運命 文在寅自伝

運命 文在寅自伝

運命 文在寅自伝

 

 盧武鉉ノ・ムヒョン)との出会い

学生時代にデモを主導して逮捕された経歴があることはあった。でもそれは維新反対のデモで、時代が変わり、すでに「維新」は間違っていたと評価されていた。(略)それが欠格事由となって審査に落ちるとは予想もしていなかった。

 ところが最後の最後になって、判事任用できないと言われた。

(略)

[破格報酬で大手からスカウトされたが、思い描いていた弱者を助ける弁護士像とはかけ離れていた。こうして盧武鉉の事務所へ]

その頃はみな判事や検事として長く勤めてから弁護士になるのが普通だったから、弁護士になっても権威的な匂いをまとっている人が多かった。(略)しかし盧武鉉弁護士は判事生活が短かったせいか、もともとそういう気質なのか(略)気さくで素直で人懐こかった。(略)

彼は自分の夢を語った。(略)クリーンな弁護士になりたい

(略)

盧弁護士は私と協業するようになってから、以前より事件の依頼が減ってしまった。それまで彼は、釜山でいちばん若くて熱心な弁護士で、依頼も多くしかも勝訴率が高いという、いわばやり手の弁護士だった。ところが私と一緒になってから、彼はそれまで業界の慣行だった紹介者へのコミッション(紹介料)の支払いを一切やめてしまったのだ。
 現在は弁護士法でコミッションのやり取りが禁止されているが、当時は当たり前の慣習だった。裁判所や検察、刑務所の職員、警察官などが弁護士に依頼者を紹介して、弁護士から二〇%程度のコミッションを受け取っていた。(略)

判事や検事の接待もやめた。(略)

クリーンな弁護士。おそらく彼は、学生運動圏出身の私が当然それを目指すと思ったのだろう。この機会に以前から考えていたことを実行しようとしたのだと思う。先輩弁護士として、後輩に恥ずかしくない手本を示したいとの義務感もあっただろう。本当に良心的で意志の強い人たった。
 事件の依頼はあれよあれよという間に目に見えて減っていった。二、三引き受けていた銀行の顧問弁護士の仕事もなくなった。そのために、一人で開業していた頃より収入はぐんと減ってしまったのだが、彼は気にかけなかった。しかもその後、人権弁護士として活動するようになって報酬はいっそう少なくなったから、彼が弁護士として経済的に豊かだった期間は、実際には数年しかなかった。それでも私たちはかまわなかった。

(略)

 大学生たちの学生運動や労働運動があちこちで息を吹き返した。激しい抑圧に苦しんでいた労働者たちが経営者側に勤労基準法の遵守を要求したり、労働組合をつくろうとして集団解雇される事件も相次いだ。彼らは私たちの弁護士事務所に飛び込んできた。

(略)

 いつのまに私たちは釜山地域の代表的な労働・人権弁護士になっていた。

(略)

 時局事件や民主化運動に関わるなかで、盧弁護士と私は二つのことに特に神経を遣った。

 一つは、自分たち自身がクリーンであり続けること。当時の独裁政権のやり方を私たちはよく知っていた。不正行為や弱点を探し出し、それを種に脅迫したり身動きが取れないようにするのだ。(略)

ちょっとした間違いをしでかすだけで人生を台無しにされ、民主化運動にも迷惑をかける可能性があった。義と良心に背くことのないよう用心して節制した。
 細かいところではコミッションをなくすことから始めて、財務状況も徹底的に確認して申告した。私生活でもできるだけ謹厳実直であろうと努力した。
 盧弁護士は、まるで運動に初めて飛び込んだ大学生のように情熱に溢れていた。また、献身的だった。自分の生活そのものを庶民の暮らし方に変えなければならないと考えていた。それまでの生活を変えようと努力した。食事も、酒も、高級なものは避けた。好きだったヨットもやめた。口先だけで「民衆!民衆!」と叫ぶ偽善を嫌がった。それほど純粋で徹底していた。 

盧武鉉の情熱と原則

 公害問題研究所釜山支部がスタートすると、そこで活動する人たちは情報機関の監視対象となった。情報課の刑事たちが研究所の前に陣取るようにして、出入りする人々をチェックし、活動を監視した。室内にも遠慮なく踏み込んだ。すると盧弁護士は、弁護士事務所の一部屋を研究所に提供した。財政支援も兼ねて部屋をタダで提供し、情報機関員たちから守ろうとした。機関員たちは相変わらず建物の外に常駐していたが、さすがに弁護士事務所には入ってこようとしなかった。
 盧弁護士は一歩進んで、弁護士事務所の中に労働法律相談所までつくってしまった。

(略)

 釜山民主市民協議会の設立大会の日(略)

[警察が会場を完全封鎖、抗議しても]警察がまったく引かないとみると、盧弁護士は路上に大の字になり、一人大声で糾弾のスローガンを叫び続けた。
 それからは「過激な弁護士」と噂がたった。弁護士の品位を汚したと言う人もいた。

(略)

[朴鍾哲]追悼集会で一緒に連行されたときもそうだった。(略)私は取調べに応じて正当性を主張するやり方で臨んだ。後で知ったのだが、盧弁護士は最初から供述を拒否し、調書への署名捺印にも応じなかった。連行して取調べをすること自作が違法・不当なのだから一切応じられないとはねつけた。(略)

 私は、これが後に政治家となった盧武鉉の「原則主義」だと考える。大義のためなら自分に不利な道でさえ選択するのが彼の原則主義だということは多くの人がすでに知っている。それだけではない。大義のための実践においても、限界を設けずに徹底してやること。それが彼のもう一つの原則主義だ。

盧武鉉、 初出馬ポスター

盧弁護士が出馬を決めたとき、当然、長く暮らしてきた釜山の南区から立つと思っていた。統一民主党もそう思って釜山南区を空けて待っていた。南区は釜山でいちばん団地が多く、住民の意識も高い地区で、初めて選挙をするには最適だった。
 ところが盧弁護士は南区を選ばず、何の縁故もない釜山東区から出馬すると言った。当時、新軍部と第五共和国の中核にいた民正党(与党)の許三守氏が東区から出馬することが決まっており、彼と勝負して第五共和国を審判するというのだった。翻意を促す者が多かったが、彼は頑なに意志を曲げなかった。盧武鉉らしかった。

(略)
 私はこの選挙で使われた盧武鉉の選挙ポスターを今もはっきりと覚えている。東区の貧民街の粗末な家々を背景に、地味な服装で、しかし強い眼差しで決然として立つ盧武鉉のモノクロの写真だった。 

(略)

選挙のスローガンは「サラム サヌン セサン(人が暮らす世の中)」だった。ポスターとスローガンがピタリと合っていた。あれほど強烈な選挙ポスターは過去になかったし、現在まで見たことがない。盧弁護士も国会議員になってからは、それを越える選挙ポスターは作れなかった。あのときの「サラム サヌン セサン」の言葉は、その後もずっと、大統領になってからも、そして退任後も、彼のサインに添えられた。

 2002年大統領選

 「運命の日」は、投票日ではなくその前日だった。あんな選挙は二度とないだろう。
 投票日前日の夜になって、鄭夢準氏が突然候補一本化を破棄して盧武鉉支持を撒回したのだ。全国が揺れた。選挙はもうメチャメチャになり、惨憺たる雰囲気だった。(略)
盧候補は鄭夢準氏の家を訪ねて、門前払いをくらった。悄然とした面持ちで引き返す盧候補の姿が報道され、むしろ支持者たちの怒りに火をつけた。
 一夜明けた投票日。私たちにできることは一つしかなかった。投票に行くよう呼びかけて投票率を上げることだ。(略)選対本部の誰もが一日中電話を握り締めて知り合いたちに投票に行くよう呼びかけた。私たちだけかと思っていたら、大勢の国民が同じことをしたようだった。国民の心が動き始めたのだ。私はそう感じた。

(略)

 当選が決まると街頭には人が溢れ出した。釜山は祭りのようだった。(略)

[トラブルが起きないか心配したが]

市民たちは秩序を守って一夜を満喫し、警察もそんな市民の気持ちを理解して見守った。私を見つけた人々が駆け寄ってきて一緒に祝った。美しい夜だった。

 弁護士時代の盧武鉉と一緒に催涙弾を浴びながらデモをした大通りだった。民主化を叫んで道路に寝転がったこともあった。その大通りが喜びに溢れていた。永遠に続いてくれと願った瞬間だった。前途に痛みや苦しみが待っているとは思いもしなかった。

父と母

 両親は一九五〇年一二月、「興南撤収」で故郷を離れることになった。

(略)

父は近隣では秀才と言われていたらしい。(略)高校卒業後(略)北朝鮮の統治下で興南市役所の農業係長になった。

 係長に昇進するときに共産党への入党を強要されたが、最後までしぶとく抵抗して入らなかったという。国連軍が進駐していた短いあいだに農業課長に昇進した。そして避難してきた。

(略)

[南へ来て始めた商売に失敗し]その後の父は経済的に無能だった。貧しさから抜け出すことができなかった。

 父は生来静かな人だった。しかし、商売に失敗してからはますます寡黙になった。私は貧しい暮らしも辛かったが、分断と戦争によって父親が本来の生き方を失ってしまったことのほうがいっそう辛かった。

(略)

母が主に生計を担った(略)かろうじて糊口をしのげる程度だった。(略)

 よく、北から避難してきた人は生活力があって成功者も多いと言われる。私に言わせればそんなことはない。朝鮮戦争が始まる前に、北朝鮮の体制を嫌って南に来た人たちの多くは上流階級の出身で、家財を処分した金があったので南に来ても豊かに暮らせた。戦争のさなか取るものも取りあえず避難してきた人々はそうはいかなかった。裸一貫の避難生活から始めて成功するのは、決して容易なことではなかった。ほとんどの人は死ぬまで貧しさから抜け出せなかった。

 憲法

大学一年のとき、朴正熙大統領が一〇月維新を宣布した。(略)

 一〇月維新は、法学部生にとってはなおのこと青天の霹靂だった。一二月に維新憲法が公布されると 、既存の法典や法学書はゴミ同然になってしまった。「これでも法学が学問だと言えるのか」、「そもそも法学に学ぶ価値があったのだろうか」という疑問が法学部生たちを押し潰した。(略)

[再開された最初の]憲法学の講義は長く記憶に残っている。憲法学を教えていたのは当時よく知られた憲法学者で、いつも自分が書いた憲法学の本を教材として使っていたが、休校中に新たに維新憲法の本を書いて、それを講義に使った。

 一〇〇分の講義のあいだ、彼は学生たちと一度も目を合わせず、ひたすら天井だけを見つめて講義した。維新憲法の本を書き、維新憲法の講義をせざるをえない悔恨の念を弟子たちに示したのだ。

 イラク派兵

  任期初年にあたる二〇〇三年、大統領にとって一番苦しかった決定がイラク派兵だった。(略)青瓦台と内閣の外交・国防・安保ラインは米国の要請を受け入れて派兵すべきだと主張した。(略)[米国の要請は]水面下では五〇〇〇―七〇〇〇人程度の戦闘歩兵ということだった。外交・国防・安保ラインは少し上乗せして「一万人以上の戦闘部隊を派遣すべきだ」と主張した。(略)

 一方で、青瓦台で内政を担当する政務分野の部署は派兵に反対した。私も反対だった。正義の戦争と見るには抵抗があり、派兵して犠牲者が出れば世論の非難に耐えるのは難しいと考えた。
 大統領も同じ考えだった。個人的には派兵は適切ではないと思っていた。(略)しかし、当時の韓国は北朝鮮の核危機を平和的に解決するため、米国の協力を切実に必要としている状況だった。米国の一部ではネオコンを中心に北爆や制限的な攻撃を主張する声が出ていた。(略)

 もちろん大統領は終始一貫して米国に「武力による北朝鮮問題の解決には反対する」という立場を明確に伝えていた。北の核問題は徹底して対話による外交的方法で解決していかなければならないという大統領の信念は揺るがなかった。しかし、その方向に導いていくためには米国政府の協力が絶対に必要だった。そうするためには彼らの要求もある程度呑まざるをえない立場に置かれていた。大統領も私たちも深く悩んだ。
 大統領の苦悩を誰よりもよく知っていたNSC事務処の李鐘奭次長が妙案を出してきた。「米国の派兵要求は受け入れるが、規模は最小限にする。派兵は非戦闘部隊三〇〇〇人とし、その性格も戦闘作戦の遂行ではなく、戦後再建事業の支援とする」。このような案だった。高建総理がその場で派兵の性格を「平和再建支援部隊」と明確に定義した。悩み抜いたすえに大統領はこれを受け入れた。友邦に対する最低限の道理は果たせる。派兵地域も最大限に努力して危険でない地域とする。

(略)

報告によれば、米国務省はおおむね理解するとの反応だったが、国防総省はシニカルな反応を示したという。「一万人以上の戦闘兵を派遣」云々という韓国政府内の一部の主張が、米国側の期待値を上げてしまっていた。だが、のちに非公式ルートで届いたブッシュ政権の反応は「感謝する」というものだった。ブッシュ政権にとっては、同盟国の派兵参加という体裁づくりが切実な課題だったのだ。

(略)

イラク派兵を機に、北朝鮮の核問題は大統領が望んでいた方向へと進んだ。米国の協力を得て、六カ国協議という多国間外交の枠組みがつくられた。

 「国家保安法廃止」

 とりわけ悔しかったのが「国家保安法」だ。廃止にむけて努力しなかったわけでは決してない。私たちとしては最大限に努力した。大統領まで直接乗り出してあらゆる努力を借しまなかった。与党は、大統領の「国家保安法廃止」の発言が出た直後に、慌てて具体的な検討作業を始めた。その後の過程は失望そのものだった。党として案をまとめると言いながら、結論を出すどころか、党内に設置された作業部会を解散に追い込んだ。内部資料の流出や一部の所属議員による「世論操作」を口実にしていたが、実は党内の調整に失敗していた。与党は過半数近い議席をもっていたにもかかわらず、党内で十分な議論や合意形成ができていなかった。国民に説得力をもって訴えかけることも、世論で圧倒することもできなかった。彼らに責任転嫁しようということではない。これについては私たち全員の反省が必要だと考える。私たちの力量不足がそのまま露呈した出来事だった。
 私も金大中政権の時代に、国家保安法を廃止しないことを強く批判した。政権が廃止にむけて努力していないと思ったからだ。そうした批判がそれこそ形無しだった。国家保安法を廃止できなかったことは、当時の進歩・改革陣営全体の力量不足をまざまざと見せつける象徴のように思われる。 

(略)

何が問題だったのか。

 改革立案が重要な時期に、国会の法制司法委員長を野党に譲るという議員運営交渉のミスがあった。職権による上程はしないという私たち政府側の「良心」も改革立法を推し進められなかった要因として作用した。それらの事情で廃止が難しいなら、まずは濫用される条項だけでも改正する法案を検討してみるべきだった。それなのに私たちの陣営の教条主義がそのような妥協を許さなかった。(略)

与党は国会で多数を占めていたが、与党内にも国家保安法の廃止に反対する議員や消極的な議員が少なくなかった。

 舌禍トラウマ

  二〇〇六年五月、民情首席秘書官を辞任した。(略)

釜山に戻って統一地方選を手伝っていたときに、舌禍事件に巻き込まれて大変迷惑した。参与政府の五年間(略)私の発言が俎上に載ったのはこの一度だけだった。政治がいっそう恐ろしくなり、幻滅を感じた事件でもあった。(略)
[ウリ党釜山支部から]選挙に役立つようインパクトのある発言をしてほしいと頼まれた。(略)

私は心を決めて、釜山市民の地域主義を批判した。「盧大統領の当選が釜山の地域主義を和らげるきっかけになると期待していたが、むしろ地域主義がいっそう強くなってしまったことを遺憾に思っている。釜山出身で釜山を強く愛している大統領が誕生したのだから、釜山の人々も愛情をもっと示してくれてもいいはずなのに、そういう雰囲気がまったくない。私は釜山の人々がなぜ参与政府を「釜山の政権」だと思わないのか理解できない。今回の統一地方選がそのような強固な地域主義を崩す選挙となることを願っている」。(略)

最初は大きな記事にはならず、発言内容だけが短く報道された。ところが報道の翌日、会見場に記者のいなかった新聞が私の発言のうち「釜山の政権」という部分だけを切り出して、私が釜山の政権であることを前面に出し地域主義を煽っているとケチをつけてきた。
 するとウリ党の面々が記事を見てカッとなり、むきになって私を非難しはじめた。国を滅ぼす地域感情を助長した、国民を冒瀆した、光州・湖南の人々の支持で参与政府が発足したことを忘れた不適切な発言だとも言われた。それらの非難がほぼすべてのメディアで報道され、たちまち大問題になってしまった。

(略)

さらに戸惑ったのがウリ党の対応だった。党の釜山支部が開いた記者懇談会で、支部の広報責任者とスポークスマンが同席していたにもかかわらず、発言内容や趣旨を確認しようともせずに、新聞記事だけを見て一斉に私を非難した。(略)

党の中央にいる面々が「発言の趣旨はそのようなものではなかった」と釈明し、波紋を最小化すべく動くのが普通だろうに――むしろいっそう大きく拡大させているのが理解できなかった。

 私の生涯でいちばん大きな非難を浴びた出来事だっただけに、このことは心の傷となって残っている。政治がますます嫌になり、怖くなった。