- 『ファンキー・ジャンプ』石原慎太郎
- Let's Get to the Nitty Gritty<未訳>ホレス・シルヴァー
- Prestige Records The Album Cover Collection<未訳>
- Jazz Masters of the 40's<未訳> アイラー・ギトラー
- Notes and Tones <未訳>アート・テイラー
- マイルス・デイヴィス自伝
- チェット・ベイカーのすべて
- In the Groove : The People Behind the Music <未訳>
- The Lady Who Shot Lee Morgan <未訳>
行方均が色んなジャズ本を引用をまじえつつ紹介。
『ファンキー・ジャンプ』石原慎太郎
日本最初の本格的ジャズ(&ドラッグ)小説
「それ程、今日の敏夫の“ファンキー"は素晴らしい」(略)
[ブレイキー初来日]1年半前の1959年夏に発表された石原慎太郎の短編小説『ファンキー・ジャンプ』(略)
主人公のジャズ・ピアニスト松木敏夫(マキー)は、かくて「アートブレーキの招待で」二ューヨークのバードランドに出演し、輝かしい名声を手にします。しかしその一方で、「ニューヨークから帰ってのこの半年、敏夫の健康は目に見えて非道い」。「麻薬を止め、その効能に代るものを捜すために酒を飲み出して胃を滅茶苦茶にし、挙句に彼はまた薬に戻っている」(略)
ジャズ演奏そのもののリズムとアドリブを感じさせる散文詩のような言葉の連鎖が、演奏中の敏夫の意識の流れに沿っていきます。本編はつまり、ジャズについての小説であると同時に、小説自体がジャズのように自発的、即興的であろうとする実験的な試みでもあります。
果てに敏夫の意識は狂気へと陥っていきます。いソノてルヲ氏の名前をアレンジしたと思われる『スイングジャーナル』の寄稿家タツノ照彦はこう呟きます。
「見ろ彼は狂っている、弾きながら完全に狂っている!しかし彼は完成したよ、(中略)こりゃあ本物だ。本物のビ・バップだよ!」
(略)
ファンキーという言葉が一般に伝わったか伝わらないかのこの時代に、これだけのジャズ小説を書いたわけです(略)
Let's Get to the Nitty Gritty<未訳>ホレス・シルヴァー
タイトルは「肝心なことを語ろう」といった感じです。(略)
なぜジャズ・メッセンジャーズを去ったのか。
本書中でホレスはこう明言しています。
「メンバーに蔓延しているドラッグがいやで私はJMを辞めた。ベースのダグ・ワトキンスと私だけがドラッグに手を染めていなかった」
(略)
ある日、アートの車に便乗した時、検問で薬と無許可の拳銃が見つかりアートもろとも投獄されしまいます。
(略)
「ギャラはなぜかすべてアートに支払われ、彼はそれを分配しなかった。ヤクにつかってしまったのに違いない。(中略)仕事しただけの取り分は守ろうと思って、私は問題をユニオンに持ち込んだ。他のメンバーはそうしなかったし、私もするべきでなかったのかもしれない」
(略)
「変わらずアートが大好きだった。ヤク中とわかっていて、彼を憎んではいなかったし、敵意があったわけでもなかった」(略)
以後数十年、当初のわずかな例外を除いてふたりに共演はありませんが、「1989年か90年ころ」、アートが亡くなる少し前の、ハリウッドの劇場での感動的な再会と共演に本書は触れています。
Prestige Records The Album Cover Collection<未訳>
アイラ・ギトラーが、序文にユーモア混じりでこう書いています。
(略)
「(略)ブルーノートはフランク・ウルフの写真を生かすために複数の専門のデザイナーを雇った(略)一方、プレスティッジには(なんでもやらされる)私がいた」
(略)
アイラのジャズ界の初仕事は同社の雑用係だったようです。50年の後半に入社すると、SP盤の荷造りや荷ほどきをし、近所にビラまきをし、広告を作り、DJ やコラムニストに宣伝し、「一日の終わりには床を拭いた」
10インチLP シリーズの117番『スウィンギン・ウィズ・ズート・シムズ』が最初に裏面のライナーノーツを乗せたプレスティッジ盤だったそうで、アイラはこの原稿を書き、それと共に「私のデザイナーとしてのキャリアは終わった」
Jazz Masters of the 40's<未訳> アイラー・ギトラー
[リー・コニッツ回想]
「最初はトニー・フルッセラのセッションになるはずだった」(略)[だが]トニーがやりたがらなかった。するとボブが、君はやるつもりがあるかと聞くんだ」
こうして名門レーベル第1号アーティストの栄誉を手にするチャンスはコニッツに回ってきます。
(略)
[追記]
1 :それにしてもプレスティッジの1作目がトニー・フルッセラ&リー・コニッツ・カルテットだったら世の中はどうなっていたんだろう?もちろんどうにもなっていませんが、マイルスやロリンズ、モンクを抱えながら、50年代後半にはソウル・ジャズの広大なエリアを拓いていくプレスティッジの出発点に創立者が望んだのは、知的で詩的な白人ジャズだったのです。実際、コニッツにはスタン・ゲッツが続く。しかしレーベルはやがて時代のうねりに巻き込まれ、これに身を委ねていきました。
ボブ・ワインストックは複数のプロデューサーを雇い、可能性を広げようとしました。(略)
自然体で運営を進めた結果、大衆的なソウル・ジャズが多くを占めるに至った、ということだと思います。
Notes and Tones <未訳>アート・テイラー
本書はドラムスのアート・テイラーによる、仲間のミュージシャンのインタビュー集です。
(略)
[インタビューを申し込まれ]最初は呆れてATの顔をじっと眺めていたマイルスも、結局承諾します。
AT 映画はよく見にいくの?
MD 『卒業』はとてもよかったな。けれど俺は、こういう白人のために白人が作った映画に我慢ならない。黒人を感情のある人間扱いした映画にお目に かかりたいものだ。恋したり、振られたり、スポーツカ一転がしたりな。そんな映画はないから、俺は行かない。行く時は金を恵んでやっている気分だぜ。ちっぽけな金な。
マイルス・デイヴィス自伝
[前回の本でATに「ジャズ以外に聴く音楽は?」と問われ「ここに『ドリトル先生』があるぜ」とマイルスが答えた理由]
「その頃コロンビアはギルとオレに『ドリトル先生』のジャズ・ヴァージョンを作らせたがっていた。いいか、『ポーギーとベス』がオレの一番売れているレコードだったから、コロンビアの間抜けでアホな奴が『ドリトル先生』だったら大ヒット間違いなしと考えたんだ。
(略)
60年代末のジャズ低迷期(略)
「スティーヴ・ミラーというお粗末な野郎の前座をしたことがあった」(略)
会場のフィルモア・イーストにわざと遅れて行って、「奴が最初に出なければならないようにしてやった」のだそうです。
こんな時期、マイルスの音楽は既に大きく変わりはじめていました。――「頭の中で鳴っているサウンドに追いつくために(スタジオの)電子楽器がどんどん増えて行った」「エレクトリックが音楽をダメにすると考えている純粋主義者はゴマンといるが、音楽をダメにするのは、どうしようもない音楽そのものなんだ」。革命的な『ビッチズ・ブルー』が世に出たのは、マイルスがフィルモアの前座扱いに激怒していた頃のことです。
チェット・ベイカーのすべて
「マリガンがバラードも入れた方がいいと考え、そこでスミスが(略)ある無名の曲を取り上げないかと提案したのである。彼はある古いソング・ブックの中でこの曲を見つけ、以来ずっとそれが頭の中に残っていたのだった」
マリガンとはジェリー・マリガン、スミスは彼のベーシストのカーソン・スミス、そしてこの無名の曲は〈マイ・ファニー・ヴァレンタイン〉。今や知らぬ人のない大スタンダードですが、1952 年の時点では、「(歌手) ふたりほどしか」録音していなかったといいます。
(略)
そのロマンティックな演奏や甘い容貌と相俟ってチェットも人気スターへと躍り出ます。ファンタジー版はインストですが、チェットはじきに歌も歌うようになり(略)
『チェット・ベイカー・シングス』に名高いヴォーカル版を吹きこんでいます。
In the Groove : The People Behind the Music <未訳>
[アルフレッド・ライオン談]
「当時の大レーベルのレコードを聴くと、ドラマーはどこか背後に押しやられているものばかりだった。ほとんど聴こえない。ソック・シンバルなんてまったく聴こえやしないんだ」
(略)
もとよりアート・ブレイキーといち早く契約し、ジャズの本線とは別に一連のパーカッション作品群を録音するほどの打楽器好きですから、不満も大きかったでしょう。
1950 年代前半のそんなある日、リード奏者のギル・メレを通じてルディ・ヴァン・ゲルダー (RVG)と出会ったアルフレッドは、「確か25歳」のこの若いエンジニアにすべての録音を委ねていきます。
「ルディは小さなスタジオを持っていて、ジャズ・ファンで、耳がよかった」
「私はどんな音が欲しいかを伝え(中略)、ルディはそれを実現しようと努力してくれた」
マイクを1本至近に立てることで、ドラムスの問題は解決されたといいます。
(略)
[RVGは]プレスティッジ他さまざまなレーベルの録音を手がけましたが、「サウンドは違う。わかるかい?私たちだけに通ずるものがあったのだ」
他のレーベルはスタジオの時間やテープの節約を第一に考え、プレイバックを聴くことも満足にしなかったといいます。
「しかし私は時間の超過なんて気にしなかった。それがいくらかかろうとも。やるべきことをきちんとやりたかった」
The Lady Who Shot Lee Morgan <未訳>
Larry Reni Thomas
この冬公開予定のドキュメンタリー映画『私が殺したリー・モーガン』の原作です。(略)
33歳のリーは内縁の妻ヘレンに射殺されてしまいます。ヘレンは2級殺人罪(過失致死)認定され半年後に仮釈放されますが、ジャズ界と一切の連絡を絶ちます。
1980年代後半、ウィルミントンの大学の成人教室で歴史を教えていた著者は、ジャズ・ラジオの DJも務めていました。自身のバイオを配布したところ、ある生徒からこう話しかけられたといいます。
「私もジャズ大好きですわ。だって主人はジャズ・トランペッターでしたから」
60歳前後の女性でした。「ご主人のお名前は?」著者が尋ねると、「リーよ。リー・モーガン」。すべてを察した著者は切り出します。「いつかぜひインタヴューさせてもらえませんか?」。「考えておきますわ」とヘレン。
“リー・モーガンを殺した女”唯一のインタヴューが実現したのは8年後の96年2月。(略)翌月、彼女は心臓発作で世を去ります。