書くことについて スティーヴン・キング

書くことについて (小学館文庫)

書くことについて (小学館文庫)

 

初投稿

 一九五〇年代の末に、出版エージェントでありSF関連の資料の熱心なコレクターであるフォーリー・J・アッカーマン(自称“アッカーモンスター”)は、〈フェイマス・モンスターズ・オブ・フィルムランド〉という雑誌を創刊して、多くの少年(私もそのひとり)の人生を変えた。
(略)
 一九六〇年ころには、そこから〈スペースメン〉という雑誌がスピンオフした。短命に終わったが、興味深いSF映画の専門誌である。私はこの雑誌に作品を送った。記憶にあるかぎりでは、私のはじめての投稿作品である。
(略)
 作品はボツになったが、原稿そのものが廃棄されることはなかった(フォーリーはどんなものでも大事に保管している。そのことは彼の自宅“アッカーマンション”を訪ねたらすぐにわかる)。それから二十年ほどあとのことである。私がロサンジェルスの書店で自著にサインをしているところへ、フォーリーが姿を現わした。そのときに持ってきていたのが、私が十一歳のとき、母がクリスマスに買ってくれた古いロイヤルのタイプライターで打った原稿だった。フォーリーはそこにサインしてくれと言った。私はそれに応じたと思うが、なにしろ対面そのものが夢のなかの出来事のようだったので、確信はない。まるで自分の幽霊に会ったようなものだ。まいった、まいった。
 私の作品をはじめて活字にしてくれたのは、アラバマ州バーミンガムでホラー誌を刊行していたマイク・ギャレットである(いまも健在で、いまも同じ仕事をしている)。その際に彼がつけたタイトルは『恐怖の半球のなかで』だったが、私個人としてはいまも自分でつけたもののほうが気にいっている。それは『ぼくは十代の墓荒らしだった』だ。超スーパー!ドッカーン!

〈デイヴのミニミ二通信〉

 兄のデイヴ[には](略)高校は退屈でならなかったようだ。IQ一五〇から一六〇という知能のせいもあるだろうが、それ以上に、じっとしていられない性格が原因だと思う。(略)[一時夢中になったのが]〈デイヴのミニミ二通信〉なる新聞の発刊だった。
(略)
[五部でスタートし]最終的には五、六十部にまで膨れあがり、一九六二年当時人口九百人の小さな町で、親戚や隣人を中心に多くのひとがこの新聞が出るのを楽しみにするようになった。
(略)
 最初の一年間、〈デイヴのミニミ二通信〉の紙面は紫色をしていた。ゼラチン版と呼ばれるゼリー状の板の上で刷られていたからだ
(略)
 かったるいだけではなかった。湿度の高い地下室で、ゼラチン版は胞子状の奇妙な物質を培養した。
(略)
 高校のあったブランズウィックで、兄は中古の小さな輪転機を見つけた。(略)原紙は町の事務用品の店で一枚十九セントで買える。これにタイプを打つ仕事(兄に言わせると“原紙を切る仕事”)は私が担当した。私のほうがタイプミスが少なかったからだ。タイプを打ち終えると、原紙を輪転機のドラムに取りつけ、臭さと汚さでは世界一のインクを入れたら、あとは腕が抜けるまでハンドルをまわせばいい。これによって、ゼラチン版で一週間かかっていた仕事が二日ですむようになった。(略)かくして〈デイヴのミニミ二通信〉は短い黄金期を迎えたのである。

はじめてのベストセラー『恐怖の振り子』

 数あるポー映画のなかでもっとも印象に残っているのは『恐怖の振り子』である。脚本はリチャード・マシスンシネマスコープであり、テクニカラー
(略)スタジオ撮りされたホラー映画の最後の傑作と言っても過言ではあるまい。
(略)
 映画が終わって、またヒッチハイクで家に帰る途中(略)名案が閃いた。『恐怖の振り子』を本にするのだ。モナーク・ブックスが『切り裂きジャック』、『怪獣ゴルゴ』、『巨大獄怪獣コンガ』といった不朽の名作をノヴェライズしているように。ただ単に書くだけでない。家の地下にある輪転機で印刷して、学校で売るのだ。そうだ!これだ!
 思い立ったが吉日で、私は原紙に直接タイプを打ち、『恐怖の振り子』の小説版を二日で書きあげた。
(略)
 結局『恐怖の振り子』は四十部刷った。(略)
定価は二十五セントにした。十部売れたら(略)二ドル五十セントになる。制作費をさしひくと、四十セントほどの儲けだ。(略)
 結果的に『恐怖の振り子』は私のはじめてのベストセラーとなった。(略)午前中だけで二十四部売れた。そして、昼休みの終わりには、壁の向こうに閉じこめられた女(略)の評判が広まって、三十六部売れ、私のカバン(略)は九ドル分のコインでずっしり重くなっていた。思いもよらず信じられないような大金が転がりこんできて、私は夢見心地だった。あまりにも話がうますぎるような気がした。
 実際そのとおりだった。二時に学校が退けると、私は校長室に呼ばれ、学校を金儲けの場にしてはいけないと説教された。あのようないかがわしい読み物を売るとはもってのほかとのことだった。
(略)
 ミス・ヒスラーはみんなに金をかえすように言った。私は黙って指示に従った。

取材記者

[校内新聞で教師をからかって居残り自習処分に]
私の“走る筆”を有効活用する手立てはないものかと、みんなで話しあったらしい。[教師たちは週刊新聞のスポーツ記者の募集を見つけ、勧めてきた]
(略)
グールドは(略)一語につき半セント払うと言った。書くことに対して報酬を約束されたのは、このときがはじめてだった。
(略)
 その後の二年間、私はリスボン・ハイスクールで英文学を学び、大学でも文章や小説や詩についての講義を受けたが、ジョン・グールドはそこで学んだことよりずっと多くのことを十分足らずで教えてくれた。
(略)
「余計な箇所を削っただけだ」と、グールドは言った。「全体としてはよく書けているよ」(略)
「それができれば、会社勤めをする必要はない。文章で食っていける。(略)
 「何かを書くときには、自分にストーリーを語って聞かせればいい。手直しをするときにいちばん大事なのは、余計な言葉をすべて削ることだ」
 このとき、グールドはほかにも含蓄のある言葉を口にした――ドアを閉めて書け。ドアをあけて書きなおせ。言いかえるなら、最初は自分ひとりのものだが、次の段階ではそうではなくなるということだ。原稿を書き、完成させたら、あとはそれを読んだり批判したりする者のものになる。運がよければ、批判するより読みたいと思う者のほうが多くなる。これは私の個人的意見だが、ジョン・グールドもきっと賛成してくれると思う。

キャリー

 ある日、われわれは女子用ロッカールームの壁の汚れや染みを落とす仕事を命じられた。(略)タイルの壁には、ふたつの金属の箱が取りつけられている。何用なのか、なんの標示もない。(略)なかには何が入っているんだろうと尋ねると、ハリーはこう答えた。「おまんこの栓だ。女たちは毎月決まった日に使ってる」
(略)
 クリーニング屋で働いているとき、このときの記憶が蘇って、小説の冒頭部分のアイデアが浮かんだ(略)
ロッカールームでシャワーを浴びている(略)女子生徒のひとりがとつぜん生理になる。でも、自分の身体に何が起きたのかわからない。(略)[まわりの者は]はやしたて、生理用ナプキンやタンポンを投げつける。問題の女子生徒は悲鳴をあげる。血はとまらない。(略)なんとかしなければいけない……なんとか反撃しなければいけない(略)
 これだ!思春期の残虐性とテレキネシスというふたつの異なるアイデアが結びつき、ひとつのアイデアになった。
(略)
[教師なって再度書いてみたが納得いかずゴミ箱へ。妻がそれを見つけ読み、この先を読みたいと言った]
「この作品には何かがある。請けあってもいいわ」
(略)
[モデルとして]頭に浮かんだのが、いつもみんなから嫌われ、除け者にされていたふたりの女子生徒だった。(略)
 ここでは、そのひとりをソンドラとしておこう。ソンドラは私の家のそばのトレーラーハウスに母親とふたりで暮らしていて、チェダーチーズという犬を飼っていた。声はしわがれ、くぐもっていて、いつも喉に痰がからんでいるような話し方をしていた。太ってはいないが、肉が垂れていて、肌の白さのせいもあって、キノコの笠の裏側のように見えた。顔はニキビだらけ。髪は『小さな孤児アニー』のようにカールがかかっていて、頬にへばりついているようだ。チェダーチーズのほかに友だちはいない。ある日、私はソンドラの母親から家具を動かすのを手伝ってくれと頼まれた。行ってみると、トレーラーハウスの居間には、ほぼ等身大のキリストの磔刑像が置かれていた。目は吊りあがり、口は歪み、茨の冠からは血が滴っている。(略)そのとき、私はふと思った。ソンドラは瀕死の神の苦悶の表情の下で育った。としたら、そのことになんらかのかたちで影響されているのは間違いない。だから、臆病になり、みんなから爪はじきにされ、リスボン・ハイスクールの廊下を怯えたネズミのように足早に歩かなければならなくなったのだ。
(略)
 もうひとりの女子生徒はドディ・フランクリンという名前(略)
ドディと兄のビルは高校にあがってから一年半のあいだ毎日同じ服を着ていた。(略)
ドディのノースリーブのブラウスはくたびれて、黄ばんでいた。少しずつ汗の染みが増えていき、生地が薄くなるにつれて、ブラジャーのストラップはよりはっきりと見えるようになった。最初のうちは陰□だけだったが、しばらくすると、みんな面と向かって憎まれ口をきくようになった。からかいはいつのまにかあざけりに変わっていた。男子生徒の攻撃の矛先はもっぱらビルに向かっていたので(控えめではあったが、私も尻馬に乗っていた)、ドディのいじめには加わっていない。どちらがつらかったかと言えば、やはりドディのほうだろう。女子生徒たちはドディを笑いものにするだけでなく、心底から忌み嫌っていた。ドディはみんなが恐れているもののすべてを体現していたからだ。
 二年生の冬、クリスマスの休みが明けて、ドディは見違えるようになって学校に戻ってきた。むさ苦しい黒のロングスカートは、膝までのクランベリー色のものに変わり、厚ぼったいニーソックスはナイロンのストッキングに変わっていた。濃いすね毛はきれいに剃られていた。擦り切れたノースリーブのブラウスは、柔らかなウールのセーターに変わっていた。その上、髪にパーマまでかけていた。見事な変身ぶりだった。自分でもそれを意識していることは、顔を見ればあきらかだった。
(略)
大事なのは、新しい服が何かを変えることはなかったということである。それどころか、その日のいじめは以前にもましてひどいものになった。まわりの者は自分たちが押しこめた箱からドディが飛びだすことを許さなかった。飛びだそうとしただけで懲罰を加えた。(略)
口もとから笑みが消え、目は輝きを失い、暗くなった。そして、その日の授業が終わるころには、クリスマス前と同様パン生地のような顔にそばかすだらけの頬の生き霊に戻り、教科書を胸にかかえ、目を伏せて廊下を足早に歩くようになっていた。
 ドディは翌日も新しいスカートとセーターでやってきた。次の日も、その次も同じだった。学期が終わり、ウールのセーターだと暑すぎる季節が来て、こめかみや鼻の下に汗をかくようになっても、服は変わらなかった。パーマは一度でやめ、セーターには毛玉ができ、スカートはよれよれになった。いじめはクリスマス前の状態に戻り、やがて誰も相手にしなくなった。
(略)
 私が『キャリー』を書きはじめたときには、ソンドラもドディもこの世にはいなくなっていた。(略)
[ひとり暮らしで工場勤めをしていたソンドラは癲癇の発作で死亡]
ドディはメイン訛り丸だしのしゃべりで有名な地元テレビ局の気象解説者と結婚した。そして、ふたり目の子供を産んだあと、地下室に降りていき、22口径の弾丸を自分の腹に撃ちこんだ。
(略)
[電報で]おめでとう。キャリーの刊行が決まった。契約金は二千五百ドル。OK?(略)
 二千五百ドルの契約金は、一九七〇年代はじめの基準からしても少額だったが、そんなことは知らなかったし、それを教えてくれる者もいなかった。現実に代理人を立てる必要性を感じるようになるまでに、私の本は三百万ドル以上の金を稼ぎだしていたが、その大半は出版社のものになっていた
(略)
[これで教師を辞められるのではないかと妻]
タビーは『キャリー』のペーパーバック権が売れたらどのくらいになるだろうと訊いた。私はわからないと答えた。マリオ・プーヅォの『ゴッドファーザー』のペーパーバック権が四十万ドルで売れたという話は新聞で見て知っていた。だが、もちろんそんなものとは比べるべくもない。そもそもペーパーバックになるかどうかもわからないのだ。(略)
 「六万ドル?」タビーは目を丸くした。「そんなに?」
 当てにはできないが、ありえないことではない。ただし、ダブルデイとの契約では、ペーパーバックの契約金は折半ということになっている。
(略)
「いま椅子にすわってるかい」とビルは訊いた。
「いいや」(略)「すわったほうがいいかな」
「そのほうがいいかもしれない。『キャリー』のペーパーバック権のことなんだがね、シグネット・ブックスに四十万ドルで売れたよ」(略)「二十万ドルがきみの懐に入ることになる。おめでとう、スティーヴ」
(略)
 それから三十分ほど話をしたが、何をしゃべったかまるで覚えていない。(略)歓声をあげながら、素足で部屋中を歩きまわった。身体の震えがとまらなかった。それからしばらくして、靴をはき、町に出た。タビーに何かプレゼントしようと、ふと思ったのだ。(略)[だが開いているのはドラッグストアのみ]結局、買ったのはヘアドライヤーだった。
(略)
[帰宅していた妻に話すと]
タビーは私と同じように四室の薄汚いアパートメントを見まわし、それから泣きはじめた。

アル中&ヤク中

 アル中はオランダ人が堤防を築くように防壁を築く。結婚して十二年のあいだ、私は“たしなみ”と自分を言いくるめてきた。ヘミングウェイの弁明も借用した。(略)
酒を飲まずに、どうして現実の恐怖に立ち向かい、仕事を続けることができるのか。そうとも。私は酒は飲む。だが、酒に飲まれることはない。それが真の男というものだ
(略)
レストランでグラスにワインを残している者を見ると、いまでも立ちあがって、「どうして残すんだ!飲んでしまえよ!」と怒鳴りつけたくなる。付きあいのための酒など、ちゃんちゃらおかしい。酔っぱらうのがいやなら、コークを飲んでいればいい。
 酒びたりだった最後の五年間、私は夜ごとの儀式を欠かさなかった。寝るまえに、冷蔵庫のビールを残らず流しに捨てるのだ。それをしないと、ベッドに入ってからも、ビールが呼ぶ声が聞こえ、結局は起きだして、また一本ということになる。そうなったら、もうとまらない。
 一九八五年には、アルコールに加えてドラッグにも溺れていた。(略)作品の質もそれなりに維持していたつもりだ。私は書けなくなることを恐れていた。別の生き方をすることなど、とうてい考えられなかった。私はドラッグを人目につかないところに隠していた。それは恐怖のせいであり(略)同時に恥の意識のせいだった。
(略)
『シャイニング』を書きあげた一九七五年に自分がアル中であることを知っていた。その私は沈黙をよしとせず、反旗をひるがえし、大きな声をあげはじめた。助けを求める方法は、フィクションとモンスターに見いだすしかなかった。一九八五年の末から八六年のはじめにかけて、私は『ミザリー』を書いた(このタイトルは当時の私の精神状態を端的に物語っている)。(略)一九八六年の春から夏にかけては、『トミーノッカーズ』を書いた。そのときには、コカインのせいで鼻血がとまらなくなり、脈拍は毎分百三十にまであがっていた。私は鼻の穴に脱脂綿を詰めて、しばしば深夜まで仕事をした。(略)
[異星人に入り込まれた『トミーノッカーズ』の]人々は魂を売り渡す。それは私のストレスに満ち、疲弊した精神が見つけだしたドラッグとアルコールのメタファーだった。
 ほどなく、妻のタビーは私がこの醜悪な負のスパイラルから自力では脱けだせないと確信し[たが](略)
すでに私の正気は声の届くところにはなく、説得するのはたやすいことではなかった
(略)
まずは私の書斎にあったドラッグバッグの中身が絨毯の上にぶちまけられた――ビールの空き缶、煙草の喫い殼、ガラスの小瓶やビニールの袋に入ったコカイン、鼻クソと鼻血がこびりついたコカイン吸引用のスプーン、ベイリウム、ザナックス、咳どめシロップのロビタシン、風邪薬のナイキル……それに、マウスウォッシュのボトル。一年ほどまえ、バスルームにあるリステリンの減りがあまりにも早いので、それを飲んでいるのではないかとタビーに訊かれたことがある。まさか、と私は一蹴した。嘘ではない。私が飲んでいたのはスコープである。そのほうがミントの味がして、口当たりがよかったからだ。
 そのような介入作戦は、私にとってだけでなく、タビーや子供たちや友人たちにとっても、決して愉快なことではなかったはずだ。けれども、私は彼らの目の前で死にかけていたのだ。タビーは私に選択を迫った――リハビリを受けるか、家を出ていくか。(略)
 私は譲歩を求めた。それは麻薬常習者の常である。(略)結論を出すまで二週間の猶予をもらえることになった。
(略)
私は考えた。いかれた頭で必死に考えた。(略)アルコールとドラッグを断ったら書けなくなるのではないかと思うと、恐ろしかったが、私は結論を出した。(略)タビーといっしょに暮らし、子供たちの成長を見守っていくことができるのなら、書くのをやめてもいい。そのときはそのときだ。
(略)
ヤク中は単なるヤク中でしかなく、アル中は単なるアル中でしかない。(略)鋭敏すぎる感受性を鈍らせるためにドラッグやアルコールが必要だというのは、自己弁護のための陳腐な戯言でしかない。(略)
ヘミングウェイフィッツジェラルドが酒を飲んだのは、創造力に富んでいたからでもなければ、疎外されていたからでも、精神的に弱かったからでもない。アル中というのは、飲むようにできているのである。
(略)
 転機を迎える直前には、毎晩ビールのロング缶を一ケース空けていた。この時期には『クージョ』を仕上げているのだが、書いたときの記憶はほとんど残っていない。そのことを自慢する気もないし、恥じる気もない。ただ、ちょっと悲しく、残念ではある。好きな作品なのに、書いているときの楽しみを覚えていないのだから。
 行き着くところまで行ったとき、私はもう酒を飲みたいとも思わず、同時に素面でいたいとも思わなくなっていた。人生から追い立てを食っているような感じだった。時間をかけたらきっと戻ってこられるという周囲の者の言葉を信じて、私は道を折りかえした。その間も書くことはやめなかった。(略)少しずつ調子が戻ってきて、書くことがまた楽しくなりはじめた。私は感謝の念とともに家族のもとに帰り、安堵の念とともに仕事と向かいあった。

文章講座的な話は、次回に続く。

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