エルヴィス・コステロ・バイオグラフィー その3

前回の続き。

 『パンチ・ザ・クロック』

〈シップビルディング〉は(略)本質的にはフォークランド紛争に触発された極めて印象的な反戦バラードだ。(略)どこか陰鬱で、くどいほどポップであることをのぞけば、そのコンセプトは六○年代ニューヨークの〈ブリル・ビルディング・ソング〉に近いものだった。[共同プロデューサーの]クライヴ・ランガーは、ワイアットを特に念頭に置きながら曲づくりを行った。

(略)

ランガーとウィンスタンレーをプロデューサーに起用したもう一つの理由は、この二人が当時イギリスで最もホットなプロデュースチームだったからだろう。自分のつくってきた音楽に(多くの音楽評論家と世界中のファンからは高い評価を得ていたものの)、ヒットシングルに欠けていることをコステロは痛感していた。

(略)

そこで、コステロは当代きってのプロデューサーのお手並みを拝見することに決めたのだ。「これまで、しっかりしたプロダクションデザインに沿ってやったことはなかった(略)ニック・ロウはいつも僕らのやったことをまとめてくれた。ビリー・シェリルは僕らのやったことに我慢してくれた。ジェフ・エメリックは、僕らに可能性とアレンジをとことんまで追求させたうえで、そのつじつまあわせをしてくれた。だから、正式なアプローチを採用したのは今回が初めてだった。あるところまでは、本当にうまくいった」 

Goodbye Cruel World

Goodbye Cruel World

 

『グッドバイ・クルエル・ワールド』

 実際、コステロはこのアルバムの制作・収録の間、かなり悲惨な状態にあった。作品の大部分を台無しにしてしまったことは分かっていたが、どうすることもできなかった。途中で止めることさえできなかった。「発売するしかなかった。そうしなければ、そこで破産してただろうし、離婚を控えていて破産するわけにはいかなかった。アルバムをオジャンにはできなかった。だから、そのまま発売した。いま聴くと、情熱的なパフォーマンスも感じられるけど、アレンジに打ち消されてしまってる。でも、それはクライヴとアランのせいじゃないんだ。気に入ってくれてる人には悪いけど、あれがいいアルバムだってウソをつくことはできない。特に、チャートを意識しながら計算してかいたポップソングはね」

(略)

「あれは最低のアルバムだ。すべてのアレンジが新鮮味に欠けているうえに、間違ったプロデューサーを起用して、およそ不可能な仕事を押しつけた……僕の結婚生活は崩壊しようとしてた。今となっては、バカげた泣き言にしか聞こえないけど、多分あれは僕の人生で最悪の時期だった」

 数年後、〈コメディアンズ〉をロイ・オービスンのアルバム『ミステリー・ガール』のためにかき直したとき、コステロはその歌詞が実際になにを意味していたのか忘れてしまっていた。(略)

「はっきり言うと、女遊びをしているソングライターのやっかいなところっていうのは、いつも暗号を使って曲をかくことなんだ……僕は最初から、ホテルの部屋の出来事は歌にしないって誓ってた。でも、僕が経験した最も鮮烈な出来事の多くはもちろんホテルの部屋で起きたわけで、それも仕事のうちだった……誇りには思ってないよ。前の女房に辛い思いをさせたことは、今でもこころから悪いと思ってる……。でもそれが事実だし、僕は逃げも隠れもしない。それが人生なんだ。乗り越えていかなきゃ。初期の作品のほうが曖昧な歌詞が多いのはそういうワケなんだ」

『グッドバイ・クルエル・ワールド』収録後の大混乱と、発売前に世間の評価をあれこれ思い悩むのを避けるため、コステロはソロツアーのためにアメリカに旅立った。

(略)

 サポートを努めたのは(略)T・ボーン・バーネット。コステロは彼につながりを感じ、人間としても、アーティストとしても尊敬していた。 

King of America (Dig)

King of America (Dig)

  • アーティスト:Costello, Elvis
  • 発売日: 2007/05/01
  • メディア: CD
 

『キング・オブ・アメリカ』

[ジ・アトラクションズとは一曲だけ]

「最初は、半分は彼らとやって、残りは外そうと思ってた」と、コステロは〈NME〉に説明した。「だが、そうはいかなかった。彼らがやってくる前のセッションはすべて期待以上の成果をあげているように思えた。それに、その時点で少なくともアルバムの四分の三は仕上がっていたんだ。ほかのミュージシャンから彼らとのセッションに移ったとき、緊張感が突然高まった。それで、彼らも追い詰められ、自分たちを守ろうとして敵意を見せるようになった。そのせいで、僕まで敵対的になって……あのセッションは最悪だった。なんとか一曲(〈スーツ・オブ・ライツ〉)だけやって、彼らは去って行った……あとはさまざまなミュージシャンとの組み合わせでアルバムを完成させた。ジ・アトラクションズ抜きで『キング・オブ・アメリカ』を作ったことで、クライヴ・ランガーとアラン・ウィンスタンレーとやったアルバムの問題が一つ見えてきた。あのバンドは崩壊しつつあったんだ。僕らはお互いに顔を合わせすぎていて、親密な関係が軽蔑やありきたりな表現につながっていた。本当に時間はあっという間に過ぎていっていたんだね……」

(略)

 セッションを通じて、友人であり共同プロデューサーのT・ボーン・バーネットコステロの編集アシスタントとしての役割を果たした。コステロはそれぞれの曲の構成要素を分解し、過剰だと思われる歌詞はすべて削除して、不自然なボーカルもすべて切り落とした。 

Blood & Chocolate (Dig) (Spkg)

Blood & Chocolate (Dig) (Spkg)

  • アーティスト:Costello, Elvis
  • 発売日: 2007/05/01
  • メディア: CD
 

『ブラッド・アンド・チョコレート』

 このアルバムはコステロの個人レーベルであるインプから発売され、イギリスにおけるRCAとの契約関係は終焉を迎えた。一方、アメリカではコロムビアとの関係に暗雲がたれ込めつつあった。「もう一度『ディス・イヤーズ・モデル』か『アームド・フォーシズ』みたいな作品を作ってくれれば、あとはこっちで何とかするからって、ヤツらはそればっかりだった(略)

だから、ご所望の通りのものをくれてやった。実際には、よく考えて一定の方式に沿って作ったわけじゃないが、まあ可能な限り近いヤツをね。『ブラッド・アンド・チョコレート』についてはこう言ってやった。これが正真正銘の僕らだって。もう三二歳で、離婚してるヤツもいる。ムカついてて、あらゆる薬に手を出したし、そんな経験は全部終わらせて、それでもまだ生きてる。それがこのサウンドだ。言っておくが、今のほうが僕らは断然イケてるぜって」

「あっちは気に入らなかった。コロムビアの連中はあのアルバムを毛嫌いしていた。だから、ヤツらのところに行ってこう言った。聞けよ、もうこんなヨタ話はたくさんだ。どんな作品がいいのか言えよ、それを作ってやる。プロデューサーも指名していい、そいつと上手くやるさ。誰とだって戦う。マット・レンジだろうが、今をときめく大ヒットメーカーだろうが、誰でも相手になる。この僕の音楽性と主張と意思の力をぶつけていく、もしそれでなんとかなるならって。でも、連中はそれを望んではいなかった」

ブルース・トーマスの回想録

名誉、素晴らしいライブ、愛、結婚――物事が流れるようにうまく進んでいたこのとき、ふって湧いたように、ジ・アトラクションズのベーシスト、ブルース・トーマスが書いた回想録が出版されたのだ。朗らかで寛容なムードの作品ではなかった。

 [90年]八月に発売された『ザ・ビッグ・ホイール』で(略)ブルースは皮肉たっぷりに告白した。生涯友だちでいたいとも思わない大勢の人間(なかでも特にその一人)とバンドをやるという、ときに地獄のような生活を非常にうまく描き出した作品だった。ジ・アトラクションズは本質的には『マイ・エイム・イズ・トゥルー』ツアーのために特別にコステロが寄せ集めたバンドであり(略)内部対立が、それなりに起きるのは当然でもあった。

(略)

 物悲し気な追想と正確な攻撃を織りまぜながら、トーマスはジ・アトラクションズのメンバーを名指しせずに「ドラマー」や「キーボード奏者」といった具合に間接的に表現している。当然ながら、コステロもただの「シンガー」として登場する。ほかには「可愛気のない口答え屋」「くそガキ」「映画『ボディスナッチャー』に出てくる生物をさらに強烈にした性格の持ち主」さらには、コステロがヨーロッパやアメリカ、オーストラリア、日本のライブ会場に切れたギターの弦を残していくのが好きだったことから(ギタリストとしての技術ではなく)「証拠だけ立派なヤツ」とも呼んでいる。 

ジュリエット・レターズ

ジュリエット・レターズ

 

ブロドスキー・クァルテット

 初めてクァルテットと出会った時には、コステロは譜面を読むことも、書くこともできなかったが、九二年初頭にはできるようになった。コステロが覚えようと決断したおかげで、コラボレーションが楽になったことは間違いない。もう一つ、やる気になった理由は『GBH』のサントラでのリチャード・ハーヴェイとの共同制作だった。「これを見ろよ、この通りにやってくれよ、そこの楽器はこれだ……って、リチャードに説明できなくて、ちょっとイライラしたからね」

 実際にこの技術を覚え、さらに音楽性の幅を広げたいと考えたコステロは、ダブリン在住のあるアイルランド人作曲家の特訓を受けた。九一年一一月には「コロラチュラ」が何かすら分からなかったが、九二年一月末には楽譜をかけるまでになった。すぐに、コステロはアイデアを楽譜にしてクァルテットに送った。普通の人なら一年かかるところを、コステロは一カ月で習得したと彼らはいう。

「分かったんだよ、まあ、これは悪いシステムじゃないなって(略)

だてに七〇〇年間使われてきたわけじゃない。きちんと書きおろすことで、そのフレームのなかでのびのびやれるようになる。ブロドスキー・クァルテットはロックバンドみたいに騒々しくはないけど、彼らなりのやり方で暴れまわってるんだ」 

Now Ain't Time for Your Tears

Now Ain't Time for Your Tears

  • アーティスト:James, Wendy
  • 発売日: 1993/05/11
  • メディア: CD
 

ジ・アトラクションズ再編

[人気に翳りが出てきたトランスヴィジョン・ヴァンプのウェンディ・ジャイムズは偶然遭遇したピート・トーマスに駄目元で]ソロ活動にコステロが力を貸してくれないだろうかと尋ねた。

(略)

トランスヴィジョン・ヴァンプがアメリカ・ツアーに出ている間、コステロとピート・トーマスは二、三日でデモアルバム一枚分の曲を作成した。

(略)

[ツアー中に解散し]疲れ果てたジェイムズは、ロンドンのアパートに戻り、一本のデモテープを見つけた。

(略)

 ジェイムズはコステロの広報担当者に連絡し、曲が欲しいと告げ、アルバム『ナウ・エイント・ザ・タイム・フォー・ユア・ティアーズ』(タイトルはボブ・ディランから拝借)をクリス・キンゼイのもとでレコーディングした。

(略)

 コステロとピート・トーマスがジェームズのデモアルバム収録したのが、ロンドン北部にあるパスウェイ・スタジオだった。『マイ・エイム・イズ・トゥルー』をつくったこじんまりした8トラックのスタジオだ。ピートとのセッションが終了したとき、コステロは自分でもいくつか曲を書いて、レコーディングしたいと思うようになった。こうして、ジ・アトラクションズ再編に向けた動きが始まった。

(略)
ピート・トーマスのドラム以外、すべての楽器をコステロが演奏した。自分たちでアルバムがつくれるだけの曲づくりができることに気づき、二人は共同作業を続けた。

(略)

[ほどなくして]サム・ムーアのセッションに参加していたスティーヴ・ニーヴと偶然に顔をあわせた。ニーヴと会うのは久方ぶりだったが(略)話に花が咲いた。そして最後には、「シンガー」は「キーボード奏者」にパスウェイ・スタジオに足を運び、できたてホヤホヤの新曲にピアノパートをつけてくれと頼んだ。

 こうしてどんどん曲がつくられていくなか、コステロはまずニック・ロウにベースとして参加を要請した。彼の独特のスタイルが曲にぴったりだったからだ。だが、仕上がりに不満を覚えたロウは、このメンバーは「ジ・ディストラクションズ(散漫)」だという言葉を残して去った。コステロはほかの誰かにベースを頼まなければいけなくなった。それまでに、コステロはセルフプロデュースは無理と判断していたため、〈コステロ・ショー〉時代の仲間ミッチェル・フルームに連絡をとっていた。フルームは妻スザンヌ・ヴェガとのレコーディングに取り組む一方、ジ・アトラクションズのベーシスト、ブルース・トーマスとも仕事をしていた。そして、次の展開には誰もが驚かされることになった。

 コステロとトーマスは、それまでの数年間絶交状態にあった。コステロは当然ながらブルースの回想録『ザ・ビッグ・ホイール』をクズと一蹴。〈ハウ・トゥ・ビー・ダム(バカになる方法)〉では、同じように痛烈な批判をブルースに投げつけた。ところが、成熟性の証明か、大人になって丸くなったのか、意識的かつ一時的な記憶喪失か――なんと呼ぼうが自由だが、コステロはブルースに新曲のベースを担当する気はあるかと打診したのだ。それに対して、短く簡潔な回答が寄せられた――「イエス」。 

How to Be Dumb

How to Be Dumb

  • provided courtesy of iTunes

 

 『ブルータル・ユース』

 パスウェイ・スタジオでのデモ収録は、テープのヒスとコンソールのノイズの味わいある懐かしい時代への回帰だった。コステロの最近のスタジオアルバム三枚は、いずれもトラック機材を使ったオーケストレーション、または「楽譜」に基づくサウンドだった(マニアックなファンの間ではそれについて熱い議論が巻き起こった)。だが、素朴な8トラック機材を使うパスウェイは、意識的に自然なサウンドを重視したデモのマテリアルにぴったりだったうえに、さらにはっきりその路線を打ち出すこともできた。望みどおりのサウンドに辿りついたところで、オリンピック・スタジオに移り、『ブルータル・ユース』という仮題のついたアルバムの収録曲のうち一三曲をレコーディングした。残りの〈カインダー・マーダー〉と〈20%記憶喪失〉はパスウェイ収録のサウンドがそのまま使われた。

 コステロにはまだ再結成の具体的なプランはなかったにも関わらず、アルバム発売に向けて、ワーナーはジ・アトラクションズを前面に押しだした。ウェンディ・ジェイムズのデモアルバムをつくったことで、コステロのなかで本質的な部分で基本に立ち戻り、率直なアプローチをするアイデアが生まれた。そして、曲づくりが進むなかで、自然の流れでジ・アトラクションズを起用することになったのだ。だが、ワーナーは都合のいいようにプロモーション素材に「エルヴィス・コステロ」と「ジ・アトラクションズ」の名前を並べた。八年間の空白を超え、ついに再結成! 「復活」のときがやってきた!

(略)

「モノを売る常套手段だよ。ボブ・ディランはこれまで何回「戻ってきた」と思う?(略)

怠慢なやり方だったし、いまではヤツらだってそれに気づいてると思うよ。あれが大混乱の始まりだったんだ……ワーナーの狂気じみた企業精神、それがあの会社全体に影響を及ばしてた。そのせいで、あの会社の戦力部隊はどんどん創造性を失っていった。だから、売りになると思った唯一のものにしがみついたんだ。バンド復活! ロック魂始動!ってね。ちょっと、単純だよね」

 それが単純な考え方だったのか、またコステロ&ジ・アトラクションズ再結成というマーケティング上のアイデアが成功したのかはさておき(結局はアルバムにはバンド名はクレジットされなかった)、九四年三月に発売された『ブルータル・ユース』は大絶賛を浴びた。イギリスではコステロ最大のヒットとなり、『ゲット・ハッピー』以来最高の第二位をマークした。

(略)

 ツアーがイギリスに移っても、人間関係はまだ友好的にみえた。(略)

観客にとってはノスタルジアをかき立てる夢のようなひとときだった。とはいえ、コステロにしてみればオールドデイズとはおよそかけ離れていた。当時、コステロとバンドのメンバーは四五分間演奏しては「一発キメる」ために舞台裏に消え、観客を罵りながら一〇分後にステージに戻り、もう一曲歌うとへトヘトになってホテルに姿をくらましていたのだから。

「あの頃は、観客を乱暴にあつかうのが好きでね」(略)

「三五分やれるだけの曲があって、何曲か終わると、まずアンフェタミンを一発キメる。それで二五分ぐらいやると、もう曲がなくなっちまう。それからは、アンコールをやらないのが通例になった。アメリカでは、ラジオで生放送されてたんだけど、DJに『うーん、きっとステージに戻ってくると思うよ』ってくり返させといて、もう自分たちはホテルに戻っちゃってたりしてた。ツアー中のグループにとっては、そんなイタズラが楽しくてしょうがなかった。一緒に塹壕にこもってるみたいな破滅的な気分の連中にはね」