誰がメンズファッションをつくったのか?英国男性服飾史

誰がメンズファッションをつくったのか? 英国男性服飾史

誰がメンズファッションをつくったのか? 英国男性服飾史

 

セシル・ジー、ズート・スーツ

 戦前の彼はイースト・エンドに数軒の店を構え(略)「大枚をはたいていることを隠すのではなく見せるのをよしとする(略)サヴィル・ロウなみに排他的な、優秀なテーラーにまつわるイースト・エンド系ユダヤ人の伝統」に属していた。

(略)

 その伝統に従って、彼は一般的なメンズウェア業者に比べると、つねにより色鮮やかで冒険的だった。30年代の初頭にはストライプのシャツやシャツコート、そして襟つきのカラー・シャツを売っていたが、これらはいずれも当時としては驚くべきファッションで

(略)

 日曜日の休業を義務づける条例がこの流れに終止符を打ち、ショッピング・センターとしてのイースト・エンドは息の根を絶たれてしまう。しかしジーはその時すでに、ウエスト・エンドに居を移していた。1936年、チャリング・クロス・ストリートに店を開いた彼は、すぐさまミュージシャン相手の商売を一手に引き受けるようになり、戦争がはじまるころには、ジャック・ハイルトン[英国のジャズ王]の衣裳を手がけていた。

 それでもジーが真の飛躍を見せるのは、戦争が終わってからのことだ。1946年に彼がアメリカン・ルックを導入すると、数週間のうちに、店のあるブロックには何重もの列ができ、その列は次のブロックの途中まで伸びていた。

 アメリカン・ルックはクラーク・ゲイブルやケイリー・グラントが30年代の映画で着ていたような、ワイドショルダーのダブル・ジャケットをベースにしていた。たいていはピンストライプが入り、襟は幅広で、ドレープは大きく、20年後のボニー&クライド人気で注目を浴びる、ギャングのスーツに酷似していた(現に後者のブーム期には、数多くのブティック・オーナーが古着市場で古いセシル・ジーのスーツを買い上げ、クリーニングし、細身に直した上であらためて売り出していた。

(略)

 ジャケットと併せてジーは、アメリカから輸入した長くとがった襟の(“スペアポイント”)シャツや、カウボーイとインディアン、あるいは飛行機の画を手描きしたネクタイ、そしてつばの広いアメリカの帽子を売った。全体的な雰囲気は男っぽく、生意気で、いくぶん不良じみていた。今の目で見るといくぶんヤクザっぽく思えてくるが、当時は単純に派手なだけだった。みすぼらしい復員服のあとで見ると、なんとも贅沢に感じられ、反応は熱狂的だった。「店の客はみんな夢中だった」とジーは語る。「戦争がすべてを変えたんだよ。全員がカーキ地を着せられて、ほとほとうんざりしていた。(略)

招集される前はきっと、ガチガチの保守派だったはずなのに。でももうみんな、歯止めが効かなくなっていた。

(略)

この手のファッションを見苦しいと考える業界誌はほんの申しわけ程度に触れていたものの、全国的なマスコミは、完全に無視してかかっていた。それでもセシル・ジーは彼なりに、まったく新しい存在だった――大衆市場を意識した初のデザイナー。「わたしが登場する以前」と彼は語る。「一般人にはだれも目を向けようとしなかった」

(略)

彼にはひとつ、重要なポイントがある――本質的には既製服の売り手だったことだ。すでに述べた通り、戦前のテーラー・チェーンはオーダーメイド専門だった。それは今も変わらない。英国男性はつねに、独自のスーツを身にまとってきた。だが史上初のポップ・デザイナーたるセシル・ジーはそのルートをパスし、それ以降のカルトな衣服すべてに受け継がれるパターンを築き上げた

(略)

 従来よりも安くて速いこの方式が、20世紀に発達するのは自明の理だった。そしてそれはことファッションに関する限り、メイン・ストリートをもっとも動揺させたポイントのひとつでもあった。遅かれ早かれ、既製服が完全に主流になるのはまちがいない。それは彼らにもわかっていた。だが彼らはその変化に、頑強に抵抗した。昔のままでいるほうが、ずっと簡単だったからだ。

 セシル・ジーのデザイン自体は、アメリカで10年前に流行ったスタイルの焼き直しだったという意味で、とてもオリジナルとはいいがたかった。それでも英国では目新しく、それなりにすばらしいところもあった――力強さとインパクトにあふれ、痛快なまでに悪趣味だったのだ。

 ほかの店もジーの人気にすぐさま目をつけ、彼をコピーしたり、彼の廉価版を出したりしはじめた。チャリング・クロス・ストリートはクリスマスツリーのような店でいっぱいになり、とりわけズート・スーツが流行した。

 ジー自身のスタイルを激しく誇張したのがズート・スーツで、ジャケットはひざ小僧のなかばまで垂れ、肩にはアメフトのプロ選手のようなパッドが入っていた。アメリカではすでにブームになっていたが、それがイギリスに導入されると、しゃれ者たちのユニフォーム代わりになった。

 1950年になると、アメリカのファッションは、総じて不良性をにおわせるようになっていた。ジーのスタイルにはどっちつかずなところがあったけれど、彼の模倣者たちはあからさまで直裁だった。ネクタイにはカウボーイとインディアンの代わりにヌードがあしらわれ、ほかにもシャンペンボトル型のタイピンや、カポネ風のスペクテイターシューズ(略)、そして暗闇のなかで発光する腕時計バンドなどがあった。

 この時点で、セシル・ジーはふんぎりをつけた。道徳的な男だった彼は、顧客のタイプにもうるさかった。「ひと財産築くこともできただろうが、その気にはなれなかった。ソーホーでは殺人が横行し、通りではギャングの抗争があった。だがわたしが相手にしたいのは、そういう手合いじゃなかったんだ。そこでわたしは別の市場に移行した。

(略)

彼の商品はよりまっとうになり、そのぶん面白味はなくなった(略)

 それでも彼は、大々的に成功を収めつづけた。ジャズとダンス・バンド両方のジャンルでミュージシャン相手の商売をつづけ、シャフツベリー・アヴェニューに巨大な支店を開き、郊外にももっと小規模な支店をいくつか構えた。

バニー・ロジャー、エドワーディアン・ルック

[チャリング・クロス・ストリートとの]唯一のちがいは階級だった。サヴィル・ロウの反逆者は、大半がエリート軍人や、名家の次男、三男坊、あるいはいわゆる有閑紳士だったのである。

(略)

サヴィル・ロウは過去、すなわちより優雅でゆとりのあった時代への回帰という形で抗議をおこなったのだ。

(略)

 1948年ごろから、エリート軍人や高貴な出の若者たちが、細身で丈の長いシングルのジャケット、折り返したヴェルヴェットの袖にヴェルヴェットのカラーのオーヴァーコート、カーネーション、パターン入りのヴェスト、そして銀柄の杖といったもろもろを身に着けて、人前に姿を見しはじめた。

 このスタイルはヒットした。(略)細身のラインは同性愛者の世界、さらにはスマートさを志向する中流階級の一部にも広まり、1950年の時点で、エドワーディアン・ルックはロンドンの支配的なファッションとなっていた。

(略)

 こうした新しいエドワード人のなかで、もっともスタイリッシュかつもっとも有名な男が、ドレスメーカーのバニー・ロジャーだった。

(略)

 30年代に入ると、彼はニューポート・ストリートで婦人服をつくるようになる。ビンクのスーツにピンクのシルクシャツをまとい、長く伸ばした髪の毛の両端は、あごの下でくっついていた。

(略)

 彼は戦時をイタリアで、ライフル旅団の一員としてすごし、そこではかなり目立った存在だった。(略)

 軍服もかなり美しかった。一種の暗緑色で、黒のすてきなボタンがついていた。ズボンはむろん、丈をつめる必要があって、わたしはバレーのタイツのように、かなりぴっちりした仕上げにした」

 復員後、婦人帽製造の仕事に復帰したロジャーは、フォートナム&メイソンで働いたのちに、1950年、彼としても最大の成功を収めた。40歳の彼はもう、決して若造ではなかったが、にもかかわらず新しいエドワーディアン・ルックを取り上げ、それを最高に荒唐無稽なファンタジーへと変化させたのだ。

(略)

彼以前、スーツは灰色か黒の2種類しかなかった。しかしそこにバニー・ロジャーが、緑と金色と深紅、そしてピンクと紫で殴りこみをかけたのだ。そして彼はみずからをアクセサリーやパールグレーの安い宝石、つばのカールした山高帽、片眼鏡や時計の鎖やダイアモンドの飾りピン、そして金柄の杖やさまざまな色合いのカーネーションで飾り立てた。

 その効果は衝撃的だが芝居っ気に富み、かすかにミュージック・ホールのにおいがした。

(略)

 エドワーディアン・ルックは次第に同性愛と結びつけられるようになり(略)一般的な中流階級のファッションではなくなってしまう。

(略)

[54年まで生き延びたが、テディ・ボーイに乗っ取られる]

 これ以上の皮肉はないだろう――上流階級が自分たちの身を護るためにスタートさせたエドワード朝風のファッションが、労働者階級の男性ファッションとしては、初の爆発的なブームを迎えるスタイルの基礎をつくり上げたのだ。

テディ・ボーイのインパク

1952年前後にテッズがスタートしたとき、ビジネスはいっさい絡んでいなかった。

(略)

 彼らはちんぴらだった。金と無駄にできる時間はあるのに、なにもすることがない少年たち。退屈し、鬱屈していた彼らは、みずから非行集団を組んだ。

(略)

1958年になると、英国全土にしっかり根を下ろしていた。

 彼らのユニフォームは基本的に、サヴィル・ロウ風エドワーディアン・ルックの簡略形だった。テディ・ボーイという呼称もそこに由来する。だが彼らは同時に丈の長い、ゆったりしたジャケットという、ズート・スーツの要素も採り入れていた。

 ゆったりしたジャケットのほかに、彼らは先細のぴっちりしたジーンズ、明るい黄色のソックス、ボートにも似た大ぶりのラバーソール・シューズ、そして川船の賭博師のようなひもタイを着用した。またアクセサリーと武器を兼用する真鍮の指輪を複数の指にはめ、ジーンズの尻ポケットには、しばしば飛び出しナイフを忍ばせていた。

 彼らは顔つきも共通していた。栄養不良でやつれ、いくぶんネズミっぽく、吹き出ものやにきびが多い。だが彼らがいちばんの誇りにしていたのはもみあげで、耳たぶのずっと下まで伸ばし、前髪は長く伸ばして真ん中に集めたリーゼントに仕上げ、両サイドはたっぷりのヘアオイルでうしろになでつけた上で、下に散らせるのが鉄則だった。

 このヘアスタイルはダックテイルと呼ばれ、ヴァリエーションにはトップをダイアモンド型のクルーカットにし、それ以外は下に垂らすスタイル、あるいは刈りあげた白い首筋の上で、髪を横一直線にカットするボストンなどがあった。

 これだけで終わりではない。ゆったりしたジャケットは黒か栗色、場合によっては淡青色で、派手なヴェストをちらりとのぞかせることもあった。

(略)

 どれを取っても安くはなかった。まっとうなテッズのスーツは裏町の仕立屋の手づくりで、値段は15ポンドから20ポンド。アクセサリーも全部そろえるとその2倍はした。もしトップのテッズになりたければ、ダンスホールに入るとき、少なくとも50ポンドはする服を着ている必要があった。

(略)

 これは決して安易に手を出せるスタイルではなかった。

(略)

[ロックンロールの神々が勢揃いした1955年は]

テッズの黄金時代だった。映画館で暴動騒ぎを起こし(略)新聞の見出しを飾ったり(略)興奮がピークに達した何か月かは、ティーンエイジャーが完全に主導権を握ってしまいそうな勢いだった。

(略)

[だが]メッセージが広まるにつれて、そのスタイルは希釈化され、魂とアイデンティティを失っていった

(略)

新たな改宗者の多くは(略)本格派のユニフォームには手を出さず、単に細身のジーンズとダックテールの髪型を採り入れ、大ざっぱに雰囲気を真似るだけで満足していたのだ。

 ラバーソールは1958年以降、イタリアン・スタイルの、黒い、先細の靴に取って代わられ、これがとりわけ北部では、50年代末から60年代初頭におけるティーンエイジャーの基本的なスタイルとなる。ブルージーンズの裾は巻き上げられ、その下から先端のとがった靴が存在を主張していた。

 同時期、ゆったりとしたテッズのジャケットも姿を消しはじめ、丈の短い、ボックスシルエットのイタリアン・ルックが幅を利かせるようになる。その先はもう、はっきりしていた。1958年になるとテディ・ボーイのスタイルは完全に廃れ、着用するのは、あえて古めかしさを狙う者だけだった。

 オリジナルのテッズは大半が20歳を超え、結婚し、身を固めていた。その一部は革ジャンとバイクに転じ、最初期のロッカーズとなる。スタイルを変えることを拒んだ(略)少数派は頑迷に古いやり方と古いユニフォームにこだわり、永遠に忠誠心を失わなかった。

 太鼓腹になり、スキンヘッドの息子たちがいる今になっても、彼らはまったく変わっておらず、その忠誠心には一点の曇りもない。これは一種のセクトであり、秘密結社だ。(略)毎度、一張羅に身を包んで、パブの奥の部屋に集まっている――ヴェルヴェットのドレープ、スパンコールつきのヴェストに指輪、残された髪の毛にはグリースをたっぷり塗りつけ、三日月刀のようなもみあげを伸ばして。

 そして隅っこに腰を下ろし、エディ・コクランジェイムズ・ディーンやメイミー・ヴァン・ドゥーレンのことを語らい合う――男は男らしく人生をまっとうし、女はみんな豊かな胸をしていた過ぎ去った時代のことを。ほんの15年前の話だというのに

(略)

 だがどれだけアナクロな存在になり果てていようと、テッズがスタート時に与えたインパクトは強力だった。とくに彼らが切り開いたふたつの突破口は、それ以降の男性ファッションに、ずっと影響を与えつづけている。

 最初の突破口は、彼らが衣服をふたたびセクシーにしたことだ。150年におよぶ隠蔽の時代をへて、華麗さと身づくろいをよみがえらせたのはテディ・ボーイだった。彼らのコスチュームが持つバロック的な複雑さ、股と股間部のぴっちり感、そして女性の前で髪をとくといった、モテるための儀式(略)

直接的なセクシーさの誇示である。

(略)

戦争の影響がついに、テッズの登場で明白になった。戦争はひとつの世代が次の世代に引き継ぐ、家族と伝統の感覚を破壊し、子どもたちははじめて、大人と同じ格好をしたいとは思わなくなる。いや、むしろ父親とは正反対の格好をしたいと思うようになったのだ。

(略)

テッズは、ならず者を志向しはじめた。彼らの衣服が主張していたのは、基本的にこの3つだった。オレはちがう。オレはタフだ。オレはファックする。

 伝統の代わりに、テッズは新たな文化をスタートさせた“ポップ” である。

 過去は関係ない――それがポップの本質だった。ポップにおいて重要なのは今という瞬間とすぐ先の未来で、すべてがインスタントになった。ロックンロールのレコードには3か月の寿命しかなく、それが過ぎると捨て去られた。ダンスのブームや言葉もそれに負けず劣らずはかないものとなり、衣服についても同じことがいえた。出来栄えと耐久性という、戦前の基準は無視された。今や、なによりも重要なのはインパクトだった。一瞬で認知される派手やかさと、性的な興奮度である。

 テッズが切り開いたもうひとつの重要な突破口は、労働者階級をファッションの新たな権威に位置づけたことだ。(略)テッズ以前のファッションは上流階級によって生み出され、それが少しずつ下々にも広まっていた。しかしテッズとポップは、その状況を一変させた。

 テッズには、オーソドックスな中流階級の文化には太刀打ちできないガッツと独創性があった。そして彼らはまちがいなく、独創的だった

(略)

 かくして金持ちの階級も、彼らをコピーしはじめた。

(略)

パブリック・スクールの生徒はこっそり『監獄口ック』を観に行って退学になり、ブルージーンズが必須とされ、ブルジョア階級も粗野な口をききはじめた。 

イタリアン・ルック

イタリアン・ルックを発見したのは、セシル・ジーではない。単にはじめてそれをよしとして、プッシュするだけの勇気とエネルギーがあっただけだ。

(略)

丈の短さ以外にも、ジャケットの襟は細く、裾はえぐれていた。シャツの襟は小さく、50年代の末にはボタンダウンになった。ネクタイは細かった。髪の毛は短く、すべてが切りつめられていた――細身のズボン、先のとがった靴、肩のないジャケット。

 ジーの意図はどうあれ、それはどう見てもエレガントではなかった。美しさの点から見るとメイン・ストリートと大差がなく、ねずみ色は依然として健在だった。しかしそれは少なくとも前進だった――目新しく、少しばかり派手で、とりわけロンドンと南部では、50年代末における若者のベーシックなスーツとなった。

 事実、それはテディ・ボーイ・ファッションをも上まわる成功を収めた。労働者階級限定ではなく、不良少年的なイメージとも無縁で、ほとんどまっとうともいえそうなスタイルだったからだ。逆に硬派のテッズからはヤワなファッションと見なされ、完全に無視されていた。

 以前のどんなスタイルにも増して、イタリアン・ルックは階級の垣根を越え、極端なファンだけでなく、労働者階級から中流階級まで、幅広い層の穏当な青少年――仕事に就き、家族とフィアンセがいる若者や、カミソリを持ち歩いたり、女性の前で悪態をつくような真似はしない若者たちにも受け入れられた。

 しかもこのスタイルは息が長かった。丈の短いジャケットと細身のズボンをベースしたスタイルは、以後8年間にわたり、連綿と引き継がれていったのである。まずは元祖のイタリアン・ルック。次いでのちにビートル・スーツとして復活を遂げる、丸首のカルダン・スーツ。最後にカーナビー・ストリート初の定番ファッションとなるモッズ・スーツ。また英国以外の場所では、さらに寿命が長かった。たとえばサハラ以南のアフリカでは、バム・フリーザーと先のとがった靴が今も幅を利かせている。(略)

 英国では、最初の弾みをつけたセシル・ジーを受けて、ジョン・マイケルというチェーン店を所有するジョン・マイケル・イングラムが、このスタイルに改良を加えた。

次回に続く。