ブレードランナー証言録

第一章 ハンプトン・ファンチャー

ブレードランナー』とフィルム・ノワール

[原作]は気に入らなかったが、映画の視点から見て一つ興味深い要素があった。それは一人の男が何体かのアンドロイドを追跡するというもので、そのような部分をもとにしてアイデアを積み重ねていった。構造的にはかなり単純なものだった。それが本から提供されたアイデアだ。

(略)

当時はレイモンド・チャンドラーの作品をたくさん読み漁っており、それがきっかけでフィルム・ノワールについて思いついたんだ。主人公がやさぐれたアルコール依存症で、失望のどん底にあるシニカルな男であれば、おもしろくなるだろうと思った。結婚しておらず、孤独だ。私は配役にロバート・ミッチャムを想定して書き進めていった。

 ちょうどその頃リドリー・スコットが関わってきた。最初はロバート・マリガンという別の監督がいたが、引き継いだリドリーはフィルム・ノワールのアイデアを理解してくれた。(略)

その段階では、アパートの中という非常に限られた空間でストーリーは展開し、まだあの独特の世界は存在しなかった。それがじわじわ発展していった。

(略)

それから脚本が大幅に直され、ハリソン・フォードがその役にぴったりであるように思えてきた。ただ、その配役について確信をもてる者はいなかった。ハリソンはまだスターになっていなかったからね。(略)

デッカードレプリカントか?

答えを明確にしない方がいいと思う。(略)

疑問符のままにしておくほうがおもしろい。(略)

リドリー・スコットははっきりさせたがったが、私はそのことで彼と言い争ったんだ。

 最初のヴァージョン

──『ブレードランナー』にはいくつのヴァージョンがあるのでしたか。

七つだ。

──それぞれの違いをどう考えますか。

最初のヴァージョンのデッカードのヴォイスオーバー(一人称の語り)は、みんなバカげたアイデアだと思ったね。ひどかった。ナレーションがない新しいヴァージョンはすばらしかった。でも今思い起こすと最初のヴァージョンに対してノスタルジックになってしまう。当時は陳腐な手法だと思っても、後から思い出すと感傷的になるものだ。日によって気分が変わるように、いろいろなヴァージョンが好きになることがある。

フィリップ・K・ディック

ブレードランナー』については映画を作りたかった。だから本当はディックに脚本を書いてほしかった。(略)

[だがどこにいるのか誰もわからず諦めていた時、ビバリーヒルズの通りでレイ・ブラッドベリが話しかけてきたので、ディックについて尋ねると電話番号を教えてくれた]

ディックはロサンゼルス近郊のオレンジ郡にある大学で教鞭をとっていた。ディックは私のことを好きじゃなかったと思う。『電気羊』の映画化なんて嫌だったはずだ。彼から『ユービック』という著書をもらったが、私は気に入らなかった。『電気羊』もあまり好きではなかった。ただ、いい映画になると思っただけなんだ。でもそのときは、何も起こらなかった。

 それから数年して、友人であるブライアン・ケリー(『ブレードランナー』のエグゼクティブ・プロデューサー)がプロジェクトを探していたので、ディックに会いにいくように言ってみた。するとブライアンは映画化権が取れたと言ってきた。(略)

[ちょうどフランスの会社とのオプションの期限が切れたところで]

二〇〇〇ドルで取得することができたんだ。ディックはお金が必要だった。

(略)

──ディックは、薬物の影響下にあったと伝えられますが、実際はどうでしたか。(略)

私の目にはパラノイアに見えたが、薬物の影響か、もともとの性格かはわからない。まるで別世界に住んでいるような男だった。話している途中で突然止まって、また話し始めると言う変わった人。ただいろいろなものを超越した、非常に興味深い天才だ。

(略)

彼の作品にはあまり興味がない。(略)彼の作品を気に入ったことはない。読んだのは『ユービック』と『電気羊』だけだが、どちらも気に入らなかった。

(略)

──(略)[原作とは]かなり違う作品に発展したように思いますが。

まったく違う。ただ原作の中には、映画にとって非常に重要なことが、いくつかある。一つは「人造人間を破壊するために、探し回る人間」というアイディアだ。フォークト・カンプフ検査も重要だ。

第二章 マイケル・グリーン

『2049』での自分の仕事は、デッカードが人間であるのかないのか、という問いに対する答えを出さないことであると直感的に理解しました。答えを出すのは、バカげています。

ライアン・ゴズリング

──さきほどライアン・ゴズリングを念頭に置いて書いたと言いましたが、その時点では彼のキャスティングはすでに決まっていたのでしょうか。

まったく決まっていませんでした。さきほど言ったように最初はリドリー・スコットの助けを借りながら書き、それに対してスタジオがOKを出しました。次に重要なことはハリソン・フォードを引き入れることでした。もしハリソン・フォードがノーと言えば私が書いたヴァージョンは却下されてしまいます。ですからハリソン・フォードがそれを読んで受け入れてくれたときは歓喜の瞬間でした。

ニアンダー・ウォーレスの倫理観

 彼は目が見えませんが、自分には視力があると思っています。それにははっきりとした理由があります。事の是非はさておき、人類の未来は自分が見通したいと思っている特定の事柄につながっていると彼は信じているからです。(略)

彼は自分の行動や現実を、彼の言葉で言うと「崇高的な目的」のために正当化してきました。彼は一万年、二万年先を見て人類の未来を救おうとしている、その結果、自分の眼前にいる生物の苦痛を取るに足らないものだと考えてもいいと信じています。

レイチェルの寿命

──レプリカントの間に子どもが生まれるというアイデアはあなたのものですか、ファンチャーのものですか。

それは難しい質問です。すべて二人が生み出したというべきかもしれません。

──レイチェルには寿命がなかった、ということはネクサス7型ですか?

それは誰を信じるかによります。彼女が無期限の寿命であるというヴォイスオーヴァーが入るヴァージョンもあれば、ガフが「残念ながら彼女は長くは生きない」と言うヴァージョンもあります。彼女がネクサス7型であるとか、8型であるとか、あるいはまだ世に出ていないまったく新しいヴァージョンであるとか、信じたければどれを信じてもいいのです。レイチェルが妊娠していなければ生きていたかもしれない、というのは解釈の余地があります。生きていた可能性もありますし、子どもができたために死んでしまったのかもしれません。彼女が元々そのようにプログラムされていた可能性もあります。

第三章 渡辺 信一郎

[リドリー・スコットのヴィジョンと執念]だけではこんな作品にはならないでしょうね。(略)[キャスト・スタッフのせめぎあい、アクシンデントなどの奇跡的偶然で生まれた名作]
──『ブレードランナー』は奇跡の産物であったと。

関係者の話を聞くと、ハンプトン・ファンチャーの存在も大きいみたいですね。(略)

作品の基本的なトーンを決定づけたらしくて。彼の最初にあげてくる脚本は脚本というより散文とか詩のような感じらしいんですよ。そこから直しを経てだんだん脚本っぽくなるそうなんですけど、おそらくこの作品の詩的な部分は、彼に負うところが大きいんじゃないかな。

(略)

監督のドゥニ・ヴィルヌーヴが言ってたんだけど、ファンチャーに脚本に関して相談すると、その返信として詩が送られて来たらしくて。

(略)

ケミストリーが起きた、というとキレイな感じがするけど、実際はもっとカオス状態というか、制作ももめまくってるしキャストやスタッフとも喧嘩状態だったりで、そういう緊張感が奇跡的にいい方に作用しているという(略)

あとリドリー・スコット監督は美術畑の出身なんですごくセットにうるさくて、いくらスタッフがつくり込んでもOKが出なかったらしいです。予算もなくなってきて、困ったスタッフがLA近郊のジャンク屋をまわって鉄屑を買ってきて、かたっぱしからセットにくっつけまくっていったらOKが出たという。だからセットのデザイン画と全然違うカオス状態になっちゃってて、偶然の産物なんだけどそこにまた再現不可能な良さがあるんですよね。

(略)

[デザイン部門のトップ、デニス・ガスナー]はけっこうなベテランで、若かった頃にフランシス・フォード・コッポラ監督の『ワン・フロム・ザ・ハート』のセットをつくったりしていたらしいんです。それで一つ面白い話があってね、最初の『ブレードランナー』のとき(略)撮影の終わった他の映画からネオンとかを借りてきてやりくりしていたらしいんです。その中には『ワン・フロム・ザ・ハート』のセットからもらってきた有名なカウガールのネオンもあった。それで、デニスさんが『2049』 をやることになってリドリーにその話をしたら「あのときのネオンは、お前がつくったのか!」って驚かれたらしい。

第四章 ポール・M・サモン

『2049』は八〇〇〇万ドルから一億三〇〇〇万ドルの赤字です。これまでの映画の中で三〇番目に赤字の映画であると考えられています。

(略)

[『ブレードランナー』を]多くのSFファンは気に入りませんでした。理解できなかったのです。(略)

批評家のコンセンサスが変化しはじめたのは、一九九二年になってからなのです。

(略)

[初期投資を回収するためにテレビやケーブルで放映され若い世代が魅了され]この映画の深さを理解して、批評家たちも再評価しはじめました。

 (略)

 撮影中、ハリソン・フォードとリドリーの馬が合わなかったことは有名な話です。リドリーは、カメラが写している映像をそのまま見ることができるモニターを持ち込んでいました。(略)当時はそれほど一般的ではありませんでした。ハリソン・フォードはそれがいやだったのです。リドリーが現場にいなくてテントの中でモニターを見ているので、ハリソンはフィードバックをリドリーからもらえないのが不満だったのです。

(略)

[ハリソン・フォードとの交流。撮影中]

私がミハイル・ブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』というロシアの小説を小脇に抱えて歩いているのを見かけ、話しかけてきました。彼は、「君が撮影所にいるのに気付いていたけど、何をしているんだい」と訊いてきました。私は、「この映画が製作される全部の過程について本を書くためです」と答えました。ハリソンが、「全部だって? いったいどんなことを書くんだい」と訊ねるので、私は「真実を書くんです」と答えました。

(略)

[ハリソンのトレーラーの]中には本棚が作ってあり、ドストエフスキートルストイ、それにブルガーコフの小説があり、まさに彼はロシア文学を読んでいました。それから、私たちはロシア文学について二〇分くらい話し合いました。ハリソンはハリウッドでもっとも知的な俳優の一人で、しっかりとした自分の意見をもっている人物です。

(略)

[レイチェル役のショーン・ヤングについて]

最初かなり混乱していたようです。(略)周囲と摩擦が生じていました。問題の一端は、ハリソン・フォードが熟練の俳優で、彼女は駆け出しの女優だったということです。さらに、単純に言って彼女とハリソンは相性も悪かった。だから二人のロマンスを描かなくてはいけないときは大変でした。

(略)

[2000年代にハリソンにインタビューすると]

彼は、「『ブレードランナー』は、その時点までの自分のキャリアにおいて最も不快な経験の一つだった」と言いました。緊張や軋轢の連続で、ヴォイスオーヴァーも気に入らず、ショーン・ヤングも嫌いで、リドリー・スコットが彼をレプリカントにしたいという考えも嫌でした。おまけにリドリーのことも嫌いだったのです。(略)

[デッカードの役作りについて]

彼が最初に言ったのは、「デッカードは破損品」という答えでした。それはおそらくアルコール依存症や、反社会的で、自滅的な人であるという意味だったと思います。そういうことを彼は考えていたのです。

シド・ミード

 ミードはデザイナーで、自動車マニアです。彼の創作におけるアプローチは機械のユートピアとでもいうべきものでしたが、『ブレードランナー』でのリドリー・スコットの考えはディストピアでした。ですから摩擦がありました。ミードは普段のアプローチをやめて、リドリーに合わせなければなりませんでした。彼の貢献は膨大です。(略)

[空飛ぶ車スピナー、]フォークト・カンプフ検査機のデザインを手伝ったのもミードです。電話のデザイン、様々なコンピューター・スクリーンのデザインを手伝ったのもミードです。彼は時計をデザインするとき、時計自体だけではなくその周囲のものもデザインします。車のデザインも、車だけではなくそれが走るストリートもデザインするのです。

バンド・デシネの影響

リドリースコットはもともと『エイリアン』でメビウスを起用しました。彼が『エイリアン』の宇宙服をデザインしたのです。メビウスが(略)メタル・ユルラン、英語では「ヘヴィ・メタル」のムーブメントの中心にいることをリドリーが知ったのは、一九七七年頃のことでした。

 『エイリアン』の脚本を書いたダン・オバノンが、リドリーにメビウスの『ザ・ロング・トゥモロウ』(一九七六年)を見せたのです。(略)これは、未来の大都会で探偵が活躍する話ですが、一九四〇年代のフィルム・ノワールのパロディでもあります。

  リドリーは『ブレードランナー』を意識的にヘヴィ・メタルのように作ろうとしました。ヘヴィ・メタルのほとんどのストーリーは奇抜でシュールなものですが、と同時に非常に現実的です。現実に根差しているものと、現実離れした想像を融合したもです。とてもドライでおもしろい。メビウスはそういうことに非常に長けています。だからリドリー・スコットメビウスに『ブレードランナー』をまかせようとしたがうまくいかなかった。しかし、彼が基本的にやったことはすべてをヘヴィ・メタルの感受性でフィルターにかけることでした。(略)

リドリー・スコットは「『ブレードランナー』が大人のためのヘヴィ・メタル・コミックであることをみんな理解していない」と何回か言っています。この発言をふまえてこの映画を見ると、コミックのコマの連続のように思えてきます。

『電気羊』と『ブレードランナー

[ディックは図書館で]

ほとんど子どもだけが入れられている収容所の司令官が、「ユダヤ人の子どもが夜中に泣き叫ぶので、睡眠不足になる」と不平を言っている[ゲシュタポの]日記に出くわします。もちろん、子どもたちはのちに殺される運命です。

 それを読んでディックは愕然としました。どうやったら人間にそんなことが書けるのか理解できなかったのです。ディックは、彼らは人間ではないと断じました。彼らには人間として何かが欠けていて、最悪なことに、その欠けている部分が人間を大量殺戮できる官僚システムを考え出したのです。そして、第二次世界大戦後もそのシステムが使われるようになったとディックは語っています。

 「人間ではない人間」──それが『電気羊』の主眼です。人間性を決定するのは何なのか。何が現実と非現実を分けるのか。

(略)

[原作と]映画の底流にある無意識のテーマは、この人間性です。映画と小説の最大の違いは、小説ではアンドロイドは魂もなく、悪意がありますが、映画ではレプリカントは人間よりも魂があることです。

 映画ができたあとに、リドリーはついにディックに会うことになるのですが、大激論が始まりました。ディックはリドリーに「レプリカントには魂がないはずなのに、あなたは魂を与えた」と言いました。リドリーはそれに対して「彼らは飛べないスーパーマンみたいなもので、欠陥がある。だから完璧に人間的だ」と言いました。そこが最大の違いでした。

試写版が一番優れたヴァージョンだ

 私が何年も前から好きなのはいわゆるワーク・プリントと言われるもので、公開される前にデンバーやダラスで試写されたヴァージョンです。それには本当に最後の部分以外にはヴォイスオーヴァーが入っていません。オリジナル版のバカげたハッピーエンディングも入っていません。

 『ブレードランナー』にたくさんのヴァージョンがあるのは金儲けのためだ、と多くの人が言っていますが、それは事実ではありません。リドリー・スコットのスケジュールはずっと多忙を極めていたので、二〇〇六年まで自分の希望通りの『ブレードランナー』を作り上げることができなかったのです。二〇〇七年が公開二五周年でそれに間に合わせるために、すべての要素を洗い出し、失われたものを再構築して自分の思い通りのヴァージョンである「ファイナル・カット」を作り上げたのです。

(略)

ファイナル・カットが私の最も好きなヴァージョンです。それがワーク・プリントにもっとも近いものです。ワーク・プリントにあるものを集めて編集したものです。

 ファイナル・カットについての私の唯一最大の不満は、デジタル化されて、いくつかのシーンが明るくされたことです。あの巨大な地獄のような産業用地の風景の部分はファイナル・カットの方がずいぶん明るくなっています。

クルーとの軋轢

問題は、アメリカ人のクルーがイギリス人であるリドリー・スコットのことをまったく理解できなかったことです。

(略)

異なる背景をもった監督と働くということを理解していませんでした。

 最初リドリーは非常に冷静で、礼儀正しく、気さくでした。(略)

[しかし]ハリウッド・システムでは(略)「こういう理由で、私はこうやりたいんだ」というように、スタッフにいちいち説明しないといけません。リドリーはとうとう堪忍袋の緒が切れて「くそったれ」と怒鳴り始めました。その態度の変化をアメリカ人は理解できませんでした。

(略)

 そういう状況の中、プロデューサーを務めたマイケル・ディーリーはリドリーの熱心な擁護者でした。マイケルは作品の完成に深く関わっていますが、その功績を十分に認められていません。彼がいなければ「ブレードランナー」は存在しなかったでしょう。

デッカードは結局何者か?

撮影現場で耳にしたことを教えましょう。リドリー・スコット自身は何年にもわたって考えを変えてきました。撮影中でさえも考えを変えたかもしれません。最初からリドリーは、これは曖昧さとパラノイアについての映画だと言っています。自分こそが最も憎むべきもので、殺すべき対象であることに気付く──これ以上パラノイアであるものはあるだろうか。それが彼が私に言ったことです。

 ハリソン・フォードは「ちょっと待て、それはあまりにも曖昧すぎる。観客で感情移入できる者は誰もいない。デッカードは人間であるはずだ。私は観客と映画を感情的につなぐ存在であるはずだ」と言っていました。そこでハリソンとリドリーはまた争ったのです。ハリソンはレプリカントになりたくなかった。彼は弱い人間でその弱さを克服する人間になりたかった。

(略)

 私は、デッカードレプリカントかどうかは曖昧なままでいいと思います。『2049』に、すばらしい台詞が出てきます。Kがデッカードにはじめて会うシーンに犬が出てきますが、そのときKは「それは本物の犬か?」と訊ねます。デッカードは「わからない、犬に聞いてみたらどうだ」と返す。まさにそのシーンこそ、このミステリーについて象徴的に語られているところだと思います。

 解説 中条省平

(略)

ファンチャーが原作小説において特に重視したのは、核戦争と核の残留物の影響で、自然の動物がほとんど死滅した世界と言う舞台設定でした。動物のいない世界、すなわち、自然の生命を人工物で置き換える世界ということです。自然の生命を滅ぼし、人間がすべてを人工的に作りなおす世界とは、人間中心主義の極限であり、人間が神になることを意味します。ファンチャーはそのような未来のディストピアを恐れ、人間中心主義を批判しようとしたのです。 

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