前回のつづき。
ニュートンのりんご、アインシュタインの神 -科学神話の虚実-
- 作者: アルベルト・A・マルティネス,野村尚子
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2015/01/29
- メディア: 単行本
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電子を発見したのは、J・J・トムソンではない
トムソンは、自分の実験から、気体原子はもっと小さい、「根本原子」に分割できるという結論が導けると論じ、その粒子を「微粒子」と呼んだ。また、この物質の「新しい状態」(固体でも液体でも気体でもない)は、一種類だけで、これが既知の科学元素すべてを構成する実体であるとも論じた。
これが1897年のトムソンの全部を要約したことである。彼が陰極線が原子よりも小さい、負に帯電した粒子からなると結論したのは正しかった。そしてその速さ、質量、電荷に対する彼の推定もまずまずのものだった。彼はまた、その「微粒子」が原子の構成成分であるという点でも正しかった。ということは、トムソンが電子を発見したことになるのだろうか?
(略)
ニュートンのような物理学者が、光は直線上を進み、くっきりとした影を作るから粒子でできていると論じていた。同様に1869年、ヨハン・ヒットルフが陰極線も影を作るということを示した。その学生であったウィリアム・クルックスもまた実験を行って鋭い影を示した。たとえばクルックスは陰極線の通り道に鉄製の十字を置くと、非常に鮮明な影ができることを発見した。
クルックスはまた陰極線は、用いるさまざまな材質に関わりなく、みな同じ特質を有することも発見した。さらに、ある効果が粒子からなるものかどうかをテストするには、その効果がものを押すことができるかどうか、運動量を与えるかどうかを決定すればよいだろう。これに沿ってクルックスはパドル付の小さな金属車輪をガラスのレール上に設置して、パドルに陰極線が当たるようにしたものを考案した。陰極線がパドルに当たるとき、車輪が回って動き、陰極線が運動量を与えたのを示すことを彼は見つけた。クルックスはまた、陰極線が強力なU字形の磁石によって偏向させられることがあること、陰極線の二つの流れは帯電した物体同士のように(クーロンの実験におけるボール同士のように)互いに反発することも示した。
1879年、クルックスは実験で得た根拠からこう結論した。陰極線は「物質の第四状態」(固体でも液体でも気体でもない)であり、いわば「輻射物質」であると。彼は述べている。(略)彼は陰極線を「宇宙の物理的基礎を構成するものと正当な理由をもって考えられる、小さくて分割不能な粒子」と記した。
1884年、アーサー・シュスターは負に帯電した粒子からなる陰極線は、陰極の近くの分子が崩壊したときに生み出されると論じた。(略)磁力による偏向実験によって、1890年までにはシュスターは、電荷対質量比の上限と下限を推定した。(略)
だがシュスターは原子は分割可能であるとも、取り外し可能な部分をもつとも考えていなかった。そんなことを言ったら、古くて馬鹿げていると思われていた錬金術にあまりに近すぎると思われるところだろう。(略)
[シュスターはこう回想する]
そんな異端の説を公然と明らかにしようものなら、私はまともな物理学者だとはとうてい思われなかったはずだ。
(略)
1870年代以来、ジョージ・ジョンストーン・ストーニーは、恒久的に原子付属する正と負の電気の物質的な形の伴う単位が存在すると論じていた。それらが原子の周りを回っていると彼は想像し、1891年になると彼はそれらの小さな単位を「電子」と呼んだ。
なおも、陰極線は原子より小さい粒子であると別の論証をするとすれば、原子を透さない物質でも陰極線なら透過できるのを証明することだろう。こちらはボンにおいて1892年、ヘルツとその学生であったフィリップ・レーナルトが示した方法である。だが彼らは、陰極線は物質を貫通するので、波のような類であり、ちょうど音が壁を通り抜けるようなもので、粒子ではないと主張した。レーナルトは、陰極線が金属箔を通過する際に偏向し、扇型に広がることを示した。
(略)
レーナルトは陰極線がくぐるガスが何であるかには関係なく、磁場によって同じ偏向を示すことを発見した。トムソンはレーナルトの発見を解釈して、多くの分子のあいだを分子にぶつからずに通れるのだから、微粒子は原子よりも小さいことを示唆すると考えた。
1895年、ジャン・ペランは、負の電荷は陰極線には必ず伴うことを実験で証明した。彼が言うには、陰極線が波ではなく粒子からなるという主張を支持する一つの結果である。トムソンはこれらの結果は自分の研究に影響を与えたと認めた。さらに1896年4月、グスタフ・ヤクマンは、陰極線の静電気による偏向を示す実験結果を発表した。広く言われていたこととは正反対に、本当はトムソンがそれをやった最初の人物ではなかったのである。
しかもこれらの科学者たちで、電子(または「イオン」あるいは「微粒子」)のすべての特質を同定したものは誰もいなかった。彼らの特徴づけや推論には間違いがあったのである。J・J・トムソンもそうだった。たとえば彼は、原子の構成物はこの微粒子だけだと主張した。それは間違いだった。
(略)
J・J・トムソンが電子を発見したという説に何か残るものはあるだろうか。
(略)
[ならば、発見者とは言えなくても、電子を多くの科学者に受け入れさせるのに貢献したじゃないかと、擁護することは可能か?]
たとえばシャルル・クーロンは「クーロンの法則」を提唱した最初の人物ではない。ジョゼフ・プリーストリーのような人たちの方がもっと早く提唱しているのである。同様に、チャールズ・ダーウィンは自然選択による種の進化を提唱した最初の人物ではなかった。1831年の本の中で、パトリック・マシューが、競争と環境の圧力に対抗して子の数を過剰にすることが種を変化させると論じている。彼の推測は無視されてきたようだが、ダーウィンの成功の後で、マシューは功績が認められることを求め、自分こそが「自然選択の原理の発見者」だと述べた。それでも評価は得られなかった。ダーウィンの意見では、一般的には、「読者たちを確信させるのに成功したものに「すべての功績」が行く」のである。
しかし電子に関しては、社会に少しずつ信じさせ、現象を確かめるのに一役かった物理学者が何人かいる。陰極線は直進すると示したものもいれば、陰極線は機械的な運動量を弾丸のように伝えると示したものもおり、また陰極線は原子より小さい粒子からなると示したものもいる、などなど。
(略)
「電子の発見」を振り返ったテオドル・アラバツィスは、この表現は、物理学者の電子があると信じるのを固めるに至った複雑な過程と解するのが適切だと説いている。
(略)
神話とは我々の無知が変装したものである。単純な電子発見の物語は好都合なことに物理と歴史の絡み合いを隠し、学生にこのような目に見えないものをすぐ想像できるようにしてくれて、説明と計算に使えるのである。学生たちに1870年代から1913年まで物理学者たちが物質と電気の構成成分の固定に格闘してきた実際のプロセスを話そうとするなら、かなりの大仕事になってしまう。だから教科書はそうはせず、極度に単純化され、輪郭をぼかした絵を描いてしまう。
アインシュタインと優生学
もし人間が動物から進化したなら、我々と同じようには行動しない動物から進化したことになる。おそらく環境と選択的な交配が徐々に、今の我々には自然に見える人間の行動をとる存在を生み出したのだろう。だがもしそうなら、人間は自分自身の進化をコントロールすべきだろうか? この問題がダーウィンのいとこ、フランシス・ゴルトンによって調べられた。
1840年代、ゴルトンはケンブリッジ大学で数学を学んでいた。(略)
物事を定量化するのが好きだった彼は、人類のために数学を応用したいと考えた。
人類学者は人間の体とその行動に相関があることを立証しようとしてきた。体、姿勢、頭部の凹凸を測定してみたが、行動の生物学的根拠は見つけられないでいた。ゴルトンも人間の特徴の定量化にますます惹きつけられるようになった。アフリカを旅行して、彼は用心しながら女性の体の形を測定した。後には指紋を数値的に分析しようと試みて、犯罪者を同定するのに指紋を使うことを早くから提唱するようになった。
ダーウィンの進化論に関心があったこともその理由の一つであるが、ゴルトンは精神の能力が遺伝するかどうかに興味を抱いた。立派な人は愚息をもつことになりやすいという見方もあった。それとも、天才どうしには血縁関係があるだろうか? それでゴルトンは伝記の百科事典を調べ、卓越した政治家、法律家、軍事指導者、科学者、芸術家のあいだの血縁関係にある人々の数を数えた。そのうち驚くほど多くの人々が血縁関係にあることがわかった。ゴルトンは特に、血縁がある親族間で科学と芸術の優れた業績が繰り返し出現することに印象づけられた。なぜならこのような分野では、政治や社会の制度におけるほど、身内びいきや社会的な力が強くははたらかないからである。彼は結論として、遺伝は身体的な特徴だけでなく、才能にも影響するとした。
(略)
結論をまとめ、『遺伝的天才』という本を1869年に出版した。ダーウィンは、主に生来の精神面の才能だけでなく、熱心さや努力においてもまた人は異なるものだと考えていたが、ゴルトンの研究を読んで、天賦の才は遺伝する傾向があると確信するようになった。
(略)
ゴルトンと妻は子をもうけることができなかったのに、どこの町でも移民と貧しい人々が溢れているように見えた。だからゴルトンは時間がたてば、無能と意志薄弱と貧困が増幅し、イギリスの才能ある人々は消え去ってしまうのではないかと恐れた。
(略)
1883年、ゴルトンは「よい生まれである」ことを意味する「優生学」という名称を人間の遺伝を改良させる計画的育種の研究に適用した。優生学は生物学の教師が一般に触れたがらない生物学史の一面である。
(略)
厄介な失敗の中でも、優生学はことのほか目立っている。占星術と錬金術の最悪の側面よりもさらに大きな恥だからである。
そうはいっても優生学は、社会をその病気から治すのだという高邁なる希望を原動力にしていた。我々がトマトをもっといいものに作れるなら、なぜもっとよい人間が作れないのか? ゴルトンは英国政府が人々の能力を測定してそれに従ってランク付けすべきだと訴えた。より高いランクの夫婦なら子供をたくさんもつことを奨励され、より低いランクなら子供を多くもつことは推奨されない。さらにゴルトンは最低ランクの個人は社会から隔離し、子供をもつことを防止するのが望ましいと考えた。ゴルトンは人々は生来平等であるとは考えていなかった。
(略)
アメリカの優生学者たちはわずか一〜二対の遺伝子が、知的障害、暴力的な気質、癩病、犯罪、躁鬱さらには貧困にまで至る悪い形質を決めてしまうのだと主張した。優生学は疫病と戦い、社会変革を実践する有望な技術のように見えた。優生学考たちは、人間を以前の状態になんとか回復させることにより、退化と人種の混血を減少させようとした。
(略)
さらにアメリカの優生学者たちは特定の「人種」が生来多くの問題を抱える傾向があると推定した。イタリア人は暴力的、ユダヤ人は盗みをしがち、などなど。ダヴェンポートは「劣った血」が北方白色人種へ流入することを防ぐ法律を求めた。
(略)
政治家たちは、セオドア・ルーズベルト大統領が支持した断種法とともに、制限つきの移民政策を進めた。出生率が下がったことに警戒感をもったルーズベルトは「人種の自殺」に対抗する改革もまた先導した。1907年までには、インディアナ州で400人を超える囚人が断種され、その後インディアナ州は「退化」予防の断種法を制定した。1916年になると、アメリカ優生学会が問題の多い一家「ジューク家」だけが起こす犯罪とその施設の世話でニューヨーク州にかかる費用が200万ドルを超えたが、もとのジューク夫婦を社会から隔離しておけばその費用は2万5000ドルで済んだだろうし、彼らが断種していればわずか150ドルになったはずであるという見解を明らかにした。1917年までには16の州が断種法を有するようになっていた。
優勢主義への関心は知能テストの実施をも駆り立てた。(略)
知能テストは生来のものとされる能力に従って生徒をクラス分けするための手段になった。
(略)
熱烈な優生学者たちは、アメリカの平等宣言を一つの神話にすぎないとどんどん否定するようになった。
(略)
1929年には24の州が断種法を制定しており、1935年1月には2万1500人を超える人が自らの意志ではなく法律によって断種を受けた。
しかし優生学をナンセンスだと否定する科学者と批判派の一群は増えていき、これは科学に変装した偏見が浸みこんだものだと非難した。
(略)
それでも、他の国々で優生学は人気を獲得した。特にドイツでは、それを受け入れたある人物がいた。アルバート・アインシュタインは、他の多くの人と同様に遺伝的継承にひきつけられた。初めは対等の存在として妻ミレヴァ・マリチを愛したが、「身体的にも道徳的にも劣った人間」として彼女を蔑視するようになった。彼女は先天性の股関節脱臼があり、鬱と神経症にも苦しんでいたが、それを彼は彼女の遺伝子のせいだと考えた。彼女の妹は精神的に問題があり、緊張性疾患をわずらっていた。同様にアインシュタインとマリチの二人目の息子、エドゥアルトは情緒不安定で、アインシュタインはそれをマリチの家系の「重い遺伝的欠陥」のせいだと考えた。アインシュタインは内心、古代スパルタ人が社会を強くするために、自分の子の中でいちばん弱い子を遺棄して死なせるという習慣を認めていた。1917年、彼は親しい友人に宛ててこう書いている。「生殖能力のある年月を越えて生きられないものを生かし続ければ文明化された人類社会をむしばむ。……だから未来を衛生的にするために、医者が手加減せず」断種するという「取り締まりを行うのが急務になるだろう」。
(略)
一方、優生学はアメリカの教育改革の重要な一部になっていた。1940年代に合衆国の高校で使われる生物学の教科書のうち、90%近くが優生学を提唱する章を含んでいた。だがナチの人種差別プログラムの恐怖を知ったとき、優生学に対する幅広い支持は崩壊した。
(略)
アインシュタインの二番目の息子は鬱病と統合失調症となり、精神病院に収容された。アインシュタインはそんな慢性病は遺伝によるものだと考え、息子に宛ててこう書いている。「人種を退化させることは確かに悪いことだ。考えられる限りもっとも悪いことの一つだ」。そして無神経にもこんな言葉まで付け加えている。「お前のような存在を生み出した我を許したまえ」。同様にアインシュタインは、彼が遺伝的に劣ると軽蔑していた女性と自分の最初の息子が結婚するのを激しく反対した。彼女は年上で背が低く、取り憑かれたような、複雑な性格で、マリチにとてもよく似ていた。それゆえアインシュタインは、息子のハンス・アルベルトが彼女とのあいだに子供をもつのは「危険」で「惨め」なことであり、「災難」に思えることであり、何とか防ごうと、不作法なまでに反対した。偏見に満ちた反対は失敗に終わった。