エルヴィス・コステロ・バイオグラフィー その2

前回の続き。 

 『アームド・フォーシズ』  

セカンドアルバムは大好評、ナッシュビルではカントリーの大御所と共演、そして離婚関係の書類をもった弁護士に追いかけられながら、一九七八年は過ぎた。翌七九年、スキャンダルが世間をにぎわすなか、ニューアルバムが完成。だが、そこには私生活と同じぐらいに熾烈なプレッシャーが待ちうけていた。三カ月間のアメリカツアーを目前に控え、アメリカの所属レーベルであるCBSコロムビアは、ブルース・スプリングスティーンの『明日なき暴走』のような形で『アームド・フォーシズ』を売り出し、コステロを超スーパースターに押しあげようとしていたのだ。

『マイ・エイム・イズ・トゥルー』は、すぐに輸入盤として過去一〇年最高の売り上げを記録したが、『ディス・イヤーズ・モデル』はそれほどは売れていなかった。

(略)

『アームド・フォーシズ』はコステロにとってビジネス上の勝負をかけた作品であり、宣伝キャンペーン関係者は全員がそれを意識していた。

(略)

「俺たちは『アームド・フォーシズ』で大成功するか、コケるかどっちかだ」と、ジェイク・リヴィエラは〈クリーム〉に語った。「アメリカでブレイクしなければ、契約は切られないにしても、コロムビアポンコツの役立たずだと思われることになる」

(略)

 『アームド・フォーシズ』はあっという間に、これまでで最高の成功を収めた。

(略)

コステロは余命いくばくもないといった勢いで曲を書いていた。すでに、次のアルバムの曲のほとんどは仕上がっていた。ツアー中(略)同室だったベーシストのブルース・トーマスは(略)書きためていた曲だけでアルバムが四枚つくれると主張した。

(略)

 だが、ここでも現実はそう甘くはなかった。まず、コロムビアの上層部が『アームド・フォーシズ』の曲目リストに手をくわえたのだ。〈日曜日は最高〉は削除され(アメリカのマーケットには「あまりにイギリス的」という判断だろうか?)、代わりにラジオ受けのいいニック・ロウのヒットシングル〈ピース、ラブ・アンド・アンダースタンディング〉が収録された。正しい選択ではあったが、コステロの脳裏には、コロムビアがポップソングライターとしての自分の才能を信頼しているのだろうかという疑念がよぎるようになった。

 二月からアメリカツアーが始動した。

(略)

ジェイク・リヴィエラはローディーに古着のアーミールックを着せ、深紅の縁どりがほどこされたシルバーイーグルのツアーバスには『ノースカロライナ州キャンプルジューン基地』と書かれた横断幕が張られた。マスコミ向けの全面広告ではコステロが銃をくわえ、その刺激的なイメージの横には「警告」「傭兵になれ、武装しろ」と書かれていた。

(略)

 最初から、先行きには不穏な影がちらついていた。シアトルでは、一時間の予定だったライブが敵意と軽蔑をむき出しにした四〇分の演奏に短縮され――パンクに慣れていたイギリスのオーディエンスなら喜んだかもしれないが――音響スタッフは観客のネガティブな反応を抑えるために、歓声の入ったサウンドを作って応酬することになった。

(略)

[カリフォルニアでは]カネを返せとチケット売場に乱入する客まであらわれた。その夜、サンフランシスコでライブを行ったザ・クラッシュが「聴く価値のある唯一のUKバンド」というポスターを張り出していたことにコステロは激怒していた。それで、四〇分で切り上げてステージから姿を消してしまったのだ。腹を立てた観客は会場のシートをひきはがし、会場外に停めてあったツアーバスに八つ当たりしてその窓ガラスを割った。 

Armed Forces (Dig) (Spkg)

Armed Forces (Dig) (Spkg)

  • アーティスト:Costello, Elvis
  • 発売日: 2007/05/01
  • メディア: CD
 

 

オハイオ州コロンバスでの舌禍事件

事件を再現してみよう。よどんだ空気が漂うホリデイイン・ホテルのバーで、退屈なライブを終えたコステロはベーシストのブルースと一杯ひっかけている。(略)

[そこへ同様にライブを終えたスティーヴン・スティルス一行、ボニー・ブラムレットらやってきて、一緒に打ち上げをしようと誘った]

すぐに白熱した議論が持ち上がったが、それぞれが冗談を飛ばしながらうまくかわしあっていた。バーには数人のコステロのファンがヒーローを間近で見ようと集まっていた。

 その一人がコステロに悪魔の囁きとも思える質問を投げかけた――アメリカやアメリカ人のこと、どう思う?コステロはまさに墓穴を掘ろうとしていた。「ヘドが出るね」(略)「ここに来たのはカネになるからだよ。純粋な白人ってのは、僕らのことさ。あんたらは植民地の人間だろ」

(略)

ティルスコステロの言葉にユーモアのカケラを感じることはなく、瞬時にキバをむいた。

 次になにが起こったかについては、さまざまな証言がある。スティルスのツアースタッフが、コステロを殴ったとも言われている。〈ローリングストーン〉の雑記欄によれば、コステロはスティルスパーカッショニストであるジョー・ララを「油ギトギトのラテン野郎」と呼んだ。そこでスティルスコステロを攻撃。その後、罵倒されたスティルスは怒りに震えながらながら、バーから出ていった。「消えやがれ、このスチールっぱな野郎!」コカイン中毒だったスティルスが鼻腔修復手術を受けたというゴシップに当てつけた中傷だった。

 あとには、酔っぱらってすっかり熱くなったコステロとブルース、そして興奮したブラムレットが残された。緊張を和らげようとしたのだろう、ブラムレットは自分はコステロの音楽の大ファンだと言った。そこまではよかった。だが、そこで彼女はジェームズ・ブラウンについて、コステロに意見を求めてしまった。これは大きな間違いだった。

 「ケツをふるしか能がないニガーだろ」と、彼は答えた。なるほど。ブラムレットはさらに続けた。レイ・チャールズは?「あいつは単なるノータリンの『めくらニガー』だよ」

 今度は完全にジョークの域を越えていたし、その言葉も聞くに耐えないものだった。そういう意見は自分の胸にしまっといたほうが身のためだと言って、ブラムレットはコステロを殴った。コステロは応酬した。「レイ・チャールズも、ニガー野郎も、てめえもファックしやがれ!」

 そこで大乱闘になったという話もあるが、ホテルのバーテンダーによれば、ちょっとした小競り合いが起きてすくに収まったという。(略)

ブラムレットがある決定的な決断をくださなければ、それですんだことかもしれなかった。

(略)

 その後数日間は、暴露記事も逆襲もないまま過ぎた。コロンバスでの一件は、記憶も定かではない酔っ払いの不作法であり、素面に戻ればしぶしぶ許してもらえる類いのこととして忘れ去られつつあった。ニューヨーク公演まであと二週間を切り、街中にポスターがはりだされた。

(略)

ニューヨークはコステロをついにスターダムに大きく押しあげる場所として位置づけられていた。

(略)

事件の直後、彼女は東海岸の報道機関や新聞・雑誌にホリデイインのバーで起きたことについて事細かな情報を提供していた。手心を加えることなく、ブラムレットはコステロを偏見に満ちた人種差別主義者だと糾弾した。

(略)

[コステロ一行がNYに到着した頃には噂は全米に広がっており]「エイプリル・フール・マラソン」ライブの話題は、すっかりコロンバス事件に食われてしまった。 

(略)

[弁明のための記者会見に現れたコステロの]ジャケットの襟もとには「オレに欲情しろ」と書かれた緑色のバッジがつけられていた。(略)

矢継ぎ早に飛んでくる鋭い質問に、コステロはできるかぎり辛辣に、そして断定的に答えた。発言の内容はなぜ黒人アーティストに集中したのかという質問に対して、コステロはCSN&Yのことも言ったが、それはマスコミには取り上げられなかったと答えた。イギリス人男性一般に対するブラムレットの発言も同じようにもみ消されていた。(略)

その発言とは次の通りだ。「……あんたらみんな、満足にオッたてることもできないフニャちんばっかりじゃない」。さらに、ブラムレットは「意地悪くて、憎々しげな連中ってのはアソコもちっちゃいもんだって、アイツに言ってやったの」語っていたといわれる。

(略)

「愚かな差別主義者」以外のコステロのイメージはヒステリックな興奮の渦にかき消されてしまった。

(略)

興味深いことに、コステロは記者会見で「ロック・アゲインスト・レイシズム」との関係や(略)反ファシズムの曲をかいてきたことは主張しなかった。いずれにせよ、マスコミはコステロを嫌っていた。どんなに頑張ったところで、コステロの負けだった。

 

Get Happy (Dig) (Spkg)

Get Happy (Dig) (Spkg)

  • アーティスト:Costello, Elvis
  • 発売日: 2007/05/01
  • メディア: CD
 

『ゲット・ハッピー』  

 七九年一〇月、カムデンタウンの〈ロックオン・レコードストア〉から出てくるコステロの姿が目撃された。(略)

コステロはたった五〇ポンドで、〈タムラ/モータウン〉や〈スタックス〉、〈ハイ・アンド・アトランティックレコード〉の懐かしいレコードを買い漁った。流行にうるさいモッズ小僧だった一○代に聴いていたこうした音楽は、『ゲット・ハッピー』のいい下準備になった。さらに制作関係者が自分のコレクションを持ちより、リサーチは完了した。

(略)

「きてれつな」ニューウェイヴバンドのつややかなサウンドは絶対に避けたいのは分かっていたので、『ゲット・ハッピー』のいくつかの曲はもっとゆったりと、ソウルフルに演奏することにした。(略)

今回の狙いは、曲を深く掘りさげ、よりリズミカルでよく計算された作品をつくることだった。

 偉大なソウルアーティストの影響を大胆に取り入れ、神経をすり減らし、大量のアルコールとドラッグを消費しながら、新たな方針のもとでセッションが始まった。

(略)

〈テンプテイション〉はブッカー・T&MG'sの〈タイム・イズ・タイト〉を思わせるリフを使用。〈オポチュニティ〉はアル・グリーン、〈クラウンタイム・イズ・オーヴァー〉はカーティス・メイフィールドからの精神的な盗用であり、〈ラヴ・フォー・テンダー〉と〈ハイ・フィディリティ〉はテンプテーションズの曲を引用している。さらに、〈キング・ホース〉はフォー・トップスの〈リーチ・アウト、アイル・ピー・ゼア〉

(略)

なかにはさらにダイレクトな要素をふくませた曲もあった。例えば「ブラック・アンド・ホワイト・ワールド」はバーバラ・スタンウィック主演の映画『教授と美女』(『白雪姫と七人のこびと』をベースにしたコメディ。スタンウィックは「シュガーパス・オシェラ」という奔放なストリッパーを演じた)を観てかかれた作品だ。

(略)

 当然ながら、セッション中にはピリピリとした雰囲気が漂っていた。アルバムがリリースされるとそれが表面化した。〈ライオット・アクト〉は迫真の一曲であり、コステロを崖っぷちに追いつめた、プライベートと仕事のトラブルすべてに対するリアクションが込められていた。コステロは(略)ソロ活動を念頭に置くようになっていた。ソロシングルのために〈ニュー・アムステルダム〉のチープなデモまで収録したほどだ。

(略)

「あのアルバムは極度の精神的ストレスのなかでつくられた」と、コステロは〈フェイス〉に語った。「僕とバンドのメンバーが置かれた状況という点からみれば、限界ギリギリのアルバムだった……アメリカでの事件の余波でものすごく感情的になってたし、神経はズタズタだった。酒は飲みすぎだったし……ドラッグも十分やってた。やりすぎだった。ちょっとだってやりすぎだよね……。中途半端な印象を受けるのはそのせいだと思う。僕らのキャパシティの問題だったんだ」

『オールモスト・ブルー』

『オールモスト・ブルー』が制作された背景には、コステロがオリジナル曲に飽きていたという事実だけでなく、「オリジナル」アルバムでは接点をもつことのない人々と一緒に仕事をしたいという意向があった。自分の固定ファンに彼らが進んで聴かないような音楽を聞かせたいとも考えていた。パッツィー・クラインの〈スウィート・ドリームス〉なんて冗談じゃないと思っても、それをコステロがカヴァーすれば聴いてみようと思うはずだ。ちょっとどんな感じなのか試すだけでも……。

(略)

「当時、僕は完全にカントリーのとりこだった。今じゃ、滅多に聴かないけど。情熱が枯れてしまったんだ。とはいえ、まだお気に入りの作品はあるけどね。あの作品には別のもっと陰鬱なものが内包されている。むしろ宿命論的なタイプの音楽なんだ。今聴くと、『おいおい、こんなに落ち込んでたのか』って思う。すごく憂鬱なサウンドのアルバムだ……七九年の余波かもしれない。ありとあらゆる不幸の最後の厄落としだったのかもしれないな」

 コステロフランク・シナトラの『オンリー・ザ・ロンリー』にオマージュを捧げ、物悲しいバラードアルバムを作ることを考えていた。シナトラのカヴァーも数曲考えていたのだが、その調整手続は(そのアイデア自体も)過密スケジュールのなかであえなく消えていった。「いずれにしても、ナッシュビル入りした時はかなり憂鬱な気持ちだったんだ(略)悲しい気持ちだった。理由は分からない。具体的になにかあったわけじゃなかった。ただ、自分をそこまで追いやってしまった……どうしてあんな落ち込んでるのか想像もつかない。あるがままの感情だった。だから、僕の歌い方がわざとらしかったっていう批評は絶対に認めない」

 コステロ一行の約八日間のナッシュビル滞在は、混乱のなかで電光石火のよう過ぎ去った。レコーディング風景は〈サウスバンク・ショー〉の特別番組のために撮影され(略)すでにギリギリの状態にあった収録の進行にさらなるプレッシャーを与えた。コステロはそのとき気づいていなかったが、プロデューサーのビリー・シェリルは最初こそ楽しんでいたが、最後にはレコーディングにすっかり関心を失ってしまった。気まぐれにいつもよりやる気をだす日もあったが、シェリルが情熱を失ったのは、コステロが選んだマテリアルをカントリーミュージックの墓場から引きずり出してきたような退屈な代物だと感じていたからだった。「僕らのファンにとっては、聴き飽きた曲なんかじゃなかった」と、コステロ

ベベ・ビュエル、再び 

 さらに(当時は)あまり知られていなかった要因に、ベベ・ビュエルとの関係再燃があった。七九年末にかけて、コステロは妻子のもとに戻っていたが、八〇年代初めにはふたたびビュエルと会うようになった。(略)
[関係が数ヶ月続き、ついに妊娠]

 シングルマザーとして、もう一人子供を生むことに強い不安を感じ、また深く愛しているコステロを失うことを恐れ、ビュエルは中絶することにした。「ちょっと頭がおかしくなってたのね。真実も、それがなんなのかも理解してなかった」(略)

ビュエルは、流産したと伝えた。「真っ赤なウソだったわ(略)彼を傷つけることができれば、なんでもよかったの。彼は電話を切って、二度と私と口をきいてくれなかった。今でも、あんな別れ方を後悔してるわ。私がどんな思いをしてたか、彼は知らなかったのよ。私のことをなかなか自分のものにならない、思わせぶりでフラフラしてる、軽薄で淫らな女の子だって思ったんだもの」 

Imperial Bedroom (Dig) (Spkg)

Imperial Bedroom (Dig) (Spkg)

  • アーティスト:Costello, Elvis
  • 発売日: 2007/05/01
  • メディア: CD
 

『インペリアル・ベッドルーム』

(コステロのスタジオの並びでは、ジョージ・マーティンポール・マッカートニーの「タッグ・オブ・ウォー」をプロデュースしていた)。

(略)

共同プロデューサーであるジェフ・エメリックは、ジョージ・マーティンの友人であり[ビートルズのレコーディング・エンジニア]

(略)

 この作品の華麗なロックサウンドは完全にエメリックによるもので、それはコステロの現代的なレコーディング技術に関する懐疑的な見方とも一致していた。彼らが目指したのは、バックトラックをタイトにまとめ、音楽全体に対するボーカルの役割をより重視する六〇年代のウォーカー・ブラザーズやダスティ・スプリングフィールドのようなサウンドだった。エメリックの豊かな経験から、コステロは自分が仕事をする上でより幅広いフレームワークを創出することができた。「彼は理解不能サウンドと方向性をごちゃまぜに投げつけられ、それになんらかの意味を持たせるのに慣れていた(略)サイケデリック時代の頂点を極めていたビートルズと一緒に仕事したこともあって、時代を先取りしたり、ちょっとヤバめな方向性に走ることにも慣れていた」

 批評家からの絶賛にも関わらず、セールスはこれまでのアルバムをかなり下回り、コステロは商業的な停滞状態から抜け出すことはできなかった。レコード会社との問題は、作品がリリースされるごとに顕在化していった(このアルバムはFビートからリリースされたが、WEAはライセンス契約により、大幅な裁量権を握っていた。アメリカでのレコード会社であるコロムビアとの間にも同様の問題が存在していた)。

(略)

「彼らが間違った曲をリリースしただけさ。作品をつくるのが僕らで、売るのは連中ってことがずっと問題だったんだ。つくる立場にいれば、いつだって自分を鼓舞する新しいものを求める。でも、僕が『インペリアル・ベッドルーム』で本当に独創性にあふれる作品をつくったって思ったときも、連中はまだ僕らを『アームド・フォーシズ』のバンドだと思ってた。あの手の作品をノドから手がでるほど欲しがった。だから大胆な〈ビヨンド・ビリーフ〉やこころにしみるバラード〈オールモスト・ブルー〉をリリースしてこのアルバムを新たな出発点に位置づけるかわりに、〈ユー・リトル・フール〉を選んだ。あれは優れたポップソングだけど、それまでにやってきた曲によく似ていた。大バカだよ。ヤツらは腰が引けてた。おまけに、そういう不手際のせいでアルバムに対する熱が冷めてしまったところで、〈マン・アウト・オブ・タイム〉をリリースした。第一弾シングルだったらうまくいったはずの曲なのに、それがコケるとヤツらは『ほら、たいした曲じゃないって言っただろ』なんて抜かしやがった」

(略)

僕は他人の意見は聞き入れずにやってきた……楽曲の方向性について、特に『インペリアル・ベッドルーム』では、プロデュース上の判断はすべて自分でくだした。自分の作品を判断するのはとても難しい。みんなに間違ってると言われても、意見を通したことがいくつかあって……半年後に間違ってたのは自分だって気づいたんだ!〈キッド・アバウト・イット〉で、僕は全然しっくりこないのにオクターブで歌うと言い張った。僕としてはボーカルが一本調子になるのを避けたかったんだ。自分のテクニックに縛られてると思われたくなかった。だから対極を目指して、重複したり、相反するスタイルを取り入れ、さまざまな視点が曲に込められていることを表現しようとした。それが完璧にうまくいった曲もあったよ。むしろ、もっと演劇調の歌唱法がね。ソウルっぽい歌い方はやめて、もっとクールにオールドファッションな感覚を出したかったから」

次回に続く。