1913 20世紀の夏の季節 その2

前回の続き。

1913: 20世紀の夏の季節

1913: 20世紀の夏の季節

 

 2月扉文 

マルセル・デュシャンが『階段を下りる裸体No.2』を展示する。このあと、デュシャンの人気は一気に高まる。(略)

クリムトエゴン・シーレによって、その他さまざまなウィーンの女性たちが描かれる。(略)

ココ・シャネルの小さな帽子店は爆発的な人気を博す。(略)

スターリンははじめてトロツキーと出会う。その同じ月に、バルセロナで一人の男が生まれる。彼はそのうちスターリンの委託を受けてトロツキーを殺害することになるだろう。 1913年は災いの年なのだろうか?

いったい、いつになったら自分の番になるのだ?

2月

 いったい、いつになったら自分の番になるのだ?オーストラリアの皇位継承者フランツ・フェルディナントはひたすら待たされ続けて気も狂わんばかりだ。八三歳のフランツ・ヨーゼフは、六五年という想像を絶するような年月にわたって帝位につき、自分の甥に帝位を譲り渡そうとしない。

(略)

 二月一三日、ルーブル美術館から消えたレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」は、いまだに何の手がかりもない。

(略)

ティーグリッツの伝説的な雑誌『カメラ・ワーク』には次のような言葉を読むことができる。「ヨーロッパの新しい芸術がともに展示されるこの展覧会は、われわれの頭上に落とされる爆弾のようなものだった。」そして、反対して喚きたてる声も相応にすさまじいものだった。(略)それでも、自分自身でイメージをつかみたいと、多数の人たちがこの展覧会につめかけた。新聞各社はほぼ毎日のように諷刺漫画を掲載し、二番目に展覧会が開かれたシカゴでは、シカゴ美術館の学生たちによる抗議デモが行われる騒ぎにまでなった。彼らは、マティスの絵画のコピー三点を焼いたということになっている。マティスは、アメリカの観客のあいだでは最も原始的な人間とみなされていたからだ。(略)

 しかし、最も大きなセンセーションを引き起こしたのは[デュシャン三兄弟](略)

一七点が展示されたが、そのうち一点をのぞいてすべてが売れた。そして、マルセル・デュシャンの『階段を下りる裸体』は(略)最も激しい論議を引き起こし

(略)

連日、人が押し寄せ、スキャンダルの中心にあるこの絵画を一目見ようと、長蛇の列をなす人々は四十分も並んで待っていた。おそらく伝統を念頭に置いたアメリカ人にとって、この絵は、奇妙で非合理的なヨーロッパを典型的に表すものだったのだろう。

(略)

 デュシャン兄弟は、自分たちのアメリカでの名声のことなど知る由もなく、引き続きヌイイにある彼らのアトリエでひたすら仕事に没頭していた。そこに突然、小切手が郵送されてきた。マルセル・デュシャンは彼の四つの作品に対する購入代金として九七二ドルを受け取った。これは一九一三年当時としても高い金額ではない。(略)

しかしそれでも、デュシャンは大いに喜んだ。

 しかし、アメリカやそれとならんでパリが画家としてのマルセル・デュシャンを発見したその瞬間には、彼自身はキュビスムとは、そしてまた運動というテーマとはすでに手を切っていた。あるいは、彼が見事に言い表しているように、「油絵の具の混じった運動」とは手を切っていたのだ。デュシャンは、この時代の最も偉大な画家の一人となるはずのその瞬間に、絵は退屈だと宣言したのだ。

(略)

スターリンはウィーンで民族の自立という見かけの背後で成立する中央国家という考え方を発展させていく。すなわちそれは、ソヴィエト連邦の考える基本的政策につながるものだ。スターリンは(ちなみに友人たちからは「ソッソ」と呼ばれていた)トロヤノフスキ家の子どもたちと話をするときでさえ、それ以外のことは話さなかった。彼は少しばかり小さな女の子に他愛もないことをいって気を引こうとするのだが、うまくいかない。

(略)

 この頃、二人の男がトロヤノフスキの住居にスターリンを訪ねてやってきた。一人はニコライ・ブハーリンで、彼はスターリンの翻訳の手助けをした。それはスターリンにとってうれしいことだった。しかし、スターリンとは違い、ブハーリンはあの小さな女の子の心をつかむことに成功する。スターリンは、生涯ずっとそれを許すことはなかった。(そのために、ブハーリンはそのうち頭に銃弾を一発ぶち込まれるというつけを払う。)もう一人、トロツキーたまたまここに一度立ち寄る。トロツキーは次のように書いている。「(略)彼は背が低く…痩せており…暗褐色の肌は天然痘の痘痕で覆われていた…彼の目には好意的な印象を一切感じとることができなかった。」それがスターリンだった。

(略)

同じ一九一三年二月に、遠く離れたバルセロナで一人の男が生まれる。彼は後にスターリンの命令によってトロツキーを殺害することになる。

3月 レーニン、ウルフ、カフカロダン

 レーニンは一九一三年、マクシム・ゴーリキーに宛てて次のように書いている。「オーストリアとロシアのあいだに戦争があれば、西欧における革命の役に立つだろう。とはいえ、フランツ・ヨーゼフとニコライニ世がわれわれにそのようなありがたい好意を示してくれるとはとうてい思えないけれど。」

(略)

妻に何も話さなくなっていた(略)アルベルト・アインシュタインは、ちょうどカフカと同じく、一九一三年三月にベルリンに向けて長い手紙を何通か書いている。彼はこのとき離婚したばかりのいとこエルザを訪問して、彼女に恋をしてしまったのだ。彼は自分の結婚生活についてさまざまなおぞましいことを書きつけている。自分たちはもう同じ部屋で寝ることはない。どんなことがあろうと、ミレーヴァと二人きりになることを避けている。なにしろ彼女は「無愛想でユーモアのないやつ」なのだから。

(略)

私は彼女のことを、残念ながら馘にできない社員のように扱っている。それから彼はその手紙を封筒に入れて郵便局へと出かける。そして、おそらくプラハからベルリンに向かう同じ郵便袋に詰められ、アインシュタインカフカの手紙にしたためられた悲嘆の言葉は、遠く離れた憧れの女性たち、フェリスとエルザのもとへと旅をしてゆく

(略)

 三月九日、重い抑鬱症にかかっていた三二歳のヴァージニア・ウルフは、彼女の最初の小説『船出』の原稿を出版社に送付する。彼女は六年ものあいだこの小説の執筆に携わっていた。(略)

原稿を送った出版社社長は、彼女の異父兄のジェラルド・ダックワースだったのだが、彼は、彼の兄のジョージとともに、子どものヴァージニア・ウルフを脅して性的虐待を行っていたのだ。

(略)

「口を閉ざしたままの、何も自己表現をすることのない生活」はその後も続いていく。一九二九年までのあいだに売れたのはたったの四七九部だった。

(略)

[カフカの手紙]

「フェリス、単刀直入に聞くけれど、イースターのとき、つまり日曜日か月曜日にいつでもいいからぼくのために時間をとってもらえるかな?(略)ぼくがそちらに行くと喜んでもらえるだろうか。もう一度繰り返すけれど、時間はいつでもいい、ベルリンではきみのことを待つだけで、ほかにすることはない。」フェリスは即座にイエスと返事をした。(略)

カフカは三月一七日にはもう、われわれの期待にこたえてこう書き送っている。「そちらに行くことができるようになるかどうかわからない。」次いで三月一八日にはこうある。「それ自体としては、私の旅行に支障はまだないし、この先もないだろうけれど、しかしそうなると支障というものがその意味を失ってしまったことになるので、そのことを考慮に入れる限りにおいて、ぼくはおそらく行くことができるだろうと思います。」

(略)

三月二一日には、自信のなさがさらに固まる。「フェリス!ぼくが行くことになるかどうか、いまだにまったくもってはっきりわからない。明日 の午前中になればはっきりと決まる。まだ製粉業者の集会が行われることになりそうなんだ。」(略)

それは神経衰弱の兆候でもある。「きみの前に出る前に、きちんとぐっすり寝ておかなければならない。(略)きみと会うときに、ぐっすり寝ていさえすればいいんだが!」そして三月二二日、つまり彼が出発することになっている(また出発するであろう)日になって、フェリスに宛てた封筒にはこう大きく書かれていた。「いまだに 決まっていない。フランツ。」この四つの言葉は、彼の自伝でもある。
 ほとんど信じられないかもしれないが、フェリスに宛てたフランツ・カフカの次の手紙は、ホテル「ベルリン・アスカーニッシャー・ホーフ」の頭書きのついた便箋に書かれている。カフカは復活祭の日曜日の朝早く、このホテルから慌てふためいた様子で書いている。「フェリス、いったいどうしたんだい?きみは金曜日には、土曜日の晩についてぼくの予定を書いた速達を受け取ったはずだけれど。よりによってこの手紙がなくなってしまうなんて。ともかく、ぼくはベルリンにいる。午後四時か五時には出発しなければならない。時間がたつばかりで、きみからの連絡は一向にない。その男の子経由で返事を送ってほしい。人目につかないようにできるのであれば、念のためにぼくに電話してくれてもいい。アスカーニッシャー・ホーフにいて待っている。フランツ。」彼は復活祭の前の晩にベルリンのアンハルター駅に到着していた。フェリスとホームで会って、一緒に復活祭を祝おうと思っていたのだろう。だが彼女は来なかった。いらいらしながら彼はホームをあとにした。それからフェリスとすれ違いにならないように、待合室に腰をおろした。いつまでも待ち続けた挙句、そこを出てホテルヘと向かう。しかし、眠ることはできない。夜が明けるとすぐに、カフカは飛び起きてひげをそる。だが、いまだにフェリスからは何の音沙汰もない。

(略)
どこかの時点でフェリスが連絡したに違いない。フェリスは肝のすわった女性だ。彼女はグルーネヴァルトまで出かけてゆく。そして、切り株に並んですわる。われわれの知っているのはそれがすべてだ。

(略)

 三月二六日にカフカプラハからフェリスに書いている。「ねえ、ぼくがこちらに戻ってから、きみはいままでよりももっとぼくにとってはつかみどころのない不思議な存在になっているんだよ。」

(略)

 カミーユ・クローデルは一九世紀の末にはあの偉大なオーギュスト・ロダンを凌駕し、独自の美しさをそなえた彫刻を創り出していた。彼女はロダンに契約を結ばせ、自分以外のモデルをもつことを禁じて、彼女への注文依頼を取りつけたり、彼女のイタリア旅行の費用を出したりする義務を負わせていた。ロダンはそれらの条件の下に、カミーユのアトリエを月に四回訪れてよいことになっていた。しかし、その後彼女は一八九三年にロダンのもとを去った。
 この瞬間から彼女の人生は下り坂となる。二〇年後の一九一三年、彼女の頭を占めているのはいまだにロダンだけである。このときには彼女は太ってむくんだ身体になっており、洗わずぼさぼさになった髪のまま、乱れたまなざしを投げかけていた。まずロダンが、ついでドビュッシーがとりこになったあの若い造形作家の面影はどこにもない。

(略)

狂気にとらわれ、狙いを定めたハンマーで、彼女がこれまで創作してきたすべての作品を破壊した。彼女は家族から、ロダンから、そしてその他の世界全体から追われていると感じていた。ロダンと最後に会ったのは一六年前のことなのだが、そのロダンが、恥知らずにも自分の作品を剽窃していると彼女は確信していた。
 皆が自分を毒殺しようとしていると強く思い込んでいたため、彼女はジャガイモしか食べない。そして、一度沸かしたお湯しか飲まない。誰も彼女に探りを入れることができないようにと、窓の鎧戸は閉め切ったままになっている。弟のポール・クローデルは彼女を訪れ、その後、自分の日記に簡潔に記している。「パリ。カミーユは気が狂っている。壁紙は長い切れ端になって壁から引きはがされ、一つだけある壊れた椅子も、恐ろしく汚い。カミーユ自身は太って汚れている。そしてたえず単調で金属のような声でしゃべっている。」(略)

[48歳の彼女は3月10日施設に強制収容、重度のパラノイアと診断される]

4月 フロイトヒトラー、クレー

 ウィーンはジークムント・フロイトの影響のもとにある。いまではただ夢を見ただけで、どこでもベルクガッセ一九番地で生まれた超自我のことを考えてしまう。いずれにせよ四月九日、アルトゥール・シュニッツラーは日記に次のように記している。「ばかげた夢を見た。何かの検査のあと家に向かうが、エブリィでひげを剃ってもらおうと考える。突然自宅の浴室となる。アスコナス氏が(おできの手術の前だろうか)私の脚の毛を剃ろうとする…」(フロイト派ならば、偽装された自殺願望夢だと解釈することもあるだろう。)

(略)

 アドルフ・ヒトラーは四月二〇日に二四歳となる。彼は、労働者地区(略)の男性宿舎で暮らしており、休憩室で水彩画を描いている。自室だと狭すぎるのだ。五百人もの宿泊者がそれぞれ小さな個室とベッドと衣装掛けと鏡をもっている。ヒトラーはその鏡の前で、毎朝口ひげの手入れをしている。一晩五〇ヘラーだ。ヒトラーのように長期滞在するものは、土曜日ごとに新しいシーツを受け取る。ほとんどの居住者は、日中には仕事を求めて、あるいは退屈しのぎに街のなかをうろつき回り、晩方になるとどっと戻ってくる。昼のあいだ、建物に残る者はごくわずかしかいない。アドルフ・ヒトラーはそういった者たちの一人だ。毎日毎日、彼は「書斎」と呼ばれる部屋の窓の張り出したところに腰掛けて時間を過ごす。(略)

そして、ウィーンの名所のスケッチや水彩画を描く。彼はそこで、着古してよれよれになったスーツを身につけて弱々しく腰掛けている。この宿舎の居住者なら誰でも、ヒトラーが芸術アカデミーを放校になったという不名誉な話を知っている。黒くて重い髪の毛が何度も顔に落ちかかってくるので、彼はせっかちに頭を動かしてその髪の毛を後ろにやるのだった。午前中は鉛筆で下書きをし、午後になるとそれに絵の具が加わる。夕方、彼はその紙片を誰か宿舎の居住者のところにもってゆき、それを街で売ってくれと頼む。(略)

あるモティーフの受けがいい場合、同じものを三度描くこともある。一枚で三クローネから五クローネになる。(略)彼は節約した暮らしぶりで、ほとんど禁欲的といってもよいほどだ。

(略)

しかし、いったん部屋の中で政治の話になると、彼のなかで突然衝動が走る。彼はいつのまにか絵筆をほうりだし、両目を爛々と輝かせる。

(略)

四月三日、カフカは救いがたいほど病気になっていると告げる。[マックス・ブロート宛ての手紙](略)

「燻製職人の使う幅の広いナイフのイメージが頭から離れない。それはきわめてせわしなく、そして機械的な規則性で、側部から私の身体のなかに入り、薄い肉片を切り出してゆく。その肉片は、すばやく作業しているときに、ほとんどくるくると巻かれた状態で飛び去ってしまう。」

(略)

友人たちは心配し、カフカ自身も自分の頭がおかしくなっているのではないかと本気で不安になった。

(略)

手紙のなかの理想的な女性像が、血と肉をそなえた女の姿になってからというもの、そういったこともいまとなっては難しくなってしまった。カフカがベルリンのフェリスになんとか会うことができたとき、彼はフェリスのとなりで気後れして震えていたのだ。

(略)

ムージルとはちがって、カフカは医者に行かなかった。彼は自己療法を行ったのだ。(略)ドヴォルスキ庭園を訪れて、雑草取りの手伝いを申し出る。(略)

四月七日、保険局の仕事を終えたあと、彼は午後遅くに作業を始めている。

(略)

[だが園丁の娘から後継者になるはずだった28歳の兄が鬱で服毒自殺したと知らされ]

精神的に動揺して、カフカはヌスレの山肌にある庭園をあとにする。魂の平穏の場所などない、どこにも。

(略)

パウル・クレーは、アインミラー通り三六番地で絵画の進展をともに試みるガブリエレ・ミュンターとワシリー・カンディンスキーを訪ねる。一九〇六年、二人が愛の絶頂にあったとき、ミュンターとカンディンスキーはイタリアとフランスを旅行し、煌くような油彩による海の習作を描いていた。それらは互いにとても似ているため、現在でもなお、二人のうちどちらがそれらの作品を描いたのかわからない。だが、それから七年たったいま、二人の手は離れ、絵の様式も、さらにはベッドもほぼ離れてしまう。カンディンスキーは燃え立つ色彩の抽象性の方向へと漂い、ガブリエレ・ミュンターのほうは地に足のついた絵画にとどまっている。彼女の絵では、古い教会の窓に使われている鉛のように、さまざまな色彩を黒い線が取り囲んでいる。パウル・クレーがこの芸術家たちを訪問したとき、ガブリエレ・ミュンターは彼をそのように描いた。とがった横顔、こわばった襟、まっすぐなあごひげ、背景にはカンディンスキーやミュンターの絵ばかり壁にかかっているのが見える。そしてクレーはこの肖像画ではスリッパをはいて、家でくつろいでいるような様子である。この四月、ミュンヘンではまだ雪が残っており、おそらくクレーは歩いてこの友人たちのところに行く途中、足が濡れてしまったのだろう。彼はこの家の女主人の温かいスリッパにぬくぬくと足を入れているわけだ。

(略)

この作品は、今日にいたるまで、「青騎士」の内面生活の一端を垣間見せる心おきない瞬間をわれわれに伝えてくれている。

次回に続く。