ベンサムのパノプティコン構想

 フーコーの「パノプティコン」理解はちょっと違うという話。

『コミュニケーション――自由な情報空間とは何か』(自由への問い 第4巻)から。

コミュニケーション――自由な情報空間とは何か (自由への問い 第4巻)

コミュニケーション――自由な情報空間とは何か (自由への問い 第4巻)

 

功利主義と自由――統治と監視の幸福な関係――

安藤馨

(以下、ベンタムとあるのは、ベンサムのこと)

  ベンタムが当時の悲惨な監獄事情を憂い、その人道的改善を真剣に提案した[のが「パノプティコン」](略)

「見られることなく見る」ことと伝声管によって「聞かれることなく聞く」ことによって囚人を規制しようとする。このパノプティコン監獄構想はしばしば統制主義の権化と見なされ、その点を批判されることによって有名であるが(そうした批判はしばしばミシェル・フーコーによる独特のパノプティコン理解に依拠している)、ここで注目すべきはそのような点ではない。パノプティコンは管理者の請負制によって運営されるのだが、この看守・管理者に対する統制の有様こそが、パノプティコン構想の本質である。

(略)

社会の一般的な死亡率を上回って囚人が死ぬたびに管理者に課徴金を課すことによって囚人の厚生を確保し、会計の公開や監獄それ自体の公開によって、囚人に対する管理者の権力を統制しようという構想が展開されている。

(略)

 ベンタムの立憲主義的統治構想は『憲法典』と『憲法典のための予備的諸原理』にまとまって見ることができる。

(略)

最初に挙げられるのは――現代国家では想像しがたいことだが――いわゆる「単座部局制」である。行政組織中の任意の部局は、基本的に一人の公務員のみによって構成される。この異常な制度の趣旨は概ね次の通りである。それは職務の不適切な遂行や不遂行(欠勤や怠慢)によって生じた害悪の責任転嫁を許さない。他に責任者がいなければ責任転嫁は起こりようがないからである。この制度は更に、下位の役職者の任命者たる上位の役職者の任命責任を問うことによって(また彼らは下位役職者に対する懲戒権能を有しており適宜彼らの非行を処罰しなければならない)、連鎖的に最高位の役職者までつながっていく。更に「私にはそうする権限・自由がなかった」という言い逃れを防ぐために、役職者には害悪をもたらさない範囲で最大限の裁量権が付与される。個人責任を徹底して重視する立場から、ベンタムは権力分立に対してもまた否定的である。それらは、立法・行政・司法の各部門が互いに責任を擦り付けあうことを許す無責任の体系に過ぎない。こうして連鎖的に最高権力まで責任が到達したところで、それを「世論法廷」が監視するという構造になる。世論法廷は公職者に対し、公開性・秘密暴露によって民主的統制を行う。

(略)

役職者たちに対する監視は殆ど偏執的ですらある。欠勤や怠慢などによる損失から始まって、公有地が使用されないことによる損失、果ては文房具の類の破損や紛失による損失に到るまでをも詳細に記録した「損失白書」などの統計的文書の公開を義務づけ、立法府議員もまた厳しく議会への出席の有無を――途中でどこかへ抜け出せないように議会の建物には出入り口がそれぞれひとつずつしかないことになっている――監視の対象とされる。
 こうした監視の構想は『憲法典』第一巻の以後で絶頂に達する。ベンタムは行政府の役職者たちが仕事をする建築物(大臣室など)の設計的詳細を語り始める。それは円形の建造物であり、他に漏れ聞こえることなく秘密裏に中央の大臣と周辺部に配置された小部屋に座る人間が会話できる――役職者の非行についての密告を可能にするためである――構造になっている。こうした建築的構造は殆どパノプティコンそのものである。ベンタムはそこで自身のパノプティコンに言及しているが、『憲法典』の統治構想とパノプティコン構想がまったく同一の原理に基づいていることがいまや明らかになる。そこではパノプティコンに於いて管理者が囚人を監察し、囚人と管理者を世論法廷が監察するという構想が再確認される。

(略)

あらゆる権力濫用に対する治療薬は民主的に統制された監視の連鎖である。これこそが、パノプティコン構想を経てベンタムが到った統治構想の中核的原理だといってよい。それはあらゆる政治的害悪を特定個人へと帰責し、処罰を加え、また馘首するための監視システムであり

(略)

ベンタムの立憲主義構想の要である利益結合指示原理は殆どパノプティコン原理、すなわち監視の入れ子構造そのものなのである。(略)監視に基づく立憲主義というこの発想自体は、現代にあってなお特異な立憲主義構想を我々に示している。

(略)
ここで必要なのは良い統治を行う何かなのであって、それが人間である必要もない。仮に被治者からの快苦のフィードバックによって適切に統制が為されさえするならば、統治主体が計算機や制度へと解消されても構わないのである(略)。そこでは民主的統制によって悪しき統治プログラムが不断に淘汰されることで、生き残っていく統治プログラムの質が確保される

(略)

この立憲主義構想で統治者に本質的に想定されているのは、自由で責任ある近代的な主体たる個人などではない。被治者から(しばしば監視によって得られるだろう)情報を入力として受け取って善い統治を出力するような傾向性それ自体が必要なのであって、その傾向性がどのように実現されるかは(略)どうでもよいのである。功利主義にはそのことを内在的に妨げるようなものはなにもない。