愛国の構造 将基面貴巳

愛国の構造

愛国の構造

 

キリスト教化と愛国

 このように一六世紀以降、パトリオットという用語が広く用いられるようになったが、マウリツィオ・ヴィローリは、一六世紀中盤から一七世紀にかけては、共和主義的パトリオティズムが衰退と再生を重ねた時代であったとも指摘している。すなわち、パトリオットが追求する政治的義務の源としての「祖国」とは、もはや共和政体や共通善としての自由であるとは必ずしも理解されなくなった。国家や君主への忠誠こそが祖国への愛であるという理解も広まりつつあったのである。そうであればこそ、一七世紀イングランドにおいて、パトリオットであることは、必ずしも議会派によって主唱された共和主義的立場を意味せず、政治的立場を超えて共通にパトリオットであることが望ましいとされた。こうした事態の背景として、ヴィローリは、国家理性のイデオロギーが広まりつつあったことを指摘している。この点に加えて、一七世紀イングランドにおけるパトリオティズムのもう一つの特徴は、愛国的であることを望み、またそのように認知されることを欲したことにおいては、ピューリタンであろうと国教会派であろうと、宗教的立場を超えて一致していたということである。

 その点で、一八世紀フランスにおいて、祖国愛を持つことと宗教的信条に服することとが対立的に捉えられるようになったことは注目に値する。実際、ジャン=ジャック・ルソーはパトリオティズムキリスト教信仰を相反するものとして捉えていた。愛国的態度と宗教的信仰の関係をめぐるこのような新しい理解は、脱キリスト教化という意味における世俗化というよりは、宗教信仰の内面化を反映するものだったと指摘されている。しかし、そのことを裏返せば、愛国的であるということが、市民宗教と化し聖性を帯び始めたことを示唆する。キリスト教という宗教的信仰が、個人の内面の問題に押し込められた一方、国家に対する公共的な崇拝が一般化し、それをルソーは市民宗教と呼んだのである。

 前述したように、パトリオティズムという概念がフランスで普及し始めたのは一八世紀中盤以降のことである。(略)

アンリ=フランソワ・ダグゾーによる一七一五年の祖国愛についての演説である。そこで語られた「祖国」とは、一七世紀イングランドにおいて見られた共和主義的解釈に似て、「国王」とは切り離された別の存在であり、それは「完全な平等」と「市民的兄弟愛」を享受する「市民」の集合体を意味した。したがって、ダグソーによれば、 祖国愛は、共通善への愛を意味するのであって、君主への愛を意味するのではなかった。(略)

つまり、「祖国」はすでにそこにあるのではない。人々が市民的徳性を持つかどうかにかかっているような存在として理解されていた。

王党派に乗っ取られた愛国的言説

政治的美徳を持つ「祖国の市民」は、公私の領域を問わず、私益を優先する「腐敗」に反対し、「祖国」と同胞である市民たちに献身する人々である。このように、祖国愛を政治的美徳として理解する当時の代表例としてあげられるのは、モンテスキューであろう。ここで注意すべきは、「愛国」の立場が、保守的な運動ではなく、むしろ政治改革の運動と結びつけられて用いられたのが一般的だったことである。

 しかし(略)そのことは必然的に反国王的な色彩を帯びることを意味したわけではなかった。実際、一七五〇年代以降フランス革命の勃発に至るまで、フランス王党派も、一七世紀のイングランド王党派と同様に、パトリオットであると自称する新たな傾向が生まれていた。すなわち、フランス王政は暴政ではなく公共善に奉仕するものであると王党派が主張する上でも、パトリオットという名称が利用されたのである。従来、共和主義的で反体制的な政治的正当性の根拠として用いられてきた愛国的言説をフランス王党派がハイジャックしたわけである。

(略)

王党派、反体制派を問わず広く用いられ(略)

使用頻度が、一七六五年以降激増し、愛国的言説が世に溢れることとなった。

 こうした状況を踏まえて、デイル・ヴァン・クレイは、一八世紀のパトリオティズムを大別して二種類があったと主張している。一つは、今日我々がしばしば見聞する、ナショナリズムとほとんど区別のつかないパトリオティズムであり(略)

もう一つのパトリオティズムとは、国境を越える(トランスナショナルな)パトリオティズムである。(略)

中世末期から近代初期にかけての共和主義的な愛国的言説における「祖国」とは(略)

国境を越えた統一性というコスモポリタンな意味合いを伴うこともあった。

(略)

王党派によって乗っ取られた愛国の政治言語に共和主義的な反体制派がこだわり続けたのはなぜなのか。アンシャン・レジーム下ではいかなる公共的空間においても国王の政策について批判的に論じることは正当性を主張し得るものではなかった。検閲によって世論をコントロールすることが常態化していた状況下では、公的問題を論じる著作家たちは当局による介入をかいくぐって作品を発表するためのレトリック上の戦術が必要であった。その戦術とは、その著作者が「あまりにも強力で抗しがたい美徳の衝動(つまり、善良な市民の祖国愛)に駆られた」という立場を明確に表明する以外ではありえなかった。一七世紀イングランドの場合と同様、一八世紀フランスでも、愛国的であるということは、道徳的正当性を主張することにほかならなかったのである。こうして、一八世紀中盤以降、パトリオティズムについて語る公共空間は、王党派と反体制派の間で、どちらが真に愛国的かをめぐる、政治的せめぎ合いの場として立ち現れたわけである。

 さらに、王党派による愛国的言説は、パトリオティズムの思想史において、別の意味でも一つの画期をなしている。愛国的言説は、一六ー一七世紀のフランスやイングランドにおいて、政治的危機という状況下で盛んに用いられたものだった。(略)

しかし、一八世紀中盤以後の王党派は、愛国的言説を「政治生活における通常の永続的な特徴」に仕立て上げたのである。愛国について語ることはもはや戦争のような危機的状況を前提とするものではなく、日常的な政治的原則へと変貌した。

 しかも、その日常化した愛国は、王党派によって、国王と臣下との間の親子関係に似た愛情関係として正当化された。一八世紀を通じて世俗化が進行した結果、フランス絶対王政は、王権神授説にその正当性の根拠を求めることが次第に難しくなっていた。そうした事態を受けて、現世的でありながらも容易に批判を許さない正当性の根拠として、国王を「人民の父」に見立てる家族国家観を提示するに至った。

(略)

 このように愛国的言説が新たな装いのもと、王党派的立場を正当化するものとして登場してからは、愛国的言説は大きく二つに分裂した。王党派にとって「祖国」は愛国的な国王によってすでに実現されているものであると主張された一方、反体制派にとって「祖国」はいまだ実現されていない理想・理念であった。

 ちなみに付言すれば、一八世紀フランスにおいて、愛国的言説が世に溢れたもう一つの原因は、一七世紀以来イングランドで展開を見た愛国的言説がフランスで注目を集めたことであった。(略)

イギリスの政治経済における成功により、とりわけ一七五〇年頃から、フランス啓蒙主義知識人の間で「アングロマニア」とでも称すべきイギリスびいきの風潮も存在した。モンテスキューがイギリス立憲主義を高く評価したのも、そうした傾向の一端であった。

「ネイション」という概念 

ナショナリズムの台頭とともに観察された重要な変化とは、「祖国」や「ネイション」の概念が第三身分を包含するようになったことである。

 一七八九年、シエイエスが『第三身分とは何か』の中で論じたのは、第三身分が国民公会を組織し、聖職者や貴族階級と交渉を持つべきではないということだった。このころまでには第三身分の主張は「ナショナル(国民的)」と形容されることが多くなっていた。すなわち、それまで絶対王政専制に対抗する反体制的な愛国的立場は、次第に、とりわけ第三身分の政治的主張に収斂してゆき、その政治的主張こそは「ナショナルな」ものであると広く認知されることとなったのである。こうして単数形の「ネイション」という語がルイ一六世の治下で爆発的に流行した。そうした新しい流行語を用いたのは、民衆や兵士たちであった。彼らは自分たちこそが「ネイション」であり「パトリオット」だと高唱したのである。

 そうした「ネイション」を「パトリオット」という名称で呼んで敵視したのはほかならぬフランス特権階級であった。(略)

聖職者にせよ貴族にせよ、彼らが連帯感を抱く対象は国境の外の同じ身分の人々であって、相対的に低い身分の同国人たちではなかった。「ヨーロッパ」とは、権力や富、教養を有するものたちが国境を越えて構成する一つの「(上流)社会」であったのである。そうであればこそ、ジャン=ジャック・ルソーはこういった。「今日では、人がなんと言おうと、もはやフランス人、ドイツ人、スペイン人、あるいはイギリス人ですら存在してはいない。ヨーロッパ人がいるだけだ」。そうしたヨコの連帯に打ち込まれた楔こそが「ネイション」という概念であった。貴族階級や知識階級にとって国境を越えてヨコに広げられた「ヨーロッパ」を、「ネイション」という概念は、いわばタテに分断することになったのである。そして、その新しい「ネイション」概念の主唱者たちは、第三身分、殊にブルジョア階級の人々であった。

「祖国」の概念の変貌 

フランス革命は一つの決定的な変化をもたらした。それは、革命を通じて、フランス人民がもはや国王の支配下にある雑多な住民の集合体ではなく、フランス・ネイションとして把握されることとなったということである。「祖国」であるフランスは、フランス・ネイション、ならびに国境によって明確に外国と峻別された領土からなるものとして観念された。こうして「祖国」の概念も変貌した。「祖国」はフランスに実現したのである。一八世紀初頭において、「祖国」は共通善を熱望する市民がいて初めて存在しうる理想的存在にすぎなかった。フランス革命を経て、「祖国」はすでに実現したものとして観念されるに至ったわけである。

 そもそも、「祖国」や「ネイション」概念が一八世紀中盤以降、流行語になったのは、フランス人がフランスを一つの「祖国」にしよう、そして、ただ単にフランス人であると呼称されるだけの存在ではなく、フランス人が自らフランス「ネイション」になろうとする政治的意思を盛んに表明するようになったことを示唆している。それは、国王があって初めて政治共同体が成立する「王国」ではなく、平等な市民たちだけで自立した「社会」を形成しようという意欲の現れであった。

(略)

 では、なぜフランス人たちは、自ら一つの「ネイション」であることを望んだのか。

(略)

キリスト教会にせよ、王権神授説に基づく王権にせよ、神によってこの世の事柄の意志決定がなされることが当然視されていた時代が終わりつつあったのである。神の創造する秩序のうちに自分を位置づけることに代わって台頭した世界秩序観は、自分たちを一つの「ネイション」として把握すること、世界に多数存在する同等な諸国民の一つとして自らを理解することであった。

 (略)

キリスト教信仰が個々の信者の私的な内面意識に限局化される傾向が増大し、公共的な秩序の理解から切り離されることとなったことを意味するとともに、それに代わり、この世の「祖国」(および「ネイション」)に聖性が見出されるようになった。「祖国」は「神的なるもの」「聖なるもの」として表現されるようになったのである。

 しばしば、ネイション意識の台頭は世俗化の一環として論じられるが、しかしそれは、必ずしもキリスト教的な伝統からの決別を意味したわけではなかった。なぜなら、ネイションを単位とする新しい秩序観のモデルになったのは、宗教改革以後においてヨーロッパ世界に林立した諸キリスト教会だったからである。ローマ・カトリック教会プロテスタント教会諸派は、信者の獲得をめぐって競争し、農奴身分を含む全ての社会階層の人々を教化するようになった。ヨーロッパ世界はこうして、教会を一つの単位として、社会階層の上から下まで同じ信仰を共有するように再編されたのである。そうした信仰を中軸とする社会的規律化が、近代初期のヨーロッパにおける宗派的対立構図の中で教派ごとに実践されたことは、近代国家の形成過程において重要な役割を果たした。(略)

宗派化は近代国家の組織形成のモデルとなり、局地的でもヨーロッパ的でもない均質的な諸文化圏を形成することを促進した。そうした各文化を基盤として、ネイション意識を社会階層的に上から下まで共有する体制を生み出すこと、すなわちネイション形成プロジェクトとしてのナショナリズムが、キリスト教会の教化活動を範にとって構想されたのである。

(略)

 ネイション形成というプロジェクトが包括的かつ体系的な人民教化運動のプログラムとして成立するにあたって、ネイションの歴史が新たに構想された。歴史は、模範的な共和主義的市民の属性を体現した「偉大なフランス人たち」の物語として語られた。一九世紀には、ジュール・ミシュレがフランス国民の歴史を、選ばれた民の神話として語った。(略)

歴史はネイションを新たに形成する手段として再構想され、そうした教育目的を持って執筆された。このような新たな歴史のナラティヴが替及し「ネイションの歴史」が広く一般に共有されるようになると、まさに形成途上にあるはずのネイションが、あたかも遠い昔からもともと存在していたかのように観念されることになった。

(略)

[まとめると]

パトリオティズムの担い手は、従来、社会的特権階級に限局されて理解されていたのが、革命イデオロギーにおいて根底から覆され、特権階級に対抗する第三身分こそがネイションでありパトリオティズムの担い手であると考えられるに至った。この際、ブルジョアジーによる第三身分の組織的教化が認識され、実行に移された点が決定的に重要である。第三身分をネイションに作り上げる教化活動、すなわちネイション形成プロジェクトこそが、フランス革命以後のナショナリズムをそれ以前のナショナリズムから区別する重要な特徴である。その結果、パトリオットとして想定される人々、つまりパトリオティズムの担い手が社会階層的に下へ向かって大きく拡大した。こうしてナショナリズムと絡み合ったパトリオティズムが出現したのである。

次回に続く。