理念の進化 ニクラス・ルーマン

 

理念の進化

理念の進化

  • 発売日: 2017/04/01
  • メディア: 単行本
 

今日なお、マルクス主義の正統派の外部でも、階級概念はたいてい経済生産との関係によって定義される――だが、とくにマルクス主義者にとって叙述する価値があるはずのこの長い歴史の後では、補完、訂正、論争、訂正の修正によって内容豊かにされている。それゆえ、この生産過程への固定を避けたいと思う著作者は、たいてい階級概念を放棄し、階層や成層といった概念をもちいて書く。とくにマルクス主義に感染する以前のアメリカ人がそうである。だが問題は、(概念史的にのみ理解できる)階級概念と生産との結合は、階級概念に不要なライバルをもたらさないだろうか、ということである。

(略)

階級概念なしで行われる最も重要な準備作業は、個人の宗教的規定を放棄すること、とくに自己の魂の救済のために自己の努力を求めるのを放棄することである。宗教的規定とともにあった差異に、自然人/文明人の差異がとってかわる。この差異のなかでは、個人がふたたび所有者として存在する。個人は潔白と自由を失い、そのかわりに財産を獲得する。そして財産をとおして、個人はいっそう快楽と欲求の社会に依存するようになる。みずからの法律にしたがう規制された社会が、人間を縛る。「その瞬間から、人間の存在はいわば人間のものではなくなる」。(略)「社会は、人間にもたらす不幸が大きくなるほど、人間にとって必要になるように思われる」。市民社会では、すべてが対価を支払われなければならない。もはや、自然が直接的に利用されることはない。「したがって人間は、自由、独立の妄想を諦めなければならない。これからは自分の行動を市民的慣習の原則に合わせなければならない。それは、いわば生計を立てることのできる状態になる必要である」。

 だが財産はきわめて不平等に分配されており、それによってのみ財産でありうる。法律が、この不平等を安定させる。「法律は明らかに、富者に認められた貧者に対する保護である。法律はいわば人類の大部分に対する陰謀である、と考えかつきちんと証明するのは困難なことである。法律を課すのは富裕である。……貧者には貧困しかない。だから、法律は貧者に他のものをとっておいてはならない。法律は、余剰を所有する人間を、必要なものをもたない者の攻撃から守る傾向がある。そういう言い方が不都合なら、余剰は所有する人間の存在と不可分である。それゆえ起源を掘り下げてみると、この体系の設計者がその構成に最も関心があったことがわかる。貧者にその権利を攻撃される人びとは、その構成を気にかけなかった。人は、自分が高貴なときは、彼らに尊敬の義務があると告げた。だが人は彼らに政策も管理も委ねなかった」。この目に見える不公正に対しては補償メカニズムがあるだけである。それをとおして富の一部が分配される労働の必要がそれである。「骨の折れる生業」が、問題を緩和する。「それは、不平等を改めることなく、不平等を許容できるようにする」。富者と貧者は同じ必要のなかに組み入れられており、そのかぎりにおいて不自由である。秩序がもたらすのは、「自分が自由だと思うのを妨げることなく奴隷化すること」である。

 ブルジョア的秩序は、このように自己を描写している。われわれが依拠している原典は、一七六七年に出版されている。十九世紀には、政治経済学の拡張とともに、個人主と貨幣経済の関連についての認識が確固たるものになる。とりわけこの認識は、経済システムにおけるレベルの差異についての理解の進展から出てくる。個人の豊かさ(ないし貧しさ)だけが貨幣で計ることができ、これに対して国民の豊かさは貨幣では計れない、というのである。さらに考慮すべきは、そもそも個人に焦点を合わせることによってはじめて、下流の庶民階級が重要な社会的存在にみえる、ということである。社会分化が家族の分化と考えられるかぎり、下流の庶民階級は、その家族が遺すべきもの、守るべきもの、意義のあるものを何ももたないという理由からしてすでに、考慮されることがなかった。

 これらすべてのことが、十九世紀の最初の数十年で決定的になった。マルクスが言うべきことが何か残っているだろうか。ブルジョア社会は、自己自身に対する異議申し立てをともなって進む。これらすべてが必然だということを、疑うくらいのことはまだできる。ラングは、階級概念をまったく使わずに、自分の構想を定式化している。それによれば、秩序は労働によって埋め合わせられる差異である。階級概念が付け加えられ、階級概念をもちいて分配の再分配を定式化できるようになると、偶発性が必然性にとってかわる。主要差異を新しく取りえることができるようになる。自然人/文明人という差異の場合は、文明の不可避性がそのすべてのとともに定式化されるが、それに階級の差異がとってかわる。だがこの差異は、自然/文明の差異とは異なり、必然的でないものとして扱うことができる。そのため十九世紀は、他のようにもありうるという考え方に酔うことがでる。そしてマルクスは、他のあり方を必然的なものとして示す理論構成を提供する。

(略)

個別的なもののなかの普遍妥当性を判定できる「基準」についての長い議論のあとで、カントの『判断力批判』に続いて新人文主が普通的なものを個人のなかに移し、それとともにいわば実存化した。それによって個人の概念は、個別的なもののなかの普通的なものについての問いに答えるための形式になった。その答えは、誰もが他のすべての者と同じく少なくとも個人なのだから、個別的なものはその個性のなかで普遍的なものである、というものだった。それによって伝統的な個性の概念は逆転させられた。個別的なものはもはや、規定が追加されていく連続体上で普通的でない側のものとはみなされなくなった。むしろ、誰もが自分の個性を個別的なものとして与えられているかぎりにおいて、まさに個別的なものが普遍的なものとみなされるようになった。

 これはさしあたり当然のことながら、あらゆる私的な意向の正当化、すべての要求の正統化とは考えられていなかった。むしろ普遍的なもののなかでは、つねに理性との関係、同意可能性との関係、秩序との関係、最後に世界全体との関係が、あわせて考えられていた。そのようにみると、個性は、普遍的なものとしてのみ、できるかぎり多くの人間性の実現としてのみ、人が自分自身のなかで獲得できるものだった。だがすでにヘーゲルは、具体的な人格が自己の欲求の全体としてしか自己をもつことができず、他の普遍性との関係においてしか自己を獲得できない秩序として、ブルジョア社会を特徴づけていた。マルクスの分析では、産業化の結果として観察できる厳しい事実を前に、あの統一関係は完全に壊れてしまった。世界はもはやまともな状態ではない――そしてふり返れば、農業、搾取、剰余価値吸収が導入されて以来、一度もまともな状態ではなかった。世界と社会の統一の位置に、マルクスは闘争をおく――そして異なる未来への希望をおく。統一は差異である。より厳密には、統一は、二つの側でそれぞれ経験されることによって矛盾になるような差異である。そうだとすると、個人が自分の個性を普遍的なものとして投影できる統一は自分の階級だけであり、それも他の階級と闘争している自分の階級だけである。

 このことはふたたび理論にもう一つの問題を押しつける。それは、いかにして階級の統一は個人の統一として捉えられるか、という問いである。階級が普遍的なものの代替物としてはたらくばあい、個人がある階級に帰属させられるだけで十分なのか、個人はある階級に属する者として自己を捉えなければならないのか、さらに個人は階級闘争に夢中になり、集会に出るといったことをしなければならないのか。この問題は通常、意識的な階級との同一化、連帯、共同体感情、あるいはそれに類するものについての問いとして立てられる。階級の差異は、自己の境遇を偶発的なものとして、自己の不遇を恣意として経験すること、またそれに怒って同意見の人びとを探すことを可能にするのか、またいかにして可能にするのかと問えば、理論的にもっと首尾一貫するかもしれない。だが首尾一貫して考えると、客観的規定と自己規定の矛盾はとりわけプロレタリアに(資本家にではない!)自分の階級との同一化を強いる。階級はプロレタリアにとって普遍的なものの代替物である。

(略)

 階級概念、多次元性、統一の規定についてあげられた二つの議論の路線は関連している。このことは、両者の諸前提にさかのぼってみれば、簡単にわかる。二つの議論のなかで最終的に問題となるのは、「階級」と呼ばれる諸単位への個人の分配であり、そのさい個人の分配は、何がどれくらい個人に分配されるかによってなされなければならない。多くもつ者はある階級に属する。少なくもつ者は別の階級に属する。いいかえれば、階級概念は分配の分配を整理する。階級概念は分配過程の再帰性を(それとともに変更可能性=再分配可能性も)表現している。そのため、階級を廃止すれば分配の再帰性もふたたび消え去り、分配をふたたび自然に委ねることができる、という考え方が起こったのは偶然ではなかった。また、分配の再帰性は二度と免れることができないようだと悟らざるをえない場合、分配の分配が統一として考えられる位置に国家がくるのは偶然ではない。

 この理論の文脈のなかで、階級概念は大なり小なり解体されてしまっている。十九世紀半ば以降、階級概念は批判を浴びている。階級概念の党派的利用にはそれなりに影響が残っている。中流階級への希望は「階級理論」の射程と政治的「偏向」の批判によって取り去られる。今なお階級概念を支えているのは、明白で疑う余地のない不平等分配の証拠である。そこから、階級概念はつねに新しい説得力を引き出す。だが、個人を分配に分配するためにもちいるべき理論的概念として、階級概念は威力を発揮していないように思われる。このことは、たとえばマルクス主義やいわゆる機能主義的な階層理論があげる階級帰属の決定因の折り重なりが、批判にほとんど耐えられないこととはまったく独立である。だが、分配の分配が階級の差異の統一によって媒介されるという中心的な考え方を堅持したければ、あるいは少なくともそれが事実なのか、どこまで事実なのかを明らかにしたければ、そのために威力を発揮する概念が必要である。