なぜ科学を語ってすれ違うのか・その2

前回の続き。

ハンチントン」たち

マリオ・ブンゲが大ぼら吹きとよぶ人間の一人に、サミュエル・ハンチントンがいる。ハンチントンは、発展途上国を近代化するための「方程式」について著作をものしているが、その方程式なるものは、悪質な右翼の社会政策を擁護するためにでっちあげられたでたらめにすぎない(ハンチントンによれば、アパルトヘイト下の南アフリカは、「満たされた」社会だった)。
 量子力学やカオスにふりまわされるポストモダン主義者は愚かではあるにせよ、実害はほとんどないに等しい(略)。
一方、世の「ハンチントン」たちは、著作やコンサルティングを介して、絶大な権力と影響力をふるっている(ハンチントンヴェトナム戦争中に、戦略村政策について合衆国政府に助言をしている)。ブンゲはその恵まれた才能を、せいぜいばかなことをいうぐらいのひと握りのポストモダン主義者を「追放」しようとすることよりも、世に掃いて捨てるほどいる「ハンチントン」たちの悪質な仕事を効果的に曝くために使ってはどうだろうか。

「スコープス裁判」

 歴史はウィリアム・ジェニングズ・ブライアンに冷たかった。彼は聖書至上主義の愚かな男として描きだされてきたのだ。しかしブライアンは(略)頭の固いわからずやではけっしてなかった。(略)
[1925年「スコープス裁判」で]ブライアンは、公教育の場でダーウィンの進化論を教えることの是非をめぐり、クラレンス・ダローと対決することになった。(略)
[この裁判を基にした劇や映画で]描かれるブライアンは、考えるということをしないキリスト教信仰の虜となり、偉そうに知ったかぶりのご託をならべたあげく、あっさりとダローにやりこめられてしまう愚か者だ。しかし現実のブライアンは、もっと知的で、人間的な魅力をそなえた重要な人物だった。
(略)
彼は人民主義[ポピュリズム]の指導的政治家で、三度にわたり民主党の大統領候補にもなっている。ブライアンは、歯止めのない資本主義に強く反対し、進歩主義的な社会改革のために、激しく、かつ効果的に戦った。たとえば、女性参政権累進課税アメリカの労働者階級にとって大きな重荷になっていた金本位制の廃止などが、彼の掲げた政治目標だ。
(略)
彼がダーウィニズムとの聖戦に立ちあがったのは、社会運動にかんする積極行動主義のためだった。ブライアンは、当時の労働者が耐えねばならなかった悲惨な社会状況にひどく心を痛めていた。しかし、カーネギーやロックフェラーといった人たちは、そういう社会状況はダーウィンの進化論からすれば正しいと主張していたのだ。しばしば「社会ダーウィニズム」とよばれるこの思想は、勝者ひとり占めの資本主義を批判から守るために利用されていた。多くの者が落伍するのなら、それはまったくもって正しい。なぜなら、人生とは生き残るための戦いにほかならず、生き延びるのは――そして生き延びるべきなのは――適者だけだからである。(略)
ブライアンがこの学説を唾棄すべきものと考えたのは当然のことだった。(略)
ブライアンの見るところ、優生運動と第一次世界大戦ダーウィンの遺産と結びついていた。ダーウィンの息子のレナード・ダーウィン優生学教育教会の会長を務めていたし、優れた統計学者で進化生物学者のロナルド・フィッシャーも熱烈な優生主義者だった。第一次大戦についていえば、ドイツの戦争指導者たちのイデオロギーについては信頼できる一次資料が多数あり、それによればドイツの戦争指導者たちは、「生命とは適者生存の戦いにほかならない」という事実に照らして、自分たちの攻撃行動は正しいと主張していたのだ。
(略)
 ダローとブライアンの有名な法廷対決では、ブライアンは進化論について救いがたいほど無知であることが暴露された。彼は科学は得意ではなかったのだ。しかも、ダローが暴露したのはブライアンの科学的無知だけではなかった。聖書の記述について突っこんだ質問をされると、ブライアンはしどろもどになった。(略)
彼がこの騒動に踏みこんだおもな理由が、神学ではなく社会正義だったことを思えば、あまりにも気の毒ななりゆきだった。
(略)
もしもこのエピソードから引きだされるべき教訓があるとすれば、それはごく単純なことだろう。ブライアンのようなやりかたで社会正義のために戦ってはいけないということだ。
 生物学をとりまく神話のまやかしを暴くことにかけて、スティーヴン・ジェイ・グールドほど広く名を知られ、大きな影響力をもった人はいない。グールドは、社会ダーウィニズムであれ、社会生物学であれ、IQ研究であれ、いかなる生物学的決定論にも敢然と立ち向かい、きわめて効果的に戦った。
(略)
両者の違いは、ブライアンは生物学そのものをしりぞけたのにたいし(そのかわりに彼は聖書を支持した)、グールドは、ダーウィンの進化論と現代の遺伝学から社会ダーウィニズムが帰結するという主張をしりぞけたことだ。
(略)
 グールドは何に心を砕いたのだろうか?左派なら誰しもそうであるように、彼もまたアメリカ社会の階級構造と、それをとりまく人種差別主義を嫌悪した。その人種差別主義に一役買っているのが、IQ研究である。(略)
社会的保守主義者たちはしばしば、社会の底辺層にいる人たちは本来つまらない人間だからその階層にいるのだと主張する。
(略)
グールドは、[ハーンスタインとマレーの]『ベルカーブ』の論証が、いくつもの疑わしい仮定のうえになりたっていることに注意した。
(略)
ハーンスタインとマレーは、使える証拠を無視し、欠陥のある推論をし、疑わしい仮定を置いた。それを批判するのは、科学を告発することではなく、二人のお粗末な科学者を告発することなのだ。
(略)
ブライアンはこう述べた。「科学のソヴィエトが、わたしたちの学校で何が教えられるべきかを命令しようとしている」。ブライアンにとって、これは政治方針にかかかる大問題だった。たとえ進化論について科学者たちの主張が正しくても(あるいは、社会階級とIQについて科学者の主張が正しくても)、そして、間違っているのは人びとの考えのほうだったとしても、支配するべきは多数派であり、科学エリートではない。科学が人びとに奉仕すべきなのであって、その逆ではない、とブライアンは力説した。
 今日、まともにものを考える人なら、進化論にかんするブライアンの考えを支持することはないだろう。しかし、IQ研究となれば、ブライアンに賛成したい気持ちに駆られる人は多いのではないだろうか。これは大きなジレンマだとわたしは思う。支配するべきは誰なのだろうか?ブライアンが奉じたような、単純な民主主義的解決策は魅力的だが、それは避けなければならない。
 ブライアンの民主主義的立場が抱える難点は、科学上の圧倒的コンセンサスに反するような多数派の意見は、いつまでも多数派の意見ではありえないということだ。創世記に固執してダーウィンの進化論をしりぞける人たちは、今日の地質学のほとんどすべてをしりぞけなければならない

ニセ科学

 政治的動機をもつ社会構成主義者たちの発言は、「わけのわからない戯言よりも、明晰な思考のほうが役にたつ」といった言葉とともに一蹴されることが多い。それがソーカルの見解でもある。わたし自身、過去においてしばしば似たようなことをいってきたし(ソーカルほど劇的にではないが)、その立場に与するにやぶさかではない。しかし、それだけでは足りない。わたしたちは社会をより良いものにするために行動できるし、行動すべきなのだ。科学者もそうだが、とくに科学哲学者は、社会の不平等を正当化するようなニセ科学を論駁できるという、社会貢献という観点から特別の位置に立っている。科学者と科学哲学者は、ほかの誰にもまして、悪い科学、とくに社会にとって有害な目的に奉仕する科学を暴露するために必要な力をもっているのである。
 もちろん、まずは事態を正しく把握しなければならない。ニセ科学といわれているものについては、それがたしかにニセ科学であることを示さなければならない。しかし、証明して終わりになるわけではない。証明して明らかになったことを、広く世間に知らせなければならない。スティーヴン・ジェイ・グールドほど、「人種とIQ研究」の多くはクズだということを明らかにするためにたくさんの仕事をした人はいない。しかし、人種と階層とIQにかんする『タイム』誌の特集号は、いつまでも歯科医の待合室に置かれて、グールドのたくさんの著作を全部あわせたよりも、もっと多くの読者の目に触れるかもしれない。ニセ科学の問題点を明らかにすることと、それを一般の人たちの目に効果的に曝すこととは、まったく別のことなのだ。わたしたちはあらゆる機会をとらえて公開の場にでていき、問題を指摘しなければならない。悪い科学にかかわりのある心理学者や経済学者や生物学者がいたら、それぞれの地域で公開討論会に引っぱりだそう。
(略)
 誰が支配するべきなのだろうか?もちろん大衆が支配するべきだ。ただし、大衆は情報に通じた声を聞く必要がある。もしもソーカル事件が、分析的思考力をもち、科学に共感する人たちを触発して、社会にとって建設的な行動をとらせるのであれば、それこそは彼の真の遺産となるだろう。

著者あとがき

科学にとって最大の脅威は(略)知識の営利化だろう。(略)
 大学が民営化されたりビジネスモデルがもちこまれたりすると、どうなるだろうか? 大学の運営が、ますます産業と寄付に依存することになる。たとえば、教育と研究の両面において、応用研究、つまり実用的なテーマの研究にまわされる資源が増えている。また、研究の結果として得られた知識の所有権にかんしては、秘密主義をとることによる商業的利益のほうが、知識を無料で広く共有することによる民衆の利益よりも重んじられる。さらには、産業や学生を客とみなし、学者をサービス提供者とみなすことによって、大学をひとつのビジネスとして経営しようと試みることにもなる。結果として、目先の必要性や、クライアントの需要ばかりが重んじられ、古いことわざにいうように、「お客様はいつも正しい」ことになってしまう。
 民営化がとくにおそるべき問題を引き起こすのは、公共の福祉にかかわる領域だ。カナダの研究社が(略)製薬会社と契約して研究をおこなっていたときのこと、ある薬品が有害であることを発見し、それを論文として発表した。これが契約違反とみなされ、研究者は解雇された。この一件はスキャンダルとなって、その研究者は復職することができた。今日、その大学と系列病院は、病院に勤務する研究者にたいして一種のテニュアのような身分保障を与え、私企業との契約研究にかんする新しいガイドラインを作成することにより、私企業から資金提供を受けた場合にも、研究結果を公表しやすいようにしている。これは稀に見る(そして不十分な)勝利であり、正しい方向への小さな一歩ではある。しかし、全体としての動向は、この例とは逆向きに進みつつある。利益追求を目的とする私企業から資金提供を受けようとすれば、研究者たちは、重要な情報を秘密にすることをしいられるばかりか、民衆の健康を危険にさらすような事実が発見されても、それを秘守することを契約によって義務づけられる場合が多いのだ。もちろん、わたしたちはこの問題について素朴すぎてはいけない。政府にしたって、愚かにも秘密主義をとることがある。イギリスの農漁業食料省はBSE(狂牛病)のときに、政府が助成した研究にかんして、まさに秘密主義をとった。そのせいで、当該のデータを他の研究者が検討し、問題は政府が主張している以上に深刻だと指摘することがむずかしくなった。
 最近の研究で明らかになったところでは、マサチューセッツ大学の科学者たちが最近発表した論文の三分の一以上で、著者のなかに、その論文から利益を得ると思われる人物が一人またはそれ以上含まれている。そういう研究者は、当人が特許をもっているか、または研究結果から利益を得るとみられる会社と関係があった(たとえば会社の重役であるなど)。こういう著者たちの経済的な利害関係については、発表された論文には何も触れられていなかった。公共の知識を守るために特許が必要なら、公共の資金を使って特許を得た者には、その特許をパブリック・ドメインに置かせるか、あるいは特許使用料を無料にさせればよい。
(略)
 ハーバード大学の学長だったデレク・ボックは、商業主義の利害の浸食作用から研究目的を守るためには、大学に強いリーダーシップが必要だと警鐘を鳴らした。警鐘を鳴らすという点ではたしかにボックは正しかったが、大学には強いリーダーシップだけでなく、もっとずっとたくさんのものが必要だ。まず、公共的な知にたいし、政府による強力な保護と奨励を与えなければならない。たとえば特許法は、公益の私物化を許してはならない。大学の研究資金については、圧倒的に多くの部分を、公共財からだすようにしなければならない。そして研究の結果として得られた知識は、大衆が所有するのでなければならない――企業や個々の科学者(さらには秘密主義の政府)が所有するのではなく。
 この目標を達成するために、学問で飯を食っている者は、敢然と闘わなければならない。もしも大学の研究者が組織化され、力をあわせて努力すれば、現在の商業主義の流れを食い止めることができるだろう。では、科学者には何ができるだろうか?まず個人レベルでは、研究結果の公開を禁ずるような契約研究を拒否し、研究によって得られる知識は公表すべきだということを強く訴えていこう。大学レベルでは、科学者は大学経営陣にたいし、民間(企業であれ慈善団体であれ)の利害から意志決定権をとり返すよう働きかけよう。政治レベルでは、政府の指導層にたいし、研究と教育は公益の一部であることを今後とも位置づけていくよう圧力をかけよう。
(略)
 科学者は象牙の塔にこもり、世間から遮断されて生きるべきだなどとは、わたしはこれっぽっちも思っていない、考えるべきは、科学者は誰にたいして責任を負っているかだ。民営化論者の好む表現を用いれば、この問いにたいする答えは簡単だ。科学者は大衆にたいして責任を負っているのである。科学者は、知識をすべての人にたいして無料で提供する責任を、大衆にたいして負うているのだ。

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