官僚制批判の論理と心理 デモクラシーの友と敵

 

官僚制批判の論理と心理 - デモクラシーの友と敵 (2011-09-25T00:00:00.000)

官僚制批判の論理と心理 - デモクラシーの友と敵 (2011-09-25T00:00:00.000)

 

官僚制とデモクラシーのジレンマ

ウェーバーが見過ごせなかったのは、ミヘルスが官僚制化と民主化のより入り組んだ関係に無自覚であった点である。官僚制とデモクラシーが対立することはたしかだが、ある程度以上の民主化には、その条件として官僚
制的なものが必要となってくる。したがって一方的に民主化を唱えても、
それは不毛な議論にしかならない。こうした連関が、ミヘルスには見えていない。このことを、ウェーバーは問題にしたのである。
 (略)

 官僚制とデモクラシーのジレンマを考えるうえで、ウェーバーには一つの原風景ともいえる光景があった。それは、彼の宗教社会学のなかでもしばしば言及されている、アッシジの聖フランチェスコである。

(略)

 聖フランチェスコは、カソリック教会自体は否定することなく、しかしスコラ学的な知の体系や教会の位階秩序をラディカルに、そして軽やかにのりこえながら、原始キリスト教的な信仰を求め、それを「清貧」として実践していく。この結果として、多くの人びとが彼に共鳴して集まることになる。ただ、その結末は悲劇的であり、そして官僚制の問題を考えるうえでとても興味深い。

(略)
 既存の権力関係や身分秩序を否定し、ラディカルな無所有とそれによる平等を求めることで、それ以前の秩序原理とは根本的に異なる関係性が現れるかに思われた。しかしフランチェスコのもとに集まってきた人びとのための教団を運営するために、別のかたちで官僚制的な管理が必要になってきてしまった。権力への批判が権力を生み出し、あるいは官僚制への批判が新たな官僚制化を促進してしまうのである。

(略)
ウェーバーが聖フランチェスコの運動に見いだした「虚しさ」は、ミヘルスの研究に対して彼が指摘した問題点と、基本的に同じである。

(略)

ウェーバーは、ミヘルスのようにデモクラシーの名のもとで官僚制と戦い、その戦闘において最終的な勝利をかちとろうとはしない。(略)

デモクラシーと官僚制の関係にジレンマを確認し、その緊張関係を直視することを求めるのである。

トクヴィルと官僚制化の情念

民主化が官僚制化を促すという傾向に注目した点で、ミヘルスの功績は大きい。しかし、この両者の関係の分析において彼が強調するのは、大規模組織は官僚制化するという「経験的事実」であり、こうした「事実」の生成についての考察は欠けている。この点において興味深いのが、時代は遡るが、トクヴィル の議論である。(略)

デモクラシーの時代には、不平等や格差、あるいは特権や既得権益へのネガティヴな情念が強くなる。こうした情念は、平等な、したがって均質で、ムラのない、標準化された取り扱いを要求することになり、こうした傾向のなかで中央政府が強大化し、そこにおける画一的な行政が進展するというわけである。

(略)

デモクラシーは自らの内から官僚制を呼び寄せながら、しかし同時に官僚制とぶつかり、それを憎む。(略)

単純にデモクラシーを掲げて官僚制を叩けばよいという議論がうまくいくわけがないことが明らかとなる。こうした形式で議論を進めるかぎり、私たちはどこにも到達できないだろう。

 先に言及したミヘルスについていえば、彼は「寡頭制の鉄則」を「発見」したあと、イタリアに渡ってムッソリーニに接近することになる。外では民主化を唱えつつ、内では寡頭制化するドイツ社会民主党に「欺瞞」を感じ、その失望感から一転してファシズム的な強いリーダーシップに望みをかけるのである。

(略)

いずれにしてもここで確認しておきたいのは、ミヘルスが社会民主党の活動のなかで思想的に袋小路に陥り、そして「エリート理論」に転じて、ついにはファシズムへと飛翔したのは、彼が官僚制とデモクラシーを硬直した図式において対決させる思考から脱却できなかったことと無関係ではなかったということである。

ミル「行政との結合」

「自由論」においてミルは、大衆の同質化圧力に抗して「個性」を擁護し、そうした見方から官僚制に対して批判的な考察を加えている。(略)

しかし本書の議論にとってきわめて興味深いことに、ミルの議論は官僚制のロマンチックな拒否と同じではない。彼は、次のように述べている。

 

官僚はひとつの組織に集まってそれを運営していくのだから、どの組織でもそうであるのように、かなりの程度は決まった規則によって運営するしかない。この結果、政府組織は、決まりきった仕事をだらだらと続けていくか、臼をひく馬のような堂々巡りからときおり抜け出すことがあっても、組織の指導者の誰かが粗雑な議論にほれこんで、まともに検討もしないまま飛びつくか、どちらかの誘惑につねにさらされることになる。この二つは正反対のようにみえて、そのじつ、密接に関連している(『自由論』)。

 

 官僚制的な組織においては、「だらだらとした」ルーティンの仕事が強要され、それに対するフラストレーションが蓄積される。組織の内部にあってそうした事態は退屈に思われ、組織の外部からすればそれは怠慢に見える。それと同時に、そうした不満を背景として、粗雑で、突飛な提案が受け入れられやすくなる。「改革」を求めるリーダーほど、そうした類の提案に飛びついてしまいやすいというのである。

 合理化の進展が非合理のマグマをため込むという、フランクフルト学派の議論を、こうしたミルの洞察に接続することもできるかもしれない。

(略)

これに加えてミルは、『代議制統治論』では次のようにも述べている。

 

人の世のすべてのものごとにおいて、対立する勢力にとって必要なことは、相互にそれぞれ自己の目的にとってさえ効果あるように、相手を活発にしておくことであり、一つのいい目的だけを、それにともなうにちがいない他の目的をかえりみないで追求すると、一方の過剰と他方の不足という結果になるのではなくて、もっぱらもとめてきた目的でさえ衰退し消失することになるのである。(略)自由は、訓練され熟達した有能な行政と結合する手段をみいだすことができなければ、その最良の効果を生みだすことができず、しばしば、まったく崩壊してしまうのである。

 

(略)

ミルといえば、官僚制を含め画一性への批判的な考察ばかりが注目されるが、彼が唱えた「行政との結合」という視点は、官僚制バッシングが強い今日だからこそ、あらためて顧慮されるべきであろう。

ルソーとウェーバー

 ここでは、「正当性」に注目して、ルソーとウェーバーのつながりにふれておきたい。宗教的な内乱を克服するために、近代国家にはそれを押さえつける「暴力」が集積される。不満分子の反逆を許さない「暴力」だけが、外面的な平和を実現するという思想がここでは前提にされている。このような思想は、ホッブズ的な「万人の万人に対する闘争」という状況においては説得力をもつ。しかし、絶対的な権力が治安を確保し、それに対するあからさまな転覆運動が一応は影を潜めるような状況では、その「暴力」の正当性が問われることになる。『社会契約論』のなかで、ルソーは次のように問う。

 

暴力は一つの物理的な力である。そのはたらきからどんな道徳的なものが結果しうるか、わたしにはわからない。暴力に屈することはやむをえない行為だが、意志による行為ではない。それはせいぜい慎重を期した行為なのだ。いかなる意味でそれが義務でありうるだろうか?(略)そこで、力は権利を生みださないこと、また、ひとは正当な権力にしか従う義務がないこと、をみとめよう(『社会契約論』)。

 

 周知のように、このような問いかけからルソーは、「一般意志」について論じることになる。個人的な利益や利己心に駆られる「特殊意志」や、そうした意志を集積しただけの「全体意志」ではなく、党派性を克服した人びとの道徳的な結合を模索するのである。

 すでにミヘルスの関連で見たように、ウェーバー自身はルソーの「一般意志」については基本的に批判的である。ただそれでも、近代国家を「物理的暴力行使の独占」によって特徴づけようとするウェーバーにとっては、そうであるからなおさら「正当性」への問いは切実である。

(略)

官僚制と宗教の関係について、ウェーバーは次のような興味深い指摘をしている。


官僚制は常に、一面では、広く行きわたった冷静な合理主義の担い手であり、また他面では、絶対的な価値基準としての規律ある「秩序」と安寧という理想を担うものでもある。すべての非合理な宗教性に対する深い軽蔑と、しかもそれを馴致手段として利用する狡智との結びつきが、常に官僚制を特徴づけている(『宗教社会学』)。

 

 官僚制が「秩序」の維持にもっとも大きな関心を寄せる社会層であるということについては、すでに指摘した。ウェーバーによれば、「呪術」ですらも秩序維持という目的のために温存され、そのための格好の手段として用いられる。合理的に編成された軍隊組織で、宗教的なイデオロギーが成員の士気を鼓舞するために用いられることがある。その際、組織の「合理性」と、「非合理」な宗教的な動員はまったく矛盾しない。それどころか両者は相互に親和的に結びつく。

決定の負荷と新自由主義の強さ

 硬直化した官僚制に対して、カリスマ的なリーダーが戦いを挑むと言う議論の構図には、いまひとつの問題がある。それは、政治リーダーの側の「決定の負荷」という問題である。

(略)

脱官僚」は、政治的な決定作成の幅を押し広げる。したがってそれは、その分だけ何らかの仕方で決断し、しかもその決定内容について説明責任を果たす重荷を抱え込むことを意味する。

(略)

脱官僚」を試みれば、大きく口をあけた恣意性を縮減する必要と負荷がそれだけ高まり、そして同時にその恣意性の空間を埋めるためになされる何らかの決定とその決定について説明する負担も高まる。それができないとなると、先の章でのハーバーマスの言葉を用いれば、「正当性の危機」が顕在化することになる。

(略)

本書がここで強調しておきたいのは、こうした状況において、新自由主義的な方向性をもつ政治リーダーが有利な位置を占めるということである。諸々のうまく説明の付きにくい公行政の諸事業をバランスに留意しながら維持していこうとするならば、その説明はとても苦しいものになる。そこには、ほころびと曖昧さが残ることになる。これに対して、公行政が担ってきた諸事業を全廃する方向で「戦う」ならば、政治姿勢の一貫性と強さをアピールすることができる。あるいは逆に、強いリーダーシップやブレのない一貫性を求める政治家は、新自由主義に引き寄せられるともいえる。今日、そうしたタイプの政治家であろうとするならば、対外的にはタカ派で、対内的には「小さな政府」を唱えるというのが、もっとも無理がない。こうすれば、決定の負荷を縮減し、筋を通しやすい。(略)

原理や強さを求めるタイプの政治家と新自由主義的な政策の間には、必然的な結びつきはない。それでも、両者の間には一定の選択的親和性が確認できるのである。

(略)

そうではない立場をとろうとすると、財源の問題に直面せざるをえず、またわかりやすい「公平性」では割り切れない、さまざまな「介入」に対して説明が求められ、試行錯誤をくり返さざるをえないという傾向にある。ここに、批判を受ける余地が広がる。しかし「後期資本主義国家」において、行政は原理的に割り切れない、パッチワーク的な構築物たらざるをえない。したがって恒常的な議論と微調整が、そしてそれゆえのブレがどうしても出てきてしまう。私たちに求められているのは、こうしたゴタゴタの不可避性に対する認識と、それゆえの我慢強さではないか。

(略)

 今日、官僚制の流動化とともに、「鉄の檻」的なイメージは揺らぎ、どんどん膨張してゆくシステムという単線的な官僚制化イメージは修正を求められている。しかしそれにもかかわらず、わかりやすい「悪」役をつくり、それと闘うリーダーとして自らをディスプレイしようとする政治家は、官僚制と対抗するカリスマ的リーダーという構図を継続することを好む。そしてこうしたなかで、結果として、多くの人がそれほど望んでいるわけでもない新自由主義的傾向が進展することになる。(略)

政治リーダーによって「行政不信」が掬い上げられ、あるいは「行政不信」が駆り立てられることで、「福祉社会志向」はますます低く抑制されることになるのである。