再読:柴田さんと高橋さんの小説の読み方・その2

前回の続き。 

柴田さんと高橋さんの小説の読み方、書き方、訳し方

柴田さんと高橋さんの小説の読み方、書き方、訳し方

 

片岡義男、『ゴーストバスターズ

片岡義男さんって人はもしかすると村上春樹になっていたかもしれない存在だったと思うんです。(略)

僕らが見てきたのは、まず一方に植草甚一さんが教えてくれた膨大な情報がありますよね。一方で片岡さんのあの全然湿気のない、乾いた非常にシンプルな文章で翻訳臭い一群の小説がある。片岡さんの小説は角川文庫に入って映画にもなって、青春小説として消費されるという不思議な運命をたどるんですけど、あれは変な小説で、何のリアリティもない話が延々と続いているんです(笑)。だから今はあまり片岡さんの小説って読まれてないと思うんですけど、僕はある意味、片岡さんが早すぎたのかって思って(略)

[春樹との共通性は]小説より先にライフスタイルがあるという考え方ですよね。(略)

実を言うと、片岡さんの小説はその当時あまり面白く感じられなかったんです。何かしゃれすぎているなと思ったんですね。この反応って、実は村上さんが出てきた時に対する反応に近いものかもしれない。

(略)

片岡さんという人は言ってみれば、村上さんの十年以上前にそういうアメリカン・ウェイ・オブ・ライフを実践していて、たぶん反発はもっと強かったと思うんです。(略)

片岡さんはアメリカと日本、それから英語と日本語に関する評論をずっと書いていて、今になってやっと片岡さんが小説でやろうとした気持ちが理解できたような気がします。(略)

[60年代の]湿気た日本の風土の中で、翻訳調に近い言葉で小説を書くというのはすごく戦闘的な態度だったと思うんです。サブカルチャーに信頼を置いた、きわめてアンダーグラウンドなものだった。でもそうは読まれなかった。マスカルチャーの方で映画とタイアップとか角川商法に乗る形で消費されたことで、ある意味早すぎたのかなっていう一面があったと思うんです。彼はアメリカとは何かというと「言葉」だと言ってるんです。(略)まず最初にフリーダムという誰も説明できない言葉がある。アメリカはまず言葉というか概念からはじまって成り立っている国だと言う

(略)

柴田 (略)日本で「日本はこういう国だ」という時には今までの歴史のことを言っている。一方、アメリカというのは、いまだあらざるものを言葉にし、まだないものに向かって自分が動いていく。

(略)

高橋 僕は『ゴーストバスターズ』でアメリカを発見するっていう話を書こうと思っていたんですが、結局書ききれなかったんです。自分では書く前には書けそうな気がしたんですが、実際書いてみると書くことがあまりなかった……。

(略)

僕は「アメリカ発見小説」を完成できなかった。やっぱり僕は日本を発見するしかないのかもしれないと思って、結局日本に向かったわけです。そして、日本の近代文学について考え始め(略)『日本文学盛衰記』を書いたんです。 

日本文学盛衰史 (講談社文庫)

日本文学盛衰史 (講談社文庫)

 

 

日本語の外へ (角川文庫)

日本語の外へ (角川文庫)

 

  対称・非対称

僕がデビューする八〇年ぐらいに、その「仮の」到達目標[「恋愛」「青春」]は消えていったと思うんです。

 だから僕は八〇年代以降の日本の小説は、読者に対して「こっちにおいでよ」という方針を出せなくなったと思っていて

(略)

 近代小説は、自己と他者の区別をはっきりさせることによって自分の中にいる他者に目ざめさせるという構造を持っていたように思うんです。しかし、最近の小説の、一つの大きな流れとしてのそんな非対称的な世界ではないもの、もっとアバウトなものを書こうとしているものがあるように思えます。
 つまり社会的な言語を使って自他を区別する非対称性の世界から、自他の区別のうすい、たとえば無意識という、対称性の世界を作品にとりこもうという試みです。(略)

[かつて小説が]無意識をコントロールしてその中に人間的なものを取り出して構築するものだとしたら、もうそういうコントロールはよそうと。つまりわけがわからないままで(笑)(略)夢か現実かがそもそもわからない。

(略)
柴田 (略)もう誰もこの世の中がきちんと成り立っているなんて思わなくなったし(略)世の中は筋が通ったものであるはずだという発想がもう説得力を持たないということと、こういう整合性を信じない小説が出てくるということはすごくつながっている気がするんです。
(略)

カーヴァーたちの文学というのは基本的に外を向いていたと思うんです。(略)

[プロレタリア文学にように明確ではないが]見えないシステムに縛られているというような不透明さはあった。(略)[でも]今はかなり内に向いてきていますね。

 また先ほどの対称・非対称の話で言えば、アメリカの小説は、もともと自分と他人の線引きが甘い文学だろうと思います。(略)

個別的な他者を通り抜けて一気に世界まで行っちゃうようなところもあるし、あるいは他人が出てきてもエドガー・アラン・ポオみたいに全部主人公の分身みたいに読めてしまうところがあったりする。

アメリカ」を翻訳できるか

柴田 アメリカではずっと、グレート・アメリカン・ノヴェルという言い方をしていたわけですよね。やっぱり普遍志向があった。

(略)

フィリップ・ロスなんかはそのパロディで『グレート・アメリカン・ノヴェル』っていう小説を書いちゃうんですよね。(略)

[でも]そのあとはもうできない。もう大きな物語がないから。(略)
[ブローティガンの]『アメリカの鱒釣り』でも、もはやアメリカをめぐる大きな物語はめざしていなくても、やっぱりアメリカについて語っているという姿勢は自然に出てくるんですよね。でもそれもブローティガンが最後かな。

(略)
ピンチョンは、アメリカをタイトルに出さないにしてもアメリカの全体像をとらえようという気はありますね。

(略)

高橋 『ゴーストバスターズ』が失敗したのは、アメリカの作家がアメリカについてやるように書きたいなと思ったのに、そうはいかなかったということですね。(略)「アメリカ」という言葉を翻訳しても「日本」にはならない。変ないい方ですけど。 

ゴーストバスターズ 冒険小説 (講談社文芸文庫)

ゴーストバスターズ 冒険小説 (講談社文芸文庫)

 

 ピンチョンとデリーロ

柴田 (略)レイモンド・カーヴァーが新しかったのは、自分の課題がアメリカ全体の問題にまで誇大妄想的に広がるというアメリカ文学の基本形を全然思いつきもしないような人たちを描いて、作家自身もそういう想像力を働かせないところです。そういう意味で、アメリカ文学としてはすごく珍しかったんですね。

 ピンチョンとデリーロの話に戻ると、僕もデリーロはすごい作家だとは思うんですよ。でも、この良さを十分に味わえない。(略)

あくまでデリーロのせいじゃなくて僕のせいなんですが、とにかくデリーロの「声」って、どこにもないんですね。(略)

デリーロのようにいろんな町の中のノイズとか会話の切れ端をいっぱい拾ってきて文章を作ってるような人は、声で乗せるタイプではないんですね。

高橋 僕も、柴田さんのその考え方にはまったく同感なんですよ。デリーロの小説には、デリーロの声というものが感じられない。それが退屈……。(略)僕は、ピンチョンもそうだと思ってたんですよ。

柴田 ただ、『アンダーワールド』の訳者の高吉一郎君とか、あと都甲幸治君とか、僕の学生さんの中で一番頭のいい連中は一発でデリーロにはまっています。今後の世代にはあの声のなさがいいのかも。ピンチョンにはもう少しにじみ出るものがありますね。
高橋 それがデリーロとの大きい違いですね。『スロー・ラーナー』を読んで、実はピンチョンはウエットで、エモーショナルで、センチメンタルな情感の持ち主だろうということがよくわかりました。彼は自分のそういう部分を出さないために、壮大ながらくたを積み上げたような文章にしているのであって、またそう思って読むと、すごく魅力的なんですね。ピンチョンの素顔が出てくるのは、あとがきとか、他人の作品について書いた解説とかで、それはすごい優しい文章なんですね。全然小説と違う。だから僕は、いつかそういう部分が全面的に出た小説を書けばいいなと思うんですけどね。 

スロー・ラーナー (ちくま文庫)

スロー・ラーナー (ちくま文庫)

 

 バリー・ユアグロー

柴田 (略)僕は、バリー・ユアグローの『一人の男が飛行機から飛び降りる』は、高橋さんがお読みになって、これは俺だったらいくらでも書けるとか、そういうふうに思われるかと思いましたが。

高橋 いえいえ、なかなか難しいですよ。(略)

あれはね、十個ぐらいはすぐ書けるんです。でも、その後、加速度的に難しくなる(笑)。(略)

相当排気量が大きくないと。ユアグローはずっと一定のリズムで書いてますから、これは僕にはできないなあと思いました。 

一人の男が飛行機から飛び降りる (新潮文庫)

一人の男が飛行機から飛び降りる (新潮文庫)

 

春樹のカーヴァー訳

高橋 実を言うと、村上さんのカーヴァーの翻訳はほとんど読んでないんです。カーヴァーは八〇年代になって注目していた人が多かったと思うんです。僕もその一人で、これは小説の書き方としてすごいなあと思って読んでいました。いったい誰が訳すことになるんだろうと思っていたら村上さんでした。二つか三つぐらいですが、読んでみた印象では合ってるといえば合ってるし、村上色が強いって言えばそうも言えるんだろうと思いました。仮に村上さんの色のついたカーヴァーだとしても、その色がべつにカーヴァーを傷つけているわけではなくて、カーヴァーのある部分を非常に強調するような色のつけ方で、そういう在り方も翻訳としてはいいことだと思っています。訳の全体については僕には何とも言えないんですが。
柴田 僕は、『カーヴァー全集』の英文と訳文を突き合わせてチェックするという役割で付き合ってますが、なんの違和感もないんですよ。たぶん、僕の頭の中で、村上さんが訳すとこういうふうに偏るという(略)情報がインプットされてて、だからもうフィルターを通して読むような感じがあるのかなあ。
高橋 僕も、カーヴァーをずうっと八〇年代に読んでいた時に、日本語にするとこんな感じかなというのがなんとなく頭に浮かぶんです、書かなくてもね。それで漠然と日本語だとこういうものだというのがあって、翻訳されたのを読むと違ってて、あっ、そうか、こういう日本語にカーヴァーはなるんだなあ、と思った覚えはあります。
柴田 村上さんの訳だからというより、村上訳カーヴァーを読んでると、とにかく日本語と英語の違いをすごく感じるんですね。英語は単語一つーつが分かれていて、硬質な単語がごつごつ石みたいにある感じなんだけど、日本語はどうしても流れになるから、ごく表面的なところでは、カーヴァーの文章のある種突き放したような暴力性みたいなものが、少しまろやかになる気がするんですね。でも、たぶんそれはすごく表面的なところであって、それこそ底流に流れてる訳のわからなさとか怖さみたいなものは、訳文でしっかり出ていると思います。

大江健三郎

高橋 八〇年代以降の文化全体の変質に関わってくることですが(略)

サンプリングに近い行為を小説を書くということと同時にできるようになったんです。(略)

大江さんは古典的なものを自作の中にたくさん引用しているでしょう。その引用の仕方が非常にサンプリングっぽい(笑)。(略)
ブレイクを引くとか、フランス文学を引くとか。たぶん大江さんはサンプリングは好きじゃないと思うんです。サンプリングという意識ではなくて、他者の言葉を小説に持ってくるやり方が要するに平行移動的で、サンプリングしている作家にすごく近いと思うんです。(略)

ところが、たとえば小林秀雄ランボオを引用する時には地響きを立てて引用するわけです(笑)。「ジャーン、ランボオです!」って。それは、「引用っていうのは大変なことですよ。文学っていうのはオリジナルが大事だから軽々しく引用してはいけません。だから、もししなければならない時には、ジャーン、っていう感じで仰々しくやってください」という意味です。(略)

ところが大江さんにはそんな感じがない。だからあの人はそういう意味でも近代文学の作家ではないのではないかと思います。
柴田 引用するのがハイカルチャーであるということは、そんなに本質的なことではない?

高橋 そうです。大江さんは日本では珍しい無意識が大きい作家なんですね。意識的にハイカルチャーからの言葉を引っぱってくるけど。
柴田 学ぶため、自分を高めるために引用しますよね。
高橋 そう。それがね、ことごとくそういう効果になってない (笑)。
(略)

僕は昔から大江さんってとても不思議な作家で、どうもみんなが言っているように読めなかったし、大江さん当人が言っているようにも読めなかったんです。僕は大江健三郎は理知的な作家ではなくて、無意識の部分が多い天才だと思っています。それとは逆に、イメージと異なり中上健次は理知的な作家です。中上さんが悩んだのはそこだと思うんです。中上健次もすごく頭のいい人だったので、大江健三郎を読んで読んで読んだ。パブリックイメージだと中上健次が野蛮で天才肌で、太江健三郎さんは秀才で理知的となるけど、逆だった。そのことに中上さんは気づいてたし、だからこそすごく大江さんに突っかかったんだと思うんです。僕は大江さんは氷山みたいなところがあって水面に出ている以上に中に沈んでる部分が面白いんじゃないかと思います。

 綿矢りさ「You can keep it」

(『インストール』文庫版収録書き下ろし短編)

高橋 (略)基本的に三人称小説で外界の描写が多い。ここでは、大学の風景ですがこれがいい。風景描写が(笑)。(略)
まさに近代文学(笑)。たしかにそんな小説はたくさんあったはずですが、そういう、描写がきちんとしていて的確な直喩を使っている小説を読むと、近代小説を書いているなって思う。ところがね、作者の方に「近代小説」を書いているという意識が感じられないんです。つまり近代文学の歴史から完全に離れたところで完成した近代小説を書いているという感じですね。

(略)
よくできた文章やよくできた比喩では、作者としては当然作者の影を消そうとします。ところが、いくら消してもLook at meという部分が出てくる。たとえば、三島由紀夫がその典型です。でもここにはLook at meが感じられない。ここに挙げた作家たちは、普通の近現代文学を書くとどんなにニュートラルに、どんなに端正に書いてもLook at meというふうに見えるしかないことを知っているからあえて壊れた文章を書いている。それはもう必然なんですよ。ところが彼女はさらにそのあとにやってきた作家で、あえて言うなら壊れた文章を書く必要もないんですね。

(略)

綿矢さんの場合、最初の『インストール』からLook at me感がないんですよね。(略)

阿部和重の場合はあえて超Look at meにしているわけじゃないですか。すごくうるさく(笑)、中原昌也もうるさい。でも、それだけしないと近現代文学につきまとう「私」感から逃れられないのです。でも綿矢さんのように、何もしてないよって言えちゃうのはなぜだろうと思いました。 

インストール (河出文庫)

インストール (河出文庫)

 

「詩が書けない代表」高橋源一郎

柴田 作家はよく、僕のような翻訳者を相手に話すと「いや、訳すことも書くことも同じだよ、翻訳者はテキストが目の前にあってそれを訳している、僕らだって頭の中に浮かぶイメージや聞こえてくる声を言葉に訳しているんだよ」というふうに言ってくれますけれど、あれは外交辞令ですよね?
高橋 外交辞令です(笑)。書けない代表として言うと実は僕も詩が書けないんです。僕の小説は詩に近いところがあると言われたりして、詩人の友達には、「何で君が書けないのかが全然わからない、あのままでいいんだよ」って言われる。でも、ほんとうに全然書けない。詩だと意識し出した途端、想像力がまったく働かなくなるんです。でも、小説の中に登場する詩だってことにすると書けるんですね。ある詩人の生涯を書けって言われて、彼が書いた詩であれば平気で書ける。自分でも謎なんですよ。小説だとあまり考えないでとりあえず行けるけど、詩だと考えちゃうんですよね、「タイトルはどうしよう」とか、一行目は何を書こうとか。何を書こうかって思っている段階でもうだめなんです。
柴田 つまり、詩は自己表現だという思いから抜けられないということですか。
高橋 詩について極端に保守的なのかもしれないですね。やっぱりどこかで体感的に納得しないものがあって、詩が書けないっていうのは、自分の中にあるコード、つまり何か決まりのようなものが邪魔するんですね。