否定的なもののもとへの滞留 スラヴォイ・ジジェク

ブレードランナー

私は本当に人間であるのか、それとも、ただのアンドロイドなのかという永遠に私を責め苛む懐疑――こういった決定されず中間的な状態にあること、それが私を人間にする。
(略)
 人工知能をめぐる議論で決定的なのは、そこで、ある転倒が起こることである。(略)
最初に、人間の思考を、コンピュータを用いて、できるだけ「オリジナル」の人間の思考に近いモデルを造りながら、シミュレートしていく。それが、ある時点で事態が逆転し、ある疑問が浮かんでくる。もしもこの「モデル」がすでに、「オリジナル」それ自身にとってのモデルだとしたらどうしようか、人間の知性そのものが、コンピュータのように作動していたら、「プログラムされていた」としたら(略)われわれの「真の」現実そのものがヴァーチュアルなものとされ、人工物として理解されなければならないとしたら)。
(略)
思考の全面的なシミュレーションは、「本当の」思考とどう違うのだろうか。(略)
「コンピュータは考える」のか、それとも、考えないのか。答えは、このひっくり返った隠喩の論理に関わっている。そこでは、コンピュータを人間の脳のモデルと考えるのではなくて、脳そのものを「肉と血でできたコンピュータ」と考える。ロボットを人造人間と考えるのではなくて、人間自身を「自然ロボット」と定義する、等々。
(略)
「コンピュータは考えない」という事実が意味しているのは、われわれが「現実」に到達するために支払わなければならない代価は、何かが思考されないままに残っていなければならないということ、そういうことである。

「私はただ私が疑うかぎりにおいてのみ存在する」

つまり、ラカンは、いわば、デカルトの私は疑う、それゆえに私は存在する(略)に対して、その論理を反転させることで、別のねじの回転を付け加える。それは、私はただ私が疑うかぎりにおいてのみ存在するというものである。このようにして、強迫神経症的ポジションの基本定式が得られる。この神経症者は、自分の存在の唯一の確固たる支えとして、自分の懐疑に、自分の不確定な状態に執着する。そしてもっとも気に懸けるのが、自分の動揺、あれでもない−これでもないという状態にけりをつけさせるような決断を強いられはしまいかということなのである。
(略)
ヒッチコックの『断崖』のヒロイン、リーナのことを思い起こせばいい。夫が自分を殺そうとしているのではないかという疑念に取り憑かれ(略)
彼女は全く身動きが取れない、行動できない――なぜか?それは彼女の疑惑に対する答えを見出すことは、彼女の主体としての地位を失うことになるからである。
(略)
主体が自分の不決断に固執して選択を遠ざけるのは、自分が選択肢の一方を選ぶことによって他方の選択肢を失うこと(リーナの場合でいえば、無実の方を選ぶなら、彼女は自分の夫がただのつまらないペテン師で、いかなる内面的な強さも、それが〈悪〉へと向かうものでさえも持っていないという事実を受け入れなければならない)を恐れているからではない。その主体が真に失うことを恐れているものは、そのようなものとしての懐疑であり、不確実性、何ごともまだ可能であるような開かれた状態、いかなる選択肢もあらかじめ排除されていない状態なのである。
(略)
カント的主体は、その定義からいって、けっして「その務めに見合った高みに」立つことはない。彼は彼の倫理的行為が、たとい義務と一致していたとしても、それが義務それ自身のために成し遂げられたのではなくて何か隠された「病理的な」思惑(たとえば、私自身の義務を果たすことによって他者たちから尊敬と敬意を得るかもしれないということ)によって動機づけられていたかもしれないという可能性に、永遠に苦しめられる。カントにとって隠されたままのもの、彼の〈ねばならない〉[〈義務〉]の論理によって、つまり道徳的〈理想〉を実現する果てしない漸近線的プロセスの論理によって彼が見えなくしているものは、この不確実性の染みこそが倫理的普遍性の次元を維持するものであるということである。カント的主体はその倫理的な地位を保つために、その懐疑に、その不確実性に、死に物狂いでしがみつくのである。ここで念頭においているのは、一度〈理想〉が現実のものになってしまったら、生の緊張はすべて失われ、その後われわれに残されているものといえば、無気力で退屈な日々ばかり、というような月並みな話ではない。はるかにもっと厳密なことが問題になっているのだ。一度「病理的な」染みが消えうせるや、普遍は個別へと暴落してしまうのである。
(略)
〈他者〉は私に何を望んでいるのか、それのために私が〈他者〉の欲望の対象となっている「私のうちの私自身より以上のもの」とは何なのか――あるいは、哲学の用語でいえば、実体のうちでの私の場所、「存在の大いなる連鎖」のうちでの私の場所はどこなのか。不安の核にあるのは、このような私が何であるのかについての絶対的な不確実性である。「私は私が(〈他者〉にとって、というのも、私とはただ〈他者〉にとって私がそうであるところのものでしかないのだから)何なのかを知らない」。この不確実性が主体を定義するのである。主体はただ「実体におけるひび割れ」としてのみ「ある」、〈他者〉のうちのその地位が揺らいでいるかぎりにおいてのみ。

ラカン〈現実的なもの〉

 カントの二律背反のスキャンダラスな衝撃についてはっきりしたイメージ〔明晰な観点〕をもつには(略)[50年代末のアメリカ小都市を舞台にした]フィリップ・K・ディックの『時は乱れて』のことを思い出せばよい。一連の奇妙な経験(たとえば、思いもかけず自分の家の裏庭に戻ってきたときに、ほんの一瞬前にはあったはずの事物――ベンチ――の代わりに、「ベンチ」と書かれた紙片をそこに見出す、まるでマグリットのあの有名な絵のように)の結果、主人公は、一歩一歩、実際に起きていることにたどりつくことになる。実は彼は七〇年代に生きているのだ。ある謎めいた政府機開が彼を洗脳し、ある科学上の仮説を検証するために、人工的に再創造した街に彼を住まわせてみたのである
(略)
もしも、私が知覚するものを、何かそれ自体で存在する現実の部分的な一側面として捉えないとしたら――もしも、私がいま見ている家に、この正面に対応する裏側があるのだと仮定しないとしたら――、そのとき私の知覚野は、一貫性のない、意味を欠いた混乱状態に解体してしまう。その裂け目につぎを当てるためのあの紙片(略)なしでは、現実それ自身がばらばらになってしまう。この紙切れに対してカントが与えた名前は、「超越論的〈理念〉」である。それゆえに、カントの超越論的転回によって、現実それ自身が仮想のものとなり〔ヴァーチュアル化され〕、人工物となる。正確に、今日のコンピュータ・サイエンスでいう意味での「ヴァーチュアル・リアリティ」と化すのである。そして、ラカンのいう〈現実的なもの〉とは、この「ヴァーチュアル化」にしたがわない固い核、超越論的な仮構物ではないような固い核のことなのである。現実のこのようなヴァーチュアル化のスキャンダラスな性格は、カントを「ベンサムとともに」読むとき、つまり、ベンサムのフィクションの理論を背景にしてカントを読むときはっきりする。
(略)
倫理の、「実践理性」の領域の内部で、ベンサムはヒュームが理論理性の領域で成し遂げたのと同じ「純化」を完成させることで、カント革命のための基盤を用意したのである。要するに、ベンサム功利主義の根本命題を構成するものは何であろうか。それは、〈善〉の道具主義的な定義である。何かを「善」であるとすることが意味しているのは、それが有用である、何かの目的に奉仕するということの確証である。ベンサムによれば〈善それ自体〉などというものは無意昧であり、自己矛盾である。〈善〉の領野から一切の実体的な内容をからにすることで、ベンサムは〈目的それ自体〉としての〈最高善〉という実体的・実定的な概念に基づくすべての倫理の根を絶ったのである。
(略)
ベンサムは法的言説の分析を通じてフィクションの概念にたどりついた。法的言説は、それが機能するためには、そのステイタスが明白にフィクションであるような一連の実体を前提せざるをえない。たとえば、法的人格の概念(それによってわれわれは、組織を、生きた人格として扱うことができ

ベンサムとカントの行き詰まり

これらの困難の根底にあるのは、ベンサムとカントに共通の行き詰まりである。現実をフィクションから区別することは可能だ(ベンサムにおいては、現実の実体の名前をフィクションの名前から区別するということであり、カントにおいては現実の構成において、超越論的カテゴリーの合法的な使用を、「超越論的錯覚」を生み出す非合法な使用から区別することである)。しかし、フィクションと錯覚を拒否するや否や、われわれは現実そのものを失う。現実からフィクションを取り除くその瞬間に、現実そのものが、その言説的−論理的一貫性を失うのである。このフィクションにカントが与えた名前は、もちろん「超越論的〈理念〉」であり、そのステイタスは単に統整的であるのであって構成的ではない。〈理念〉は単に現実に付加されるのではない。それは文字通り現実を代補する。客観的[対象的]現実についてのわれわれの知は、〈理念〉への参照によってのみ一貫性をもち、意味あるものとなることができる。つまり〈理念〉は(略)「自然で避けがたい錯覚である」。(略)
この錯覚は、「それがある瞞着であることが暴露された後でさえも存続する」(「商品フェティシズムは、その論理が理論的に明らかにされた後にも、現実生活のなかでは執拗に存続する」というマルクスの有名な警告にも似て)。
(略)
「現実」は「現実吟味」によって規定されるにもかかわらず、現実の枠組みは幻覚的幻想の残滓によって構造化されているのである。われわれの「現実感覚」の最終的な保証は、われわれが「現実」として経験するものがどれほど幻想的枠組みに適合しているかに掛かっているのだ
(略)
 この意味において、現実というもののステイタスは脆弱である。それは現実吟味と幻想的枠組みのあいだの微妙なバランスに依存している。
(略)
慧眼な解釈家たちが指摘するように、狂信的な視霊者による幻惑は、カントにとって、最後まで〈理性〉の〈理念〉のモデルであり続けた。(略)
われわれのできることといったら、われわれの知が仮想的領域に踏み越えていくことを何としても防ぎながら、現実の領域を制限してこの空虚な場所の輪郭を描くことだけである。
(略)
ラカンならこういうであろう。幻想の支え〔幻想という支持棒〕なしには、いかなる現実もない。その『オブス・ポストゥムム[遺作]』で、カントはきわめて正確に、〈理念〉(まさに「譫妄状態での創作」という意味での、幻覚的形成物の残滓)が現実に対してわれわれが接近する際の幻想的枠組みを構成することを論じている。

ポリコレという行動類型

[「PC」――ポリティカル・コレクトネス]
それは、絶え間なく新たに洗練されていく人種的そして/あるいは性的暴力や支配の形態を暴露しようとの強迫的努力である(略)
白人であり男性、なおかつ異性愛者という立場、それのみが空虚にとどまり、おのれの享楽を犠牲にせねばならない。それゆえ、PC的態度の弱点は神経症的強迫の弱点と等しいということになる。つまり、ここでの問題は、それがあまりに厳格、狂信的すぎるということではなく、十分厳格ではないという点にあるのだ。極端な自己犠牲、すなわち性差別、人種主義と思われるものすべての拒絶、自らの内部から性や人種にまつわる差別の痕跡を駆り立てる終わりなき努力(略)
なるほど、PC的態度はこれらの営みを含んでいる。しかし、だまされてはいけない。PCという行動類型は、真に問題視すべき事柄は否認したくないという事実を隠蔽するための戦略なのだ。つまり、「私はすべてを犠牲にする覚悟がある、ただしあれを除いては」というわけなのだ。ではあれとは何か?自己犠牲の身振りそのものである。
(略)
PC的態度は、自らが償わるべしと述べ立てるところの差別による傷を負った人々に対して、恩着せがましく高みに立つその態度を隠蔽しているのだから。まさに、白人・男性・異性愛という立場からすべての具体的な内容を取り去るという振る舞いそのものによって、PC的態度はそうした立場を普遍的な主体性の形成のままに維持してしまうのだ。こうしてみるなら、PC的態度はサルトルいうところの、知識人の不誠実の典型例であるといえよう。新しい問題は次々と供給されるが、それは単に問題を絶やさないためにすぎない。この態度が真に恐れることは、問題が消えてしまうこと、すなわち、白人・男性・異性愛という主体性の形式によるヘゲモニーの行使が本当に終わってしまうという事態である。それゆえPC的態度が示す罪意識――「不適正な」要素を取り除きたいという一見したところの欲望――は、自分自身とは真っ向から対立するはずのものの現われの形式なのである。つまりそれは、白人・男性・異性愛者という主体性の形式への揺るぎない固執を示しているのである。
(略)
アメリカにおけるスクール・バスに関する政策の(略)主要な目的は人種の障壁を乗り越えることであった。(略)白人コミュニティ出身の子供たちも黒人らとの交流によって人種的偏見の馬鹿馬鹿しさを経験するだろう、というわけである。しかし、とりわけスクール・バスによる通学が「進歩的」国家官僚によって外から押しつけられる場合には、この計画にはもう一つの論理が分かちがたく絡みあっていた。境界を廃棄することで、閉じられたエスニック・コミュニティの享楽を打ち砕くという論理である。このために、スクール・バスによる通学は(略)人種主義を強化する。
(略)
スクール・バス通学は分配的正義の条件は十分に満たしている(それは「無知のヴェール」の審問に堪えうる)。
(略)
しかし、ここには逆説がある。すなわち、バス通学によってもっとも利益を得るはずの人々を含め、誰もがどことなく欺かれ、侵害されているという感覚を持ったのである。なぜだろうか?ここではまさに幻想の次元が侵害されているのである。分配的正義についてのロールズによるリベラル・デモクラシー的捉え方は、究極のところ、自らの言表行為のポジションの特殊性を抽象して把握し、純粋な「メタ言語」の中立的場所からその位置を眺望し、かくして自分自身の「真の利益」を理解する、そうした能力を有した「合理的」個人に依拠している。そうした個人とは、正義の座標を確定するための社会契約において想定された主体のことである。しかしそれによって、共同体がその「生活様式」(享楽の様式)を組織するための枠組みたる幻想−〔の〕空間は、ア・プリオリに考察から排除されてしまうのだ。
(略)
一九八八年の大規模な炭鉱ストに対する、広範囲にわたるイギリスのリベラル左翼の知識人たちの態度のうちにも同様の要素が見出せないだろうか?そこではストライキは「不合理」で「時代遅れの労働者階級原理主義」などとして否定されたのである。なるほど、これらの言い分はもっともであるが、このストライキがまた特定の労働者階級の生活様式に由来する絶望的な抵抗の形式であるという事実は依然として残るのである。こうしてみれば、まさにそうした批判が「退行的」と捉える理由そのものによって、このストライキは、通常の「進歩的」リベラル左翼の放った批判よりもより「ポストモダン」であったといえよう。
 「過剰」同一化への恐怖が後期資本主義を根本から特徴づける要素となるのは、まさにこのためなのだ。つまり、主体のポジションの分散的多元性に対して適正な距離を保つ代わりに、「過剰に同一化」してしまう「狂信主義者」こそが〈敵〉とみなされるのである。要するに、「本質主義」や「固定的アイデンティティ」に照準を合わせ、得意満面で繰り出される「脱構築主義者」の言葉遊びが闘っているつもりの相手は、所詮、張り子の虎なのである。
(略)
[脚注]
(13)PC的態度のキリスト教的背景については、「セクシャル・ハラスメント」の一形式としての視線という繰り返し蒸し返されるモチーフを思い返せば、さらに確証できるであろう。そこではわれわれが「挑発的な」視線を罪悪と感じうるかぎりで、罪はその実際の行いにではなく主体の欲望の中にあることになる――心の中で罪を犯す者は実際に罪を犯した者と同罪であるというキリスト教のモットーと一致するではないか。
(略)
(18)それゆえ幻想の概念は分配的正義の内在的限界を示しているのである。つまり他者の利益がたとえ考慮に入れられたとしても、その他者の幻想には危害が加えられる。いいかえよう。「無知のヴェール」による審問が私にこう語ったとする。もし私が共同体においてもっとも低い位置を占めたとしても、それでも私は自らの倫理的選択を受け入れるだろう。そのとき私は自分自身の幻想の枠組み内部で動いているのである。もし「他者」が絶対的に両立不能な幻想の枠組み内部から判断したらどうだろう?

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