ザ・キンクス ひねくれ者たちの肖像 その2

前回の続き。

〈ア・ウェル・リスペクテッド・マン〉

[妊娠中の妻と一流ホテルに滞在した時]

上品な宿泊客たちは、レイ・デイヴィスがキンクスのリード・ヴォーカルだとわかると、しょっちゅう彼をゴルフのラウンドに誘った。60年代のレイの作品のなかでもっとも痛烈な曲のひとつを書くことになったのは、彼がこういった媚びへつらいを嫌っていたからだった。

「60年代は嘘だったんだ、嘘っぱちだった。ぼくは言ったよ、『あんたとゴルフになんか行かないよ。あんたがポップシンガーとプレイしたって自慢するために、あんたのキャディを務めるつもりなんかない』ってね。それで、決めたんだ。これからは歌を使って、もっと発言しようって。ぼくは〈ア・ウェル・リスペクテッド・マン〉を書いた。あれはぼくの書いた曲のなかで、はじめて言葉が先行した曲だった」

 この曲は、野心をもつ中産階級の人々の偽善的行為を見事にパロディにしてみせた。(略)キンクスの仕事仲間のあいだでは、この曲はキンクスのマネジャーで、「気取り屋ボブ」とときどき呼ばれているロバート・ウェイスについての曲だと受け止められている。

〈キザな奴〉Dedicated follower of fashion

〈キザな奴〉はスウィンギング・ロンドンの流行仕掛け人たちに向けられたおかしくも辛辣な攻撃だった。

(略)

「あれはあるパーティで派手な立まわりをやって、そのあとで生まれた曲さ。60年代のあのハレンチな流行仕掛け人たちが、最新ファッションに身を固めて顔を揃えていたパーティだった。こっちはセーターだかシャツだかそんなものをひっかけて出かけていった……とにかく最悪のパーティで、やつらはねちねちとぼくをクサした。だから、ぶん殴ってやったよ、なんとかってファッション・デザイナーを。『上等じゃないか、今すぐやつのことを、あのキザなヤツのことを歌にしてやろう』って思ったんだ」

 この曲は目新しい魅力と、レイのキャンプっぽいなよなよしたヴォーカルがあいまって、〈タイアード・オブ・ウェイティング・フォー・ユー〉以来の大ヒットとなり、レイには「ポップス界のジョージ・フォーンビー」という異名が与えられた。

(略)

レイがこれ見よがしにきらびやかなキャラクターを歌いあげたせいで、一部の人々にはゲイ賛歌と受けとめられた。この解釈にはレイ自身びっくりした。

 「自分の歌がその種の歌になるとはね。ぼくとしては、人がゲイだろうが、そうでなかろうが、不幸だろうが、幸せだろうが、気にしちゃいない。ぼくらのコンサートには誰が来たってかまわないんだ。ぼくらのバンドを好きになるのはこういうタイプの人間じゃなくちゃいけないなんてことはない。動物愛好家だって来てるさ」

デイヴのソロヒット

デイヴは相変わらず、グループーの外向的なメンバーだった。そのころ、デイヴはもじゃもじゃのほおひげを生やし、ふざけた帽子をかぶってロンドンのクラブをうろついており、悪趣味な服装センスは音楽雑誌などで頻繁にこき下ろされた。しかしレイ・デイヴィスによれば、昔はよく派手に雑誌のネタとなった兄弟喧嘩も、そのころには退屈な余興程度になっていたようだ。

(略)

デイヴ・デイヴィスの成長は、誰もが予想しないほど早かった。1967年の夏、突然のソロ・シングル〈道化師の死〉がチャートの3位まで上昇し、キンクスのヒット曲のいくつかを軽々超える売り上げを記録した。この曲はデイヴとレイの共作で、キンクスの次のアルバムに収録する予定だったのだが、グループがデイヴに思い切って自分の名前で発売することを勧めたのだ。レイは、1年ほど前にこの曲を思いついたときの不思議な状況を語った。「ある日デイヴがやって来て、『道化師の死』って言ったんだ。ぼくが、なんていいフレーズなんだ、続きが書けるかいって言ったら、『乾杯しよう……』っていうフレーズをもってきて、そこからふたりで作り上げていった。デイヴが歌うっていうアイディアは、ある晩ダンスホールのライヴで思いついたんだ。デイヴは〈タイアード・オブ・ウェイティング・フォー・ユー〉のB面を歌ってた。するとそばにいた女の子が、デイヴってなんていいシンガーなのって言うんだ。ぼくがそのとおりだよって答えると、彼女、じゃあどうして全部彼に歌わせないのって言ったのさ!」

(略)

若きデイヴはあっというまにソロスターとなり、1964年にキンクスが爆発的な話題となったとき以上に、報道陣の関心を呼ぶことになった。デイヴ自身は自らの成功に驚くほど謙虚で、ソロ活動の可能性をしきりに聞き出したがる報道陣からの大きなプレッシャーの下でも、その謙虚さを貫いた。

(略)

 レイは〈道化師の死〉が、扱いにくい弟のキャリアにとって、新しくエキサイティングな局面をもたらしたと信じて疑わなかった。

「デイヴには責任を感じてるんだ。あいつは神経質だし、責任感がないからね。でもこのレコードで自信がついたはずだ。今なら自分に磨きをかけることができると思う。自分自身でね。だって自分自身には責任があるんだからね。変な仕事はしてほしくないんだ」

 〈道化師の死〉の成功によって、キンクスはチャートで失敗することを恐れずに新しいアイディアを試す機会に恵まれた。さらに重要なのは、〈ウォータールー・サンセット〉に続くべききわめて重要な曲をプロデュースし、作曲し、編曲しなければならないというプレッシャーからレイが解放されたことだ。もはやキンクスをワンマン・バンドと評することもできなくなった。

(略)

 振り返ってみると、[〈ウォータールー~〉と〈道化師の死〉が収録された]《サムシング・エルス》の失敗はどうにも不可解だ。(略)

[レイは]グループの作品を廉価盤アルバムとして非常にタイミング悪く発売するパイ・レコードのやり方に一因があると主張する。

《ザ・ヴィレッジ・グリーン・プリザヴェイション・ソサエティ

奇妙なことに、このアルバムは発売後すぐ回収され、ジャケットを一新し曲の順番や収録曲を一部変更した改訂版が代わって出まわった。〈ミスター・ソングバード〉はシングルカットされた〈デイズ〉とともに削除され、代わりに〈アニマル・ファーム〉と〈ビッグ・スカイ〉、〈友人全員〉、〈蒸気機関車の最後〉、〈川辺にすわって〉が収録された。音楽紙にとってもレコード購買者にとっても、これは思わず首をひねりたくなるような異常事態だった。

(略)

「コンセプト・アルバム」という言葉が流行する前から、レイ・デイヴィスはすでに一定のテーマに沿っていくつかの曲をまとめるという方法を取っていた。このアルバムはディラン・トーマスの『アンダー・ミルクウッド』のデイヴィス版と言えるもので、語り手やさまざまなキャラクターの目を通して見た村の一日を綴っている。

(略)

[レイ・デイヴィス談]

「.……ぼくはこうしたイギリス古来のものがそこに存在することをうれしく思っている。ぼくは今はもうクリケットを観にはいかないが、クリケットが今も存在していることは知っていたいと思う。(略)

村の緑地とはどういうものかを忘れてしまうのは悲しいことだ。つまり、ぼくたちがかつて持っていたものの、単なる写真じゃなく本物を持っていたいんだ。(略)」

(略)

〈写しあった写真〉は日常の出来事からひらめきを得て作り上げた曲だったという。「あるとき、結婚式に出席した。田舎のささやかな結婚式だった…一同は教会から歩いて帰った。新郎は海軍に所属していた……そして裏庭に旗を立て…全員がそこに立って記念写真を撮ったんだ。すると、新婦がカメラを取り出して新郎の写真を撮り、今度は新郎が写真を撮りだした......なんか、妙な感じだったな。そのとき、あの曲のアイディアが浮かんだんだ。早速タイトルの一節がひらめき、ああいう詩になったのさ」

(略)

[最高傑作という評価は得たが]

残念ながら、パイの宣伝部は一風変わったアルバムを力を入れて宣伝するつもりはなかった。キンクスは常にシングル用のグループとみなされており、アルバムは手っ取り早くレコーディングをすませ、さっさと売り出してチャートに乗せ、現金を稼ぐためのものと考えられていた。キンクスがシングル用グループからアルバム・グループへ脱皮する(略)には、新しいポリシーが必要だった。ところがパイは相変わらず、古いキンクスのレコードを適当な価格で再発するキャンペーンを続けており、その結果グループの最新作に対する大衆の興味は著しく減退していった。おそらくは《ザ・ヴィレッジ・グリーン・プリザヴェイション・ソサエティ》の失敗のせいだろう、グループはこのあとすぐにキャバレーまわりの仕事に出た。

(略)

 キンクスを取り巻く状況は悲惨だったが、レイ・デイヴィスは持ち前の野心を失わず、なんとかして運を自分のほうへ引き寄せようと懸命になっていた。彼はいくつかのクラブで《ザ・ヴィレッジ・グリーン・プリザヴェイション・ソサエティ》のキャバレー版を披露するというプロモーション企画をパイにもちかけてみた。これはなかなか独創的な考えだった。だが、残念ながらパイはこの企画に金を出すことを拒否し、代わりにクリスマス用のヒットシングルを書くようレイ・デイヴィスをせっついた。だが、これは実現しなかった。1968年も押し詰まり、唯一の朗報は3年間禁止されていたアメリカツアーが解禁となることだった。アメリカでのキンクスのレコード発売元であるリプリーズ社は「神よ、キンクスを救いたまえ」というスローガンを掲げたキャンペーンを打ち、キンクスの渡米準備を整えてくれた。これまでのレコードからピックアップした18曲を収録したアルバムが制作され、2ドルという破格の値段で通信販売された。この売り込み作戦は見事に功を奏し、何人かの批評家はキンクスの過去の曲を再評価した。レイはアメリカでのカムバックの可能性について改めて明るい表情で語り、1965年の出来事を払拭して、ずっと延び延びになっていたアメリカ進攻を年明けとともに果たす自信をみなぎらせた。

《アーサー、もしくは大英帝国の衰退ならびに滅亡》

秋が近づき、ドラマ『アーサー』の詳細が一般にも伝わるようになっていた。

(略)

主人公はアーサー・モーガンとその妻ローザ。ふたりはロンドン郊外の「シャングリラ」に子供や孫と暮らしている。彼らが家族全員でオーストラリアに移住しようとするところから話ははじまり、英国での最後の日が描かれるのだが、このなかで登場人物は口々に英国の状況を語る。アーサーは、まわりに順応して生きてきたことで、経済的には恵まれた反面、精神的には貧しかった人生を愛憎半ばする思いで振り返る。一般的にはアーサーは、レイがテレビドラマ用にとくに作り出した架空の人物と考えられていたが、実はそうではなかった。彼は、キンクス結成の数年前にオーストラリアに移住していった自分の姉とその夫をモデルに、アーサーとローザを作り上げたのだ。

(略)

「ぼくはアーサーと本当に親しくしていた。あの義理の兄ときたら、まったくの堅物でね。プラスティック工場の溶接工をしている素朴な人だったけれど、大英帝国がくたびれてきたのは実感していたんだ。彼は兄を戦争でなくしていてね。それが犬死にだったということ、そんなことをしたってもう大英帝国には望みなんかないことを彼は知っていた。すごく挫折感が大きくて、あのアルバムはそんな兄のために書いたものでもあるんだ。(略)亡くなる前に言っていたよ。『自分のことを書いてくれたアルバムはとても気に入っている』ってね。家族のみんなは義兄のことを気難しい人間だと思っていたけれど、ただ挫折感に打ちのめされていただけなんだ。たくさんの人が戦争で人生や青春を失ってしまった。新しい世界が約束されていたはずなのに、結局、なにがもらえた? 高速道路とコンクリートだけじゃないか」

 レイは『アーサー』の成功を信じて疑わず、したがって、グラナダ社の予算をオーバーしてしまったために中止と決まったときの動揺は激しかった。訴訟も辞さないとレイは息まいたが、グラナダは放映を拒んだ。こうしてすべての希望と計画が潰えたあとに残ったのは、アルバム《アーサー、もしくは大英帝国の衰退ならびに滅亡》だけで、これは8月にリリースされた。

 アルバムは、雑誌などではまあまあ好意的に受け止められたが、売り上げは不調だった。今から振り返ってみれば、理由は想像に難くない。ちょうど直前にザ・フーの《トミー》がリリースされ、どちらも「ロックオペラ」という売り込みだったというそれだけの理由で、《アーサー》はなんとも都合の悪いことに《トミー》と比較されてしまったのだ。(略)

あとから事情を知った批評家は、キンクスザ・フーも同時期に別個にそれぞれのアルバムに取り組んでいたと納得したのだが、最初のうち、レイはこのザ・フーピート・タウンゼントロックオペラを作るという話を聞き、それに触発されてあの作品を作ったのではないかという疑いまでもたれていた。しかし、《アーサー》が売れなかった理由、それはテーマのつまらなさだった。レイ・デイヴィス以外の誰が、超がつくほどの体制順応主義者を家長に頂いた労働者階級/下層中流階級の家族の野心を歌ったアルバムなんて作るだろう?(略)

構想としてはアンチヒーローをねらったのだろうが、そこにあるのは理由なき反抗ではなく、福祉なき日和見主義だった。(略)

明らかにぴりっとした皮肉に欠けていたために、アルバムとしては労働者階級の宿命論的な諦観を誉めたたえる作品と解釈されてしまった。

(略)

『アーサー』はアメリカでは知られざる傑作としてカルト・ムービー的な地位を得ることができた。

 (略)

「そう、ぼくは確かにああした出来事があった時代の人間じゃない。でも、当時の人を知ってるし、チャーチルが首相だったことも知っている。〈イエス・サー・ノー・サー〉でもやろうとしたことなんだけれど……あの時代は大義こそが大事なものとみんなにわからせて……興味を抱いてもらって、持てるものすべてを差し出してもらおうって感じだった。そういうことが起きていた時代だったと思うんだ。当時の人たちは、あの時代はチャーチルがいたからこそすばらしかった、古き良きチャーチルがああしろこうしろと言ってくれたからいい時代だったと言っていると思うんだ。(略)」

(略)

[《アーサー》も不発に終わり10月からの米ツアーに希望を託すことに]

偶然にも時を同じくして、アンダーグラウンドのロック雑誌でキンクスの人気が再燃した。3年間、アメリカから締め出しを食っていたあいだも、キンクスは完全に忘れられた存在にはなっていなかったことを知って、レイはうれしい驚きを感じていた。「アメリカ人は英国人とまったく同様に、あのアルバムの奥にある感情やアーサーという人間そのものを理解してくれているようだ。アルバムは大いに関心を集めていて、《アーサー》を膨らませたらどうかってすばらしい話が3件も持ち込まれたよ。本当のところ、アメリカではぼくらのレコードなんか誰も知らないと思っていたんだ。でも今やアメリカの聴衆は誰の音楽でもずっとよく理解するようになっている」

アメリカで新境地を開く

 1970年の年初は、キンクスの歴史上、重大な時期だった。それまでの2年間というもの、キンクスの人気は下降線をたどっていた。

(略)

 レイが必要としていたものは、新しい聴衆――売るために作ったシングルだけでなく、自分のコンセプトにしたがって作ったアルバムにも耳を傾け、受け入れてくれる新しい聴衆だった。キンクスにとっては幸運なことに、アメリカではキンクスの人気は依然として高く、誰も彼らを軽く見たりはしなかった。多くのアメリカ人は、キンクスは60年代半ばのブリティッシュ・ビートブームの一員であり、最近になってポスト・ヒッピーのスーパースターの座に復位したバンドだと考えていた。

(略)

いつまでも若々しいトロッグスがライヴで人気を集めて思わぬ利益をあげていたし、もう解散していたゾンビーズが〈ふたりのシーズン〉のヒットで全米1位になっていた。キンクスはまさにアメリカを興奮の渦に巻き込むのに完璧な場所に陣取っていた

(略)

 1970年のキンクスアメリカツアー第一弾が最高潮を迎えようとしていたとき、ミック・エィヴォリーが病に倒れた。そのため残りの日程はキャンセルせざるを得なくなり、そのなかには(略)あの有名なフィルモア・ウェストでの週末も含まれていた。

(略)

今回のアメリカツアーでの苦い経験から、レイは楽器面での増強が必要なことを痛感しており(略)ピート・フレームの助言にしたがって、ロイヤル・アカデミーの学生でクラシック、フォーク、ポップス、ロックにかなり明るいというジョン・ゴズリングと接触することになった。ゴズリング(略)の口から飛び出したのは例の科白、「キンクスだって?……まだ生きてたの?」だった。(略)

ジョンは[オーディションで]後に〈ローラ〉として世に出ることになる曲のコード進行も含め、6曲を吹き込んだ。

(略)

[〈ローラ〉の歌詞の]「コカ・コーラ」という商品名が(略)宣伝行為になるという理由でBBCから放送禁止をくらうのを心配したレイは、ツアー日程の24時間の空きを利用してはるか600マイル離れたロンドンに戻り、問題の箇所を「チェリー・コーラ」に変えた。

(略)

[〈ローラ〉がチャート急上昇]

インタヴューのなかですら、レイはローラが服装倒錯者であることを認めさせようとする手には乗らなかった。

「ローラは実在の人物で、とてもいい友人なんだ。実はダンサーでね。でも、ローラが男か女かは教えないよ。あの曲はジョークだけど、ほんとのことなんだ。友情には男も女も関係ないだろう?だからあの曲を作ったんだ」

 レイはローラのなかに、あの運命論者のアーサーよりもはるかに大衆受けのする性格を見出していた。(略)

ある日気がつけば、自分が音楽雑誌の表紙にでかでかと登場しているではないか。見出しはと見れば、「性転換の記録……今、変態が証言!」この1枚のシングルによって、レイは一夜にしてポップス界のリーダーの座に返り咲き

(略)

[再び映画音楽の依頼が殺到したが]

ヒットを飛ばしているソングライターがほしいだけの商売人が企画した無味乾燥なプロジェクトばかりだった。レイは、およそ現実にはありそうもないペニス移植というテーマを扱ったセクシャル・コメディ『パーシー』の仕事を選んだ。

(略)

 ひとつ実現にこぎつけた企画が、アラン・シャープのテレビ・ドラマ『長距離ピアノ奏者』で、このなかでレイが割りふられた役は、ノンストップのピアノ演奏の記録を破ろうと考える狂信的な興行主に追い立てられて、延々とピアノを引き続ける男だった。(略)

 劇中には、レイの曲が2曲が挿入されていた。結局リリースされなかった〈マラソン〉と〈ガッタ・ビ・フリー〉だ(後者は次のアルバムに、少し形を変えて収録された)。

《ローラ対パワーマン、マネーゴーラウンド組第1回戦》

これは、ポップス産業に対するキンクスの幻滅を年代記風に綴った意欲的な作品で、辛辣な歌詞の大半にはユーモアをまぶしてはあるものの、レイのアルバムのなかでも最高に痛烈なものだった。

(略)

[〈マネーゴーラウンド〉で]レイは、ロックビジネスには必ずつきものの強欲なやり手マネジャーをこき下ろしながら、大胆にも自分の実際のマネジャーだったロバート・ウェイス、グレンヴィル・コリンズ、ラリー・ペイジを名指ししていた。

(略)

[ウェイス談]

「あんな曲、おもしろくもなんともないね。(略)だって、ほとんどが嘘なんだから。実際は、コリンズもぼくもレイの曲からは1セントたりとも利益は得ていないんだ。あのアルバムのせいで、レイとぼくたちの仲がひどく険悪になったのは明らかだ。今でもわだかまりは消えていないね。〈マネーゴーラウンド〉の出だしはおもしろいかもしれないけれど、嘘ばっかりだ。

キンクスはヘヴィメタ!?

 1970年も後半になると、とくにイギリスの古きビート・グループを求めていたアメリカの若者たちのあいだで、デイヴのヘヴィメタル風のリフが、レイの歌詞と同じくらい注目されるようになっていた。こうした上々の手応えに意を強くしたキンクスは、11月に再度アメリカツアーをおこなった。ラヴやエルトン・ジョンをサポートに迎えたフィルモアでの演奏や、特製の記念用銘板をプレゼントされたカーネギー・ホールでの見事な演奏など、今回はとくに印象の深いツアーとなった。

(略)

自分たちがヘヴィメタルもどきのバンドと思われたことに、レイはいささか当感を覚えていた。

(略)

 「キンクスアンダーグラウンドのバンドだと言われると、どうも妙な気分だな。ミュージシャン一座とでも言われたほうがしっくりくるんだけれどね……本当の意味でのアンダーグラウンドというのは、グランド・ファンクのような重サウンドのことだと思うんだ。そして、アンダーグラウンドが表に出てきたのはすごくいいことだったと思う。それによって、今まで隠されていたものが表面化して、結果的に、ふつうだったら名前も知られないような人たちが人気者になったわけだからね。ぼくたちも無視されてきたほうで、だから今ごろ注目されてるのかもな。ぼくらのレコードが発売されても、誰もかけてなんかくれなかったしね。それでぼくらはアンダーグラウンドということになっていたんだろう。キンクスはこれからも変わらないと思うよ」

(略)

アメリカ滞在中、ホテルの廊下には、グループの誰かが出てくるのを待っていつまでもうろうろしている服装倒錯者があとを断たず、キンクスの悩みの種になっていた。(略)

「デイヴがものすごい悲鳴をあげて廊下を逃げていって、そのあとを、サスペンダーをしてカツラをかぶったでっかい黒人が追いかけていったこともあるよ。まったく見るだにぞっとしたね。で、そうした変態ときたら、たいていは自分は『ローラ』だって言い張って、しかも本気でそう思い込んでいるんだ!」

RCAと長期契約

 1971年、キンクスRCAと実に印象的な長期契約を結んだが、コリンズとウェイスというふたりのマネジャーを失った。コリンズはすでにキンクスのマネジャーを辞めて、妻の所有する田舎の土地を管理する仕事に鞍替えしていたため、グループの指揮はすべてウェイスにまかされていた。だが、その忠実なウェイスでさえも、レイの頑固さと気まぐれにはすっかりうんざりしていた。

(略)

「グループとしてのキンクスは、ザ・フーローリング・ストーンズみたいに熱心に仕事をしたことは一度もなかった。骨の折れる仕事、という意味でね。これはレイのせいだったと思う。このころ、彼らはツアーのキャンセルなんて日常茶飯事で、信用できなかった。(略)レイがこんなことを言ったことがある。このグループは、2部に落とされる瀬戸際にいつもいるけど、ラッキーなヒット曲を飛ばしたおかげでどうにかこうにか降格を免れているサッカーチームみたいだってね。彼らはビートルズストーンズみたいにビッグになりたいなんて全然思ってなかった。なろうと思えばなれたはずだけど、彼らは逃げてたんだ」

 ストーンズの元マネジャー、アンドルー・オールダムでさえ、レイの才能はまだ開花していないと感じていた。「どうして誰もレイ・デイヴィスにもっときちんとさせようとしないんだ?そのわけを教えてあげよう。彼のまわりにいるのは9時から5時まで働くことにしか興味のない連中ばかりだし、この業界でなにが起きてるかなんてことに全然関心がない連中ばかりだからなんだ」

(略)

[能力を批判されたコリンズとウェイスだが]

60年代の末までに、この2人組はマリアンヌ・フェイスフルやスモール・フェイセズなど数多くのアーティストを手がけた。そしてウェイスは後にこの経験をうまく生かして、70年代にスティーラーズ・ホイールやセイラーをチャートの上位に押し上げた。最初は力不足だったとしても、ペイジが物議をかもすような辞め方をしたあとの数年間、コリンズとウェイスがキンクスのマネジメントをうまくやってきたということは、彼らが誠実だったということにほかならない。

(略)

ペイジがいなくなって、ストーンズに猛攻撃をかけるという夢は消えてしまった。タルミーが去って、トップ10入り確実と思われるような曲は底をついた。そして、ウェイスを失ったために、ばらばらに散ったかけらを拾い集める人が誰もいなくなった。マネジメントの助言をなくしたキンクスは、アメリカに希望を託し、グループの指揮は気まぐれなレイ・デイヴィスにまかされることになった。それからの数年間、彼らの運命は波乱に満ち、イギリスではほとんど忘れ去られた存在となってしまう。

次回に続く。