ボビー・ギレスピー自伝 その3

前回の続き。

作曲、スプラッシュ・ワン

 俺は曲を書こうとしていたが、何を語ればいいのか、まだ模索していた。自分自身を見せたくなかったから、多くは暗号みたいな曲になった。歌詞はよかった。つまり、いいものを感じさせるような歌詞だった。だが、ダイレクトではなかった。のちに俺はもっと直接的に書くようになった。ハンク・ウィリアムズやダン・ペンのようなソウル、カントリーの書き手の正直さに影響され、自分の人生について語る勇気がついたからだ。でも初めはメロディに合う歌詞を書いていただけだった。俺たちの曲ではメロディに力があり、コードがよく変化した。俺自身は少ししかコードを知らなかったので、ギター・リフがおざなりで、メロディがすべてを決めるような、ちょっと変わった曲を書いていた。プライマル・スクリームではビーティが曲に合うギター・リフを書いていたが、曲そのものはメロディから作られた。どの曲もどこか悲しげで、失望がセンス・オブ・ワンダーとない混ぜになり、ほろ苦い二重性があった。諦めとロマンスと憂鬱の混合だ。

(略)

 1985年夏に、俺は何人かの友だちと共同でスプラッシュ・ワンというクラブを始めた。名前を思いついたのは俺で、サーティーンス・フロア・エレヴェーターズの同名曲にインスパイアされていた。

 

おまえの顔は見たことがある

昔から知っていた

確かにおまえなのに

そのイメージがナイフのように俺を切りつける

そして俺はホームにいる、帰れる場所に

 

 あれは思いを同じくする人々へのメッセージだった。このクラブはすべてのサイケデリック・ヘッズ、アンダーグラウンド・ロックのフリークが集まる場所になる、という。

(略)

グラント・マクドゥーガルという男がいた――本当にいい奴で(略)

ポップ・グループのファースト・アルバムの見事なコラージュのポスターを部屋の壁に貼っていて、横には本物のナチスの鉤十字旗も飾られていた。もちろん、彼自身はファシストじゃない。ポストパンク期にはそういうのがボヘミアンとされていた。

(略)

いま説明しようとするとなかなか難しい。あの頃ロンドンにはファイナル・ソリューション[ユダヤ人のホロコースト計画をナチスは最終的解決と呼んでいた]というプロモーターがあり、ジョイ・ディヴィジョンキリング・ジョークのライヴを開催していたが、音楽業界でその名前に激怒する人はいなかった。それがあの頃のカルチャーで、いまとはかけ離れている。スロッビング・グリッスルのようなバンドもファシズムや独裁主義のイメージを使っていたし、ジョイ・ディヴィジョンはバンド名をニュー・オーダーに変えた。どちらもナチスと関わりがある [ジョイ・ディヴィジョンは性的慰安所の名称、ニュー・オーダーナチスが掲げた新秩序の意]。ア・サータン・レイシオのバンド名はブライアン・イーノの歌詞から取られているが、それも元はハインリヒ・ヒムラーの「異邦人のある割合はユダヤ人である」という発言だ。あの時代にはそういう空気があり、明らかにティーンエイジャーに影響を与えていた。ほとんどはショック・ヴァリュー、衝撃を与えるのを狙ったステートメントだった。

(略)

[スプラッシュ・ワンの観客は増え]注目の新バンドを次々呼べるようになった。ほとんどはクリエイション・レーベルのバンドで、当然俺にはコネがあった。

(略)

長年何も起きなかった街で、自分たちがひとつの「シーン」を築いている気がした。 グラスゴーでは長い間、ロックンロールのシーンというものがなかった。1980年にはポストカード・レコードがあったが、あれはロックンロールじゃない、また別物だ。 80年代にはロックンロールは見下され、「NME」のライターたちも(略)バンドをからかい、馬鹿にしていた。(略)

どこかの時点ですべてがカクテル・ミュージックの渦に吸い込まれてしまい、「NME」では野心的ではあっても対決は好まないスタイルが「ニュー・ポップ」として持ちあげられた。大事なのはチャートでの成功とあたりさわりのない歌詞、安全で行儀のいい「隣の男の子/女の子」風のパーソナリティだ。その頃にもABCの"オール・オブ・マイ・ハート”など、いいレコードは出ていた。あの曲は95、96年の初期プライマル・スクリームサウンドチェックでよく演奏したし、マーティン・フライはクールな男だ。でも俺の意見では、1981年あたりで何かが大きく間違いはじめた。 反抗としての音楽という考えはメディアで馬鹿にされた。クラッシュは過去のバンドとなり、"ザ・マグニフィセント・セヴン"のような素晴らしいシングルを出したにもかかわらず、落伍者扱いされた。

(略)

 俺は毎朝7時に起き、ジョン・ホーンズの印刷工場に出勤する支度をする間、公営住宅のバスルームで、冷たい水で顔を洗いながらあの歌詞について考えていた。

(略)

「ニュー・ポップ」というのは、架空の生活への憧れだった。 ワム!やヘアカット100、キッド・クレオールはいいポップ・シングルを作っていたし、ニュー・ロマンティクスもそうだ。だがそれらのレコードは俺の生活について何も語っていなかった。(略)

ザ・ジャムの"ア・タウン・コールド・マリス"や"ホエン・ユーアー・ヤング"のような曲ほど、深く刺さるものはない。ポール・ウェラーもまた、ストラマーと同様、まだパンクの志を掲げていた。 ワーキングクラスの詩人だ。

(略)

 スプラッシュ・ワンでキッズが出会うと、ベルズヒルみたいな田舎でもバンドが結成された。(略)

ボーイ・ヘアドレッサーズが解散すると、ノーマン・ブレイクはティーンエイジ・ファンクラブを結成した。あのクラブから生まれたもうひとつのバンドが、カート・コバーンのお気に入りだったザ・ヴァセリンズだ。

ティーヴン・パステ

 スティーヴン・パステルとはマッギーとクリエイションを通じて知り合いになった。パステルズのシングル盤、"サムシング・ゴーイング・オン"のアートワークを受け取りに行った時のことだ。俺はあの頃、マッギーのためにそういう仕事をよくやっていた――クリエイション・レコードの初期のレコード・スリーヴの製作作業だ。A3の紙にプリントして半分に切り、折ってビニール袋に入れる。プリントはジョン・ホーンの印刷工場で一緒に働いていた男に頼んだ。俺はすぐにスティーヴンが気に入った。風変わりな奴で、独特なアウトサイダーだったが、ショックを受けたのはセックス・ピストルズが好きかどうか、俺が訊いた時だ。彼は「ピストルズは好きじゃない」と答えたのだ。

俺は「は?」って感じで、「なんでピストルズが嫌いなんだ?」と訊いた。

ヘヴィ・メタルみたいだから」とスティーヴンは答えた。彼が好きなのはダン・トレイシーとテレヴィジョン・パーソナリティーズ、スウェル・マップスだった。ただシャングリラズとヴェルヴェッツ、サブウェイ・セクトでは意見が一致した。

(略)

放蕩や名声には無関心で、彼の美意識はすべて、80年代のインディペンデント・シーンから生まれた思想で形成されていた。特にラフ・トレードやWhaam!みたいなレーベルの考え方だ。(略)

レインコーツのようなアマチュア的なサウンドに惹かれていた(略)

キャリアなんて考えず、ただ楽しむために友だちと音楽を作ることを彼は信じていた。とても純粋で、理想主義的だ。俺は彼の固い決意を尊重したし、いまでもリスペクトしている。スティーヴンは現在もいい音楽を作りつづけ、グラスゴーの音楽コミュニティに関わっている。グラスゴーの素晴らしいレコード店、モノレールの経営者でもある。

時計じかけのオレンジ

俺の世代にとって『時計じかけのオレンジ』の影響がどんなに大きかったかは、説明してもうまく伝わらないだろう。1971年、最初に公開された時には俺はまだ子どもで観られず、そのうちスタンリー・キューブリック監督の要求でイギリスの映画館からすぐ引きあげられ、上映禁止になってしまった。あの映画にヒントを得たとされる暴力的な事件がいくつか起きたせいだ。

(略)

[上映禁止により]『時計じかけのオレンジ』はカルト映画となった。

(略)

 俺は1983年にマクレラン・ギャラリーのレコード市でVHSテープを見つけ、わくわくして家に帰り、ついにキューブリックの名作を目にした。数年前にアンソニー・バージェスの原作は読んでいたし、ストーリーは大体知っていた。

(略)

海賊版の『時計じかけのオレンジ』は、うちのテレビの画面で幻覚みたいにゆらゆら揺れていた。4、5世代目のダビングだったのだろう――何度もコピーしたせいで映像は荒く、色もカラーコピーを使ったアート作品みたいに混ざっていた。

(略)

そんなすべてが『時計じかけのオレンジ』の暗く暴力的な謎を深め、この禁じられた映画、逸脱的な名作は俺やジム、ロバート・ヤング、そしてメリー・チェインに大きな影響を与えた。

荒れるギグ

メリー・チェインは本当にグレイトなバンドだった。北欧やアメリカでもライヴをやったが、暴動にはならなかった。イングランドだけだ。

 毎晩、俺たちは曲を1曲その場ででっちあげていた。バンドで練習をしたことはない。いつもただ演奏を始めて、終わらせるだけだった。その曲はフリーフォームの狂乱で、俺は大好きだった。ウィルとダグと俺でドローン・サウンドを出すと、ジムが「ジーザス・ファック」というフレーズを中心に、ビートの詩の断片を歌う。カンの"マッシュルーム"のカバーもやった。憂鬱で、ゴシックで乾いた、全然ファンキーじゃない、疫病みたいなロック・ヴァージョンだ。俺は元の曲とは違うドラムビートを編みだした。偉大なるヤキ・リーベツァイトのようなポリリズムを叩けるわけがない。代わりに俺はひっきりなしにタンバリンとフロアタムを刻み、他のメンバーがそこに鉄条網のような刺々しいギターを乗せる。このヴァージョンを、俺は「臨終前の喘鳴ブルーズ」と呼んだことがある。。

(略)

いまや人々はメリー・チェインを殺そうとしていた。その前にジム・リードがニック・ケイヴ&ザ・バッド・シーズのハマースミス・パレスのライヴに行った時には、いきなり男が近寄ってきて、「おい、メリー・チェインのシンガーか?」と訊き、6人の男が彼を袋叩きにした。殴る蹴るの乱暴を働いたのだ。ジムによると、床に倒れていた彼にそいつらはこう吐き捨てたという。「ドラマーに、次はおまえだと言っとけ」。

(略)

ステージに上がることを当時の俺がどう感じていたのか、怖くはなかったのか、と思うかもしれない。答えはノーだ。ドラムスティックを持つ前に瓶やパイントグラス、中身が入った缶が頭を目がけて飛んでくる日もあった。でも俺はまだ若く、自分は無敵だと思っていた。俺に音楽とそのパワーがあるかぎり、あいつらには触れることもできない、と。自分たち4人は磁場のようなもの、メリー・チェインのサウンドによって生まれた魔法の力場に囲まれている気がしていた。

(略)

 80年代のライヴには大きな怒りがあった。理由はわからない。 サッチャー時代と関係があったのかもしれない。80年代半ばには、人々はすでに長期間サッチャリズムを耐えていたし、おそらくロックのライヴやフットボールの試合がその怒りを発散する場所になったんだろう。ギグは時に暴力的だった。俺は1987年頃、ジョニー・サンダースのライヴで襲われたこともある。(略)男が後ろからやってきて俺の後頭部を殴り、そのまま人混みに紛れていった。メリー・チェインではギグをやるたびに暴力が激化し、怪我人が出るようになり、俺たちはうんざりした。

初渡米、夢のパンク・シティ

 初めてニューヨークに行ったのは1985年4月、メリー・チェインでの渡米だった。夢にまで見たパンク・シティだ。信じられなかった。まず最初に、俺はセント・マークス・プレイスのジェム・スパを探し、ニューヨーク・ドールズにオマージュを捧げた。彼らのファースト・アルバムの裏に写っている店だ。次に向かったのがチェルシーのミッドナイト・レコード。俺はこの店がサイケデリックのレコードを扱っているのを発見していた。『バック・フロム・ザ・グレイヴ』や『サイケデリック・アンノウンズ』、『アシッド・ドリームズ』、イギリスでは見つからないような重要なものが全部揃っていた。ああいうレコードを手に入れるには、当時はアメリカまで通販で申し込まなければいけなかった。俺がラックをチェックしていると、すぐ右に男がいて、横のラックを熱心に見ているのに気づいた。もう一度見直すと、なんとザ・ヴォイドイズのギタリスト、ロバート・クインだった。嘘だろ!俺は彼に、「ロバート・クインですか?」と訊いた。

「ああ」と彼は答えた。

「友だちのためにサインをもらえますか?ジムへ、って書いてもらえれば」と俺は言った。

(略)

ロックスターになるのは最高の気分で、当時世界でいちばんエキサイティングなバンドにいることは、それだけでトリップするような体験だった。(略)

バニーメンの新曲"ブリング・オン・ザ・ダンシング・ホーセズ"の(略)B面曲のタイトルは"オーヴァー・ユア・ショルダー"で、まさにメリー・チェインみたいなサウンドだった。バニーメンがメリー・チェインをやっている!あの神みたいな連中が!何年も経ってバニーメンのボックスセットが出た時、イアン・マッカロクはスリーヴノートでこうコメントしていた。「あれは俺たちがメリー・チェインに、こうやるべきだと示した曲だ」。さすがだった。アメリカ・ツアーは順調だった。2週間で合衆国の主要都市を回るツアーは、まるでロックンロールの天国だった。俺はアメリカを愛している。政治はどうでもいい。俺はアメリカのコミックと映画、テレビ番組、口ックとポップのレコードで育ったのだ。

衝撃の宣告

[85年夏]

サウンドチェックの直前になってカレンが口を開いた。「あの、ボビー……メリー・チェインが私に、今晩ドラムをやってくれって」。(略)

 彼女は人生で一度もドラムを叩いたことがなかった。どういうことだ、と思った。俺には一言もなかったのだから。(略)

 プライマル・スクリームのあとにメリー・チェインがステージに上がり、俺は袖からガールフレンドが自分のバンドで演奏するのを見ていた。

(略)

[85年末、ジム・リードから電話]

緊張したような早口で、彼はこう言った。「メリー・チェインのドラマーになってほしいんだ。プライマル・スクリームはやめてほしい。両方のバンドをやるのは無理だ。選んでくれ」。

 そんな事態はまったく予期していなかった。あの電話の記憶はいまだにぼんやりしている。ショックを受けて、凍りついていたんだろう。血の気が引くのがわかった。俺は何も言えなかった。ずいぶん長い間黙っていた気がしたが、たぶん数秒だったはずだ。俺は答えた。 「OK、じゃあ俺はプライマル・スクリームをやる」。それで終わりだった。もう話すことはない。ごく短い会話だった。俺はひどい気分だった。これでもうおしまいだ。ジ・エンド。俺はメリー・チェインを愛していた。彼らは兄弟だった。自分にできることは全部やっていたし、全力を注いでいた。失望させたこともなかった。いつも格好よく決め、いい演奏をし、仕事には時間通りに行った。しかも、俺たちは親友だった。自分はギャングの一員だと感じていた。バンドに重要なものをもたらしていると思っていた。(略)

俺が演奏できるのはいくつかのビートに限られていたし、そういうドラムの技術のせいかもしれない、と自分を納得させてもみた。ラムふたつとシンバルを叩く原始的なロックンロール、トライバルなビートしか弾けなかったのだから。でもいまのバンドの状況ではそれでパーフェクトだった。俺のふたつのドラムによって、メリー・チェインの音楽にはスペースが生まれていた。(略)

あの時のメリー・チェインのドラマーとしては完璧だったが、彼らがサウンドを進化させたがっていること、もっと音楽的な洗練を求めていることも知っていた。たぶん、あの選択は正しかったんだろう。

 どんなに自分に言い聞かせても、胸は痛んだ。

(略)

 メリー・チェインがビッグになり、メディアに注目され、コンサートが売り切れ、チャートの順位が上がるにつれ、リード兄弟がどんどん孤立しているのに俺は気づいていた。有名になればなるほど彼らは引っ込み思案になり、姿を隠すようになった。

(略)

リード兄弟は自分に対してとてもシリアスだった。シリアスすぎたのかもしれない。でもあの年齢では誰だってそうだ

(略)

 いま振り返ると、俺はメリー・チェインにハメられたんだと思う。(略)

たぶん俺がどっちを選ぶか、すでにわかっていたんだろう。あれはあからさまにクビにすることなく、俺を厄介払いする方法だった。彼らは俺をソフトに着地させてくれた。仲違いすることはなかった。

ティーヴン・ストリート、クライヴ・ランガーロバート・フリップ

 1986年(略)俺たちはまだアンダーグラウンドのバンドだった。(略)

ジョン・ピールにはあまり評価されなかった。(略)彼は女の子がいるバンドがお好みらしく、特に楽器がうまく弾けないと大喜びだった。彼に関するかぎりは、アマチュアっぽいほうがいいバンドなのだ。

(略)

 俺が脱退してから、メリー・チェインはマッギーをクビにしたので、彼もまたひとりになった。それで少し傷ついたというより、 彼は幻滅して途方に暮れてしまった。音楽業界から足を洗おうとしていたが、彼のヒーローであるファクトリーのトニー・ウィルソンに励まされ、続ける気になった。するとロブ・ディキンズ[当時のワーナー・ミュージック UK会長]がマッギーに、自分のレーベルを始めないかと提案した。一緒にやったら楽しめると踏んだのだ。ディキンズはずっと俺とマッギーを気に入っていた。70年代にセックス・ピストルズをワーナー・パブリッシングに契約させた男だ。

(略)

 ロブ・ディキンズはキャラが立っている人間が好きだった。WEAでバニーメンと契約し、バニーメンのマネージャーでザ・KLFの立役者でもあるビル・ドラモンドと直接仕事をした。

(略)

 ワーナーから前金としていくら支払われたのか、俺は知らない。たぶん契約料が7万5000ポンドほど、加えて出版契約が3万ポンドくらいだったんじゃないか。ビーティと俺がソングライターだったので、出版契約の前金はふたりで折半した。レコーディング費用と、メンバーそれぞれが生活するための給料は7万5000ポンドから出すことになる。アルバムのプロデューサーは誰がいいか、マッギーに訊かれた時、俺はジミー・ペイジかプリンスがいいと提案した。100パーセント本気だった。ギターの名人、作曲家としての才能の他(略)俺たちのフォーク・ロック的な感性を理解してくれると思った。プリンスは言うまでもない。(略)80年代にリリースされたプリンスの一連のシングルは無敵だ。(略)

マッギーは俺の答えを聞いて笑い、無理だな、と言った。結局、俺たちはスティーヴン・ストリートにプロデュースを頼んだ。どうしてそうなったのかはわからない。俺としては、ドアーズやラヴみたいなサウンドを目指していた。(略)

ティーヴン・ストリートはジョニー・マーがプロデュースした『ザ・クイーン・イズ・デッド』でエンジニアをやっていて、俺たちはあのアルバムの音を気に入っていた。

(略)

俺にはメリー・チェインでスティーヴン・ストリートと一緒にやった経験があり、その時はうまくいったとは言えなかった。彼はナイスガイだったが、ある意味まったく普通で、全然ロックンロールじゃない。

(略)

[結局レコーディングは失敗]

5週間こもったあげく、できたのは"ジェントル・チューズデイ"を含む2、3曲だけだった。ビーティと俺は打ちのめされたような気持ちでグラスゴー行きの飛行機に乗った。ひどく後ろめたく、恥ずかしかった。(略)

メジャー・レーベルの後ろ盾でデビュー・アルバムを作れたのに(略)人に聴かせるアルバムさえできなかった。俺もビーティも、もうレーベルに見放されたと思っていた。

(略)

[だがマッギーから吉報。ロブ・ディキンズが"インペリアル"を気に入り]

クライヴ・ランガーのプロデュースでシングルにするという

(略)

 アビー・ロード・スタジオに到着すると、クライヴは俺たちをスタジオ2に案内した。ビートルズがポップやサイケデリックの名曲の数々をレコーディングした場所だ。(略)

最高に楽しいセッションだった。有名なプロデューサーとプロフェッショナルなレコーディングをしたのはあれが初めてだった。

(略)

[隣のスタジオでロバート・フリップがトーヤとイギーの"ザ・パッセンジャー"をカバー中。ギターを弾いてもらうことに]

クライヴが満足するまでに、彼のプレイを3トラックくらい録音したと思う。するとフリップは楽器とペダルをしまい、妻がいる隣室に帰っていった。(略)

残念なことに俺たちはあのワイルドなフリッパートロニクスを使う場所を見つけられなかった。でもいいプレイだったのは確かだ。(略)強烈で、メタリックで、数学的なスタイルだった。いつかあのマスターテープを発見したら、"インペリアル"をリミクスできるかもしれない。

メイヨ・トンプソン

ロブ・ディキンズは"インペリアル"の出来に大満足で、俺たちにまた3万ポンド、アルバムを作る費用を出してくれた。ただ残念なことに、その額ではクライヴ・ランガーがまるまる1枚プロデュースするには足りず、代わりにマッギーはメイヨ・トンプソンを提案した。(略)

俺たちはメイヨと会い、ほとんどの間ロッキー・エリクソンについて彼を質問攻めにした。当然俺たちよりずっと年上で、どこかアッパー・ミドルクラスの知識人といった雰囲気だった。(略)

レッド・クレイオラの"ハリケーン・ファイター・プレーン"や"トランスパレント・レディエーション"は大好きだったし、彼があのレコーディングに関わっていたとしたら、自分たちが思い描いているサウンドを実現する助けになってくれるかもしれない。が、俺たちは甘かった。

(略)

レコーディング中、ほとんどの間、プロデューサーのメイヨ・トンプソンは眠っていた。(略)

[後のインタビューで]彼はこう言っていた。 「あの時はずっと寝てたな」。 図々しい奴め、と思った。(略)

メイヨは決まりきった仕事の振りをしている感じで、本当の意味のレコード・プロデューサーではなかった。(略)若い頃は、どうしてああいうことができる連中がいるのか、俺には理解できなかった。(略)

俺は世間知らずだった。年を取ると、メイヨがなんで仕事を受けたのかがわかる。食っていく必要があったのだ。しょうがない。

(略)

 メイヨが一度か二度、泣いたのは覚えている。きっと俺たちの歌やプレイの誠実さに感動したんだろう。悪い奴じゃなかった。実際、みんな彼のことが好きだったし、俺たちが持ち込んだ素材で、彼なりにベストは尽くしたんじゃないだろうか。

作詞を模索

 俺はあの時も歌詞の書き方を模索していた。(略)グラスゴーでは感情というのは抑えるべきもので、弱みを見せてはいけなかった。曲を書くのは、そんな恐れによる心の壁、マッチョな外面やはったりを壊すひとつの方法だった。

(略)

全部実験なんだ、と俺は自分に言い聞かせた。失敗することだってある。でも、創造における失敗を恐れてはいけない。

(略)

キム・フォウリーがドアーズのジム・モリソンに、どうやったらすごい曲が書けるのか訊ねた時(略)ジムは「恋をしていないと、すごい曲は書けない」と言った。俺自身、"メイ・ザ・サン・シャイン・ブライト・フォー・ユー"を書いた時は恋をしていたし、あの曲には希望や熱望、若い恋人たちだけが感じるような、無限の可能性を信じるナイーヴさが満ちている。

(略)

 愛するカレンに捧げた、8分の6拍子のオード、ナイーヴでサイケデリックなラブ・ソング。当時、俺は時間のほとんどをカレンと過ごしていた。彼女の部屋にいるか、もしくは車に乗って深夜グラスゴーを走りながら、自分たちが作ったコンピレーション・テープを聴いていた。(略)

[空港のカフェに行き]自分とバンドを離陸に向けて走るジェット機に見立て、それはやがて一直線にコズミックな空へと向かい、可能性の世界に旅立っていく。(略)

俺たちは失業手当で食い繋ぐような、グラスゴーの惨めな生活から抜けだす必要があった。

"アイム・ルージング・モア・ザン・アイル・エヴァー・ハヴ"

[87年]俺は弟のグレアム、カレン、スロッブとともにブライトンに引っ越した。ブライトンでギグをやるたびに人が温かかったのと、地理的にも美的にも、考えられるかぎりグラスゴーから遠い場所に思えたからだ。

(略)

 イネスは週末になるとブライトンにやってきて、俺のフラットに泊まっていた。(略)そうやって続けていたジャム・セッションが、最終的にはセカンド・アルバム『プライマル・スクリーム』となった。あれに収録された"アイム・ルージング・モア・ザン・アイル・エヴァー・ハヴ"は、俺たちが初めて一緒に書いたブルーズ・ソングだ。歌詞は自分の体験から書いた。実際に起きたことだ。象徴主義やメタファーに隠れることなく、本当のことを語るのは、当時の俺にとっては大きな変化だった。

(略)

真実を語り、罪悪感や裏切りという重荷を肩から下ろすと、心を蝕んでいた毒が取り除かれ、浄化されるような気持ちになる。それこそがブルーズの美しさだ。

 俺の歌詞のスタイルはハンク・ウィリアムズ、それにハウリン・ウルフロバート・ジョンソンのようなブルーズのアーティストをたくさん聴いたことに影響されている。あの容赦ない正直さ、詩的な直接性。彼らが自分の苦痛や罪を誰にでもわかるようにさらけだしたやり方を俺は尊敬している。

セカンド・アルバム

[たまたま出くわしたトニー・ウィルソンに調子を訊かれたマッギー]

はこう答えた。「トニー、もうあきらめようかと思ってるんだ。メリー・チェインにはクビにされたし、ワーナーのレーベル、エレヴェーションも失った。プライマル・スクリームはいまのところ存在してないのも同じだし」。トニーはマッギーに喝を入れ、あきらめるな、インディペンデントでやりつづけろ、と言った。それでマッギーもレーベルを続ける気になり、ハウス・オブ・ラヴと契約した。俺たちのうち、誰もファンじゃないバンドだ。 彼らはすぐにあらゆる音楽紙の表紙を飾り、インディ・チャートでシングルが1位になり、ジョン・ピールのお気に入りとなった。マッギーは何十万ポンドもの大金で彼らをフォノグラムに売りつけた。マッギーは返り咲き、自信を取り戻した。

(略)

 クラーケンウェル・ロード 86番地、クリエイションのオフィスの地下にはリハーサル・ルームがあった。金がなかったので、俺たちは料金が割引になる深夜にそこを借りていた。マッギーの部屋は正面玄関の近くで、廊下の突き当たりの右側にトイレがあった。ある夜、俺が小便をしたあと、廊下でマッギーとすれ違うと、彼が俺を呼びとめた。「ボビー、もうこういう音楽は誰も聴きたがらない」と言って、バンドが地下で演奏しているサウンドを指差した。俺は「どういうことだ?」と言った。「古臭いんだよ。こんな音楽を聴こうとする奴はもういない」。「まあ」と俺。「俺たちは聴いてるし、やりつづけるだけだな。好きなんだから」。そう言って立ち去り、なんであいつはあんなことを言いやがったんだ、と考えていた。俺は地下に戻り、マッギーが言ったことをバンドに告げた。あの男さえ、もう俺たちを信じていないと。 1988年の春だった。

(略)

プライマル・スクリームのセカンド・アルバムはセルフ・タイトルで、プロデューサーはシスター・アン。つまり、実際は俺たちのセルフ・プロデュースだった。MC5の曲名でちょっと遊んでいる。アルバムの半分、5曲はハイエナジーのロックンロール(略)残りの5曲は暗く孤独な、傷心のバラッドだ。いま思うとレコードの片面をハイエナジー、片面をバラッドにすればよかったと思う。レコード会社の人間がなんでそう言わなかったのかわからないが、どうでもよかったんだろう。俺たちには担当のA&Rもいなかった。まぜこぜの曲順にした理由は、たぶんビートルズの『ホワイト・アルバム』への敬意からだ。(略)

マッギーは俺たちをほったらかし、好きなようにさせていた。あの頃の彼はマイ・ブラディ・ヴァレンタインと契約していて、俺たちのアルバムの曲順を心配するような暇はなかった。

(略)

[ツアー中]俺はテープを詰めた大きな箱を持ち運んでいた。俺か、もしくは若い友人のティム・トゥーハーが編集したテープだ 。ティムとは1987年くらいにリーズで知り合った。

(略)

彼はアメリカのルーツ・ミュージックを深く掘りはじめていて、 ジョニー・キャッシュリー・ヘイゼルウッドジョン・リー・フッカーが作ったレコードは全部持っているようだった。しかも状態はすべてミントで、60年代のオリジナル盤ばかり。ティムのテイストは幅広く(略)俺たちが崇拝するハイエナジーの神々の他にも、ファンクやブルーズ、ソウル、カントリー、サイケデリックのレコードを大量に持っていた。ティムはそこからコンピレーションのテープを作り、ブライトンまで郵送してくれた。それはインスピレーションになるとともに、俺にとっては音楽の教育となった。若く、失業中であることにもいい面はある。(略)

彼は急速にブルーズの信奉者となり、アメリカのルーツ音楽という福音を広めるのに宗教的な情熱を燃やしていた。(略)60年代のディープなソウル、マッスル・ショールズやメンフィスに捧げるティムの偏愛は俺にとって教育的で、俺自身があのジャンルのマニアになるきっかけにもなった。それが数年後、メンフィスでアルバム『ギヴ・アウト・バット・ドント・ギヴ・アップ』をレコーディングするのに繋がっていく。

 

 1989年のこの時点では、俺たちはかなりエクスタシーをやるようになっていた。

(略)

マッギーは[ブッキング・エージェントの]ヒンクにこう言っていた。「地図なんて捨てていい、こいつらはとにかくツアーに出ていたいんだ。家にいたくないんだよ。ロックンロールをやりたいだけなんだ。詰め込めるだけ、どんなひどい会場でもいいからギグを詰め込め。あいつらは気にしない。演奏したいだけだからな」。

 そんなドサまわりのツアーと並行して、俺たちはアシッド・ハウスにハマりはじめていた。

次回に続く。