ハード・バップ モダン・ジャズ黄金時代の光と影・その2

前回の続き。

ハード・バップ―モダン・ジャズ黄金時代の光と影

ハード・バップ―モダン・ジャズ黄金時代の光と影

ソニー・ロリンズ

[高校で同級生だったジャッキー・マクリーンは]一九四〇年代末のハーレムにおけるジャズシーンと、その当時のロリンズについて(略)
ソニーは、アップタウンにいたすべての連中に影響を与えた。どんな楽器でも演奏できたからね。
(略)
 〈ショウほど素敵な商売はない〉『ワークタイム』収録。(略)復帰後最初のリーダー作(略)
ロリンズはさらに大きな威厳を感じさせている。
 まず曲の原型をわからなくなるまで壊し、意表をついた間合いとリズムのずれによって、曲を徹底的に作り直し、演奏のスピードを半分に下げる。テーマに戻ると、角張った急速なフレーズを吹き、気持ちの高揚した音色で、ところどころガッツに溢れた叫びを入れながら、異常に速いテンポに乗って換骨奪胎し、最後にはカデンツァを太く重々しく加えている。
 自由自在なリズム感、予想できないフレーズのパターン、深遠なスイング感、暗く太い音色、チャーリー・パーカーのようなスムーズなイントネーションをもったテナー・サックスの巨人――これがソニー・ロリンズに対するわれわれの第一印象である。

マイルス『クッキン』

[ジョー・ゴールドバーグ談]
 このクインテットの演奏を聴いてユニークだなと思ったのは、マイルスがつかんでいた独特の法則にある。じつに単純だが、他のバンドにはなかった法則だ。
 このグループ特有の表現として、編成がクインテットだからといってつねにクインテットで演奏するわけではないという法則があった。マイルスをフィーチャーしたカルテットになることもあれば、同じ曲をとりあげても、演奏する度に違った演奏になる。コルトレーンをフィーチャーしたカルテットになることもあれば、ガーランドとチェンバースをフィーチャーしたトリオになることもある。
 リズム・セクションのなかで、このことをもっともよく理解していたのがフィリー・ジョーだった。ソロイスト(マイルス、コルトレーン、ガーランド)に、それぞれもっともふさわしいバッキングをみせたからである。リズム・セクションは、マイルスの伴奏でではコードの数も少なく空間たっぷりの演奏をみせたのに対し、コルトレーンの伴奏ではあおるような演奏を聴かせていた。ガーランドは、いつのまにかアーマッド・ジャマルのようなゆったりとしたフィーリングを身につけてしまっていた。

ハード・バップを取り巻く状況

 一九五九年、ハーレムやシカゴのサウスサイドにあったアパートには、熱心なジャズ・ファンが必ず数人は住んでいた。彼らはビ・パップ以前のジャズに興味を示さなかったが、ハロルド・ランドブッカー・アーヴィンボビー・ティモンズケニー・ドリューの違いや魅力を好んで議論していた。(略)
ドリフターズやリトル・ウォルターのファンがもっぱらBGMとして気軽に楽しむリスナーであったのに対し、ジャズ・ファンは熱心な研究家だった。彼らにとってジャズはパーティを催すときのBGMでもあり、(西欧的な意味での)芸術でもあったのだ。
(略)
一九五三年から一九七〇年まで、ブルーノートとプレスティッジは、それぞれおよそ三〇〇〇枚のシングル盤を発売している。音楽のスタイルはさまざまだが、傾向としてはじっくり聴くことのできるバラードか、グルーヴ感溢れるファンキーなサウンドの、両方またはそのどちらかに分類される。
 ブルーノートではザ・スリー・サウンズ、ジョン・パットン、フレディ・ローチジミー・スミス、ベイビー・フェイス・ウィレット、ケニー・バレルグラント・グリーンルー・ドナルドソンアイク・ケベックスタンリー・タレンタイン、ベニー・グリーンといったミュージシャンに重点を置いていた。その次にくるのが、キャノンボール・アダレイアート・ブレイキーホレス・シルヴァーソニー・ロリンズといったハード・パップのスターである。
 さらに低い扱いをされたのが、ジャッキー・マクリーンやボビー・ハッチャーソンといったミュージシャンだった
(略)
ジャズを芸術として認めていなかった[ワインストックの](略)プレスティッジのカタログの大半を占めていたのは、ソウル・ジャズである。(略)
レッド・ガーランドボビー・ティモンズ、チャールズ・アーランド、リチャード・グルーヴ・ホルムズ、ジャック・マクダフ、シャーリー・スコット、ジョニー・ハモンド・スミス、ラリー・ヤングジーン・アモンズ、アーネット・コブ
(略)
つぎに来るのがマイルス・デイヴィスジョン・コルトレーンといった正統派のジャズ・ミュージシャンだった。
(略)
マイケル・カスクーナによると、当時ブルーノートのシングル盤はジュークボックス業者に平均して三〇〇〇枚、一般の黒人音楽ファンに一〇〇〇枚ほど売られていたという。
(略)
ブルーノートのアルバムで、流行に左右されずいつの時代も着実に売れたアルバムは、リー・モーガンの『ザ・サイドワインダー』、ホレス・シルヴァーの『ソング・フォー・マイ・ファーザー』、ルー・ドナルドソンの『アリゲイター・ブーガルー』だという。この三枚はすべてビルボード誌のチャートに入り、それぞれ数年間で一〇万枚を売れたらしい。
(略)
ジャッキー・マクリーンの『ニュー・ソイル』などのストレートアヘッドなハード・バップのアルバムの初回売り上げは、平均六〇〇〇枚から八〇〇〇枚くらいである。損益分岐点となる枚数は、二五〇〇枚だった。

[asin: B00AP5M52G:detail]クリフォード・ジョーダン

 まわりでコールマン・ホーキンズの〈ボディ&ソウル〉を聴いていたとき、わたしはエディ・ロックジョウ・デイヴィスの演奏する〈ドッグハウス〉をジュークボックスでよく聴いた。どのジュークボックスにも、ジャズのレコードがあった。でも当時は、だれもジャズと呼ばなかった。ただミュージックと呼んでいた。われわれのミュージック、フォークミュージックだ。
(略)
[最初のギグは一九四七年、ダンス・バンドでの演奏。一九五六年にニューヨークに進出]
(略)
 われわれが新しい音楽、つまりパップを演奏できるのは、ショウのなかでバンドがフィーチャーされているときだけだった。パップを演奏する時間よりも、〈フライング・ホーム〉などの有名曲を演奏する時間の方が多かった。建物を揺らすような迫力あるテナーソロをすると、聴衆は喜んだよ。
 いろんな人の伴奏もした。ブルース歌手のウィリー・ディクソン、アービー・スティドハム、ジャンプ・ジャクソン、クール・ブリーズ。全部シカゴでの仕事だった。(略)
 当時は誰もが身体を揺り動かしたり、大騒ぎしたりできる、うねりをもった音楽を求めていた。ストリップやバーレスクのダンサーの伴奏など、三人編成のバンドで演奏した。カルメット・シティではスクリーンの後ろで演奏した。こんな体験ならいくらでもあるよ。

ジャッキー・マクリーン

[ゴスペル体験は]
 たしか子供の頃、教会で聴いたことがあった。ノースカロライナの祖母の家にいったときだ。(略)小さな教会にテントを張った会合場所は重いリズムに包まれ、神の愛に浸る人々がいた。(略)
 このときの体験の記憶が蘇ったのは、ミンガスのバンドに参加したときだった。ミンガスは日頃からよくシャウトしていたし、シャウトする音楽や、教会と関係のある音楽も好きだった。だからミンガスとの共演は大いに勉強になったよ。
(略)
[ビ・パップとハード・パップの違いについて]
 すべてのルーツは、チャーリー・パーカーにあった。パーカーはブルース・プレイヤーそのものであり、パーカーが書いた曲はブルースの形式に基づいたものが多かった。そこにはゴスペルという別の感情、ファンクという言葉でいえばファンクの感情もあった。この感情は、一九五〇年代の半ばにホレス・シルヴァーや同じ流れを汲む連中によって、音楽に取り入れられた。
 わたしのコンセプトは、ヘビーなブルースのメロディ、ブルースの精神から影響を受けていた。ゴスペルの精神を取り入れようとも思った。それはすべての要素が混じり合った敬けんな気持ちであり、パーカー、パウエル、モンクから教わったものだ。

スピーク・ロウ

スピーク・ロウ

ウォルター・ビショップ・ジュニア

わたしの世代は、流行しつつある単純に割り切りすぎた音楽やブルースに反抗心を抱いていた。ブルースが演奏できるようになったのは、ずいぶんあとのことだ。ブルースについて知ろうともしなかったのは、ブルースという音楽が黒人が従属的だった時代を象徴していると思ったからだ。われわれはその段階の上を進んでいたのだ。
 ブルースを弾くのが恥ずかしいことではないと悟るまで、わたしはある程度の自信をつけなければならなかった。そうすればじゅうぶんリラックスして、ルーツとなる音楽を吸収することができると思った。
 その前にわたしはブルースにのめりこむのを恐れていた。周囲からわたしはブルースを弾かない奴だと思われていたからだ。
 ビ・パップは音楽であると同時に、社会的な声明でもあった。世の中は、激しく変化していた。わたしより上の世代は、自分が教養のない人間だという事実から生まれる苦しみや恥に耐えるすべを身につけていた。彼らはわたしの世代に純粋な音楽技術と実力で打ち勝つことをできることを教えてくれたのだ。
 プロとしての活動をはじめたとき、お客にこう言われたものだ。
「おい小僧、どうして笑わないんだ。ハッピーじゃないのか」わたしは言った。
「笑う? どうして笑わなければならないんだ。おれは真剣に演奏してるんだ」
 わたしは自分より上の世代のミュージシャンがどのように扱われてきたか、なんとなく感じ取っていた。彼らはアーティストとして受け入れられておらず、教養のない人間と思われていたのだ。

アート・ブレイキー

 情熱だ!ファンが求めているのはそれだ。いいか、毎日の生活のアカを落とすために音楽を聴いているんだ……ファンの気分をガラッと変えて、音楽に合わせてファンが足でリズムを取れるようにしなければならない。それがジャズだ……情熱をもってプレイするんだ、
 心をこめてプレイするんだ。頭で考えるんじゃない。頭と心をどううまくかみ合わせるか、わかっているだろう。あたまのてっぺんから音を出すのではなく、見下げて演奏するのでもない。ちゃんと聴衆の顔にむけて演奏するんだ。

スタンリー・タレンタイン

 六〇年代の数年間、タレンタインは妻のシャーリー・スコットと双頭コンボを率いている(略)
 いわゆるチトリンズ・サーキットをやっていた。どこへいっても小さな場所で、音響装置も悪ければ、客も入らない。ギャラが出ないことも多かった。二日間でニューヨークからロサンゼルスまで車を飛ばしたことも二度あった。車のなかで食事をし、車のなかで寝で、後ろに小さなトレーラーをつないでオルガンを運んだ。演奏するとなっても、まだ車に乗っているような気分だった。(略)廊下が狭くてオルガンが運べないこともままあった。バージニア州では一度、非常階段を使ってオルガンを三階まで運んだこともある。しかしこんなことがあっても、夜になるとクラブに向かい、思う存分吹きまくったものさ。
(略)
一九六〇年にタレンタインがシーンに登場したとき、ソウル・ジャズは一種の流行だった。プレスティッジは、ダウンビート誌にこんな広告を出している。
 評論家からの非難に屈することなく、ソウル・ジャズを世に送りだしたのはプレスティッジです。
プレスティッジで発表されるアルバムのタイトルにソウル、ファンク、黒人料理の名前が登場するようになった。それまで「ソウル」と言われてきたものには、実際にはそれほどでもないものもあったが、タレンタインの演奏には正真正銘のソウルがあった。

ジミー・スミス

 一九五五年、[オルガンの可能性を掘り下げるべく]倉庫にこもっての猛練習を終えたスミス(略)豪快な腕前と驚くべき楽器へのアプローチを伝える噂はジャズ界をかけ巡り
(略)
[バブス・ゴンザレスによるライナーから]
 昨年の夏、スミスはアトランティック・シティのクラブで演奏活動を始めた。スミスにドラマーは要らなかった。なぜならそこにいたすべてのドラマーが、スミスとの共演のチャンスを狙って、毎晩そこでずっと待っていたからである。
 三日もしないうちに、わたしの耳にも、この「狂気に満ちた」オルガン奏者のニュースが入ってきた。わたしはスミスを一目みるため車を走らせた。
 〈スイート・ジョージア・ブラウン〉では、ソロを四〇コーラスも聴かされた。純粋なナシュアのテンポで、フレーズの繰り返しはまったくなかった。そこで聴いた「未来の成層圏サウンドは、それまでのオルガンにはない試みだった。
 その夜わたしは多くのジャズメンをみかけたが、死んだように身動きひとつできなかった。その町のジャズメンは、全員が夜通しスミスの演奏に酔いしれていたのだ。
三ヶ月後、スミスはハーレムの《スモールズ・パラダイス》やグリニッチ・ヴィレッジの《カフエ・ボヘミア》といったマンハッタンにあるジャズ・クラブで、熱狂的な演奏を繰り広げていた。(略)
[ゴンザレスの勧めでやってきた、アルフレッド・ライオンとフランシス・ウルフ]
ウルフは、つぎのようになまなましく書き残している。(略)
演奏中のスミスの格好は、大した見ものだった。身体はわなわなと震え、顔はひきつり、まるで苦悶と戦うような身振りでオルガンの上に屈みこんでいる。それでいて指先は鍵盤の上を飛び交い、つま先はペダルの上を軽快に跳ねていた。それまで耳にしたこともないような音の波が、クラブ全体にうずまき、割れんばかりの大音響を引き起こしていた。
 聴衆はほんの数人だったが、困惑と感動の入りまじった表情を浮かべていた。スミスは顔に笑みを浮かべつつ、ステージを立ち去った。……アルフレッドが尋ねた。
 「どうだい、君の感想は」
 「そうだね……」わたしにはそれしか言えなかった。しかしこの時点で、アルフレッドは心を決めていた。

ジャッキー・マクリーン、プレスティッジに怒る

 ナチス体制の下で生きていながら、そのことを知らないでいることを想像してみてほしい。そうすれば、あの会社(プレスティッジ)のこともわかると思う。
 契約書にサインしたとき、ぼくは食うや食わずだった。もうすぐ子供が生まれる予定だったし、自分の名前のレコードが世に出て、多少なりともお金がもらえるのなら、それだけでありがたいことだった。(略)
誰もがこんな風に生きていた――マイルスもこの会社にいたし、ロリンズ、コルトレーン、モンクもそうだった。彼らもぼくと同様、契約を終えると、さっさとやめてしまった。
 そこはまさに、こちらからいっさいを奪って、しかしこちらには何もくれないという、典型的な会社だった。彼らは少しばかりの前金をくれると、レコードを発売してから入るはずの印税について話してくれた。
 ぼくは彼らのために数え切れないくらい演奏した。ところがかかった経費は、全部ぼくが負担した。録音技師、ジャケット裏面のライナーノートの原稿料、カラー写真代など、すべてぼくの金で支払われたのだ。
 あの会社に対して五万ドルという冗談みたいな額の負債書をいまでも持っている。この話には多少大げさな部分もあるが、話にならない点ではあの会社のやり方のほうがずっと上だろう。

ミンガスのオーネット・コールマン

 ハード・パップの異端者もオーネットに驚いた。一九六〇年、ミンガスがあるインタヴューで次のように話している。
 ヤツ(オーネット)が、ドレミファソラシドをすらすらと吹けるかどうかわからない。それは別にして……ヤツの音色とメロディラインがきわめて新鮮だというのは事実だ。シンフォニー・シッド(ジャズのDJ)がヤツのレコードをかけると、ヤツの音しか耳に入ってこなかった。ヤツ以外の演奏はちっぼけにしか聞こえなかった。わたしのレコードでもヤツの前ではそうなっただろう。
 すべてのミュージシャンがオーネットのように演奏すべきだといっているのではない。しかしそれまで当たり前だったバード(チャーリー・パーカー)のように演奏することを考え直す方向にむかうだろう。

Bebop: The Music and Its Players

Bebop: The Music and Its Players