ファンクはつらいよ ジョージ・クリントン自伝

パーラメンツ、フィル・スペクター、マンボ

俺の勤労意識が父親譲りだとすると、俺の音楽愛は母親譲りだ。父親は教会に通い、趣味でゴスペルを歌っていたが、四六時中働いていたため、本格的に音楽活動をする機会はなかった。(略)父親は、日曜歌手だったのだ。一方、母親は大の音楽好きだった。彼女は家で一日中音楽をかけ、一緒に歌っていた。(略)

母親はイースト・オレンジで、ワーウィック牧師が所有する食料品店の隣に住んでいた。ワーウィック牧師は、プルマン式寝台車のポーターから料理人を経て、ゴスペル・レコードのプロモーターとなった人物だ。彼はディオンヌ・ワーウィックの父親でもあった。俺たちが母親のもとを訪れると、ワーウィック家の子どもたちはいつも近所で遊んでいて、ディオンヌだけでなく、シシー、ディー・ディー、家族全員と知り合いになった。

(略)

パッツィー・ホルトという少女をリード・シンガーに配した(略)ブルー・ベルズも好きだった。(略)パッツィーは当時から極めて力強い声を持っていた。後にローレンス・バラードの後釜としてスプリームスに加入したシンディ・バードソングも、ブルー・ベルズに在籍していた。数年後、パッツィーがパティ・ラベルに改名し、俺がヘアドレッサーになると、俺は彼女のヘアを担当することになる。

(略)

俺の名前に因んだストリート、クリントン・アヴェニュー(略)はエセックス・レコーズというレコード店があり、俺は放課後、同店の清掃係として働いていた。当時、レコードの返品はあまり一般的ではなかった――売れなかったレコードは、レーベルに返品されず、店の裏のゴミ箱に捨てられていたのだ――(略)

俺はそのうちの数枚を自分のものにし、白人のドゥワップ・グループや、白人ロッカーのレコードは、学校に持って行って売っていた。こうして俺は一時期、マディソン・ジュニア・ハイスクールのレコード王となった。

そして、『アメリカン・バンドスタンド』が始まると、突如としてアーティストの容姿を確認する手段ができた――驚いたことに、アーティストの中には白人もいた。しかし、五十年代半ばは、誰もアーティストの人種など知らず、気にしてもいなかった。自分の心を動かす音楽で踊り、自分をより大きく感じさせてくれる音楽を手に入れていたのだ。リトル・リチャードは、俺が白人の生徒に売っていたレコードの中に入っていた。俺は一枚につき十五セントを稼いでいた。ジェリー・リー・ルイス(略)も、人々の心を動かしたアーティストだ。俺のお気に入りでもあった。(略)

ジェリー・リーは本当にファンキー、阿呆かと思うほどファンキーだった。彼はノってくると、最高の演奏をした。

(略)

 フランキー・ライモンは、マイケル・ジャクソンだった。本物のマイケル・ジャクソンが登場する十五年前のことだ。幼いフランキーは、未来からやってきたかのような子どもで、誰もが忘れることのできない声とステージ上の存在感があった。(略)

一九五五年頃、フランキーはティーンエイジャーズという新たなグループで〈Why Do Fools Fall in Love〉をリリースしたが、これは俺の世代の目を覚ます曲だった。考えてみると、彼はマイケル・ジャクソン以上の存在だったかもしれない。おそらく彼は、エルヴィス・プレスリーマイケル・ジャクソンを合わせてひとつにしたような人物だったのだろう。

(略)

フランキーは俺よりもほんの少し年下だったが、ほぼ同い年だった。

(略)

俺たちは十四歳で、音楽をやることで何を得られるか――格好良いと思われ、女子に好かれ、学校のソーシャル・ライフで主役になること――を即座に悟った。東海岸全体のあらゆる学校で、同じ現象が起こっていたはずだ。ティーンエイジャーズがヒットすると、必然的に誰もが歌った。誰もが、歌だけに専念した。

 重要なのはヴォーカル・アクト。プラターズサム・クックといった類の人々だ。バンドで演奏する者など、皆無だった――ジャズは古すぎる。俺たちもジャズを聴いてはいたし、ありがたいとも思っていたが、ジャズはきちんと理解できない時代遅れな音楽だった。実際、俺の住む地域で訓練を受けたミュージシャンとなると、俺もウェイン・ショーターと、ラリー・ヤング・ジュニアのふたりしか知らなかった。

(略)

[ウェイン]の名が売れてきたと評判になりはじめた頃ですら、その奇妙さは相変わらずだった。彼が練習する音がよく聞こえてきたが、俺たちには全く理解不能だった。あのホーンも、俺たちには破裂音にしか聞こえなかった。

(略)

ヴォーカル・グループの大半は、鳥、車、煙草から名前を取っていた。俺は煙草の銘柄を選んだが、喫煙者ではなかった。というのも八歳の頃、煙草を吸っているのを父親に見つかり、キャメルを一箱吸わされて以来、煙草が苦手になったのだ。(略)

それでも、危険かつ大人の香りがする煙草は、シンボルとして格好が良いと思った。パーラメントは人気ブランドだったため、俺たちはザ・パーラメンツとなった。

(略)

俺はスモーキー・ロビンソンのスタイルに、プーキー・ハドソンの趣を混ぜてみた。セカンド・リードだったファジーハスキンズは、ウィルソン・ピケットのように荒々しく、ブルージーな抑揚をつけて歌うソウルフルなテナー。カルヴィン・サイモンはデヴィッド・ラフィンのようで、グレイディ・トーマスは低中音を担当した。そして、最も低い声を持つレイ・デイヴィスは、ベース・バリトンだった。

(略)

五十年代後半、俺はコルピックスのソングライターとしてニューヨークに出入りするようにはなった。

(略)

 俺は自分の書いている曲に注意を払っていたが、他の人々が書く曲にも気を配っていた。また、メロディーや歌詞だけでなく、曲の売り込み方法にも興味をそそられていた。

(略)

 フィル・スペクターを例に挙げてみよう。彼は、ビルボードやキャッシュボックスといった音楽誌で、全面広告枠を購入するという手法を取った。一ページあたり二千ドルはしただろう。当時としては大金だ。(略)

俺を仰天させたのは、買い取ったページの使い方だった。彼はページの真ん中に小さな点を置いただけで、あとは空白のまま残したのだ。第一週目は、小さな点と、下部に自身のフィレス・レコードのロゴを配しただけだった。翌週には、点が大きくなり、その翌週には、さらに点が大きくなった。まるで世界で最も遅いアニメのように、同じ時間、同じ場所に登場した点は、最終的にはフィルがリリースする新しいレコードの絵柄となった。この手法を使うには、先見の明と資金力、そして大きな自信と創造力、さらには度胸が必要だ。俺にとって、マーケティング・コンセプトは、音楽そのものと肩を並べるほどに重要だった。

(略)

音楽に対する人々の反応を理解するという点に限れば、もうひとつ俺に大きな影響を与えたのが、音楽とダンスとしてのマンボだった。五十年代、マンボは俺たちのディスコのようなものだった。誰もがお洒落をし、スーツを着て、マンボ・シーンへと繰り出した。現在、テレビで流行っているダンス・コンテストのように、一般人がダンスフロアで実力を発揮すると、一躍有名人になった。マンボは、世界の共通言語だった。マンボは、ギャングの喧嘩すら止めた。踊りの上手い美女は、ギャングの境界を越えて、ダンス・パートナーを見つけることができた。

(略)

実のところ、未だ叶えられていない俺の野望のひとつは、ラテン音楽の巨匠、ティト・プエンテの名曲〈Coco Seco〉をレコーディングすることである。(略)原曲を忠実にカバーし、大声で歌い上げるつもりだ。

 街を観察し、あらゆる音楽を聴き、ブリル・ビルディングに通う。これが、俺にとっての大学教育だった。六十年代前半のある時期、陸軍から戻り、ヒット曲を探していたエルヴィスが、新曲を選びにやってくるという噂が流れた。(略)

[落ちぶれていたオーティス・ブラックウェルが一番手で〈Return to Sender〉をプレゼンすると]他のソングライティング・チームは全て、各々のファイルを閉じて帰宅した。

 他の人々が皆、作った曲を引っ込めざるをえない曲を作る。俺はこの考えを気に入った。また、俺はデトロイトにあるモータウンの動向にも大いに注目していた。こうして俺は、頭の中でシンガーからソングライターへと転向した。五十年代後半から六十年代前半まで、他人に曲を書いたり、自分のシングルをリリースしようと奮闘したり、曲作りの技術を学んだりと、俺はできる限りのことをやっていた。

(略)

もう少しというところでいつも、俺たちは成功を逃していた。六十年代前半に大ヒットを出していたら、どうなっていただろう?俺は時々考える。

フラフープ工場、バーバーショップ

情熱で金は稼げなかった。とりわけ、俺は養う家族のいた身だ。(略)自分は今、成功と失敗の分かれ道にいる。そう感じていたものの、無一文も同然だった。靴に穴が開いているどころか、靴の穴に穴が開いているぐらいの困窮ぶりだった。そんな時、フラフープ工場が街にやってきた。一九五九年のある日、リチャード・ナーとアーサー・メリンというカリフォルニア出身の男ふたりは、あるアイデアを思いついた(正確には、ふたりだけではないのだが)。彼らはワムオー社の創立者で、四十年代後半に設立された同社は、トリネコの木からスリングショット(パチンコ)を作っていた。社名は、パチンコ玉がターゲットに命中する音に由来している。約十年後、スリングショットでは立ち行かなくなり、同社は新製品を探しはじめた。

ある夜、ディナー・パーティで、オーストラリア出身の男が(略)オーストラリアの遊びの話をした。子どもたちが竹製の輪を腰でグルグル回して運動するというものだ。ワムオー社のふたりは、これならアメリカの子どもたちにも流行るかもしれないと(略)明るい色で彩られた大きなフラフープの製造方法をすぐさま開発した。

(略)

爆発的な人気を博した。四百万ものフラフープが、四カ月で売れた。(略)

こうして一九五九年、ほぼ一夜にして、ニュージャージー州の俺の自宅近くに工場が建てられた。これより少し前、俺はアウトローズというギャングにいた――ここでいう「ギャング」とは、一緒につるむ男の集まりを意味するにすぎない――そして俺たちは皆、フラフープ工場へ行って仕事を得た。(略)

幸運にも、アウトローズはフラフープを手早く製造する方法を発見した。六歳から八歳ぐらいの子どもたちなら、フラフープの製造工程を楽しむだろうと読み、彼らを取り込んだのだ。フラフープは、長いプラスチックの一片から作り出された。プラスチックの両端を持ち、それを真ん中で合わせたら、フラフープの出来上がり!子どもたちはフラフープ作りを大いに楽しんだため、アウトローズはタイムカードを押したら、仕事は子どもたちに任せ、後で戻ってくるだけだった。あまりにも多くの子どもたちが工場で作業したため、製造過剰になり、俺たちは製造ペースに対応するため、二番目の倉庫を借りる必要に駆られたほどだ。その時、組合が俺たちのやっていることを嗅ぎつけ、俺たちの「子ども十字軍」を閉鎖しにやってきた。しかし、俺たちは組合も追い出した。規制など御免だった。年かさの組合員が数人、フラフープをホチキスで留める作業のために残ったが、これは子どもには危険な作業だと判断してのことで、それ以外は、アウトローズの子どもフラフープ工場は魔法のように功を奏した。

(略)

じきにワムオー社は、ドイツのフランクフルトに工場を移転し、俺はまた職にあぶれた。

(略)

バーバーショップでの仕事だ。(略)床を掃き、店主のために店の戸締りをし、ちょっとした商売を学ぶといった地味なものだ。(略)

俺はいくつかのヘアスタイルを得意としていた。そのうちのひとつがクオ・ヴァディス――サイドは短く刈り込み、トップを高くする、きりっと引き締まった髪型だ。

(略)

バーバーショップで働きはじめてまもなく、ミスター・ホワイトが死んだ。俺は一番多くの顧客を抱えていたため、店を引き継いだ。他の床屋は椅子を使う場所代を俺に支払い、彼らが一ドル稼ぐたびに、俺はその中から二十五セントを徴収した。俺は店をシルク・パレスと改名すると、カーテンを使って優雅な雰囲気を添え、洗練された店にした。バーバーショップは繁盛し、椅子は常に埋まり、棚には商品が取り揃えられた。

(略)

当時、ブラック・ヘアの中ではストレートが流行していたため、俺たちはストレート・パーマを多く手がけていた。 シンガーからピンプ、牧師に至るまで、ストレート・パーマをかけたがった。

ドラッグ、偽札120万ドル

 五十年代半ば、ドラッグはそこまで流行っていなかった。もちろん、マリファナは常に人気だったが、五十年代が終わる頃、大きな変化が起こった。ドラッグの種類が変わったのだ。 変化は、ギャングの没落後に起こった。これに伴い、路上での凶悪犯罪が急増した――殴り合いだけではない。特に仲の良かった俺の友人は、ショットガンで殺されてしまった。ギャング時代が終わる頃、ヘロインが登場した。ヘロインは、瞬く間に流行した。俺の妻の兄弟ふたりはヘヴィーウェイト級ボクサーで、どちらもヘロインで刑務所に送られた。ヘロインは、とりわけ若年層に蔓延した。ダイナーや校庭、映画館に入れば、 ヘロインをやっている者たちを目にした。地元の陸上チームは、世界屈指の速さを誇ったが、酷い有様だった。リレー選手のうち二、三人がヘロインをやっており、競技前の準備中に、ひざまずいてハイになっていたのだ。誰かが大きな声をかけなけれいば、立ち上がらないほどだった。七十代の老人も、ティーンエイジャーも、ヘロインをやっていた。

(略)

信じられないほどの蔓延ぶりだった。俺たちは、「昨日は誰が死んだ?」と訊いて、人々を苛立たせていた。この問いが、朝の挨拶だったのだ。

 ヘロインをやっていない人々ですら、いかにもヘロインをやっているといった表情を練習していた。(略)

ハイに振る舞うことが、粋だとされていたため、ヘロインをやっていようがいまいが、誰もがヘロインのやり方を知っていた。ヘロイン中毒者は、寝ている時でも、起きている振りをする。皆がそれを真似していた。

(略)

 ある日、俺が客の髪を仕上げていると、ジャージー・シティから来た痩せっぽちのホワイト・キッズふたりが店に入ってきた。(略)

ふたりは、怯えた調子で少し世間話をすると、カウンターに箱を置き、中身を見せた。道理で怯えていたわけだ。箱の中には、二十ドルの偽札が、百二十万ドルほど入っていた。(略)

俺たちは彼らの話を聞くと、偽札全てを二千ドルで買い取った。(略)

 紙幣は明るい緑のインクで印刷されたピン札だった。使い古した風情を出そうと、俺たちは札束をコーヒーに浸した。その後は、札束を平らにならし、バーバーショップの裏の壁に貼りつけた。(略)

実際に、この偽札は流通した。俺たちは地元で、そして旅先で偽札を使った。俺は、三千ドルもする新しい椅子を床屋に備えつけた。ニューヨークのレコーディング・スタジオ代も、この札で賄った。ミュージシャンには偽札だと告げながら、二百ドルの代わりに千ドルを支払った。彼らは気にも留めない様子だった。連邦政府紙幣に対する信頼は絶大なのだ。たとえそれが本物でなくても。

 この頃、街ではドラッグがらみの大量逮捕が行われていた。(略)

[サム]は、店に入り浸っては、皆と楽しくやっていた常連だった。(略)

ある朝、五時半頃だろうか、俺たちは店内で、偽札をコーヒーに浸し、くしゃくしゃに丸め、平らにして干すという一連の作業をしていた。するとそこに、州警察の制服を着たサムが現れた。(略)彼は、覆面警官として任務を行っていたのだ。彼はその日、店に留まると、三十人ほどをドラッグ使用のかどで逮捕した。(略)

彼は俺たちには甘かった。というのも、俺たちが近所の子どもたちにしていたことを認めていたからだ。俺たちは、子どもたちの好きなように音楽を聴かせ、彼らに安全な場所を提供していた。サムは床屋全員を見回したが、壁に貼りつけてある偽札を見上げることはなかった。しかし、見上げまいとするその姿勢は逆に、どの眼差しよりも緊張感に溢れていた。「賢者へ一言」と彼は言った。「この界隈で、怪しい金が出回っていると聞いた。俺がその金について何か知っている人物だったとしたら、その金を処分するだろうな」。そして彼は、帽子を取って挨拶し、出て行った。その瞬間、俺は関係者に電話をかけ、金を処分しろと命じた。「こっちには持ってくるなよ。もう要らないからな」。残金はたくさんあった。二十万ドルぐらいだろうか。俺たちは、いわゆる再販経路を通じて、その金を処分した。

 それから二、三年経った頃だろうか。新聞を読んでいると、通貨偽造の罪で刑務所に入っていた老人の記事を見つけた。その老人は、孫たちがジャージー・シティで印刷版と大量の偽札を見つけ、それを持ち去ったと話していた。

スモーキー・ロビンソンの凄さ

 五十年代が終わる頃、ドゥワップを愛する者たちは皆、ドゥワップの衰退を察知していた。ドゥワップが消えていく様を見るのは悲しかったが、同時に楽しみな気分にもなっていた。俺たちは、次なる大ブームを待ち構えていたのだ。

(略)

 モータウンは、他のレーベルとは全く違っていた。社長は、ベリー・ゴーディ

(略)

モータウンの出す曲全てに俺は魅了された。しかし、レーベルをさらなる高みへと引き上げたのは、スモーキー・ロビンソンだ。(略)

 スモーキーに対して俺が抱いていた感情は、愛を超えたものだった。俺は、彼を研究対象としたのだ。彼は化け物のようなソングライター、当代随一のソングライターだった。彼は、フックや言葉遊びを山と用意していたが、どういうわけか一曲の中で全ての帳尻を合わせることができた。彼は、途轍もないシンガーでもあった。そして、途轍もないグループを持っていた。モータウン初期、ミラクルズは誰をも魅了した。

(略)

俺を虜にしたのは、多彩なアーティストとの仕事ぶりである。彼は、しかるべき曲を提供し、特定の方向へとイメージ作りをすることで、すでに地位を確立したグループをさらにレヴェルアップすることができた。スモーキーは、変幻自在の男、魔術師だった。彼は、他のアーティストが必要とするものを見極め、それを与え、後ろに控えると、自身のヴィジョンが実現する様を眺めていたのだ。

(略)

スモーキーがテンプスを手がけると、グループは一段レヴェルアップした。スモーキーが彼らに〈My Girl〉を提供すると、たちまちテンプスは首位を独走した。(略)

次にスモーキーはマーヴィン・ゲイと組むと、マーヴィンでも同じことをやってのけた。スモーキーには、並外れた能力が備わっていた。他人の芸術性を見定めると、そこを集中して強化し、アーティストが独力では発揮しきれていなかった芸術性を開花させるという能力だ。これは、俺が学んだ教訓の中でも特に大切なことだっった。また、もうひとつ重要な教訓となったのは、曲を書いている時、ひとつの感情だけに囚われてはいけない、というものだ。彼女に別れを告げられて傷ついた、この世界に失望しているなど、自分の感情を告白することだけを目的としてはいけない。(略)

自分の中にある感情の全てを表現したら、様々な文脈でこうした感情を正確に表現できるシンガーやミュージシャンを複数見つける。どんな時でも、思考や感情はいくらでも浮かんでくる。こうした思考や感情の全てを世に出すことが、ソングライティングの目的だ。スモーキー・ロビンソンは、それを俺に教えてくれた。

デトロイトのピンプ文化

デトロイトを理解できるようになると、俺はデトロイトに対し、ニュージャージーに次ぐ第二の故郷のような思いを抱きはじめた。だからといって、カルチャー・ショックがなかったわけではない。かなり大きなショックもあった。俺は中西部で、ピンプ文化に遭遇するようにでなった。東海岸でもピンプの姿は目にしていたが、ニュージャージーでは暗黙の存在だった。ピンプは、独自の流儀、さらにはある種の威厳を持ち、独自の生き方をしていた――ずっと後のことになるが、俺たちはサー・ノウズというキャラクターを創った時初めて、ニューヨーカーのピンプ文化に対する考えを知った。しかし、デトロイトのピンプ文化は生々しいものだった。少女たちは十二歳でピンプを選ぶか、もしくはピンプに選ばれた。逃れるチャンスがほとんどないようなファーム・システムがあり、売春は大々的で、えげつなかった。モータウンと自動車メーカーを擁していたデトロイト。野暮と洗練が奇妙に混在していたため、そのスタイルは半歩遅れていた。デトロイトでは、皆が髪をプロセスし、ストレートにしていたが、しっかりとセットされてはいなかった。ヘイスティングス・ストリートを流すピンプが乗っていたのは、デュース・アンド・ア・クオーター (225)――これは、ビューイック・エレクトラ・225のことで、この名前は、車全体の長さが二百二十五インチ(約五・七メートル)だったことに由来している。デトロイトでは最高級とされていた車だが、キャデラック・エルドラドが最低条件とされていたニューヨークなら、一笑に付されていただろう。そして、服装も野暮だった。デトロイトのピンプは、既製のスーツを着ていたが、ニューヨークでは、ピンプ稼業に手を染めるなら、既製のスーツなど買ってはいられない。東海岸では、小学校の頃から服をオーダーメイドし、そのお下がりを年少者にあげていたのだ。しかし、デトロイトは既製服。モータウンのアーティストですら、既製服を買っていた。

 それでも、モータウンのグループが野暮だったというわけではない。一番ルックスが良く、お洒落だったのはフォー・トップ スだ。彼らは、既製服を着るというデトロイトのライフスタイルの中で、異彩を放っていた。デトロイト以外の土地に幾度となく行っていたためだ。

(略)

[63年にデトロイトに]帰ってきた時には、すっかり洗練されていた。(略)終演後も綺麗な別のスーツに着替えない限り、会場を出ようとしないタイプの男たちだった。ドアの外で、女性が六人待っていようが、彼らは気にしなかった。(略)

ダイナ・ワシントンとラスヴェガス・ツアーを行い、そのスタイルでリスペクトされた。

サム・クック

 当時の音楽シーンは、モータウンの独壇場だった。俺は、モータウンに畏怖の念を抱いていたのが、モータウンとは並走していた――つまり、同じトラックでは走っていなかった。そして年を追うごとに、俺たちとの違い、そして距離はより明確になっていった。また、俺には別の生活もあった。地元ニュージャージーの シルク・パレスだ。店の経営は順調で、繁盛していた。アーニー、ウルフギャング、グライムズをはじめとする床屋たちは、俺がいない間、店を守っていた。

(略)

[店にあった]ジュークボックスのおかげで、俺たちはあらゆる地域のR&Bシーン、ソウル・シーンを聴くことができた。(略)フィリー・サウンドもあれば、シカゴにはオリオールズ、デルズ、デュケイズがいた。注意深く耳を傾け、ラベルに載っているライターやプロデューサーのクレジットを読んでいれば、セントルイス出身のグループと、クリーヴランド出身のグループの区別をつけられるようになった。

 移動中でも、俺は音楽にどっぷり浸かっていた。(略)俺は毎日バスで仕事に通っていた。バスにラジオがついていることもあったが、ラジオがない時でも、バスが街を走っていれば、家や店の軒街先から大音量でラジオが聞こえてきた。毎日、俺はアーバン・ネットワークを聴いていたというわけだ。

(略)

あらゆる種類の音楽が、俺たちに流れてきた。(略)もちろん、俺たちの嗜好はソウルに根差していたが、ソウルとは一度に多くのことを意味した。俺たちは、当時王位に君臨していたバート・バカラックについても熟知していた。彼が、同じ地元出身のディオンヌ・ワーウィックと仕事していたからだ。顔見知りがたちまちビッグになる姿を見るのは、心温まるものだった。俺たちはまた、カーティス・メイフィールドについても熟知していた。彼はまるで、ひとりモータウンといった趣だった――インプレッションズで見事なゴスペル・サウンドを作り、自身のソングライティングに対しても、極めて強い意識を持っていた。

(略)

 しかし、少なくともしばらくの間、最大のスターだったのは、サム・クックだ。彼は俺のバーバーショップに一、二回来たことがある。実物の彼はクールなピンプ風情で、とにかく洗練されており、静かな自信を湛えていた。もちろん、彼は二枚目だったため、女性からも大いにモテていたし、自分のやることについて、全てを掌握しているようだった。俺は彼のビジネスセンスに敬服していた。サムはあらゆる意味で、先駆者だった。クロスオーヴァー・ヒットを出し、ソングライティングを自ら仕切り、SARという自身のレーベルを興してヴァレンティノズやシムズ・ツインズといったグループを売り込んでいた。(略)

[彼の死について]今でも腑に落ちない。あの頃のサムは、アーティストとして、ビジネスマンとして、大きなことを成し遂げようとする一歩手前だった。 もしかすると、それを阻みたい人々がいたのかもしれない。俺が確実に知っているのは、バーバーショップにいた俺たちが受けた衝撃の大きさだ。あらゆる場所にいた音楽ファンが、大きな衝撃を受けていただろう。俺たちは一日中、呆然としていた。その一年前に起こったジョン ・F・ケネディの暗殺と似ていた。

ディラン、ビートルズストーンズ、ジミー・ミラー

 世界が変わっていた。(略)新世代の白人ロックンローラーが台頭しはじめていた。ヒルビリー・ミュージックをロカビリーへ更新していた五十年代的な意味では、彼らはロックンローラーではなかった。六十年代のロックンローラーは、フォーク、ブリティッシュ・ブルース・ロック、クラシックの素養を持ったミュージシャンなど、多方向からやってきたのだ。ボブ・ディランを例に挙げてみよう。最初は彼の歌声を好きになれなかった。しかし、彼がキャラクターを作り上げており、自由に何かをしようとしていることは、即座にわかったため、その意味では彼の声を気に入った。A地点からスタートしても、B地点以外の場所に行けるというのは、若いアーティストにとって開放的な考えだった。

(略)

[ビートルズ]はチャック・ベリーサウンドをよりメインストリーム向けにしており、ある意味ではビーチ・ボーイズのようだった。しかし彼らは、疑う余地のないソングライティングのスキルを持っていた。ビートルズで俺が最も気に入ったのは、そのファッションでも絶叫するファンでもなく、彼らがアメリカのリズム・アンド・ブルースに大きな敬意を持っていたという事実だ。俺は、この部分で大半のイギリスのグループを正当だと判断した。

(略)

もうひとつの人気バンドは、いうまでもなくローリング・ストーンズだ。彼らはアメリカのブルースを深く愛していたが、俺には当初、それがわからず、痩せこけたイギリスの若者が、ジェィムズ・ブラウンの物真似をしているようにしか見えなかった。しかしもちろん、その印象は後に覆され、俺は意見を変えた。海の向こうからやってきたイギリスのグループが、ブラック・アメリカンの音楽を心から愛し、畏敬の念と不遜さを持ってブラック・アメリカンの音楽を扱う過程で、新しい音楽を作り出している。俺はほどなくしてそれに気づいた。それから数年後、ラジオでエリック・クラプトンロバート・ジョンソンについて話しているのを聞き、俺は恥ずかしくなった。〈Crossroads Blues〉や〈Sweet Home Chicago〉など、彼の楽曲の大半を知っていたが、彼の生涯はおろか、名前すら知らなかったのだ。アメリカにいる黒人男が、何千マイルも離れたところにいる白人男からブルース・ミュージックを学ぶなんて、ありえないだろう?しかし、当時はそんな状況だった。俺たちは、建設的にお互いの音楽を吸収していた――彼らが俺たちの音楽を取り込み、それをリメイクし、俺たちに返す。そして俺たちも、彼らの音楽を取り込み、それをリメイクし、彼らに返していた。ブリティッシュ・ロックの初期段階に深く関わっていた人物のひとりが、この原則の生きた手本だ。彼の名前はジミー・ミラー。ブルックリン出身で、俺がニューヨークで曲を書きはじめた当初、短期間ではあったが彼がライティング・パートナーだった。ジミーと俺は、一九五九年にふたりでレコードをプロデュースしたが、(略)[レーベルは、俺たちをクレジットに入れなかった]傷ついたジミーはロンドンへと渡ると、〈Gimme Some Lovin'〉や〈I'm a Man〉など、スペンサー・ディヴィスのごく初期のレコードに携わった。彼はスティーヴ・ウィンウッドとともにトラフィックへと移り、最初の二枚のアルバムをプロデュースした。俺は彼のキャリアを追い、六十年代後半、彼がローリング・ストーンズとも仕事をしていることを知って驚いた。

(略)

〈Honkey Tonk Women〉の冒頭でカウベルを鳴らしているのも彼だ。ジミーがストーンズと仕事をしていることを知り、俺は嬉しく思ったが、ストーンズに対する俺の印象も変わった。これで間違いなく、ストーンズが自分たちの音楽をアメリカのサウンドに根差そうとしていたことがわかったのだ。

ファンクの初期型、〈Testify〉のヒット

俺たちは、メロディーに厳しく、一糸乱れぬフックを持ったモータウンの伝統を受け継いでいたが、こうした音楽がロックン・ロールと交わると、そのフィーリングを延々と長引かせることが可能であることに気づい"た。(略)

これがファンクの初期型だった。そして俺にとって、レイ・チャールズは最もファンキーな人物のひとりだった。というのも、彼はどんな曲をどれだけ長く演奏しても、パワーを落とすことなく曲を魅力的に仕上げたからだ。翌日、俺はコーラスに合わせて歌詞を書いた。「友人、詮索好きな友人たちは/俺に何が起こったのかと問いただす/変化、変化が起こっているのさ/それは明らかなこと」。(略)

ヴァースの作り方に関して、俺に大きな影響を与えたのはフォー・トップスだ。〈Standing in the Shadows〉や〈Reach Out〉といった曲は、ボブ・ディランのソウル的模倣といった類のものだった――やや一本調子にヴォーカルを引き延ばすヴァースから、大きなコーラスで盛り上がりを見せるのだ。

(略)

[〈Testify〉がヒット]

 突如として、全てが一変した。(略)俺たちはもはや、成功を目指して足掻くヴェテラン・ドゥワップ・バンドではなかった。アメリカ最新のヒットメーカーとなったのだ。あっという間に曲がヒットしたため、俺たちはその事実を理解し、消化する時間すらなかった。

次回に続く。