ヒップの極意 ドナルド・フェイゲン

 

ヒップの極意 EMINENT HIPSTERS

ヒップの極意 EMINENT HIPSTERS

 

ヘンリー・マンシーニのデラックスな無規範状態 

  アメリカの父親としては第2世代に属する父が(略)郊外で社会的地位の上昇を目指そうと決めたのは、たしかわたしが8歳ぐらいのときだったと思う。(略)

[ニュージャージーのケンドールパーク]

兄弟のようによく似たランチ・スタイルの家が何百軒も建ち並ぶ、1957年ごろの典型的な住宅造成地である。造成地はまだあまり造成されていなかった。わたしは不満だった。

 おがくずがまだ宙を舞っていた。

(略)

月曜の夜9時になると、わたしたちは「ピーター・ガン」を観た。

(略)

サスペンスあふれる、高度に様式化されたじらしが終わると、われわれはピアノの一番低いオクターヴで倍加され、やさぐれたサーフ・ギターで3倍にされた、ノリのいいベースのブギー・オスティナート、ずっとくり返され、決して変わることのない小節に胸を躍らせたものだ。

(略)

画面にはタイトルのアニメーション。工セ抽象表現主義のカンヴァスをバックに、なにかをぶちまけたような、謎めいたパターンが脈動する。(略)

アクション・ペインティングされたタイトルは、番組がブレイク・エドワーズによってつくられ、音楽はヘンリー・マンシーニが手がけている、とわれわれに伝えていた。

(略)

緊張感あふれるヴィジュアルでエドワーズがアップデートしたチャンドラーふうの探偵小説には、その画づらに見合うクールなサウンドトラックが必要とされたが、それと同じ年にオーソン・ウェルズの「黒い罠」の音楽を手がけたマンシーニは、この番組のなんたるかを完全に理解しているようだった――なによりもスタイル。それ以外はとくに重要じゃない。

(略)

わたしは両親が与えてくれる安楽さと簡便さの境界から踏み出すことなく、ガンのアウトサイダー的な立場に感情移入し、即興的なライフスタイルにあこがれることができた。それとは逆にエドワーズのカメラ・アイは、当時の贅沢品やレジャー用品に世俗的な興味を示し、スカンディナヴィアの家具、鉢植えのパームツリー、淡い色の羽目板、そして光沢のあるシャークフィンのコンヴァーティブルに焦点を当てている。それらは実のところ、両親が羨望する品々でもあったのだが、大さじいっぱいの疎外感と危険で暗く彩られていた。

(略)

当時はウエストコースト・ジャズ(つまるところは、白人のバップ)が、ビート、つま先の開いたサンダル、精神分析とワンパッケージで大学生たちに提供されていた。落ち着いたパーラー・ジャズをプレイする白人バッパーは、その黒人版よりも売りやすかった。

(略)

西海岸にはとても才能のあるプレイヤーが大勢いたので、ぬけ目のないマンシーニはそんな彼らをスタジオに呼んで、「ピーター・ガン」のスコアをレコーディングした。ピアノを弾いたのは、のちに映画音楽の巨人となるジョン・ウィリアムズ。スタジオ・バンドのメンバーにはほかに、トランペッターのピート・カンドリ、テッドとディックのナッシュ兄弟、ギタリストのボブ・ペイン、ドラマーのジャック・スパーリング、ヴィブラホン奏者のラリー・バンカーがいた。彼が用いた作風は、大部分がギル・エヴァンスほかの進歩的なアレンジャーに由来し、ところどころにリズム&ブルースが散りばめられていた。彼はクール一派とも共通する、音数の少ない、従来とは異なるアレンジを用いた──フレンチホルン、ヴィブラホン、エレキ・ギター、そしてマンシーニの十八番だった、アルトとめったに使われないベースの両方を擁する、とても活動的なフルートのセクション。

(略)

「ピーター・ガン」シリーズとそのスピンオフ番組「ついてる男(ミスター・ラッキー)」の集めたマンシーニのアルバムは、いずれも莫大な売り上げを記録し、わたしも誇らしげに購入したひとりだった。収録曲には〈ドリームズヴィル〉や〈プロファウンド・ガス〉といったタイトルがついていた。それを聞いたことがきっかけで、わたしはもっとジャズや、ジャズ的な生活の音楽以外の所産について知りたいと思うようになった。マンハッタンから放送される深夜のジャズDJを聞き、トップ・プレイヤーのライヴ写真が満載されていた「ダウンビート」誌を定期購読した。ケルアックの小説も、何冊か読破をこころみた。

 こうしたヒップといんちきの断片をもとに、わたしはクールのディズニーランドとでも呼ぶべきものを頭のなかで築きあげた。

(略)

広大な防音スタジオに集まるミュージシャンたちの姿。男たちは半円になって、ブーム・スタンドに載せられた2本の巨大なRCAマイクを取り囲む。ロールカラーつきの2トーンシャツを着こんだ者もいれば、ハワイふうの装束に角縁の眼鏡姿の連中もいる。(略)

だれもがポールモールか、それ以外のフィルターがない強い煙草を吸っている。ハンク・マンシーニパート譜を手渡す。メンバーが譜面をざっと見ると、音の分厚い膜が送り出されて、部屋のなかを漂う。ガラスの向こうでは、卓をあやつるエンジニアたちがうんうんとうなずいている。

(略)

 次にヘンリー・マンシーニの名前を見たのは、やはりわれらがブレイク・エドワーズが監督する映画『ティファニーで朝食を』のクレジット・ロールでだった。わたしは13歳で、そろそろ色気づいていた。(略)

[ホリー]が、早朝、5番街であのタクシーを降りる場面では、彼女をストローで吸ってやりたくなったものだ。
 同年代の人間にこの映画の話をすると、決まって昔の恋人を思い出しているかのように一風変わった、痛々しい笑みが彼ないしは彼女の顔をよぎる。カポーティの原作にある毒をぬいた、典型的なハリウッドの失敗作だのなんだのとこの映画をくさす連中ですら、思わず目を潤ませたり、胸を波打たせたり、ときおり至福/苦痛に身体を震わせたりしてしまうのだ。

(略)

エドワーズはこの都会的なロマンスにうってつけの監督となっていたが、ほんとうに光っていたのは彼の刎頚の友、ハンクだった。もしかするとわれわれは、とうの昔に〈ムーン・リヴァー〉を過量摂取してしまったのかもしれないが、あのオープニングでプレイされるハーモニカ・ヴァージョンは、いまだに効力を失っていない。

(略)

 最終的には妥当さと真正さを求めるあまり(略)、わたしは最高にすばらしいジャズ──エリントン、マイルス、ミンガス、モンク──ですらお上品で性的におとなしく思えてしまう段階に入り、ブルースやソウル・ミュージックやボブ・ディランに傾倒するようになった。わたしはポップ・アートやティモシー・リアリーがハーヴァードで進めていた実験に関する文章を読みはじめた。キッチン・シンク派のイギリス映画もよく観に行った。ヒップの言語は変わりつつあった。

 ブレイク・エドワーズも彼なりに、こうした意識の変化に敏感だった。慇懃無礼なピーター・ガンは、クールであろうとするものの、世間がそれを許してくれないクルーゾー警部に進化していた。(略)

自分自身のヒーローをコケにしはじめたとき、エドワーズはきっと、次に来るものを予感していたにちがいない。自己イメージと性的なアイデンティティは、次第にほころびを見せはじめた。

(略)

ピンク・パンサー』シリーズの音楽に関していうと、それは贅をこらしたクールさのパロディになっていた──信じられないほど不気味でクールなせいで、逆に笑えてしまう音楽に。

 郊外を離れて大学に進んだ65年の時点ですでに、マンシーニはレトロな趣味のように思えていた。かりに彼について考えることがあったとしても、せいぜいジャズを一般に広めた人物とか、信頼できるハリウッドのプロといったイメージを思い浮かべる程度。寮生仲間のなかにはきっと、アメリカの土着的な芸術形態を吸い上げ、パッケージ化して大量消費させる「文化産業」の狡猾なエージェントと見なしていた者もいたはずだ。そういう見方はしていなかったわたしの目にも、同年代末のハンクは、御しがたいスクエアとしか映らなかった。

(略)

しばらくのあいだ、マンシーニと彼の若きライヴァル、バート・バカラック(マンシーニとジャズの関係は、そのまま彼とソウル・ミュージックの関係に置き換えられた)は、ボサノヴァ戦争に係りきりになっているかに見えた

(略)

 最近のわたしはピアノの前に座ると、ふとした拍子に「ピーター・ガン」の曲やスウィートなバップ・ナンバーや〈酒とバラの日々〉(コード進行がすばらしい)、いや、時には〈ムーン・リヴァー〉を弾いていることすらある。そして1500もの似たような屋根の上を沈んでいく晩夏の太陽やわたしの家族やバップ・グラスやホリー・ゴライトリーについて、アメリカという場所で孤独になることや、あの気取った音楽がかくも数多くの事柄とどうつながっているのかについて、思いを馳せはじめるのだ。

皮質・視床停止──SFで育つ

[12歳で読んだSF傑作選に収録されていたフィリップ・K・ディックの「父さんもどき」は]もっと個人的なレヴェルでわたしに影響をおよぼした。(略)

両親が引っ越しを決めた「ケンドールパーク」という土地は、活気にあふれるわたしたち家族から生気を吸い取り、家を心のないゾンビだらけの穴蔵に変えてしまう、呪われた荒れ地だということなどを指摘した。残念ながら、わたしの抗議はいっさい聞き入れられなかった。(略)
鼻持ちならない本の虫だった息子は、この引っ越しを大いなる裏切りと見なした。実のところ、わたしはこれが、両親を少しずつ「両親そっくり」に変えていくプロセスの一段階にすぎないのではないかと考えはじめていたのだ……。

(略)

主婦としての母親は、決してひかえめとはいえないマディソン街の売りこみ屋たちにとって格好の標的となり、冷戦時代に売り出された品々のすべてを熱狂的に買い求めた。家からはいつもレモンを配合したワックスのにおいがした。(略)

 それ以上に気に障ったのが、主流派のアメリカ社会に同化し、溶けこもうとする両親の熱意だった。なにしろ第2世代、第3世代のアメリカ系ユダヤ人たるふたりはすでに、ほぼその目標を叶えていたのだ。外見にしても、とくにユダヤ人らしいところはなかった。(略)

[父は子供時代に]父親のペンキ店が地元のナチに焼き落とされるという事件が起こり、これが戦時体験のトラウマと相まって、彼はユダヤ人としてのアイデンティティに、複雑な気持ちを抱くようになっていた。

(略)

 当時のわたしはまず、ピアノ、コンテンポラリーなジャズ、そしてジェット戦闘機のプラモづくりに逃げ道を求めた。けれどもいちばんよくやっていたのは、読書だった――百科事典、小説、伝記、歴史、そしてとくにSFだ。(略)わたしはA・E・ヴァン・ヴォークトの『非Aの世界』という小説に「父さんもどき」 の解毒剤を見いだした

(略)

[『非Aの世界』のあらすじ紹介が続いて]

目を覚ますと、彼は金星の森にいる。肉体、つまりオリジナルのクローンは、ピカピカの新品だ。これまでのところ、彼は殺害され、新しい身体で復活し、別の星に移送されていた。だが心配はいらない。すべては許容範囲なのだから──精神と肉体を協調させる「一般意味論」のテクニックに磨きをかけてきたおかげで、ゴッセンはいっさいのトラウマを感じなくなっている。ごく短い「皮質・視床停止」さえ取れば、次の奇天烈なプロットのひねりを受け入れられる状態になるのだ。

 「停止」の期間中、非Aのエリートはそれ以前の文化的なプログラミングをすべて打ち捨て、客観的な立場から、新たな感覚データを処理することができる。最終的に読者は、ゴッセンが実はミュータントであることを知る。彼は人類の進化におけるブレイクスルーであり、宇宙のチェス・プレイヤーたちが、「一般意味論」人種を一掃して宇宙を乗っ取ろうともくろむ銀河系の陰謀家を打倒するために操っていた、「予備脳」を持つ超存在なのだ。子どもたち、わかったかな?

 ワオ、とわたしは思った。こいつはすばらしい。この「皮質・視床停止」というやつは、両親もどき、教師もどき、それに人生もどき全般に対する、心理的な防御になってくれるのではないか。なんならギルバート・ゴッセンのように、善良なミュータントとなって、銀河系全域にはびこる悪の力と闘うこともできるだろう。でもトレーニングはどうすればいい? 「一般意味論協会」などというものは存在しなかった。それはあくまでもA・E・ヴァン・ヴォークトの想像力の産物でしかなかったのだ。

 ちがうぞ、ドニーくん。ちょっとばかりリサーチしていれば、ケンドールパークから車で数時間のところにあるコネティカット州リトルロックの田舎屋敷内に、「一般意味論協会」が実在することがわかっただろう。どうやらヴァン・ヴォークトは自分の小説を使って、彼が最大の知的情熱を注いでいた対象の解説をこころみていたようだ──粋なポーランド人貴族、アルフレッド・コージブスキー伯爵が著した分厚い書物『Science and Sanity (科学と正気)』のなかで縷々述べられている「一般意味論」というシステムである。

 第1次世界大戦中、ポーランド軍で軍務に就いたコージブスキーは、その後、人々はもっとおたがいと上手くやっていく術を見いだすべきだと考えた。(略)

伯爵は人間関係における問題をすべて、意味論における問題に集約させた

(略)

 コージブスキーは大脳皮質、すなわち合理的思考をつかさどる脳の一部と、感情の所在地である視床(ヴァン・ヴォークトの「皮質・視床停止」もそこに由来する)を調整する方法はないものかと考えた。手はじめにまず人は、まわりの世界を把握し、評価するやり方を変えなければならない。アリストテレス的なロジック──たとえばイエス/ノー、白/黒などの二元的思考──よりも、伯爵は主観的な感情によって調節される──ただし支配はされない──多値的で多元的な思考を好んだ。つまりコージブスキーは、おい、クールに行こうぜといっていたわけだ。「カリカリするんじゃない。ほら、非Aだ!」

(略)

人は不健康なエゴを最小限に留め、競争ではなく協働の精神の下、広い心で情報を処理できるように再教育される必要があると伯爵は考えた。彼は数々の学習テクニックを提案していたが、もっとも重要な道具のひとつは、一部にセミナーであり、一部にグループ・セラピーでもあるディスカッション・グループだった。

(略)

「アスタウンディング・サイエンス・フィクション」誌の編集長を務めるジョン・W・キャンベル、そのヴィジョンで「SFの黄金時代」を導いた男は、超人という階級を社会的ヒエラルキーのトップに置くニーチェ的な概念に取り憑かれていた。コージブスキーの本を読んだキャンベルは、「超変異」を現出させる最初のステップとして、非Aのトレーニングを思い描き、ロバート・ハインラインレスター・デル・レイ、L・スプレイグ・ディ・キャンプ、そしてヴァン・ヴォークトといった子飼いの作家たちに、このコンセプトを活かした作品を書くことを強く勧めた。(略)

L・ロン・ハバードは(略)伯爵のアイデアのなかから、よりとっつきやすいものを選び出し、ごくごく基本的なフロイトを混ぜこんで、『ダイアネティックス』を書き上げたのだ。カリスマ的なハバードに折伏されて、彼とは古い知り合いだったヴァン・ヴォークトも、1950年にはダイアネティックスのカリフォルニア支部長になっている。ふたりのパルプ作家が決裂したのは、売り上げ数字の減少に動揺したハバードが、ハードルを下げる目的で、サイエントロジーという空想的なSF宗教を考案したことがきっかけだった。

 数多い善意の心理学者たちが、一般意味論に対する恩義を認めている

(略)

『Science and Sanity』が知識層のあいだで大ヒットを記録すると、伯爵は1938年、シカゴに一般意味論協会を設立する(略)1939年におこなわれた夏の連続講義には(略)ハーヴァード大在学中のウィリアム・S・バロウズも出席していた。バロウズが自分の信徒に説く中心的なコンセプトの一部──言語はウィルスだという考えや、「あるものが何であるかをあらわす“である”」および「二者択一」問題に関する定番ネタ──は、まちがいなく一般意味論に端を発している。というわけで、バロウズJ・G・バラードウィリアム・ギブソン両方のアイドルだったという事実に目を向ければ、非Aの影響を、3世代にわたる偉大なSF作家たちに見いだすことが可能になるのだ。

(略)

反権威的な皮肉屋のフレデリック・ポールとC・M・コーンブルースのように、ミュータントのユートピアというジョン・キャンベルの夢にくみしないSF作家も何人かいた。フィリップ・K・ディックは50年代のはじめに、原子戦争後のミュータントにまつわる短編──完璧な存在が、実は人類にとってまったく無益だったというもの──をキャンベルに売ろうとしたが、キャンベルは頑として受け入れなかった。ディックのコメントは──


この作品の主題は、ミュータントがわれわれ普通人にとって危険だということである。ジョン・W・キャンベルが嘆き悲しんだ考え方だ。われわれは、むしろ彼らを指導者と見るべきらしい。しかしも、彼らがわれわれをどんなふうに見るか、それがわたしはいつも気になる。つまり、彼らはわれわれを指導したがらないのではないか。ひょっとすると、超進化した彼らの高邁なレベルからすると、われわれは指導に値しないのではないか。とにかく、たとえ彼らがわれわれの指導を承知してくれたとしても、その行先がどこなのか、それが不安だ。この不安は、シャワー室という標識がついているのに実はそうでなかった部屋と、なにか関係があるのかもしれない。(浅倉久志訳)


 果たしてキャンベルはディックの小説を、「無価値なばかりか、イカれている」と考えた。逆にディックはヴァン・ヴォークトを愛読していたにもかかわらず、そのうちにキャンベルと腹心のハインラインを、頭のイカれた危ない右翼と見なすようになった。

次回に続く。

 

非Aの世界【新版】 (創元SF文庫)

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思考と行動における言語

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