原点 THE ORIGIN 安彦良和

アニメなどの話は後半にあり。

原点 THE ORIGIN

原点 THE ORIGIN

『遙かなるタホ河の流れ』

安彦はある長編マンガを大学ノート二冊に一気に描き上げる。(略)
スペイン内戦を題材にとった歴史ロマンスだ。(略)
 とても17歳とは思えない文章力と問題意識。加えて、高校生らしからぬしっかりした画面構成と筆力。(略)
「思い入れはあったんでしょうね。社会性みたいなものに目ざめた時期で、生意気にも『市民戦争ってなんだったのだろう』とか、考えていたのでしょう。ストーリー自体は人民戦線の若い兵士と娘の恋愛もの。少年特有のロマンチシズムですね」
 だが、安彦はこの作品を最後に、幼いころからいだいていたマンガ家へのあこがれを封印することにする。
「自分が描いているものはどうやら商業マンガからはみだしているみたいだし、なんかこれからもはまりそうにない。変なジャンルだという感じ。これじゃあ、少年誌には投稿できないし、万が一掲載されても売れないだろうな」という思い。(略)
 さらには、マンガは子どものものであって、おとなになる過程で通過すべきものという意識があった。はやくおとなにならなくてはいけない、と社会全体からケツをたたかれているような気もした。(略)
 「17歳、18歳はもう少年ではない。子どもじゃないんだ。マンガはみっともないと思っていました」

学生運動

 学生運動イコール左翼、左翼なら共産党だろう(略)
「なにも考えずに民青に入ったのですが、どうしても彼らの話し方が気になるわけですよ。米帝国主義うんぬんと紋切り型でじつにつまらない。なんて命のない言い方をするんだろうと思いました。なにより、話すこととすることがちがう。(略)どうしても気分悪くてついていけない。[新左翼に]
(略)
「できもしない解体とか、革命とか。(略)実際に大学がつぶれたら、学生自身が大弱りなわけですから、主張自体がもう自爆しちゃっている。(略)とにかくベトナム戦争をやめさせなくてはと考えていました。[ベ平連系の反戦団体を立ち上げ]
(略)
独特の抑揚をつけた例のアジ演説(略)なんかなじめない。これでは、聞いている人の心には届かないだろうな。(略)
 これじゃあだめだよ。最初からコミュニケーションを放棄しているじゃないか。理解してもらうには、もっとふつうに語りかけなくては。そう考えた安彦はごくごく平易な言葉で、日本をとりまく国際情勢と、自分がいま進めている反戦運動の趣旨について説くことを心がけた。(略)
おだやかに語りかける彼のまわりにはいつしか人の輪ができた。(略)
だから、一般学生への説明役はもっぱら私。自然と目立ち、リーダー扱いされるようになったというわけです。
(略)
 そのときの安彦を突き動かしていたのは「いまやらないで、いつやるんだ」という正義感と使命感がないまぜになった強い気持ちだった。
(略)
 「全共闘運動をとおして見られる一種の『軽さ』は、みずからを追いこんだ瀬戸際感の裏返しでもあると思うんです。革命しかないという強い思いこみ、しかも、その革命は世界規模であって、かつ歴史上起きたどの革命ともちがう形で展開してくれないとこまる。でも、そんなことって本当にありなのか?というのが突きつめた問題でした。
(略)
前へひたすら進むしかないという悲壮な決意。安彦にいわせるなら「もはや先はなかった」にもかかわらずである。

[共産党主導の自治会活動の]
最も切実な課題は「寮に於けるトイレットペーパーの質の悪さと量の不足」だった。次に来るのが、同じく寮の飯の不味さ(略)これが容易に解決出来ないのは反動的自民党政権が文教予算をケチっているからで、その同じ自民党政府が従属しているのだから、アメリカ帝国主義こそが諸悪の根源に他ならない。そのアメリカがまさに遂行しているのがベトナム侵略戦争であるから、「ベトナム反戦」の運動と「トイレットペーパーをもっとよこせ」という運動は、つまり密接につながっているということになる。
 そういうことならば、最も切実で異論の出ない「トイレットペーパーをもっと!」という運動で大衆=一般学生を惹きつけ、その意識を学習・教化によって「安保反対」「ベトナム戦争反対」へと高めてゆけばよい……。
(略)
 この論法に、僕は嘘臭いものを感じた。
 「嘘」というよりも「罠」といってもいいような危険なものさえひそんでいるように思えた。なによりも、「トイレットペーパー」や「食事」というような生理的な話にならついて来るだろうという大衆蔑視の傲慢さを感じて、僕はこの運動方針が嫌になった。(略)
 「革命」をしたいなら最初から「革命」と言えばいいので、トイレットペーパーでおびき寄せられて革命に参加させられ、あとで後悔させては大衆がかわいそうではないか。
(略)
反戦運動から降りるということはそのまま、社会的正義を追求して生きると心決めた生き方を放棄することを意味した。それでは、なんのために大学に来たのか、それすらわからなくなってしまう。
(略)
 この時の絶望と後悔には、しかし相当の自己演出がある。(略)
[若者は悲劇の主人公を演じがちだが]
 この時の僕はまさにそうだった。
 「自分は精神を病んだ」と、僕は思った。
 そして大学病院の精神科へ行った。行ってカウンセラーの医師に向って、自分の悩みをいくぶんかの誇張も交えて延々と語った。
 根気づよく聞いてくれた医師の応えは、優しく、そして素気ないものだった。
 「あなたはいたって正常です」
 「病人にもなれないのか!」と、僕はアパートで独り、また安酒を呑んだ。嘘くさい涙を絞り出して呑んだ。
 そのころ、暗い小説なども書いた。左翼運動から落伍した学生が精神を病み、犯罪を犯す……というような内容だ。それを書いて東京の同人誌に投稿した。若き中上健次が中心になっていて、投稿なぞも汎く受け付けていた『文芸首都』だった。
 親切にも、作品は「評」を付けて送り返されて来た。
 「暗くて重い作品ですね。次作に期持します」というものだった。次作は、もちろん書かなかった。

[ガンダムの裏テーマをあえて訊いてみると]

こんな答えが返ってきた。
「人間はわかりあえない、ということかな」(略)
「長い歴史を見てわかるとおり、しょせん人間はわかりあえないし、その結果、戦いというものが起きます。でも、わかりあえないからといって、『みんな敵だ』となると、ひたすらネガティブで悲惨な世界になると思うのです。だから、わかりあおうとしなくてはいけない。そのためには『なぜ、わかりあえないんだ』と嘆き悲しむのではなくて、『わかりあえなくてあたりまえだ』と、考えるようにすればいいと思うんです。すべてはそこからはじまると」
(略)
[ステレオタイプのアジ演説と戦闘的学生運動ファッションを嫌った]安彦はわかりやすい説明を心がけ、相手の主張を理解しようとした。
 そんな人物を軸とする弘前大学全共闘内ゲバとよばれるセクトの権力闘争とも無縁のふしぎな集まりでもあった。
セクトは一とおり、全部で10派くらいあったんだけど、それぞれ三人とか四人とかしかいないから、そもそも内ゲバにはならないんですよ。(略)
 一方で「運動をすればするほど、普通の友達がいなくなった」とも語る。
 閉鎖性の強い弘前という地方都市で孤立することによって、逆にメンバー間のむすびつきを強めていったこの時異な全共闘集団の姿は、ガンダムのなかで戦い、傷つき、結束する少年少女たちに似ていないか?
 そんな雑誌記者の突っこんだ質問に、安彦は「なんか小社会というか限られた構成員っていうことで、かえっておもしろい図式が描かれることはあると思いますね。(略)そういう意味で、お話に迎合するとホワイトベース的なちょっとそういう小社会のひな型みたいなものはあったかもしれませんね」(『別冊宝島左翼はどこへ行ったのか!』宝島社)と意味深に答えている。

大学生にもなってマンガか

[『少年マガジン』を手にした大学生の姿が社会現象に]
 安彦はとまどった。
 「みっともないと思いましたね。大学生にもなってマンガかと。読んでもいいけど、せめて電車や書店など人前ではやめてくれと。自分は大学時代にマンガを読まなかったし、そんな状況にもありませんでしたからね。そのうち、大学生がマンガを読むことがふつうになってきて、サブカルチャーなのだと居直った時代でもあり、このころにオタクが発生する下地ができてきたのかなとも思います。

バリケード封鎖

 「どこの大学でもやっていたことなので、弘前大学でもバリケード封鎖までいかないとおさまらないだろうという雰囲気がただよっていました。大学立法に反対する教員たちからも『おまえたちにバリケード封鎖ができるのか』と挑発されるようなしまつで。それに反発した面もたしかにあります」
(略)
全共闘グループ内で、安彦は「もっとも穏健」とみなされ、偶発的に起きた本部封鎖にもそもそも賛成ではなかった。(略)
[山本直樹『レッド Red』]の冒頭を飾るのはなんと弘前大学本部占拠事件。このなかで安彦をモデルにしたとみられる学生は、はやる仲間に向かって冷静になるよう訴える。
 「このまま封鎖を続けていても、ただの冒険主義だ。意味ねえべ。いったんバリ封ば解いて、新しい方針をさがすべき時だと思う」(略)
 そんな安彦が本部占拠中に、ある有名人と突然会うことになる。福島県立医科大学の梅内恒夫。赤軍派内で爆弾製造を担当し、のちに「梅内爆弾」によって新左翼闘争を激化させる歴史的人物だ。(略)
 そんな“危険人物”がノンポリのおれになぜ? 安彦はそう思った。
 「弘前オルグしていいかということでした。その梅内と、よりによってノンポリの私が喫茶店で話したんだけど、彼は『武装蜂起』というフレーズを口にするわけ。要するに、バリケードストライキでは不十分で、爆弾や銃による武装闘争、市街戦しかないんだと。それを聞いたとき、それじゃあ全部なしになるなあ、そこまでいっちゃうのか、という感じでした。暗い気持ちになりました。同席した友人は『あいつ、頭がおかしい』って」
(略)
[機動隊が突入したが、そこには誰もいなかった]
じつは、農学部教授会や職員組合などの説得によって、前日の段階で籠城学生のうち大半がすでに自主解除を受け入れていたのだ。本部の全面開放は時間の問題かと思われた。
 しかし、機動隊は導入された。なぜか?(略)
 当時の教職員の多くは「なぜ、もう少し待てなかったのか。はじめに機動隊ありきだったのではないか」と、いまも疑問をなげかける。
 そして事件終息から二日後、安彦は逮捕される。
(略)
 ここで確認しておきたいのは、全共闘による占拠行動はそもそも暴発にちかく、それゆえ安彦は直接かかわっていなかったという点だ。逆に、安彦は籠城学生たちに対して自主解除さえうながしていた。
[安彦は東京で就職活動していて弘前にすらいなかった](略)
[五人が除籍に]もちろん、そのなかの一人が安彦。一九七〇年一月、卒業を間近に控えた四年生の冬のことだった。
 取材した関孫者の多くは、安彦逮捕について「彼一人だけが責任を負わされてかわいそうだった」と口々にいい、「気の毒だった」「不運」と同情する。だが、「大学をクビになった」安彦本人の胸のうちはちょっとちがう。
 「しかたないですよ。騒いで大学をメチャクチャにしたわけですから。だれかが責任をとらなきゃいけない。(略)保釈は逮捕から半月後でした。三ヵ月は覚悟していたので意外でした。判決は懲役八ヵ月、執行猶予三年でしたが、まあ罪状からすればそんなものでしょう」
 「本部占拠事件の意味ですか?徹底抗戦して死傷者がでたら、インパクトは大きかったと思います。でも、それでは東大安田講堂の縮小コピーにすぎないと、意外にみんなさめていたと思うんです。その意味では衝突が起きなくてよかった」(略)
[あっさりしているのは]東大安田講堂攻防戦で仲間三人が逮捕された時点で自責の念にかられ、なかば中退を意識していたからでもある。このまま自分だけが大学に残っていいのか、と。
 だから、占拠事件中に上京した職さがしという目的も、中退後の人生を模索するためだった。(略)
 除籍処分については、後輩たちが処分撤回闘争を申し出たが、安彦は即座に断った。「もういい。やめてくれ」と。「どこかに行くから」と。でも、あてはなかった。無党派をつらぬいていただけに頼るべき組織もなかった。
 「反戦運動全共闘もどんづまり。二二年間、なんのために生きてきたのだろうと、つくづく思いました

東京へ

まずは、看板屋にでもなろうかと思ったが、レタリングを一発でビシッときめる職人技を見て、あえなく断念。なにか、文字に関係した仕事につけたらと選んだのが中野区江古田の写植屋だった。
 家族あげて活字を組むという典型的な家内制手工業だったが、毎日ドジばかり。清瀬市のアパートからの通勤と、北国生まれには酷な夏の猛暑が安彦を苦しめた。
 汗水たらして一ヵ月働いて三万円。こうやってひと月、ひと月生きのびていくのかと考えたら、むなしくもなった。
 そんな安彦に[未来の妻は](略)
 「あたりまえでしょ。なに甘えたこといってんのよ」
 学生運動では労働者の権利がどうのこうのと、ぶちあげていたくせに、ちょっと働いただけで「いやだ」とは。甘ったれるなと活を入れられたのだ。
[虫プロの求人広告を見て応募、採用枠10人に100人以上来ていたが、大学ノート二冊に描き上げた高校時代のマンガが評価され採用に](略)
安彦はいう。
「(略)虫プロの社員三〇〇人も二色に分かれていたんです。アニメが好きだから、ただでも働きたいというオタクのはしりみたいな人と、なんで自分はこんなところにいるんだ、やりたいのはこんなことじゃなかったという、はずれ意識の人と。私ははずれ意識のほうでしたね」(略)
少なくとも僕の見た所ではアニメーターの半数は『マンガ家志望者の落ちこぼれ』としか思われませんでした」(略)
 「今の若い人にはないと思うけど、表現者としては非常に古いこだわりがあって、アニメよりもマンガの方が上、マンガよりも小説の方が上、という意識があるんですよ。だから、目の前に小説家がいれば悔しいと思うし、アニメ時代はマンガ家に対して『悔しいな、俺だって描けるのに』と思っていた」

宇宙戦艦ヤマト

 安彦にとって、『宇宙戦艦ヤマト』は、プロデューサーである西崎義展との出会いにつきるだろう。(略)
山っ気あふれたこの奇人になぜか安彦は気に入られた。
 「全共闘世代だけは信用しない。あいつらは日本をほろぼす」と公言していたにもかかわらず、西崎は虫プロ倒産後、フリーの身となっていた「全共闘の元リーダー安彦に目をつける。(略)
[業界四年目の]弱冠二七歳の青年が、作品の出来を左右する絵コンテ担当に抜擢されること自体が異例だった。
(略)
 メチャクチャでこわい人。そんなイメージは最後まで変わらなかったが、仕事を一緒にこなしていくうちに、憎む気はなくなっていった。むしろ「これまでのアニメとはちがう世界を見せてくれたすごい人」と受け止めるようになった。(略)
[食うための恥ずかしい仕事だった]アニメを、「大の大人がこんなことを真剣に堂々とやってもいいんだ」と意識転換させてくれたことにあった。(略)「はじめて仕事がおもしろい」と思えた作品でもあった。

宮崎駿、マンガ家への転身

「アニメ屋として、けっこうやれるかなと思っていたときにぶちあたったのが宮崎さんという壁でした。彼は根っからのアニメ人間。はりあっても勝てそうにないし、[マクロスのような]オタク的なアニメの流れにもついていけない。じゃあ、なにをやるか。マンガ家になろうと。

『ORIGIN』制作動機

 安彦はここ[ニュータイプ論]に選民思想に近いにおいと、安易な差別意識へつながりかねない危険の芽を感じとっている。
 「『覚醒した新人類=ニュータイプが世界を変える。それがガンダムのテーマ』なんていう、とんでもない言葉が一部のオタクや自称評論家から飛び出すようになり、メディアに掲載されはじめました。そこで思い出したのが、学生運動のときに語られた『革命的な党こそが革命を実現できる』という言葉です。おなじように観念をもてあそぶ考え方で罪深い。フィクションだから、ではすまされない」
 安彦は学生運動が崩壊した要因の一つを、「革命のために党をつくる」とさけび、行動に移したセクト(党派)にあるととらえている。セクト学生運動を台なしにしたと。ガンダムをマニアの占有物とみなし、ニュータイプ論を声高にとなえるオタクの姿は、それとダブって見えた。
 「わかりあえない時代や社会だからこそ、わかりあえたらどんなにいいだろう、というのがガンダムの最大のテーマです。エスパー同士でしか理解しあえない、と他者を簡単に突きはなす考えは逆だと思いました」(略)
[そんな時にオウムのサリン事件]
 「オウム真理教の信者たちが『ポアしなければ』といって殺人を正当化したみたいに、『今の世の中は住みにくいから、特別に選ばれた自分たちでつくりかえるんだ』と破壊を正当化する人たちがいつか出てくる。そのときにガンダムがひきあいにだされたりすると気持ち悪いし、非常にあぶない」(略)
 そうした社会への危惧と、作者としての強い使命感が、コミックによるリメイク版『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』の制作へと走らせた。(略)たんなる描き直しではなく、もともとのガンダムはこれなんだとの思いがあった。これを見ろと。

虫プロ

「アニメーターは馬鹿には出来ない」を持論とする所長・沼本清海さんの方針に依るもので、そのせいか、二期生には早稲田の院生や上智大生もいた。しかし、なんといっても異色は、当時既に天才少女漫画家として雑誌『COM』のスターになっていた岡田史子の存在だった。(略)
永島慎二推薦の特別枠での入所で、「描けなくなった時のためにアニメも覚えておけ」と、手塚さんの諒解も得て送り込まれていたのだった。
 同期には熱烈な岡田ファンの女性がいて、それで僕は事情を知ったのだが、『COM』の読者ではなかったから彼女の才能の程は知らなかった。
 気丈で活発だった彼女は、『COM』に掲載するのだという原稿をこれ見よがしに持って来ることもあった。興奮するファンの女性の脇から僕もそれを見たが、「荒れた絵だな」という印象しかなかった。
 これも後で知ったのだが、当時二十歳だった岡田史子は、もう全盛期を終えていたのだった。
(略)
[暗黒産業と言われるアニメ業界だが]
大手五社体制が健在で、アニメーターの多くが社員待遇で雇用されていたその当時は、業界内の環境はさして劣悪ではなかった。給与水準は世間並みであり、残業代も出、虫プロでは年に一度の社員旅行もあった。問題があったのは、むしろ社員の意識の方だったのではなかったか。
  虫プロに関して言えば(略)元来横着な技法であるリミテッドアニメに安住しきったアニメーター達の緊張感の薄い気分と、一部のエリート表現者達の高慢さの臭いが漂っていた。
(略)
[虫プロ倒産後、創映社へ]
 最初に僕が参加したのは『サンダーバード』を模した『ゼロテスター』だった。慢性的な人手不足を良いことに、僕は自己申告して絵コンテを切り、演出家のはしくれになった。(略)
[次の『勇者ライディーン』では]企画の最初から加わり、人物キャラクターを描き、当時未だ分業化されていなかったメカニカルデザイン、つまり、本商品のロボットのデザインもやった。その途中で、不平不満の多い僕は早くも「もうロボットものは飽きた」と別の企画を出している。まだ小さかった長男を見ていて思いついた『クムクム』だ。なんと、これにスボンサーがついた。
 同時にもう一本企画が売れ、弱小会社「創映社」は一気に三本の番組制作プロになった。しかも、この三本は数奇なことに同時間帯になった。
 業界ではけっこう失笑をかった珍事だったようだが、僕には笑いごとでなかった。
 せっかく売れたのだから、自分の企画には自分がかかわりたい。しかし、『勇者ライディーン』では作画監督という非常にキツイ役割があって、これからは解放されそうにない。会社はやむなしと『クムクム』の監督を虫プロの大先輩で既に巨匠だったりんたろう氏に決め、りんさんは「安彦は要らない」と子飼いのスタッフを連れて乗り込んで来た。
 こうなったら直かのアピールしかない。
 僕はシナリオプランを出し、コンテを切る、作画だってやると訴えた。プランは採用され、それは僕の演出・作画で放映された。僕の名前は原作・キャラクターデザインを加え、何度もクレジットされた。
 ずいぶんな目立ちたがり屋だと、他人には思われたかもしれない。しかし、ただ「目立ちたい」という気持ちだけではこんなことは出来ない。
 その他にも、僕は何本か、シナリオを書いたりコンテを切ったり、作画を自身でやったりした。最終回のコンテも切り、それにはりん監督から「いいコンテだ」というお褒めの言葉を貰ったと、これはあとで間接的に聞いた。「りんさんに勝った」と、僕は思った。
 同時期にはたしか『宇宙戦艦ヤマト』の仕事も入っていた筈なのだが記憶が混乱している。
(略)
[74年]僕は未だ、『ゼロテスター』の絵コンテを数本切ったばかりの、半ば素人のコンテマンだった[が西崎に会うことに](略)
 西崎氏の悪名は鳴り響いていた。
 半分ヤクザか全部ヤクザというような人で、手塚治虫を騙して虫プロを乗っ取ったのも、それを潰したのも西崎だという話だった。してみると僕を苦しめたギャラ不払いの張本人でもある。
(略)
「何故?」というくらいに、西崎氏に気に入られた。
 が、彼との濃いつながりは数年後の劇場版新作の時からになる。僕はしばしば彼の事務所に呼び出され、意見なぞも求められた。そして、TVの時には遠目で見えなかった彼の人となりの一端も見た。
 「この人は一所懸命だ」と、僕は思った。
 「偉丈夫の、大の大人なのに、アニメごときに……」
(略)
 既に『ライディーン』の頃から、アニメの客層には変化が見え始めていた。(略)[やおい同人誌や]「おたく」という新人種も目につき出していた。
 それはおそらく、漫画やアニメというジャンルの客層の拡大に最も意欲的に取り組んでいた手塚治虫が待ちに待っていた事態だっただろう。
 「大人のアニメ」というふれ込みで、手塚さんはエロティシズムを売りのひとつにした映画『クレオパトラ』をつくった。(略)しかしそれはヒットせず(略)[懲りずに]手塚色のまったく無い『哀しみのベラドンナ』を巨費を投じてつくり、それで自分の会社にとどめを刺すことになったのだった。
 手塚治虫は読み違えていた。
 ジャンルの拡大方向は「子供から大人へ」ではなかったのだ。「大人」が喜びそうなエロティシズムの導入でも、なかった。
 求められていたのは、大人・子供、というふうには区分されない「新しい面白さ」だった。(略)受け手が面白くふくらませ、遊ぶことのできるツールとしての物語だったのだ。

宮崎駿高畑勲手塚治虫

 虫プロ出身、手塚の弟子というせいか、僕はどうも両雄には好かれなかったようだ。
 鈴木敏夫氏が代表的アニメ誌の編集長だった当時、僕は彼を通して御二人に会いたいと希望したが断られ、特に宮崎さんの方は「そんな人は知らない」とにべもなかった。(略)
[『アリオン』アニメ化時に]雑誌企画の対談に応じてくれたのは手塚さんだった。
 「手塚さんなら会ってくれます」
 当時まだ編集長だった鈴木氏の言葉は忘れられない。
 手塚治虫という人はそういう人だったのだ。嫉妬深さとか心の屈折とかがいろいろ言われているが、異な者でも受け容れようという度量は間違いなくあった。或いは、第一人者、戦後漫画界の唯一無二のトップランナーとして、寛容な巨匠の役を演じきることを自分に課せられた務めのひとつ、とでも考えていたのではないか。その寛容さが「手塚はもう古い」と言いつつ自分の脛を齧る社員をのさばらせ、挙句に会社を失う因となったことを、もちろん承知したうえに、である。
「やああ、ひさしぶりだねえ!」(略)
「いえ、先生。僕は初めて……」
戸惑う僕を制して「キミ、石神井のスタジオにいたじゃないか」と、手塚さんは続けた。
(略)
社長退任の挨拶を三百余人の社員の最後列で聞いていただけの僕の、最初で最後の手塚さんとの対話だった。

「正しいジオニズム」、富野喜幸

勝者となれなかったのはザビ家という悪役家系が正統性を簒奪したからで、そうでなければジオン公国は勝者たり得た、というような変質の傾向が、ヒット作の常で敵役の側の人気が昂まると見えてくるようになった。
 要するに、「正しいジオニズム」があるのではないかという考えだ。
(略)
[『ニュータイプ論』を]リードしたのは先述したような、おたく世代から出た手練れのメディア仕かけ人達だった。
 メディア界のプロ達は仕かけるのが仕事だからそれはそれでいい。が、創り手側はただ仕かけに乗るだけでは困る。仕かけ人と渡り合い、再びそれをねじ伏せて優位に立てるくらいの力業を身につけていなければならない。自分にそんな能力がないことは知っていたから、僕は『ガンダム』を降りたのだ。
 ガンダムの原作者である富野喜幸は、これも先に書いたようによく目の見える現実主義者だ。おそらく未来永劫人類の他の天体への移住はなく、エイリアンとのコンタクトもないと考える(本人に言わせれば)「SF嫌い」で、何よりも「人」への観察眼に長けている。早くから「大人」だったのである。
 だから彼が「正しいジオニズム」や「正真正銘のニュータイプ」がどこかに在るなどと考えたわけがない。ただ、メディアに乗り、そこでの仕事を生業として選んだ者として、つまり、サブカルで生きる者として、当然にも利口に方便を弄しただけのことなのだ。
(略)
 『ガンダム』よりも以前、『ライディーン』で初めてタッグを組んで仕事をした時に印象深いことがあった。彼と僕は低視聴率を咎められ、テコ入れをプロデューサーに命じられたのだが、その後スタジオに帰るなり彼が黙々と編集済みだったフィルムをいじりだした話は別の所で書いた。
 その先がある。
 半年間の放映が終って、彼は結局監督を降ろされた。後任は『巨人の星』を手がけ、「視聴率男」の異名をとっていた長浜忠夫さんだった。長浜さんは富野色を一掃した。その長浜さんの下で、富野氏はヒラの演出家として仕事をし続けた。皮肉なことに、一拍も二拍も遅れてウケ始めたのはその富野色の方で、長浜さんはちゃっかりそれに乗って「美形路線」をしばし走るのだが、なぜあの時に辞めなかったのかと訊いた僕に対して彼は、おまえごときには言っても判るまいが、というような独特の表情をして言ったものだ。
 「ヤスヒコ君。この世界で生きるということはね、そういうことなんだよ」
 勝手な解釈だが、この言葉はサブカルチャーという文化の本質を言い当てていると思う。
 普遍的価値も、オリジナリティーも、衿持も、無くていい。受けて、食わなくてはならない。が、あくまでも創作者であり続けなければ、その世界に棲み続けることも、いつかは出来なくなってしまう。
 富野氏に関して、もうひとつの打ち明け話をすることを富野氏に許されたいと思う。
「キミはね、絵が描けるからいいよ」
(略)
 そうなのだ。僕は独りでもやっていける「漫画家」という副業を、『ガンダム』のヒットのどさくさ紛れの中で手に入れていた。そしてそのことが、アニメ界から疎外された時に僕を救ってくれた。

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