ザ・キンクス ひねくれ者たちの肖像 その3

前回の続き。

アンディ・パイル加入

[脱退したジョン・ダルトンに代わり、アンディ・パイルが加入]

パイルを強力に支持したのはジョン・ゴズリングだったようだが、このふたりはルートンの別々のグループで演奏していた時期があり、ゴズリングはそのときからパイルの評判に注目していたのだった。(略)

永遠に続くかと思われるアリスタからのデビュー作のセッションに力を貸しているあいだ、パイルは録音スタジオでの様子が奇妙なことに何度か気づいていた。(略)

「当時は、ぼくらがスタジオにいるときはいつも、デイヴとミックとバプティストが一日中下を向いたままでいるのがなぜだかわからなかった。誰もなにもしゃべらなかった。わからないのは、スタジオでの演奏が終わって、デイヴとミックとバプティストとぼくでよくパブへ行ったんだが、そのときはビールを飲んで、楽しく笑って過ごせるんだ。そして次の日スタジオに戻ると、また一言もなし!で、ぼくは言ったよ、『おい、どうしたんだよ……』って。ぼくはすごく張り切ってたし、キンクスと仕事ができるなんてすばらしいことだと思った。前からキンクスが好きだったし。でもミックとバプティストはずっと言ってた。『そのときになれば、きみにもわかるよ』ってね」

(略)

[《スリープウォーカー》がヒット、米ツアーが開始され、パイルは忠告の意味を理解した]

「シカゴでのことだった。そのときすべてがわかったんだ。バンドの一員としての洗礼。レイからの辛辣な攻撃を受けたんだ。(略)

『きさま、いったい自分をなにさまだと思ってるんだ?』みたいなね。まったく青天の霹靂とはあのことさ。ほんの1時間前には「もう1杯どうだ、アンディ」って言ってたのに。シカゴの楽屋で延々と攻撃が続いたのと、はじめはジョークを言ってるんだと思ったのを覚えてるよ。彼が航空会社のパイロットとか、そういう人にこれをやってるのは見たことがあった。でもぼくがあんなふうに因縁をつけられる理由はまったく思い浮かばなかった。ぼくはなにもしていないんだから、彼が本気になるわけがないじゃないかとね。ぼくはベースを片づけて、ゴンゴンと音を立てて階段を降り、ホテルに向かった。その後2週間、たがいに口をきかなかった。ほかのメンバーたちは言ったさ、「ほらね、言っただろう」って。彼らはみんな経験ずみだったんだ」

(略)

ジョン・ゴズリングはグループを内側から引き裂いた問題についてはあまり語ろうとしない。

「ぼくらは舞台の上で戦っていた。それはキンクスの特徴のひとつだよ。期待されていたと言ってもいい。デイヴとレイは決して目を合わせることはなかった。どっちかの味方になるのは難しかったよ。ミックはいつでも中立。危うい状況で一緒に仕事をするのはいつもたいへんだった」

(略)

パイルは兄弟にいかに振りまわされたかを思い起こす。

「コントロールしてるのは自分だとそれぞれが主張するレイとデイヴと一緒にいるんだ。たとえばデイヴが、『マイクのところに出ていって、一緒にコーラスを歌おう』なんて言うときがある。ぼくがこの仕事をもらえたそもそもの理由のひとつは、歌えるだろうってことだったけど、実は歌えないんだ。デイヴからはよく、レイの知らないところで、『出てきて一緒に〈ローラ〉のコーラスを歌おう』と誘われた。で、思い切ってそうしてみると、次のサウンドチェックでは、二度と出ていけないようにモニターがぼくの前に置かれていた。デイヴがぼくになにか言えば、レイが反対のことを言う。別のときには、レイが好きな曲を弾くようにと言ってくれる。彼はベースプレイヤーとしてぼくを一応尊敬してくれているらしい。でもぼくが弾いていると、デイヴが近寄ってきて、向こうずねを蹴って耳元で叫ぶんだ。『おい、なにをやってるんだ?』Cで弾いていると、『Eフラットをくれよ』と金切り声を出す。こんなことを全部聴衆の前でやるんだ」

 キンクスの個々のメンバーは、デイヴィス兄弟のうんざりするほど無意味なゲームの駒にすぎなかった。(略)

パイルが在籍中もっともよく覚えていることは、信じられないほど多くのつまらない口論とエゴのぶつかりあいにすぎなかった。(略)

「問題の核心は、ものすごく才能のある人間がふたりいるということだ。ライターとしてもミュージシャンとしても、ぼくはふたりを大いに尊敬していた。彼らがおたがいうまくやってくれさえすればよかったんだ。彼らがビートルズストーンズザ・フーの域まで達しなかったのは、あのばかげたゲームのせいだよ。世界は目の前にあったのに、彼らはそれを投げ出してしまった。だからぼくは去った」

 キンクスはデイヴィス兄弟にとって、感情を浄化させる手段であったのかもしれない。レイ・デイヴィスは憎しみと不快感が歌を作るときの大切なインスピレーション源だと認めており、それがなければ、おそらく作曲をやめてしまっただろうと言っている。心理戦争と子供っぽい不機嫌さこそが、レイのロックンロール・ゲームに対する興味とときおり訪れる興奮を保ち続ける唯一の方法なのだろう。

(略)

[パイル談]

「無秩序は続いていたけれど、2万人が声を合わせて歌うのをステージの上で聞くのは確かにすばらしい気分だ。むこうずねに次の一撃を加えられるまでの5分間はいい気分だよ。ドラムは蹴り倒され、みんなが唾を吐きかける。デイヴは歩きまわってバンドの全員に唾を吐きかけた。サンタ・モニカ・シヴィックホールでのことだ。ぼくらが袖に引っ込むと、アンコールの歓声が起こった。バプティストが『あいつとはもう一緒に出ていかない』と言うと、レイは『出ていかないやつがいるなら殴り倒すぞ』って言って、『ボカッ』とやって出ていった。レイは満面に笑みを浮かべてキーボードを弾いた。でもレイは利口だよ……なぜって、しばらくすると、どういうわけか思わされるんだ。『ああ、結局それほど悪くない』ってね。でも実際はひどいよ」

(略)

彼がそれまでに関わってきたほかのどのグループでも、ステージでの演奏が一日のハイライトだった。ところが、パイルは突然、このグループがギグに向けて盛り上がり、その後緊張をほぐしていく代わりに、正反対のことを演じているのに気づいた。ほとんど毎晩、ミックとジョンとアンディは女性シンガーやトランペット吹きたちと連れだってホテルに戻り、そこの専属バンドに混じってバデイ・ホリーやチャック・ベリーのナンバーを演奏した。専属バンドがない場合は町に出て薄暗いクラブに姿を現し、キンクスのカヴァーを喜んで演奏する地元のコンボと共演した。

(略)

「(略)キンクスにとっては、ギグの時間は一日で最低のときだった。(略)

ホテルでのステージが最高のときだ。一度なんか一日に4つもギグをやった。それがぼくらの慰めだったんだ。悲しいことだよ」

(略)

デイヴィス兄弟が離れていさえすれば、キンクス全体にかかるプレッシャーは大幅に軽減した。

(略)

事実、パイルはデイヴとのあいだに、かなりいい仕事関係と交遊関係を築いていた。この弟とは話が弾み、よく真夜中すぎまで起きていたのを彼は覚えている。パイルはそんなときのとりとめのない、きわめて抽象的な話し合いを『19歳のころに戻ったような議論』だったと言っている。

 1977年の冬、キンクスは依然ひとつにまとまってはいたが、人間関係の亀裂はますます明らかになっていた。冷静なミック・エイヴォリーでさえ、すぐにでも辞めそうに見えたが、パイルによれば、それは昨日今日にはじまったことではなかった。

(略)

 レイはグループを破滅から救おうとしてスタジオに入り、新しいアルバムにとりかかった。だが、メンバーはあまりに熱意がなく、レイは新しくミュージシャンを雇うことを考えざるを得なかった。しばらくのあいだ、彼はソロ活動をはじめるぞと言っていたようだが、彼自身も不安定だったので、そんな気まぐれは実現しなかった。

(略)

 キンクスのように名の売れたバンドでプレイし(略)パイルのようにキャリアのあるミュージャンともなれば、荒稼ぎをしただろうとみなされて当然だ。だが、あいにく、パイルはそのかぎりではなかった。1976年から77年にかけてのレイの倹約ぶりは、60年代のストイックな日々を彷彿とさせた。(略)

「いくらもらうかはツアー最終日のレイの気分しだいなんだ。いくらボーナスが得られるかも、彼がどんな気分で目覚めたかにかかっているのさ。だから、その金額なんてツアーによってめちゃくちゃに差があるんだ、笑っちゃうだろ。基本的には、自動車工をしていたころの収入と大差なかった……確かに、ほかのバンドじゃずいぶん稼いだ。たとえば、アルヴィン・リーなんか、キンクスから受け取るギャラの2倍はくれていたし、サヴォイ・ブラウンのときにも2倍の稼ぎはあった、キンクスで演る5、6年も前の話なのに! でも、金のためにやってるわけじゃないから、それはいいとしよう。そのことは問題ではなかったんだ。早い話、あそこでひと財産つくっている最中だったとしても、やっぱり抜けてたと思う……どうだろ、10倍もらって、やっととんとんってところかな。とにかく、ストレスがたまってしかたなかった」

ゴッドファーザー・オブ・パンクス

 新メンバーのロッドフォードとエドワーズは、1978年の5週間にわたるキンクスの春のアメリカツアーに参加してまもなく、グループの気性の激しさをまのあたりにすることになった。テイヴィス兄弟のステージでの攻撃的なふるまいは、ここ数年のあいだにすっかり彼らの売り物になっていた。アメリカの批評家たちのなかには、キンクスを英国パンクの元祖とみなす向きもあり、ステージでの彼らの野卑なののしり合いは、ひとつの呼び物ですらあったのだ。

(略)

 アメリカではキンクスの評判は改善されつつあったが、母国ではまだまだ再評価されるには至っていなかった。(略)

[78年夏、ジャムが〈デヴィッド・ワッツ〉をカヴァーしヒットさせたが]

英国を代表する無冠のロックグループとしてキンクスを評価するものは誰も現れなかった。それどころか、11月のハマスミスオデオンでのステージがニュー・ミュージック・エクスプレス紙に酷評され、「二流のヘヴィメタル・バンド」とこき下ろされたばかりか、そのパフォーマンスは「ロックンロールの滑稽な模倣」とまで言われた。彼らの昔の曲は「犯罪的」ですらあると断じられ、レイの政治色のない、個人の感傷的な思いを歌った〈ミスフィッツ〉などは、「自分本位で、狭量で、まったく時代に逆行している」と一笑に付された。(略)

[だがプリテンダーズが忘れ去られたキンクスの古典〈ストップ・ユア・ソビング〉をヒットさせ]たのを契機に、レイの運命は一転した。ストーンズのように大スターの座に君臨することなく、長年のあいだ、ただ地道にライヴツアーをこなしてきたキンクスの活動が、ここにきて突然認められたのだ。

(略)

ホリデイ・インをわたり歩いたアメリカツアーの成果が、突如として形になって現れた。《ロウ・バジェット》は労することなく、60年代半ば以来はじめて全米チャートの最高位に躍り出たのだ。このアルバムでレイは、現代社会で四苦八苦する平凡な男というお得意の主題に再び立ち返った。国民保険の問題からガソリン不足に至るまで、レイはすべての男たちの日常的な悩みを徹底的に掘り下げた。

クリッシー・ハインドとの熱愛

 プリテンダーズの意表をついたカヴァー・シングル、〈アイ・ゴー・トゥ・スリープ〉がヒットチャートに入ったことで、キンクスの名はいっそう注目されるようになった。すっかり忘れ去られていたレイ・デイヴィスの名曲が、16年を経てついにイギリス大衆に受け入れられたのだ。しかも、もともとキンクスのファンとして有名だったプリテンダーズのクリッシー・ハインドが、マズウェル・ヒルのレイの自宅で同棲しているばかりか、1年にわたってひそかにロマンスを育てていたという記事は、多くの人々を驚かせた。教師をしている妻のイヴォンヌとレイが9月に離婚したとき、不倫相手としてクリッシーの名が挙げられた一件が暴露されると、大衆紙はこぞってこの話題を取り上げた。ふだん無口なクリッシーも、この話になると人が変わったように饒舌になった。「確かに彼に夢中よ……わたしの生活の大切な一部だわ。つまりわたしが言いたいのは、まずバンドがあって、それから、彼との関係というか、どう呼ばれてもいいけど、そういうものがあるの。『ラスト・タンゴ・イン・パリ』って映画見たことある?あの主人公がどんなふうに女と出会って恋をしたか、知ってる?彼らはほとんど話をしなかった。わたしたちもちょうどあんな感じ。ふたりでいるととてもほっとするの。大人たちのいる部屋から逃げ出した子供みたいに.……」

 大っぴらな関係を誇示するかのように、彼らはロサンゼルスでおこなわれたキンクスのコンサートに揃って登場した。そのステージで、ふたりはジャッキー・ウィルソンの〈ハイヤー・アンド・ハイヤー〉を、いかにもショウビジネス風に、相手に捧げるように歌った。

 1981年後半には、レイ・デイヴィスはロック界における自分の立場にますます満足しているかに見えた。ピート・タウンゼントザ・フーの現代における存在価値を問い続け、ミック・ジャガーが体力維持のために、まるで運動選手のように体を鍛える一方で、レイはそうした精神的、肉体的プレッシャーとはまったく無縁に見えた。キンクスアメリカで大成功をおさめたことで、レイはニュー・ウェイヴ側の批判に公然と反駁し、最後の生き残りともいうべき老舗バンドを擁護する力を得ていた。

ストーンズザ・フーのようなグループには、もっと敬意を払うべきだと思う。よれよれの老いぼれロックだなんて片づけちゃいけない。彼らは、60年代からずっと走り続けてきたんだから。外国人には、英国人のある部分がときとしてばかげていると映るものだけど、ぼくらイギリスのロックは依然として世界最高だと評価されている。アメリカやヨーロッパの目は常に新しい動きを求めてイギリスに向けられているんだ。ぼくらはいわば輸出品さ……アメリカへ行って、イギリスの批評家たちがいかに間違っているかよくわかったよ」

(略)

 アメリカツアーが人気を集める一方、キンクスはますます英国というルーツから遠のいていくかに見えた。しかし、1983年夏、英国での運命が劇的な変化を迎える。シャンペンでの乾杯は早くも2月にはじまった。クリッシー・ハインドがレイ・デイヴィスの娘、ナタリーを出産したのだ。これに続いて、ミスター・キンクとミス・プリテンダーがついに結婚するという噂が現実となるかに思われた。ところが、この予測のつかないカップルはさんざんすったもんだしたあげく、滑稽なまでの優柔不断さを露呈してしまう。ロンドン近郊の登記所で予定されていた結婚式がはじまる直前、ふたりの気持ちは一転してしまったのだ。このときの模様をレイはこう振り返る。

「ふたりで話し合った結果、今以上に親密になることはありえないって思ったんだ。だから中止することにしたのさ。ところが、そのあとでもう一度よく話し合って、遅かれ早かれ結婚することにはなるだろうって思い直した。それで登記所に引き返したんだけど、予定時間を過ぎてるからってことで結婚させてもらえなかった。それでぼくらは決めたんだ。一緒に暮らして幸せなら、なにもわざわざ結婚する必要なんかないじゃないかって。だけど、本当にあと一歩のところだったよ」

結成20周年のつまずき

 1984年に結成20周年を迎えたキンクスは、〈カム・ダンシング〉を皮切りにヒット街道に戻ってきてもおかしくなかった[が](略)さまざまな人間関係がこわれ、グループは崩壊寸前となってしまった。

(略)

 デイヴのヘヴィメタル調のくねくねしたギターとレイのメロディックで優雅な作風の衝突は、このころまでには芸術面でのふたりの主導権争いに変わっていた。弟はレイが『リターン・トゥ・ウォータールー』用に作った曲をコンサートで演奏することをかたくなに拒否した。キンクスのメンバーのなかでディヴだけが、『リターン・トゥ・ウォータールー』のセッションに参加していなかった。根っからのロッカーであるデイヴは(略)グループを脱退すると脅したことがこの1年のあいだに一度ならずあった。レイは開き直り、必要なら替わりのギタリストを使ってツアーをするつもりだと主張した。だが結局、その必要はなかった。兄と同様デイヴも、土壇場ではいつも決まって考えを変えたのだ。

(略)

[兄弟は]弁護士を通さなければたがいに話ができないまでになっていた。(略)

 レイ自身の家庭生活もまた不幸な状態にあった。かつてはほほえましいファンとスターの関係だったクリッシー・ハインドとの関係は、公然とした敵対関係にまで悪化していた。レイ・デイヴィスの言葉を翻訳すれば、ふたりのロマンスはおとぎ話からヒッチコックの恐映画に変わってしまった。(略)クリッシーは引っ越してきた日に幽霊を見たと言い張り、レイに幽霊を退治してくれるよう頼んだ。

(略)

レイ・レイとクリッシーの確執の激しさは、幽霊さえも追い出してしまったことだろう。記憶に残るものとしては、激しやすい性格のクリッシーがいさかいのさなかに、レイが〈カム・ダンシング〉の作曲に用いたキーボードを粉々に壊してしまったというのがある。

(略)

騒然としたふたりのパートナーシップは、『リターン・トゥ・ウォータールー』の脚本に没頭しているレイを残して、クリッシーがプリテンダーズとの長期ツアーに出たことで決定的に行き詰まってしまった。本来ならばこの期間にふたりは十分に考える機会を得、たがいの相違点を整理することもできたはずだが、それどころかふたりは大西洋をまたいで電話で争い続けた。(略)

 5月5日、クリッシーはシンプル・マインズのヴォーカリスト、ジム・カーと結婚、それは決定的なとどめの一撃となった。(略)

レイはつむじ風のような激しいロマンスにまごつき、完璧にうちひしがれた。マスコミが結婚報道をしていたにもかかわらず、レイとクリッシーには長い求婚期間があっただけで実は結婚していなかった。クリッシーがカーとあっという間に結婚してしまったという事実はとくに傷つきやすくなっている時期だけに大きな痛手だったが、娘のナタリーに将来会う機会が少なくなることを考えると、痛手はさらに大きくなった。(略)

「ものすごく天気のいい日だったが、突然あらゆるものが白黒になった。ひどい一日だった。なぜって、自分は騙されていたって感じたんだ。はっきりとね。だけど、それ以上のことが起こっている。本当に難しいよ。ぼくにはどこがはじまりでどこが終わりなのか全然わかっていないから、そのことについては話せない。(略)

その上、ぼくの過去にあった別のなにかも同時に最終段階を迎えたんだ。そのことは今後一切話したくない」

(略)

レイ自身の怒りはしだいに消えて、ぼんやりとした苛立ちに変わり、レイに特徴的な意地の悪い考えが頭をもたげてきた。

「なにかやってクリッシーをいらいらさせてやりたいんだけど、彼女にはもう二度と会いたくないからあえてなにかするつもりはないさ」

(略)

 私生活はずたずたになり、弟との関係はいまだに緊迫し続け、グループの将来も不確かな状態で、レイは棚卸しをする決意をした。レイは過去に目を向け、思いもよらない救いの主に助言を求めた。(略)ある日の昼下がり、ラリー・ペイジのオフィスの電話が鳴った。「レイだけど」と電話の主が言う。ペイジは応えた。「レイ、誰?」レイが昔からの仲たがいを終わらせようとしていると知って、ペイジが椅子から転がり落ちたとしても無理はない。サリーのとあるパブで会い、楽しく冗談を言い合ったあと、ペイジは自分に求められているものがなんなのかがわかった。レイは、キンクスの仕事を監督し、彼にじっくり考えるための時間を与えてくれるビジネス・マネジャーを至急必要としていたのだ。当時レイは、「朝起きて、『牛乳屋へのメモすら書けない』と思う日がほとんどだ。なにも書けなかった」と語っていた。レイの牛乳屋のジョークが実は事実そのものであることに、ペイジはほどなく気づいた。次にふたりがレイの家で会う約束をしていた日に(略)レイは電話口でこう頼んだのだ。「牛乳を1本持ってきてくれるかな。牛乳がないんだ」

「レイのやつ、これで20ペンスは節約になるな」ペイジは出かけるときに独りごとを言った。およそ20年たっても、金にうるさいそのポップスターが相変わらずつましくしていることを知ってペイジはうれしくなった。最初の会話は十分に友情のこもったものとなり、ペイジはその直後にキンクスのマネジャーに復帰した。とはいえ、その役割は60年代半ばにペイジが果たしていたものに比べれば、さして重要なものではなかった。

難航した契約、三度目の結婚

 クリッシー・ハインドとの関係が破綻したのに続いて、レイは二度目の妻イヴォンヌから慰謝料450万ドルが未払いだと申し立てられていた。この面倒な問題を片づけようとする一方で、レイは再びステディな関係をもつようになっていた。今度のロマンスは、とりわけ大暴れしたヴァージニアでのコンサートが間接的なきっかけだった。このとき、レイは膝蓋骨を骨折し、靭帯を切った。(略)

長い期間理学療法センターに通院することを余儀なくされ、レイはそこで27歳になるパトリシア・クロスビーに出会った。パトリシアは元アイルランド国立バレエ団のダンサーだった。ふたりの関係は急速に深まり、彼女はレイの考え方に強い影響を与えるようになった。レイは突然バレエに熱中するようになった。モダンバレエの現状に関するドキュメンタリーの制作を計画していることを公表し、将来キンクスのコンサートにダンスを取り入れることを約束し、次のアルバムのジャケットをバレリーナをフィーチャーしたものにしたいとマネジャーに指示しさえした。

(略)

 レイの家庭生活の変化と時を同じくして、キンクスのレーベルも変わった。1985年1月、ラリー・ペイジは業界誌ミュージック・ウィーク誌上でアリスタとの契約が終了することを公表し、興味のある会社からの申し出を求める広告を打った。ペイジが接触したある会社の担当者はぶっきらぼうに、「年寄りとの契約には関心がない」と告げた。新たにヴァージン・レコードが打診してきたが、まるで契約を探している新人のように受付で待たされ続けたことにレイが腹を立ててしまった。

(略)

 EMIインターナショナルが強い関心を示したときはかなり有望に見えたが、提示された曲を一聴すると、その反応はすぐに冷めたものに変わった。CBSも、フォノグラムもノーだった。フォノグラムの担当者にいたっては、「レイと一緒に作詞をする人間を見つけることはできませんか」と挑発的なアドバイスまでした。ペイジによれば、これも、実際にはそれほど大胆な提案というわけではなかった。

「その女性担当者は実に知的で、ばかげた話はしなかった。実際に彼女はレイにそう言い、レイもかなりまじめに受けとめたと思う。もっとも契約はしなかったけどね。そのとき、ぼくらは契約を取ることのたいへんさを知った」

 その後の12か月間、キンクスアメリカとヨーロッパをツアーしてまわったが、依然として契約成立にはほど遠い状態だった。ここ最近の活動は低調であるとはいえ、多くのレコード会社が総じて彼らに無関心であることは少しばかり驚きだった。

[86年1月ようやくMCA/ロンドンと契約、さらにパトリシアと結婚]