレないようにしたんだと思う。(略)

俺たちはポップスターだった。

 マッギーは俺たちに、週給80ポンド出すと宣言した。俺が失業手当でもらっていた、週に25ポンドよりはずっといい。そして、すぐさま次のシングルを作らなきゃいけない、と言った。(略)バンド全員でこもってジャム演奏を続け(略)"カム・トゥゲザー"という曲ができあがった。デモ録音さえしなかったと思う。

ボーイズ・オウン・ギャング

 アンドリュー・ウェザオールと彼の仲間、テリー・ファーリー、サイモン・エッケル、スティーヴ・メイズは全員ロンドンの郊外、ウィンザー周辺の出身だ。10代の頃はみんなソウル・ボーイズでファッション・マニアだった(ウェザオールの場合はパンク・ロッカーだ)。彼らは「ボーイズ・オウン」という失敬なファンジンを発行し、そこで書いたのちに、同名のクラブ・コレクティヴを結成した。1986年や1987年にイビザ島のクラブに最初に行きはじめた人々のなかに彼らもいて、シカゴ・ハウスのような新しいサウンド、そして「バレリアック」の理想を持ち帰った。ダンスフロアが盛り上がるなら、どんなジャンルのどんな曲でもかける、という考えで

(略)

ボーイズ・オウンのパーティは当時、イングランド南部でいちばんイカしたパーティだった。集まっているのは2、300人ほどだけで、全員がクールだった――といっても有名人や金持ち、セレブリティなんかじゃない。(略)気合いの入ったクラバー、音楽とファッションのマニアばかりで、誰とでもすぐに話が通じた。(略)ほとんどが労働者階級、もしくはロウワー・ミドルクラスのキッズだったが、みんなヒップで、最新のレコードやシーンに幅広い知識があった。(略)

きっとモッズの初期もああいう感じだったんだろう。ある意味、アシッド・ハウスはその90年代版だった。

(略)

ウェザオールとはすぐにうまが合った。たぶん、ロックンロール・カルチャーを共有していたからだろう。テリー・ファーリーとはそんな関係にならず、彼はいつもほんの少しよそよそしかったが、いま思うとシャイだったのかもしれない。

(略)

 ボーイズ・オウンの仲間うちでは、明らかにファーリーがボスだった。少なくとも俺にはそう見えた。ウェザオールは永遠のアウトサイダーなんじゃないか、とずっと感じていた。たとえシーンの一員でも、ウェザオールにはそれに自分が規定されるのを拒むようなところがあった。

(略)

ウェザオールがすごいのは、ロックのプロデューサーではないところだ。(略)

スタジオで下働きしたこともなかったし、いろんなバンドとやった経験から、こうするべきだ、こうするべきじゃない、と指図することもなかった。ルールを知らなかったから、ルールを破っていた。パンク・ロックだった。(略)

「ロック」または「ダンス」とされていたもの、その既成の線引きを意識的に壊していたのだ。ウェザオールの才能はアレンジやコラージュにあった。(略)

曲における彼の貢献は途方もなかった。6番目のメンバーがいたようなものだ。ビートルズジョージ・マーティンがいたように、ストーンズにジミー・ミラーがいたように。

ハックニーのパラダイス

 おまえらはアルバム1枚分、曲を作らなきゃいけない、とマッギーは言い、数千ポンドの前金をくれた。俺たちはそれを使い、ハックニーのチューダー・ロードに自分たちのスタジオを作った。

(略)

 スタジオの狭いコントロール・ルームにはキーボードとコンピュータ、アカイS1000が置かれていた。ヴォーカル・ブースもあったが、やっと立って歌えるだけのスペースだった。トイレは裏の駐車場と物置の近く。出かけていって、曲を書くだけの場所だった。

(略)

 俺は当時、ピーター・グラルニックの『スウィート・ソウル・ミュージック』を読んでいた。60年代メンフィスのシーン、スタックス周辺について書かれた本だ。(略)

 あの夏(略)"ダメージド"の大枠ができると、みんなでロンドン大学までマイ・ブラディ・ヴァレンタインを観にいった。すごいギグだった。いい曲を書いたばかりで、俺たちは最高の気分だった。同じ夏に"ドント・ファイト・イット、フィール・イット"と"シャイン・ライク・スターズ" の初期ヴァージョンもできあがった。"シャイン・ライク・スターズ"はかなりファンキーな曲だ。アイザック・ヘイズの"ジョイ" からブレイクビーツをサンプリングして(略)

ジョージ・マックレーの"ロック・ユー・ベイビー"みたいにやろうとした曲だ。俺たちは70年代のポップ・ソウルを愛していた。

(略)

スロッブはメジャー・セブンスが大好きだった。キャロル・キング風のほろ苦いコードだ。俺たちはそれを「嗅ぐコード」、純粋なコカインみたいだと言っていた。ブルージーな感覚やキツさがなく、むしろ衝撃を和らげるようなコード。メジャー・セブンスには一発喰らう感じがない。スロッブはキャロル・キングブライアン・ウィルソンが好きで、ひどく優しいところがあった。『スクリーマデリカ』はビーチ・ボーイズにも影響を受けている。ブライアン・ウィルソンが切ないメロディとともに使った、奇妙なコード進行が俺たちは好きだった。あの胸を衝く感じ。とてもカリフォルニア的なブルー・アイド・ソウル、若者のためのポケット・シンフォニーだ。

(略)

["ムーヴィン・オン・アップ"]はイネスと俺がピアノで一緒に作ったゴスペル・ソングだった。ふたりでヴァースとコーラスを仕上げ、スロッブに聴かせると、あいつが何か思いつき、ピアノに向かうと、いきなりあのミドルエイト、「マイ・ライト・シャインズ・オン」のところを弾きだした。(略)

最初からヒットするのはわかっていたが、曲を動かす方法がなかなか見つけられなかった。悲しげなゴスペルのバラッド、葬歌みたいに地面にへばりついていて、歌詞が伝えようとしているメッセージにそぐわない。俺たちが思う形で聴く人に届けるには、空を飛ぶような曲にしなければいけなかった。するとある日、イネスがスタジオに入るなり、「答えを見つけたと思う」と言って、アコースティック・ギターでボー・ディドリー風のリズムを弾きはじめた。スロッブと俺は、「それだ!これはロック・ソングなんだ!」と跳びあがった。

 その駆動力のあるリズム、ハード・ロックの推進力によって、 あの曲はついに空を飛んだ。

5年ぶりの渡米

 サイアーは"カム・トゥゲザー"と"ローデッド"のリミクスを全部集めて、12インチのEPとミニLPのCDを作り、1か月かけて俺ひとりでアメリカを回るプロモーション・ツアーを組んだ。 ツアー・マネージャーのサンディという女の子はシーモア・スタインのアシスタントで、ユダヤ系の美人のニューヨーカーだった。サイアーには気だてのいい、ユダヤアメリカ人のきれいな女の子が大勢いて、みんなシーモアを慕っていた。(略)

プライマル・スクリームと契約するようシーモアを説得したのはジョー・マキューアンという男だった。60年代にジョーはボストンで大学に通い、ピーター・グラルニックと友人になった。70年代には自分でも「ローリング・ストーン」誌で書いていた。ソウル・ミュージックの愛好家で、60年代にイギリスから来てアメリカを支配した一群のロック・バンドに仲間が夢中になった時も、彼だけは白人ロックには無関心で、ソウルに入れ込んでいた。大学時代の親友はJ・ガイルズ・バンドのピーター・ウルフで、彼はブルーズとソウルのラジオ番組を持っていた。ジョーはまさにソウル・マンで、本当にいい人だった。俺は彼を信用したし、彼も俺たちバンドと、俺を気に入っていた。俺たちの誠実さがわかったんだと思う。

(略)

 俺にしてみれば1か月間アメリカに行くのは休暇みたいなもので、大歓迎だった。 家ではやや落ち込みかけていた。

(略)

[アメリカは]実に5年ぶりだった。1990年11月のことだ。あれは素晴らしい旅で、俺は街から街へと回った。

(略)

 ひとつ理解してほしいのは、当時イギリスで起きていたことは、俺がアメリカで出会った人々の一部にとって、まるで火星での出来事にも等しかったことだ。シカゴ・ハウスやデトロイト・テクノについて彼らは何も知らなかった。実際、時折、俺は60年代のブリティッシュ・インヴェイジョンのバンドの気持ちがわかる気がした。同時代のブラック・カルチャーについて、イギリス人のバンドがアメリカの白人たちを教育していたのだ。自分の街で起きていることに、白人はまったく無知だった。

(略)

「あなたたちはなんのバンドですか?ダンス?ロック?オルタナティヴ?それともサイケデリック・バンド?」。アメリカ人の音楽をジャンル分けしないと気が済まないところは、唾棄すべき習慣に思えた。

(略)

俺は次々にすごいレコード屋に行ってはヴァイナル・ハンティングに精を出していた。(略)ヴァイナル・ジャンキーにとって夢みたいな場所だった。どの店にも俺が欲しかったあらゆるレコードやレアな7インチ・シングルが溢れている。なかなか見つからないもの、ロンドンでは値段が釣りあげられているレコードがアメリカでは破格に安く、どれも数ドルで売られていた。

(略)

[CDへの移行の]おかげで中古レコード屋には放出された名盤が溢れ、俺のような連中がそれを漁りまくっていた。俺はちょうどいい時に、いい場所にいたのだ。

(略)

 俺はいきなり、ロサンゼルスのラジオの生放送中にアーサー・リーと話すことになった。俺たちにとっては謎の人物ナンバーワン、そして神のような存在だ。シド・バレットを別にすると、彼こそが究極のサイケデリック・カルト・ヒーローで、俺たちがバンドを始めた理由でもあった。(略)

 

 同じ頃、俺は知らなかったが、スロッブとイネス、トビー、ヘンリー、ダフィは白のリムジンに乗ってロサンゼルスを走り、ラジオでロドニーの番組を聴いていた。コカインを吸い、シャンパンを飲みながら。俺がアーサー・リーと話しているのを聞いたスロッブは、彼によるとその瞬間、ヨーロピアン・カップで優勝したような心地だったらしい。俺たちは勝ったんだ、と。あいつらは車のなかで歓声を上げ、祝杯を掲げ、叫びながらロサンゼルスの街を走っていた。番組のあと俺はホテルに戻り、バンドと合流すると、一晩中大騒ぎした。

アラン・マッギーの変遷

 ライヴは一切するな、曲だけ書いていればいい、と俺たちに言ったアラン・マッギーは本当に冴えていた。あの頃の彼は世界の頂点にいた。とはいえ現実では俺たちのマネージャーで、俺は彼と数日おきに、プライマル・スクリームの「キャリア」戦略やゴシップ、男同士の愚痴などいろんな話をしていた。アランはいつもどこかへ飛行機で出張しては、クリエイションのライセンス契約を結び、その道中で活を入れるためにコカインを大量にやり、仕事をすませると派手に遊んでいた。あいつにはあちこちに愛人がいた。シーモア・スタインが突然、マイ・ブラディ・ヴァレンタインやライド、プライマル・スクリームとサイアーで契約するようになり、メジャー・レーベルの威光でマッギーは音楽業界からリスペクトされ、大物のひとりになろうとしていた。俺たちの失策は、影響力のあるアメリカ人マネージャーを雇わなかったことだ。あれは大失敗だった。プライマル・スクリームには一度もアメリカでの代理人が存在せず、そのツケをいまに至るまで払わされている。

(略)

アラン・マッギーのような情熱的で自信のある奴にキャリアを管理させていると有利なのは、アーティストとしての自由が完全に与えられること、何が起きようと見捨てられることはないと確信できることだ。

(略)

マッギーは最初からずっと、俺たちの真横で、このジェットコースターに乗っていた。それもクリエイションのパートナー、ディック・グリーンがいたおかげだ。彼ならなんとかしてくれる、帳尻を合わせてくれると安心できた。

(略)

実際、マイ・ブラディ・ヴァレンタインのアルバム『ラヴレス』のレコーディング中に、資金繰りのためにディックが自宅を再抵当に入れた話は伝説になっている。

(略)しかもこの時、マッギーもグリーンも、クリエイションも、チャートでの成功にはほぼ無縁だった。ジーザス&メリー・チェインがヒットしたのは、クリエイションを離れてWEAと契約したあとだ。マッギーは以前、この頃、80年代末はまったくの自転車操業だったと言っていた。グリーンがレコードの卸業者やスタジオへの支払いを引き延ばしている間にマッギーがヨーロッパやアメリカに飛び、クリエイションのいろんなアルバム・リリースの前金を外国のディストリビューターから集めていたと。あの時期、クリエイションがコンピレーション・アルバムを何枚もリリースしていた理由はそれだった。

 俺たちはマッギーとグリーンを信じていたし、他の誰も、俺たちみたいなバンドにあんなに多くのチャンスはくれなかっただろう。

(略)

彼はいつも俺たちのところへ戻ってきた。みんな同じ沼、グラスゴーの労働者階級の出身だからだ。俺たちは皆いつだって喧嘩腰のパンク・ロッカーで、その敵意を隠すことも、抑えることもできなかった。俺はアランの変化をずっと見てきた。最初に会った頃の静かでおとなしい音楽ファンから、1976年、77年、18年というパンク時代をマウント・フロリダで過ごすと、あいつは情熱的で理想主義的なファンジンの編集長になった。そしてフィッツロヴィアのパブの上でサイケデリック・クラブを主宰して、マルコム・マクラーレン並みに自信たっぷりな、ジーザス&メリー・チェインのマネージャーとなり、いまや「ポップのプレジデント」を自称していた。持論とエナジーに満ちた、赤毛が爆発しているような精力的な男は、いつ聞いても最近契約したバンドを絶賛するか、ライバルのバンドやレーベルを悪しざまにこき下ろしていた。(略)

俺は彼のために、やっと2枚、レコードを大ヒットさせたことが嬉しかった。

(略)

俺の1990年を構成していたのは、音楽を聴くこと、アルバムを作ること、レコード屋に行くこと、そして面白いヴィンテージの服を古着屋で探すこと。俺はいいソングライターになりたかったから、優れた作曲家、主に60年代と70年代のソウルのソングライターの作品を聴きまくり、プロダクションやアレンジをチェックし、どのミュージシャンがどのレコードで演奏しているかを確認していた。カントリー・ソウルもよく聴いた。ダン・ペンやドニー・フリッツ、クリス・クリストファーソン。成熟した、大人のソングライターだ。彼らには語るべき物語があり、シリアスだった。人生から生まれた曲。俺たちの初期の曲はほとんどがイノセンスについてだった。俺は経験から曲が書きたくて、その経験を積んでいたのだ。ブライアン・ウィルソン的なところも少しある。主にコード進行やメロディで。(略)

メロディは自然に出てきた。すごいコード進行さえあればお手のものだ。次のレコードがロック・アルバムにならないのは明らかだった。シンガー・ソングライターのアルバムだ。『スクリーマデリカ』の本質はそこにある。ダンス・アルバムという評価になっているが、踊れる曲はたぶん、半分くらいだろう。

(略)

 アシッド・ハウスは「政治的」だと思うか、と訊ねられた時、そうは思わない、とウェザオールは答えた。だが政府や警察がアシッド・ハウスを違法にしたせいで政治的になったのだと。これは俺の考えにごく近い。アシッド・ハウスは政治的であることを意図していなかったが、時代の文脈として政治的になった。あれは、サッチャーの「社会というものはない」という主張への反動だったのだ。サッチャーは(略)ネオリベ的信条、個人主義によって社会をばらばらにしていた。一方、アシッド・ハウスは包括的な共同体主義だ。あのシーンには「おい、大丈夫か?」という、みんながお互いを気遣う態度があった。サッチャリズムではすべてが個人や自助だったが、アシッド・ハウスでは全員が重要だった。

(略)

"カム・トゥゲザー"のリミクスを作った時、彼にはアシッド・ハウスで起きていることが見えていた。実際、若者たちが「カム・トゥゲザー」、ひとつになる時が来たとわかっていたのだ。それは反抗的で、反体制的だった。するとパーティを開いた連中が逮捕され、アシッド・ハウスは違法化された。

(略)

俺にとってアシッド・ハウスというカルチャーは、アンダーグラウンドの抵抗の祝祭だった。銃や爆弾による抵抗ではなく、愛とドラッグ、すごい音楽、セックス、そして若者のエナジーによるレジスタンス。

パンク

 パンクというのは、残念ながらもう消費されてしまったと思う。パンクに起きたことには胸が悪くなる。99パーセントの連中は肝心なところを見逃したのだから。パンクは音楽だけのムーヴメントじゃない。パンクとは自主、自立であり、自分で新たな人生を作りだすことだった。ネオリベラルが言うような自助ではなく、創造的な「自分のためにやること」だった。マルコム・マクラーレンが残した教訓はここにある。1968年、1977年、1989年から学べる教訓は、自分自身の革命を起こせ、ということだ。(略)

傍観者ではなく、創造者になれ――それがパンクのメッセージであり、俺にとってはアシッド・ハウスの遺産でもある。傍観者ではなく、創造者になれ。パワフルなメッセージだ。なのにテレビのパンクのドキュメンタリーや、「モジョ」みたいな過去を振り返る雑誌では、どれも同じことしか言わない。パンク・ロックは60年代、70年代の巨大になったバンドへのストリートからの反動だとか、戯言を繰り返すだけ。

(略)

そうじゃない。ああいう連中への反動はパンクの一部でしかない。

(略)

創造するためには破壊しなければならないと。俺はそういう言い分のすべてを愛していた。俺たちと同じく、ウェザオールもマクラーレンジョニー・ロットンの信奉者だった。60年代、ジャン・リュック・ゴダールは、1968年のパリ5月革命で毛沢東に心酔していたブルジョワの学生を「マルクスとコカコーラの子どもたち」と呼んだ。俺からすると、俺の世代はマルクスマクラーレンの子どもたちだ。

(略)

パンクのライヴに行くと、帰る頃には元気になり、新たな勇気が湧いたのを覚えている。夢を見る力、クリエイティヴになる力、自分自身になる力がみなぎっていた。

(略)

パンクとポストパンクは、俺にとって最初の文化的な革命だった。あれによって思考体系ができ、同時にある種の信仰、目的になった。

(略)

アシッド・ハウスではDJと観客が一体となり、同じレベルにいた。DJがその場にぴったりのレコードをかけたり、レコードの流れがハマったりすると、誰もが同じ恍惚感を味わった。そこが革命的だったのだ。あの超越感を感じるには、他の人々の存在が必要だ。その場がエクスタシーをやってる人たちで満杯じゃなきゃいけない。まるでマントラのように、全員の心拍がバスドラムと同期していた。あれは異教の儀式だった。トライバルで、シャーマン的な体験。セックスと同じだ、他人とやったほうが楽しいに決まってる。

スパイク・アイランド

 あの夏、ストーン・ローゼズはスパイク・アイランドという場所でライヴをやると発表した。ニュー・シングル"ワン・ラヴ"がリリースされた少しあとのことだ。

(略)

 ローゼズとマンデーズはグレイトなバンドだったし、俺はその両方に刺激されていた。彼らがドアを蹴り破っていなければ、プライマル・スクリームがラジオで流れ、テレビに出演することもなかっただろう。

(略)

 バスに戻るためにバックステージを通っていると、スクワイアとブラウンがショーン・ライダーと一緒に立っていた。(略)3万人の前で演奏した直後で放っておいてほしいだろうと思い、話しかけなかった。ただ彼らが満足そうだったのを覚えている。あのライヴはあの時代、本当に大きな出来事だった。その1年前に俺がローゼズを観た時はブライトンのエスケープ・クラブで25人を前に演奏していたのに、いまや3万人のファンが彼らを崇拝していた。

(略)

スパイク・アイランドは彼らによる90年代のモンタレー・ポップ・フェスティバル、ウッドストックだった。その野心に俺は感服した。

 あの日観客の間を歩いている俺を、ノエル・ギャラガーが見ていた。彼はインスパイラル・カーペッツのローディだった。ノエルによると、俺がジョーイ・ラモーンみたいに見えたらしい。

アンドリュー・ウェザオールとアレックス・パターソン

 アンドリュー・ウェザオールとアレックス・パターソンに共通するのは、ミュージシャンではないことだ。そこが俺たちのパンクの感性に響いた。ウェザオールは「ヒット・レコード」を作ろうとしていなかったし、そんなの考えたこともないだろう。彼はただ、ダンスフロアで効力のある音楽、スリリングな音楽を作ろうとしていた。ハイエナジーの踊れるシングル・リリースであれ、優しいバラッド風のアルバム・トラックであれ、彼はまず曲のアレンジをいじり、ほぼ完全に壊してから、 曲のもっともピュアで本質的な要素だけ取りだして再構築する。彼のリミクスでは時間が自在に伸び縮みした。それは時間がゆっくり流れたかと思うとまた速くなる、サイケデリック・ドラッグ体験を反映している。リアルなものは何もなく、アンリアルなものもない感覚だ。

(略)

彼のようにトラックを〈脱〉構築しようと考えた人は他にいなかったし、プライマル・スクリームのメロディや曲を抽象的なポップに作り替えた人もいなかった。ヒューゴ・ニコルソンの名前も挙げておくべきだろう。ウェザオールのベストの仕事の一部は、ヒューゴとのコラボレーションだったのだから。 ふたりは最高のチームだった。ウェザオールにはヴィジョンがあり、ヒューゴには彼のアイデアを形にするのに必要なスタジオでの技術があった。

(略)

 ウェザオールとヒューゴは本当に、『スクリーマデリカ』ではバンドの追加メンバーとなっていた。"ハイヤー・ザン・ザ・サン"ではアレックス・パターソンとスラッシュがそこに加わった。俺たちには曲があったが、同時代のダンスフロアを理解していたのは彼らだった。彼らはスタジオの新たなテクノロジーをどう「誤用」して、思いのままにねじ曲げるかも知っていた。