ザ・バンド 軌跡  ロニー・ホーキンスとの出会い

ザ・バンド 軌跡

ザ・バンド 軌跡

 

サニー・ボーイ・ウィリアムスン

 (四〇年代のラジオから、ディナー・ベルの音が響く) 「チリリン!『キング・ビスケット・タイム』です。さあ、ビスケットをまわして!」
 ぼくの家では、一年じゅう毎日、午後のラジオは一二五〇サイクルのKFFAにあわせてあった。その日の分のブルースを聞くためだ。
 「月曜日から金曜日まで、キング・ビスケット食品が毎日お送りするサニー・ボーイ・ウィリアムスンと彼のキング・ビスケット楽団。

(略)

 このアナウンスのあと、いつもサニー・ボーイがハーモニカを吹いて、その音を空中に飛ばす。サニー・ボーイはあの地域一帯のデルタ・ブルースの王者だった。

(略)

 一九三八年ロバート・ジョンスンが殺されたあと(略)サニー・ボーイはロバートが養子にしていたロバート・ジュニア・ロックウッドと組んで、ジョンスンの音楽を生かしつづけた。

(略)

食品会社はサニー・ボーイ・コーンミール(南部ではいまも売られている)という新製品を発売するまでになった。

(略)

 土曜の午後、サニー・ボーイとバンドがマーヴェルで演奏をすることがあった。場所は、倉庫の裏の貨物用埠頭だ。そこにはブリキの屋根があって、それが野外音楽堂のようなよい音をつくった。

(略)

彼らは当時のヒット曲を全部知っていた。みんなが何を聞きたがっているかを知っていて、それを演奏した。
 オーバーオールに麦わら帽をかぶった、じかに見るサニー・ボーイは、迫力に満ちた印象的な人物だった。分厚い唇は長年ハーモニカを吹いてきたせいで硬くなっていた。初めて見たとき、ぼくは彼がハーモニカにむかって歌っているのに気づいた。彼の声は金属製のハーモニカを通って、かみそりの刃のように研ぎすまされてから、マイクに到達する。それが歌に、特別な金属的な衝撃のエネルギーをくわえる。あの音楽の感触は、いまもあざやかにおぼえている。独特の癖のある、鞭のような、まっすぐ前にくりだしたストレート・パンチのような声。サニー・ボーイはアンプを通した戸外のカントリー・R&Bでぼくたちを圧倒した。

(略)

 一九四九年、ぼくは九歳になった。それは、ぼくが初めてギターを持った年であり、また親父といっしょに畑仕事をするようになった年でもあった。

プレスリー

 ぼくがエルヴィスを初めて見たのは、一九五四年の終わりだったと思う。エルヴィスはメンフィス出身だったから、ぼくたちは彼を仲間だと考えた。エルヴィスの初期のレコード、〈ザッツ・オール・ライト・ママ〉がラジオから聞こえると、何もかもが止まった。

(略)

初めて見たのは、たしかヘレナのカソリック・クラブのステージだった。そのときのメンバーは、エルヴィスのほかにギターのスコッティ・ムーアとスタンダップ・「ドッグハウス」・べースのビル・ブラックだけだった。

(略)

スコッティ・ムーアが栂指ともう一本の指で低音弦をひき、残りの指でエコーとリヴァーブをかけたメロディを聞かせるというエレクトリック・ギター・ソロをするあいだ、エルヴィスは腰をくねらせて踊った。つねに循環していてはずむような感じの、すばらしい初期のロカビリー、ジャズに近いフィーリングがあった。(略)

ぼくがおぼえているのは、彼らがロックしていたということだ。それは熱かった。そして強烈だった。ビル・ブラックはダウンビートベースの弦をプルし、バックビートでダブル・スラップで弦をフレットにたたきつけた。彼はブレイクのときにベースをくるりとまわし、エルヴィスは〈グッド・ロッキン・トゥナイト〉の決めの箇所で床を蹴った。ビルが曲をたてなおし、スコッティが笑いながらそれを助けていたのをおぼえている。そのときぼくの足はまるで独自の意志を持っているみたいに、床でリズムをとっていた。エルヴィスは絶対的にすごかった。ただ気にいらないのは、ステージがあまりにすぐに終わってしまったことだった。

(略)

[数カ月後、アーカンソーの高校の講堂での公演]

D・J・フォンタナがドラムだった。すごかった、D・Jは照明をこわしそうになった。みんな踊りたがっていたが、鎖でしばりつけられているみたいにすわったままはねたりからだを揺すったり、足でリズムをとったりしていた。
 このときのバンドは、ぼくがそれまでに聞いた最高のバンドといってもよかった。D・J・フォンタナはドラムをいくつも据えて、ヴァースのあいだのフィルをもりあげてソロに入り、ふたたびソロからもどった。すばらしいテクニックと敏捷な手を持っていて、いつでも好きなときにバディ・リッチ風のプレス・ロールをたたくことができた。ビッグ・バンドのドラマーのように、彼はつねに全力でプレイした。おかげでしっかりと支える基盤ができて、エルヴィスはそれをうまく生かした。D・Jはエルヴィスを自由にしたのだ。
 同時にエレクトリック・ベースがリズム・セクション全体を変えた。ふたつのエレクトリック楽器が音楽を決定的にした。それまでは、スコッティがギターの弦をたわませて泣かせるとき、音楽の底を支えるものがなくなくなった。しかしエレクトリック・ベースがあるので、スコッティはのびのびとソロをひくことができた。効果は絶大だった。ロックンロールの誕生だ。

(略)

 一九五五年の遅く、エルヴィスはサン・レコーズからRCAに移籍した。どんどん有名になって遠くへ行ってしまい、ぼくたちはエルヴィスを見ることができなくなった。しかし、あとを埋めるバンドはたくさんあった。いつも週末は、ジェリー・リーのバンド、ビリー・ライリー、そしてわがフィリップス郡のヒーロー、のちにコンウェイ・トゥイッティという芸名で有名になるハロルド・ジェンキンズなどのなかから、好きなものを選んで見にいくことができた。

フォーバス知事

  一九五七年、知事のオーヴァル・フォーバスがリトル・ロックのセントラル・ハイスクールの人種統合に待ったをかけた。これが大きな騒ぎとなり、ドゥワイト・アイゼンハワー連邦軍を送りこみ、フォーバス知事は極端な差別主義者だといわれた。しかし、ぼくたちはそれがほんとうでないのを知っている。フォーバスはほんとうは進歩的な知事だった。しかしあのとき統合支持派という恪印をおされたなら、アーカンソーでの政治生命は終わっていただろう。実際はどうだったかというと、ぼくがハイスクールの最終学年のころ、アーカンソーの学校ではおだやかな形でかなり統合が進み、フォーバス知事は選挙に勝ち続け、さらに四期を務め、州民も彼のやりかたに満足していた。オーヴァルは、うるさい南部人の首ねっこをつかんで、アーカンソーを二〇世紀にひっぱりこんだのだ。

 ロニー・ホーキンスとの出会い

[コンウェイのギグで一曲飛び入りで歌わせてもらった時に]

  「どうしてカナダヘ?」
 「オンタリオだ。あっちじゃロカビリーがすごい人気でね。ツアー・ルートができあがっていて、いい金になる。あんたもいっしょに来て自分の眼で見たらどうだ」

(略)

[57年]ロニー・ホーキンズは、ギターのルーク、ベースのジョージ・ポールマン(略)カミカゼ・ロカビリー・ピアノをひくウィラード・「ポップ」・ジョーンズといっしょにバンドをつくった。(略)

[そしてドラマーとしてヘルムに声がかかった]

「みんながいうには、あんたはギターがうまいし、ドラムもやれるそうだ。おれたちのバンドに入る気はあるか?」

(略)

[渋る父を説得するホーク]

コンウェイはカナダで稼いでいます。かなりいい金をね。そのコンウェイが絶対にカナダに来いといってるんです。あっちでは、みんながいいバンドが来るのを待ちこがれてるんですよ」(略)

[5月に卒業したらカナダへ行けることに。それまで地元でギグ]

「カナダへ行くなら、ほおひげを生やしたほうがいいな(略)聖歌隊の少年みたいな顔をしてるんじゃあ、あっちのクラブが入れてくれないからな」

(略)

ロニーは大きくてハンサムで、話がおもしろくて、声がよかった。ミュージシャンというよりエンタテイナーだった。(略)

ぼくたちはボ・ディドリーのビートを刻み、ホークは(略)お得意のキックやキャメル・ウォーク[や宙返りで](略)みんなをおどろかせた。(略)[演奏後15ドルをくれ]

「おれにくっついてろよ」ロニーはいった。「こんなのは、はした金だ。おれたちはじきにシルクを通して屁をこくようになる!」

(略)

[クラブに出るのに必要なので組合に入りにいくと、ロニーは拒否]

「おれは何も楽器をひかないんだ。どうして組合に入らなきゃならない」

(略)

おかげでつぎの六年間、ホークのプロとしての仕事はすべて、ぼくの名前で登録された。

(略)

 ぼくたちがカナダでたよりにしたのは(略)ハロルド・カドレッツというブッキング・エイジェントだった。ぼくたちはすぐに彼をカドレッツ大佐と呼ぶようになった。エルヴィスに大佐がついているのだから、おれたちにも大佐がいたほうがいい!ホークがそうがんばったからだ。

(略)

 ロニー・ホーキンズはあっという間に、このシーンの王者となった。彼はル・コック・ドールの二階の部屋を自分専用のスタジオ兼「体育館」に改造した。(略)

 「あれは乱交じゃない」ホークはいつもいっていた。「七、ハ人が同時に愛しあっただけだ」
 自分たちは、ネロでさえ参加をしぶるほど破廉恥なパーティをやる。ロニーは人にそう吹聴した。(略)とにかくホークは、芳しくない評判をひろげることに熱心だった。彼にいわせれば、それもまた宣伝の一部なのだった。

(略)

その夜のホークは血に飢えていた。ぼくたちも薬をやっていて、ロニーはステージの端で何度もとんぼがえりをした。(略)

ぼくたちが客を熱狂させるのを見て、カドレッツ大佐はジャージー海岸のナイトクラブをまわるバンドをブッキングしているニューヨークのエイジェントに電話した。そういうわけで一九五九年の春、ぼくたちはニュージャージー州ワイルドウッドにいた。(略)
ぼくたちの人気が、サミー・デイヴィス・ジュニア、テレサ・ブリューワー、フランキー・レインなど当時の大物とならぶぐらいになった。タレント・エイジェントはそれにおどろき、やがてロニーを次世代のビッグ・スターと見こんだレコード会社から、いくつもの甘い誘いがかかった。いまふりかえってみると、ちょうどその時期、ロックンロール界には大きな穴があいていた。エルヴィスは軍隊、チャック・ベリーは刑務所にいた。十三歳のいとこと結婚したジェリー・リーには非難が集まっていた。リトル・リチャードは宣教師団に入り、コンウェイ・トゥイッティはカントリーに転向し、バディ・ホリーはすでにこの世の人ではなかった。

(略)

 コロンビア・レコーズのミッチ・ミラーが契約をしたがっていたが、ロニーは、ルーレット・レコーズの社長、モリス・リーヴァイがよこしたエイジェントのほうに興味を持った。

 モリス・リーヴァイ

ホークはぼくに顔を近づけ、小さな声でいった。「リーヴァイさんの前では行儀よくしろよ。やつは正真正銘のマフィアだ」
 モリスはなかなかのつわ者で、当時のブロードウェイは実質上、彼の支配下にあった。街の顔役を大勢知っていて、だから逆らう者はいなかった。ロイヤル・ルーストやバードランドといったニューヨークの有名ジャズ・クラブを手に入れたあとの一九五六年、彼はディスク・ジョッキーのアラン・フリードを共同経営者にしてルーレット・レコーズを設立した。

(略)

 モリスはレコード・レーベルやクラブやレストランを持っているだけでなく、主要な音楽著作権会社のオーナーであり、またアラン・フリードがブルックリンのパラマウントやフォックスの劇場でおこなって成功をおさめていたロックンロール・ショーの共同主催者でもあった(これからずっとあとのことだが、モリスは(略)アメリカ音楽の産業の「ゴッドファーザー」と評されるようになった)。

(略)
一九五九年四月、ぼくたちはルーレットと契約をし(略)ベル・サウンド・スタジオで(略)ロニーがチャック・ベリーの〈サーティ・デイズ〉をもじってつくった〈フォーティ・デイズ〉を、すごく速く演奏した。ウィラードが猛スピードでピアノ・ソロをひき、出だしから一気に激しくなるあの曲を聴けば、当時のぼくたちのバンドがどんな音を出していたかわかるはずだ。(略)モリス・リーヴァイがうしろに大きな実弾を用意したこともあって、〈フォーティ・デイズ〉は八週間、ビルボードのホット一〇〇のチャートにランクされ、最高四十五位まで上がった。

(略)

ロニーにかわりにサインしてもらって――ぼくはまだ十九歳だった――、自分専用の新しいキャデラックを買った。ぼくたちは小艦隊のように車を連ねるようになった。  

Forty Days (To Come Back Home)

Forty Days (To Come Back Home)

  • ロニー・ホーキンス
  • ポップ
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes

 

ボ・ディドリー

[アラン・フリードの大規模な労働祝日のショーにて目撃]

ドラムのクリフトン・ジェイムズ、マラカスのジェラム、ギターのボ・ディドリーの三人編成だった。ピアノがなく、ボ・ディドリーは自分の耳でギターをチューニングし、いつもバンド・リーダーのサム・「ザ・マン」・テイラーを困らせていた。(サム・テイラーはロイド・プライスのバンドをひきつぎ自分のバンドと合体させていたので、三十もの楽器がならぶことがあった。ぼくが初めて、ステージ上にドラマーがふたりならぶのを見たのも、このときだ。ロイドのところのドラマーは、スネア・ドラムを脚のあいだに鋭い角度をつけておき、それを金槌のようにスティックをふりまわすマレット・スタイルでたたいた。サムのドラマーはふつうのクロス・スティッキング・スタイルでたたいた。ふたりのドラマーのすぐ横で、ベース奏者のスパイダーがスタンダップ・ベースをひいていた。その三人がいきおいにのったときには、何か特別な力にうごかされているようだった)。ボ・ディドリーとバンドが演奏をはじめると、サムは彼らがどのキーでやっているのかを探る。そしてキーをみつけると、サキソフォンのマウスピースを調節して半音上げたり下げたりして、ディドリーの「耳の」チューニングにあわせる。それからバンドに合図をする。二本の指をたて、もう一本の指を横にわたせばA、そのあとに親指をたてればシャープよりだという合図になる。それでようやく、最後のコードの準備が整う。ディドリーの最後のチャッ、スチャッ、チャッという音で、全員がディドリーのバンドに合流し、ドラマーは激しくドラムをたたきダウンストロークで、すべてがはじけて終わる。その強烈なパワー、全員がつくる大音響のコード。ぼくはそれにぞくぞくした

(略)

[客にはウケていたが]カナダにもどるとちゅうで、ぼくたち以外にはロカビリー・スタイルのバンドが出ていなかったということに気づいた。いちばん反響が大きかったのは、ディオンだった。それが何を表しているかは明白だった。ぼくたちがやっている音楽は、すたれはじめていた。

ロビー・ロバートソン

[59年]いつもステージそばに、地元の少年がひとりいるのに気づいた(略)たぶん十五歳になっていなかったろう。その子はぼくたちの役に立とうとして、雑用を何でもひきうけた。(略)

ぼくはその子がいつもギター・ケースを持っているのに気づいた。(略)

それが、ロビー・ロバートスンだった。

(略)

[ホークはロビーを気に入っていたが、バンドには既にギターが二人いた。ベースに空きができ、弾けるかと訊かれたロビーは、弾けると嘘をついた]

「練習をしておけ。(略)できがよければバンドに入れてやる」

(略)

 そのころヘレナでは、ロビーがハウリン・ウルフのレコードからベースとギターのパートを抜きだして練習していた。指の皮膚が爪のように硬くなるまで、一日に十二時間もの練習をした。ホークからとてもうまいといって誉められたときのことを、ロビーはあとあとまでおぼえていた。ホークスのメンバーが血眼になって音楽業界での成功を求めているのを見て、ロビーはフレッドからはギターを教えてもらえないのを知った。そういう自殺行為になりかねないことをフレッドがやるはずはない。

(略)

ロビーは、フェンダーテレキャスターをひくフレッドを観察した。フレッドは、下の二弦をバンジョーのスティール弦に替えていて、彼のギターにほんもののブルースの響きがあるのはそのためだった。ロビーはそういうことを全部おぼえ、いろいろな人のテクニックをおぼえ、レイ・チャールズのピアノのフレイズをエレクトリック・ギターでひくことまでした。

(略)

 最初の夜、新メンバーでの練習が終わったとき、ホークはぼくに「このガキは天才だ」といった。そしてロビーには「仕事をやろう。おれたちにくっついてろ。そうすりゃ食いきれないぐらい大勢の女がついてくる」といった。

(略)
モリス・リーヴァイは、ニューヨークをはなれるな、ロックンロールの天下をとれ、できればハリウッドにも進出しろといった。「カナダなんかには行かせない」モリスはオフィスでぼくたちをどなった。「きみの前にはすべてが揃っている。エルヴィスは兵隊をやってるし、どちらにしろ、きみのほうがエルヴィスよりいい。バディ・ホリーエディ・コクランも、もう死んでいる。ここは真空地帯だ。それを埋めるのは、きみしかいない。いまが勝負のときだ!そのときにここから消えるなんて、それはない」
 しかしホークは、モリスのような確信を持っていなかった。(略)

[フランキー・アヴァロン、フェビアンなどの新しいアイドルの時代が来ていた]

[ペイオラ醜聞で]アラン・フリードは職業的生命を断たれた。ぼくたちが関わっていたロックンロール産業も終わった。そう、五〇年代は終わったのだ。(略)[だが]カナダヘ行けば、一年をとおして一週間に七日、仕事がある。情勢が変わったアメリカでは無理だが、カナダヘ行けば生活が保証される。ホークはそれを知っていた。

 [時代に変化に合わせ、フォーク・ソングやプロテストソングを録音したりもした]

 次回に続く。

 

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