1913 20世紀の夏の季節 その3

 前回の続き。

1913: 20世紀の夏の季節

1913: 20世紀の夏の季節

 

 5月「世界の脱魔術化」

 さて、そのときがやってきた。マックス・ヴェーバーは「世界の脱魔術化」という偉大な言葉を考え出す。(略)

それは、技術化と科学化の進展、つまり、かつては不思議な出来事と考えられていたものを合理化することである。(略)

あらゆることを計算によって支配下に置くことが可能だと人間が信じているということである。(略)

四九歳のヴェーバーは一九一三年春、妻のマリアンネを伴うことなくアスコナに旅立つ。薬物中毒とアルコール中毒の療養を行うためである。そのようにして彼は、脱魔術化によって、もう一度自分の外的な「美しさ」を得ようとする。だがそれは無理な相談だった。確かに彼はアスコナで断食を行い、妻への手紙の言葉を借りれば「食餌療法用のえさ」でダイエットを続ける。だが、それらはすべて何の役にも立たなかった。「身体に脂肪を詰め込み、ぶよぶよに飼いならされた人間はなくならない。神の創造の計画が私をそのようにすることを望んでいるのだ。」そういうわけで、彼は相変わらず太ったままの姿だ。そのようにあらかじめ計算されていたからだ。自分の体重をどうするかという問題は、おそらく二〇世紀の最も重要な標語の一つの基盤となる。

(略)

 五月上旬、ルドルフ・シュタイナーは母に宛てて書いている。「戦争がますます近づいています。」しかし、彼にはそれについて思いわずらう時間などない。彼はついに人智学の本部、いわゆる「ヨハネス建築」を建てようとしていた。

(略)

 ヒトラーがウィーンをあとにした日曜の朝、街はショックで硬直状態にあった。オーストラリア・ハンガリー帝国の軍最高幹部で秘密諜報部の一員、アルフレート・レードル大佐のスパイ容疑が夜のうちにあきらかとなり[ホテル自室で拳銃自殺]

(略)

レードルがそのような行為に及んだのは、彼に対して、以下の疑いの余地なき重大な違反行為がまさに立件されようとしていたときだった。一、同性愛的情交。レードルはこのため経済的問題を抱えていた。二、軍事機密情報の敵方エージェントヘの売り渡し。(略)

この身だしなみの行き届いた赤毛の小男は、彼の男性の愛人たちのために全財産をなげうち、車や家を買い与え、自分には毎日新しい香木や髪染めを調達していた。金に困ったレードルは、十年も前から、オーストリアハンガリーのすべての進軍計画、軍事コード、拡張計画をロシアに売り渡していた。

(略)

五月二四日、つまりレードル大佐が拳銃自殺する前の夜のこと、アルトゥール・シュニッツラーは拳銃自殺する夢を見る。「狂犬が私に噛みつく、左手だ。医者に行く。医者は相手にしない。私はそこを出る、絶望的な気持ちで。そして自殺しようとする。新聞に次のような記事が載る。『彼より昔のもっと偉大な男と同じように…』それを読んで私は腹を立てる。」

(略)

[『春の祭典』初演]

 パリでこの五月二九日の晩に居合わせた聴衆たちは、古きヨーロッパの最も高貴で最も洗練された教養をもつ聴衆だった。桟敷席にはガブリエーレ・ダヌンツィオが(略)クロード・ドビュッシーがいる。ココ・シャネルがホールにいて、そこにはマルセル・デュシャンも席についている。のちに述懐しているように、デュシャンは生涯にわたってこの晩の「怒号や金切り声」を忘れることがなかった。ストラヴィンスキーの音楽は、古代の諸部族の原初的な力を舞台の上に現出させた。表現主義の芸術ではすでに手本とされていたアフリカやオセアニアの人々のもつ原初性が、文明の中心地であるこのシャンゼリゼ劇場でも呼び覚まされ、脈動する生となって現れたのである。
 きわめて高い音から始まるファゴットソロの最初の音が鳴ったときにはすでに、プッと吹き出すような笑い声が聞こえていた。これでもまだ音楽といえるものか、あるいは春の嵐なのかそれとも地獄の喧噪がもう始まっているのか。肝をつぶした聴衆はそう自問した。あちこちで床を踏み鳴らす音が聞こえ、前の舞台では踊り手たちが裸で陶然と動いている。笑い声がまず起こり、次いでこれはまじめにやっているのだとパリの聴衆が気づいたときには、それが怒号となっていた。それに対して、モダニズムの信奉者は安い席から拍手を送る。音楽はさらに猛り狂ったように進み、踊り手たちは絡み合う。あまりの騒音のためにもはや音楽は聞こえない。どこからかモーリス・ラヴェルがひたすら「天才的だ」とホールに向かって叫んでいる。バレエの振り付けを行ったニジンスキーは、聴衆が猛り狂って鳴らす口笛に対して、指でリズムに合わせてトントンと拍子をとっている。

(略)

ココ・シャネルがパリに開いた小さな帽子サロンはセンセーションを引き起こしていたが、彼女はこの偉大なロシアの作曲家とこの晩初めて顔を合わせている。彼女はやがて彼の恋人となる。

6月『大いなる幻影

 今後、戦争が起こることは決してあり得ない。ノーマン・エンジェルはこう確信していた。彼の一九一〇年の著作『大いなる幻影』は世界的ベストセラーとなっていた。(略)

バルカン半島からはさらに神経をかき立てるような不快なできごとの知らせが北に向かって押し寄せていた。しかし、ベルリン、ミュンヘン、ウィーンの知識人たちは、この夏の始まりの時期には、心安らかにこのイギリスのジャーナリストの著作を読むことができたのだった。エンジェルの説明によれば、あらゆる国々はすでに長きにわたって経済的にきわめて密接な関係にあるため、グローバル化の時代において世界戦争は不可能となってしまっている。(略)

たとえドイツ軍がイギリスと優劣を競おうとしたとしても、「ドイツの重要な軍事機構で、深刻な損害を受けずにすむものはない」、というのがエンジェルの主張の根拠である。それゆえ戦争となることは妨げられる。そんなことになれば、「ドイツの貿易にとって破滅的な状況を終わらせるために、ドイツ政府に対してドイツの全経済界が影響力を行使するだろう」からである。エンジェルの主張は全世界の知識人を納得させるものであった。

(略)

 ユングは悪夢に苦しめられていた。そういった悪夢の一つがきっかけとなり、『赤の書』が生み出されることになる。ヨーロッパ全土が巨大な洪水の波の下に沈んでしまう幻影から、彼はぐっしょりと汗をかいて目を覚ました。いたるところに殺人と殴打、死体と荒廃があった。昼のあいだユングは精神分裂について講演を行っていたが、夜になると、不安な夢の中で、自分自身が精神分裂症になるのではないかという不安にかられていた。

8月

 軍事力増強のため、オーストリアハンガリーの全土で、兵役逃れの者たちを探し出しはじめた。八月二二日の失踪者告示には次のようにある。「ヒートラー、アドルフ、最終居住地、ウィーン、メルデマン通りの男性寮、現在の居住地未詳、捜査継続中」

9月 デュシャン

 いまだに芸術をやる気が起こらないマルセル・デュシャンは、可能であるとはどういうことかという問題について考えたことをメモに書き留める。彼によるとこんな具合だ。
「可能であること。可能であることの造形。(不可能の反対としてではなく。また、信頼できるといった意味に関わるものではなく。蓋然性があるということの下位に置かれるものとしてでもなく。)可能であることとは、単に生理的な〈腐食液〉であって、それはあらゆる美学を焼き尽くしてしまうものだ。」

(略)

 法学者のカール・シュミットは、デュッセルドルフで毎日、自分が世に見いだされることを待ち望んでいた。夜には恋人のカーリとベッドに入り、彼が日記で明かしているところによれば、「かなり無作法な」ことをやっている。「夜はしっとりと指でまさぐる。」
 毎日がそのような調子だ。法廷では何もないし、出版社もシュミットの偉大な反個人主義的綱領を含む彼の著作『国家の価値』の出版を拒んでいる。だが、九月二〇日、ついに[出版の申し出](略)

それでシュミットの背は一メートル伸びた。「すばらしい秋の天気だ。密かな優越感をもって、誰も私のことを知らないまま通りを闊歩する偉大な男になったような気がする。」

 残念ながら、それも長くは続かない。九月三〇日、コンサートに行ったあと彼は次のように書いている。「音楽がぼくのあらゆるコンプレックスをかき乱してしまった。自殺してしまいたいほどだ。(略)誰もぼくのことなどどうでもいいし、他の人のことなどどうでもいい。とにかくぼくの本が出てくれさえすれば。」

10月 ベンヤミン

 ノルトヘッセンのカウフンガー・ヴァルトにある標高七五三メートルの「マイスナー」で、一〇月一一日と一二日に、生活改善や青年運動のさまざまなグループの伝説的な集会が聞かれた。一九世紀に生まれた最後の世代のこのドイツ版ウッドストックは、ワンダーフォーゲル運動や自由ドイツ青年同盟を野外に結集させようという試みであった。これは同じとき行われていたライプツィヒでの諸国民の戦い記念碑の祝典にみられる、大仰なドイツ国粋主義に対する抵抗である。ハウゼナー・フーテには巨大なテント施設ができ、二千人の参加者が宿泊した。参加者たちは森を歩き、歌い、議論し、さまざまな演説の声に耳を傾けた。例えばルートヴィヒ・クラーゲスは若者たちに語りかけ、現代という時代はきわめて危険なものだと諭した。現代はドイツの森を脅かし、それによってドイツ人の生活原理の本質を脅かすからである。クラーゲスは自然を破壊するテクノロジーに対して警告を発し、自然な生活へと回帰することを擁護する。進歩や環境破壊に対して警告の言葉を投げかける彼の燃え立つような演説には、「人間と大地」というタイトルがつけられている。(略)

若い学生のヴァルター・ベンヤミンもまた、はじめて人前に姿を現すことになる。彼はこのときフライブルク大学からベルリン大学に移ったばかりで、友人たちとともにこの山にやってきたのだ。ベンヤミンはこの集会の演説者の一人として、反ユダヤ主義と狂信的愛国主義の出番がなくなったとき初めて、真に自由ドイツ的な青年について語ることができるのだと述べた。そして、ヴィッカースドルフ自由学校の共同設立者であり、ヴァルター・ベンヤミンの師でもある教育改革者グスタフ・ヴィネケンは、およそ三千人の若者に向かってこう呼びかける。「喝采や万歳という叫び声を耳にするために、〈ドイツ〉とか〈国民の〉とかいった言葉を君たちに呼びかければそれですむということになってよいのだろうか?押しつけがましく無駄口をたたくものなら誰でも、しかるべき常套句のユニフォームを身に着けているからということで、君たちから賛嘆の念を得ることがあってよいとでもいうのだろうか?私たちの祖国の光輝くいくつもの谷を目にしている私が望むことはただ一つだ。戦争の暴徒がこれらの谷を荒れ狂って通り過ぎる日が決して訪れることのないように。また、われわれが無理やり戦争を他国の人々の谷へともちこむようにしむけられてしまう日が決して訪れることのないように、ということだ。」閉会にあたっての声明文、参加者全員が支持を誓約した「マイスナー宣言」は、このように熱情にかられたものではない。そこでは「自由ドイツ青年は内的真実をもって自らの生を形づくる」と謳われている。

(略)

雑誌『アクツィオーン』に次のような総括を掲載したヴァルター・ベンヤミンにしても同じことがいえた。「山歩き、祝典の衣装、地方の踊り、そういったものが最終的なことがらなのではない。そして、一九一三年には、まだ精神的なものでもない。この若者たちは自分の敵を、彼らが憎まねばならない生まれながらの敵をまだ見いだしていないのだ。」ベンヤミンは一八七〇年代のバブル世代の父親に対する反逆をやりたくてたまらない。彼は父親殺しをやりたくてたまらないのだ。ところでベンヤミンは、このすてきな言葉を(ベンヤミンの「弟子」たちも容赦してくれるだろうが)ベルリンのデルブリュック通り二三番地にある両親の家で書いている。学生だったベンヤミンは、フライブルクで学んだ学期を終えたのち、また両親の家に移り住んでいたのである。

(略)

 カール・シュミットは、自分の著作『国家の価値』が出版されれば幸福になれると思っていたが、本が出版されたいま、不幸のただ中で日記に書き綴っている。「誰からも手紙が来ない。」

(略)

カール・シュミットは結婚しようとしていた。もちろん彼が著書を捧げた愛するカーリとだ。

(略)

カールにはまだ定職がなかった。そこで、二人が結婚して一緒に住めるようになるまでのあいだ、カーリはカール・シュミットの両親の住むプレッテンベルクにいることになった。(略)「彼女は、プレッテンベルクで、あの忌まわしく性悪の母親や、甘やかされて育った小さなアンナのいる環境に置かれているのだ。」近いうちにあなたを家族の巣窟から救い出し、祭壇のもとに連れて行くから、とカール・シュミットは書き送っている。

 カール・シュミットは一九一二年、あるヴァリエテのスペイン人ダンサーであったカーリと知り合った。そして、完全に彼女のとりことなってしまう。カーリは、自分の名前はパブラ・カリタ・マリア・イザベラ・フォン・ドロティクであるといった。彼女の身分証明書はその後、二度と出てこなかった。無理もない。のちに離婚訴訟のときに、カール・シュミットは自分の妻がスペイン人貴族の出などではなく、非嫡出子として生まれた、パウリーネ・シャッハナーという名前をもつミュンヘンの女性であると知ることになる。

11月 デュシャン

 マルセル・デュシャンはいまだに芸術をする気が起こらない。しかし、アイディアを思いつく。こう考えたのだ。「芸術作品ではないような作品を作ることはできるだろうか?」そのようにして、この年の秋、パリのサン・ティポリット通りにある彼の新しい住居に突然、自転車の前輪が出現する。彼はそれをごくふつうのキッチン用スツールの上に取りつけた。マルセル・デュシャンはそれについて、まったくことのついでといった調子で語っている。「それは自分の部屋にほしいと思うようなものだった。ライターとか、鉛筆削りとかと同じようにね。ただちがうのは、何かに使うことができないということだ。あれは快適な道具だよ、その動き方があるから快適なのだけれどね。」デュシャンは、車輪を手で回すととても心が落ち着くと思っていた。無限に自分自身のまわりを回転することが気に入っていたのだ。

12月

 ヨシフ・スターリン流刑地のシベリアで寒さに震えている。