アメリカの政党政治 建国から250年の軌跡

 はしがき

日本を含む多くの国では、政党はある程度統率された一個の組織と見られていよう。

(略)

 ところが、アメリカでは大きく様相が異なる。(略)

 第一に、民主党共和党も、それぞれが州を始めとする地域単位の政党組織の連合体であり、単一の組織とは言いがたい。

 第二に、各地の政党組織にしても、連邦議会や州議会の各議院で党所属議員が作る組織にしても、その指導部(執行部)が強制力を伴う指示を出せないことのほうが多い。(略)

 第三に、政党の内外の境目もはっきりしない。そもそも、誰が党の構成員なのかについて明確なルールが存在しないのである。

(略)

それぞれの勢力が自律的に行動するため、党が一丸となって動くことはまずない。二大政党の全面対決のイメージがアメリカに当てはまらないのは、こうした事情による。

 しかし、二大政党はまとまりを欠く一方で政治のすみずみまで浸透している。(略)

州や地方レベルでも二大政党制がほぼ貫徹している。また、アメリカでは行政機関の高官や裁判官の大半が実質的に政党に所属している。他国ではしばしば党派性になじまないとされる政府機関にも政党が入り込んでいるのである。

 さらに今日の二大政党は、選挙への候補者選出や資金の管理の仕方など、もともとは党内で決めていた重要事項が法律で管理されている。

立法過程

 アメリ連邦議会の立法過程には、重要な特徴が二つある。

 第一は、どんな法案でも審議過程で徹底的に修正されることである。日本の国会では、内閣提出法案の約八割が実質的な修正を経ずに成立するといわれるが、連邦議会では委員会でも本会議でも、法案の質を向上させ、また採決時に必要な支持を得られるようにすべく修正が行われる。アメリカで、利益団体などが法案の内容や採否について議員などに働きかけるロビイングが盛んなのは、働きかけが立法に影響を及ぼしうるからである。

 第二の特徴は、議員たちが所属政党から自律的に行動することである。アメリカの議会では、日本の国会における党議拘束のような、党指導部による議員の投票行動の統制が難しい。すでに見たように、議員たちは当選までに政党組織の恩恵をほとんど受けないため、院内の政党指導部が法案などの賛否について働きかけてきても、それに従う必要がない。

 そのため、法案や各種の決議といった議案を通すには、その都度院内で多数派を形成することになる。採決に際して、同じ党の議員で賛否が割れるのはごく当たり前である。二大政党の分極化が進んだ今日でも、各政党の議員たちが一致団結して投票することはほとんどない。 

政党議会内政党の意義

 では、まとまって投票しないのなら議会内の政党組織には何の意味があるのだろうか。(略)

多数党の指導部は院内の審議手続きに大きな影響力を持ち、とくに下院の多数党のトップは下院議長となる。また多数党は、院内の全委員会の委員長職を独占する。委員長は委員会での審議で、どの法案を取り上げるかなど大きな権限を持つ。そのため(略)審議手続きをかなりの程度支配できる。(略)

党所属議員の多くが支持するであろう法案を取り上げ、それ以外の法案を廃案に追い込んで、立法が自党の有利に進むよう計らう。

(略)

党指導部がこうして一定の影響力を発揮できる。また近年では、重要法案を起草するようにもなっている。

実は権力の限られたアメリカ大統領

日本の首相など他国の政策執行責任者と比べると、アメリカの大統領の権力はかなり限定されている。それには、二つの理由がある。

 第一に、大統領は単独で政策を動かすのに使える具体的な権限をほとんど持たない。合衆国憲法は大統領を執行権の担い手に位置づけているが、この執行権が具体的に何を含むのかは明らかでない。大統領は、アメリカ軍の最高司令官であることもあって、外交上は大きな裁量を持つ。ところが内政については、立法への拒否権や、行政官や裁判官の指名・任命権といった重要だが限られた権限しかなく、法案も提出できない。アメリカ大統領の憲法上の権限は、多くの大統領制諸国の大統領よりも弱いといってよい。

 第二に、アメリカの大統領は統治にあたって所属政党の助けをほとんどあてにできない。

(略)

大統領制では大統領と議会が別々に選出される。(略)

大統領は所属政党の一有力者にすぎない。議会内政党を含む党内の諸組織に指示を出す権限はないし、党内の規律が弱いので、働きかけても政治家たちに影響が及びにくい。そのため大統領から見ると、統一政府でも同じ政党の議員が全員支持に回るわけではないし、逆に分割政府だから望む立法ができないとも限らない。

影響力行使のための三つの手段

 大統領は強力な権限を欠くものの、影響力行使のための手段を大きく三つ持つ。

 第一は、政策課題の設定である。(略)

演説などを通じ(略)重要な政治課題と政策案を提示し、自分の重視する政策を議会に優先的に検討させられる。

 第二は、議会への直接的働きかけである。(略)

その際、立法への拒否権は交渉の道具として大きな役割を果たす。議員たちは、法案を通しても大統領に拒否権を行使されて廃案になっては無意味なので、審議過程で一定程度大統領の意向を法案に反映させようとするためである。

 第三は、法執行の責任者としての役割である。(略)法解釈には必ず裁量の余地がある。大統領はそれを利用して、行政機関がなるべく大統領の望む形で法律を執行するよう、大統領令などの形式で指示を出す。時には、それを通じて実質的に新しい政策が作られることもある。

 その際、大統領の役に立つのが連邦政府の官職の人事権である。アメリカでは今日でも行政機関の高官、日本の官職でいえば局長級以上がキャリア官僚でなく政治任用者で占められる。大統領は、閣僚を始め三〇〇〇を超えるポストの人事を行うが、有能なだけでなく政策への見方を共有する人物を充てて、自らの意向に沿った政策を実現しようとする。

(略)

 同様のことは、司法にもいえる。(略)

大統領は、自分の政策方針がなるべく司法に支持されるように裁判官の人事を行う。

 法曹一元制をとるアメリカでは、裁判官は法律家としてのキャリアの途中で任官される。行政官の人事と同様、法律家としての能力、大統領との考えの近さ以前に、候補者の政党支持や所属が重要な前提となる。連邦レベルの裁判官は、任命した大統領の政党に属するとみなされる。

(略)

 このようにアメリカの政治過程では、官僚制や裁判所といった、日本などでは党派性が排除されている政府機関にまで政党が入り込んでいる。しかし、そこでの政党の働きは独特である。

(略)

アメリカ政治には、政府内にも政党内にも、日本の首相のように政治全体を見渡し、指示を出せば他の主体が従うような、権力核を構成する主体が存在しない。アメリカの政党は、まさにテントのように政治全体を緩やかに広く覆うだけなのである。

 では、なぜアメリカでは、このような政党が生み出されたのだろうか。

再建期 、堅固なる南部

南北戦争の戦後処理を「再建」といい、終戦から連邦軍が南部から撤収する一八七七年までを「再建期」と呼ぶ。

 共和党内では、南部連合の指導者や支持者に政治参加を認めないという点で一致を見ていた。そのうえで、解放民に最低限の権利保障がなされれば連邦に復帰させてよいと考える保守派や、逆に白人プランターが支配する南部の社会構造を解体してでも人種間の平等を実現しようとする急進派があったが、両者の間の立場をとる穏健派が最も多かった。

 党内の意見対立に加え、終戦直後に観劇中のリンカンが[暗殺され](略)再建の政治を複雑にする。大統領に昇格したジョンソンは南部の民主党出身の州権論者で、元奴隷主でもあり、共和党への忠誠心はなかった。(略)

共和党内の保守派よりもさらに寛大に、南部諸州が奴隷制の廃止さえ受け入れれば連邦復帰を進めていった。(略)

 共和党がこれに強く反発した一方、南部に寛大な民主党はジョンソンに喝采を送った。(略)

[ジョンソンの狙いは]南部の支配層や民主党、そして共和党の保守派を糾合して新たな全国政党を生み出すことにあった。しかし、同年の選挙に候補者を立てたものの惨敗に終わり、共和党の保守派の参加者が一部民主党に移動するにとどまった。

(略)

一八六七年には一連の再建法を成立させて南部諸州を再び軍事占領下に置き、再建のやり直しに踏み切る。

 議会共和党は再建法で、連邦と共和党を支持するであろう南部の黒人(男性)に選挙権を与え、連邦支持派の白人とともに政治に参加させた。それにより、南部が内戦の結果を実質的に受け入れ、共和党を支持するようになると期待したのである。

 ジョンソンがこれにも抵抗すると、議会共和党は一八六八年に彼を大統領として史上初の弾劾裁判にかけた。(略)

[下院では弾劾決議が採択]

共和党は、上院で大統領の罷免に必要な数の議席を持っていたが、権力分立のあり方を変える危険な先例になると恐れる共和党議員も多く、失敗に終わった。

 議会共和党の推進した急進的な「議会による再建」は、ある副作用を持っていた。(略)

南部で黒人に参政権が認められたため、北部の白人はそれが北部にも導入されるのではないかと恐れるようになったのである。

 その結果、共和党は一八六〇年代末にかけて連邦と州の両レベルの選挙で後退していく。

(略)

南部では、南北戦争と再建を進めた共和党への反発から民主党が多数派を占めるようになっていく。その過程で、黒人や共和党支持者の投票が妨害されるようになった。結局再建は、黒人を置き去りに、南北の白人が和解する形で幕を閉じることになる。

 一八七六年の大統領選挙は、大接戦となった。民主党のサミュエル・ティルデンが共和党ラザフォード・ヘイズを一般投票の得票でわずかに上回ったものの、四州で票の集計に疑義が出、その結果で勝者が決まる異例の事態となった。(略)

両党の間で、連邦軍の南部からの撤収と引き換えにヘイズ の当選を認めるという取引が成立する。

 この「一八七七年の妥協」を経て、以後一世紀にわたり民主党の一党支配の続く「堅固なる南部(ソリッド・サウス)」が現れることとなった。その結果、北部で圧倒的な多数派を占める共和党と南部を独占的に支配する民主党が、全国規模で拮抗していく。

戦後秩序の模索 

終戦奴隷制の廃止によって、共和党は結成時の目的を十二分に達成し目標を失い、他方で民主党は反逆の党の烙印を押され停滞していた。そのため、排外主義や奴隷制をめぐって一八五○年代にホイッグ党が消滅したように、政党制の再編が起きてもおかしくない状況だった。しかし、実際には民主・共和の二大政党は、第三党の挑戦も退けてその地位を維持し、両者による二大政党制が二一世紀まで続いている。

(略)

南部の再建が一段落した一八七〇年代から一九世紀末までは、奴隷制と内戦というそれまでの対立軸が意味を失っていくなか、各政党が新たなアイデンティティを模索していく時期であった。

 民主党は戦争に非協力的な「反逆の党」のイメージから、北部では少数派に転落していた。そのため共和党に対抗できるだけの勢力の再構築が課題となる。そのなかで戦後の一時期に共和党が支配した南部が、民主党による一党支配の地となっていく。

 アジアを含む西欧以外の地域から非WASPの移民が多く流入し、人々の関心も南北戦争から目の前の問題に移っていった。時間の経過は民主党の有利に働いたのだ。

 一方の共和党では、奴隷制廃止の実現後、党がそれに代わる新たな改革を追求すべきだとする改革重視の立場と、手段を選ばず党勢の維持に努めるべきだという立場の溝が深まっていく。後者は、南北戦争起爆剤に産業化の進む北部で強い共和党の政治家に、財界が手を差し伸べていったことも大きい。

 共和党は「自由な土地、自由な労働、自由な人」をスローガンに、南部の支配層に対抗する庶民の党として登場したが、これ以降財界寄りの党としての性格を強めていく。

南部での民主党支配 

 連邦軍の占領下にあった一八七〇年代初頭までは、多くの州で共和党が解放民と連邦支持派の支持を得て多数派を占め、連邦議会にも黒人の議員が選出された。ところが、連邦に復帰を認められて連邦政府の監視が弱まると、クー・クラックス・クランやライフル・クラブといった白人至上主義者団体などが共和党支持者の政治参加を妨害するようになる。一八七七年の連邦軍の撤収を前後して、共和党は南部から姿を消していき、民主党の一党支配が成立する。

(略)

 白人の支配層はさらに、黒人の諸権利を制約していく。といっても、人種による選挙権の差別は一八七〇年に成立した憲法第一五修正によって禁じられていた。そこで、祖父が自由人だったことや、人頭税の支払いなどを要件とすることで選挙権の行使を制限したのである。他にも識字テストを課して、読解力があっても不合格として投票させないといったことも行った。連邦議会では、共和党の主導で南部の選挙を連邦政府に監視させる立法も試みられたものの、南部選出の議員の抵抗で失敗に終わる。

(略)

 なお、南部のようなあからさまな法制化こそされなかったものの、人種隔離は北部でも行われた。

拮抗する二大政党間の競争

[大統領候補選出には全代議員の2/3が必要という規定は]

南部の意に沿わない候補決定を防ぐためであった。南北戦争後、一九世紀末まで民主党の大統領候補はすべて北部出身者だったものの、彼らは南部のお墨つきであった。

 民主党が南部を独占し、新しい移民の支持を多く集めたこともあり、一八七〇年代以降、二大政党は全国規模で拮抗していく。州の数が多い北部で優位を維持した共和党は、連邦議会上院でほぼ恒常的に多数派を占め、大統領選挙でも有利であった。対して南部を独占する民主党は、連邦議会下院で過半数を占める時期が長かった。

 移民の流入民主党の有利に働いたが、共和党は自党を支持する西部の地域を積極的に州に昇格させ、議会の議席や大統領選挙人を増やすことで対抗した。この結果、一九世紀末まで、民主党が大統領選挙に勝利したのは一八八四年と一八九二年の二度だけで、いずれも勝者はグローヴァー・クリーヴランドだった。

第三党の挑戦と挫折

新たな改革に乗り出さない共和党は歴史的役割を終えたとして、各地で新たな第三党を組織

(略)

酒類の製造と販売の禁止を目指す「禁酒党」、八時間労の導入など労働者の待遇改善を目指す「労働改革党」や「連合労働党」といった労働者政党、農産物の輸送コスト軽減のために鉄道運賃の規制を掲げた「反独占党」などの農民政党などが挙げられる。とくに農民政党は(略)一八七〇年代半ばの一時期中西部で州議会の多数派を握り、鉄道規制にも成功する。

 また農民政党を基に、南北戦争時に財務省が発行した不換紙幣(偽造防止のため裏面が特殊インクの緑一色で、「グリーンバック」と呼ばれた)の増刷を掲げる「グリーンバック党」が一八七四年に組織されている。当時農民の多くが借金に苦しんでいたため、通貨量を増やしてインフレを起こすことで負債を目減りさせるのがそのねらいであった。グリーンバック党は一八七〇年代末から八〇年代前半にかけて、連邦議会の上下両院で合わせて二桁の議席を獲得している。

 とはいえ、この時期の第三党は農民政党を除いて選挙にほとんど勝てなかった。大半の有権者は、すでに二大政党の一方に強い一体感を抱いていた。(略)

第三党は一時的に選挙に勝利しても、大統領選挙になると二大政党の前に存在がかすむのが常であった。

人民党の挑戦

 グリーンバック党の活動が停滞した後、二大政党の枠内で活動していた農民運動は、一八八〇年代末に農民の互助組織である「農民連合」を基盤に第三党運動を立ち上げる。(略)

政財界のエリートから権力を人々の手に取り戻すべく「人民党」と命名されたこの政党は、今日広く知られる「ポピュリズム」の語源の一つである。

 人民党は、農業を主産業とする西部や南部を中心に人気を集めた。その最大の主張は、銀貨の鋳造によるインフレの実現であった。かつてグリーンバック党は不換紙幣の増刷を掲げたが、まだ通貨が金や銀といった貴金属のカネ(正貨)に裏打ちされることが常識であったため、支持が広がらなかった。それに対して、人民党は銀を金と並ぶ正貨にし、金銀複本位制とすることで通貨の発行量を増やそうとしたのである。

 実は、アメリカでは一八七三年まで銀が金と並ぶ正貨であり、この主張はすでに国内で支持を広げつつあった。人民党は一八九二年の選挙で連邦議会下院に二桁の議員を送り込み、大統領選挙でも六州で選挙人を獲得する健闘を見せる。一方民主党は、一八九三年からの恐慌の責任を問われ守勢に立たされた。そして、これが政党制全体の再編につながっていく。

共和党の多数党化

 次の一八九六年大統領選挙では、南部で人民党と競合する民主党が人民党の主張を取り入れて銀貨鋳造への支持を打ち出した。さらに大統領候補には(略)金本位制を攻撃した西部のネブラスカ州のウィリアム・ジェニングス・ブライアンを据える。(略)民主党キリスト教に基づく社会的伝統の重要性や、農業を守るための関税引き下げも強調して、農民に徹底的にアピールした。

 自分たちの主張を民主党に乗っ取られる形となった人民党は、検討の末に大統領候補としてはブライアンを候補に指名する。ただし、副大統領には自党のトム・ワトソンを独自候補に立てて存在感を維持しようとした。

 対する共和党は(略)工業と金融を発展させてヨーロッパの列強と競争していくことの重要性を訴え、保護関税と国際標準である金本位制を堅持すべきだという従来からの主張を繰り返して、財界や都市住民の支持を求めた。

 結局、この年の選挙は共和党の圧勝に終わる。人民党は解体し、支持者の多くは民主党に移っていく。この選挙以降、共和党が東西両海岸と中西部の都市部を、民主党が南部および西部の内陸部の農村地域を押さえた。この時期までに西部の開拓が一段落し、都市部の人口が農村部を上回るようになっていたことが共和党の優位につながった。

 この新たな政党制を第四次政党制といい、財界と都市住民の支持を背景とした共和党の優位を特徴に、一九二〇年代まで続くことになる。

保守連合

 民主党内では、北部ではリベラルが圧倒的に優位となったが、南部はニューディール以降も連邦政府の役割の拡大に反対し続けた。連邦議会では、共和党と南部の民主党議員が手を組んでリベラルな内容の法案に修正を迫ったり、廃案に追い込んだりすることが目立つようになり、「保守連合」と呼ばれるようになる。

(略)

 このように民主党内では政策的に相容れない勢力が対立していた。だがその分、共和党に対して圧倒的な優位を誇った。(略)

[支持政党調査では]

一九六○年頃に約半数が民主党、約三割が共和党と答え、民主党への支持率が二〇世紀を通じて最高潮に達する。

(略)

共和党は大統領選挙ではまだ勝ち目があったものの、それは候補者が非常に魅力的か、民主党が弱みを抱えるときに限られた。

(略)

 一九五二年大統領選挙で、共和党第二次世界大戦の英雄であるドワイト・アイゼンハワーを擁立し、ほぼ四半世紀ぶりに勝利した。しかし、アイゼンハワーはリベラル路線から転換しようとせず、二期続いた政権で、老齢年金などの福祉国家的な政策についてむしろ拡充を図った。

(略)

ニューディールを期に民主党支持に転じていく前、北部の黒人は「リンカンの党」である共和党を支持していた。

共和党の保守へのめざめ

 民主党の混乱の一方、共和党でも新たな展開が起こる。それは前回の一九六四年大統領選挙に遡る。この年、共和党ではリベラルなネルソン・ロックフェラー・ニューヨーク州知事など複数の候補者がいたが、候補指名を得たのはきわめて保守的なバリー・ゴールドウォーター上院議員であった。ただし、ジョンソンを相手に勝ち目はないとされ、実際彼は大敗する。

 ところがゴールドウォーターは、地元である南西部のアリゾナ州以外に、国民的人気を誇るアイゼンハワーでも勝てなかった、南部でも最も保守的な深南部の五州――アラバマジョージアルイジアナミシシッピサウスカロライナを制する。この年成立した市民的権利法に反発した白人が、ゴールドウォーターの保守性に期待して支持したのは明らかだった。真偽は定かでないが、市民的権利法の成立時、それを主導したジョンソン自身が、民主党は長い間南部を手放すことになるだろう、と述べたとされるのはこの点示唆的である。

 ゴールドウォーターの選挙戦では、ある応援演説が注目を集めた。それは、この選挙がさまざまな限界を抱えるリベラルな諸政策と訣別するかどうかの「選択の時」だと訴えるものだった。この演説で政治家として知られるようになったロナルド・レーガンはもともとリベラルで、共和党支持に回ったばかりであったが、以後保守派の旗手となり一九八〇年に大統領に当選することとなる。

 一九六四年選挙を経て、共和党では南部を含む反リベラル勢力を糾合すれば万年少数党の地位を脱却できるという希望が生まれた。

(略)

[大統領候補に指名されたニクソンは]南部の保守的な白人を取り込む「南部戦略」を進めていく。

(略)

 とはいえ、ニクソン政権の政策方針は全体的には穏健であった。(略)

[アファーマティヴ・アクション]をジョンソン政権よりも進めるなど、リベラルな面も目立った。

反リベラル勢力の共和党への結集

 また、分極化は各党の支持者のイデオロギー化によって起きたのでもない。二〇世紀末まで、両党の支持者には目立ったイデオロギー的な違いが見られない。それにもかかわらず、なぜ二大政党が分極化したのかという問いは、長年政治学者を悩ませてきた。(略)

 分極化は、共和党側で先行した。共和党ニューディール以来、民主党に比べて政府の市場への関与に消極的であったが、党内ではリベラルも有力であった。共和党は、人種間関係など人々の生き方に関わる社会文化的争点では、民主党よりリベラルだったほどである。だが、一九六〇年代後半以降、民主党の主導したリベラルな政策に反発するさまざまな勢力が結集し、変化が始まる。

 これらの勢力は、共通に保守派を標榜して連携していったが、とくに重要なのが次の三つである。

 第一は、個人の政府からの自由と市場の自己調整能力を重視して、二〇世紀に拡大した規制政策や福祉国家的政策を有害と考えるオールド・ライト (旧右派)である。

 第二は、人種間関係や性的役割分業などについての伝統的規範が蔑ろにされ、社会秩序が乱れたと考える伝統主義者である。

 そして第三に、冷戦外交について強硬路線を主張する反共主義者が挙げられる。

 共和党の保守化の動きは、さまざまな保守的な社会運動や利益団体が、時に手を組んで共和党の政治家に政策的に働きかけ、有権者共和党に動員する形で進んだ。これらの組織の多くは、一九六〇年代の市民的権利運動などのリベラルな社会運動や利益団体の成功に反発しつつも触発され、それを真似て対抗組織化を進めて頭角を現した。

(略)

 保守派でもとくに規模の大きいのが、オールド・ライトと宗教右派(キリスト教右翼)である。前者のオールド・ライトは、かねてより共和党を中心に政府からの自由放任を主張してきた勢力を指す。その考え方は主に、個人の自律性や市場の見えざる手の働きを重視する、古典的自由主義に基づいていた。

 その主張は、政府による規制や増税を嫌う財界の利益にもかなうものであったから、オールド・ライトでは財界が大きな存在感を持ってきた。

(略)

二〇世紀半ばまで、銃規制の是非が政治対立を引き起こすことはほとんどなかった。しかし、ケネディ兄弟やキング牧師の暗殺をきっかけに一九六八年に銃規制法が制定され、世論の銃犯罪への不安も高まった。それに対して、さらなる規制を恐れる銃産業は、銃愛好家の会員制組織である全米ライフル協会などを通じて規制への反対活動を開始する。その際、武装の権利に関する憲法第二修正が一般人の銃の保有を保障するとして、政府からの自由を原理的に主張するようになった。