- 長過ぎるソロ、崩壊する人間関係
- 荒れ狂うボンゾ
- オークランド事件
- プラントに悲劇
- 『イン・スルー・ジ・アウト・ドア』
- ネブワース
- 終焉
- 不遇の80年代前半
- ライヴ・エイド
- 再編劇、『ノー・クォーター』から排除されたジョンジー
- 温和になったピーター・グラント
- スティーヴ・アルビニ
前回の続き。
長過ぎるソロ、崩壊する人間関係
サム・アイザー 彼らがステージに立つべきじゃなかった状況も何度かあった。ジミー・ペイジがトイレで眠ってしまった時は、それはもう大変だった。
ベンジー・レフェブル ジミーにカフェインを注入して、なんとか彼をまともに動けるようにするためにあれこれ手を尽くして、もう何時間遅れかも分からないほど時間が経過してからステージに立ったこともあった。それでジミーの合図に合わせてスポットライトが後ろから彼を照らすと、彼はダブルネック・ギターで〈永遠の詩〉を弾き始めるんだ。でも時々彼は12弦の方でコードを押さえつつ、6弦の方をじゃかじゃかかき鳴らすこともあってね。そういう時のロバートはとにかくうんざりした顔をしていたよ。
ある晩のこと、ジミーが例の30分にも及ぶエゴ丸出しの自意識過剰のくだらないソロをやっていた時――(略)ボンゾのソロもやはり同じような代物になっていた――ロバートが言ったんだよ。「レディース・アンド・ジェントルメン、ミスター・ジミー・ペイジです」と。そしてそのままそこに突っ立って彼を見ていた。いつものロバートならステージから降りて、ブロー・ジョブをしてもらうのにさ。
ロバート・プラント 何をやっていたのかはさておき、あれはとにかく私にとってはちょっと長過ぎた。それほど良いものじゃなかったと言っているわけじゃないよ。ただあれが始まると私は自分がやるべきことを考え始めなくちゃならなかったんだ。というのも、(ソロに合わせて頭を振るなどのアクションをしていても)しばらくすると、何かのインドの商人みたいに自分の頭をぐらぐら揺らしているただの間抜けみたいに見えてくるからさ。
ロス・ハルフィン 一度、〈幻惑されて〉の途中でロバートがステージ横にやって来て言ったんだ。「あれを見てみなよ。ありゃ単なる長いギター・ソロだ。で、オレに何をしろって言うんだろな?」と。でもその時ピーターが彼に言ったみたいなんだ。「このバンドが誰のものなのかちょっと思い出してみろ。クソッタレのお前のもんじゃないだろ」とね。
(略)
ゲイリー・カーンズ ステージ上の4人全員がまともな時の彼らは無敵だった。でも、4人全員がまともというのはかなり珍しいことだった。プラントが次の曲を紹介しても、ベイジが間違った曲を始めるということも時々あったしね。シカゴでのショーでペイジが冒頭の数曲を終えた途端に座り込んでそのまま気を失ったことがあった(略)あの日のショーはそれで終わりだった。
ヤーン・ユヘルスズキ シカゴのショーを打ち切らなければならなかったのは、ジミーが腹痛に襲われたからだった。でもちょっとしたイライラは至る所にあったわ。人間関係にひびが入りつつあるのが目に見えるようだった。それと、ロバートとジミーの間の緊張関係がだんだん酷くなっていくのもよく分かった。
ベンジー・レフェブル ステージの前の方でアコースティック・セットをやった時、後ろでボンゾがタンバリンを叩きながら(ドラッグの影響で)意識がもうろうとしていたことがあった。彼とジミーは、個人的にもの凄く大きなフラストレーションを感じていたと思う。彼らはなぜ自分たちが以前のようにちゃんと演奏できないのか、理解できていなかったからね。
ジョン・ポール・ジョーンズ テンポがあまりに遅くて、なんとか力づくでそれを速めなければならない夜もあった。それから時々ジミーが変な曲の始め方をすることもあった。
ジミー・ペイジ (ドラッグについては)まったく何も後悔していない。なぜなら本当に集中しなければならない時の私はちゃんと集中していたからね。
(略)
荒れ狂うボンゾ
ジャニーン・セイファー 私がスワン・ソングを辞めた時、彼らはかなり不服そうだったわ。(略)あれはマフィアみたいだった。私はロックパイルやエルヴィス・コステロやスティッフ・レコーズのために仕事がしたかったの。なぜって、あの時はそれがクールだったからよ。私がジェイク・リヴィエラにー――その後にニック・ロウに会ったのは、エドモンズが紹介してくれたからだった。ジェイクは、私の人生で出会った人の中で誰よりも優秀な人間の一人だった。マーケティングの天才で、ヴィジュアルに関してはとてつもない才能に恵まれていた。でもあっという間に、彼の大きく見開いた目のような純真さが、恐ろしくて気持ちの悪い何かに変わるのを目にすることになってね。彼はいつも信じられないくらい攻撃的だった――皮肉にもコールやビンドンのように。私が思うに、エルヴィスが彼をクビにしたはずで、そしてその理由は――これも推測だけれど――彼が耐え難い存在になったからだろうなと思う。
(略)
パメラ・デ・バレス ボンゾはやさしくて、愛くるしくて、間抜けな男だった。ただしそれは酔っぱらうまでの話で、その後は彼を避けるに越したことはなかった。私は彼が私の友人のミシェル・マイヤーのアゴをげんこつで殴るのを見たもの。
(略)
エイブ・ホック ボンゾは人でなしだと、私は思ったよ。(略)彼の内面奥深くに潜んでいる獣が、とにかく反社会的行動を引き起こすんだ。(略)私の父はアル中だったが、アル中患者の近くにいると、何か怖い感じがするんだよね。
スティーヴン・ローゼン(『ギター・プレイヤー』の記者) 最近ボーナムに関して書かれたものはどれも(彼に対し)好意的だよね。でも、実際の彼は醜いろくでなしだったんだ。ゼップと一緒にいた時の私は、彼がいる方向を向くのすら怖かった。みんなはそうした部分はほとんど話さないけどね。
サイモン・カーク 驚いたことに、彼はそれでもちゃんと演奏していたんだ。メンバー間ではそれだけ高いプライドが共有されていたんだ。つまりショーの間に演奏不能になることは、とにかく御法度だった。
(略)
ただし、ギグが終わってからのジョンはすべてにおいて無責任な男になった。(略)ただ大騒ぎするのが好きだったんだ。
(略)
オーブリー・パウエル 最後のアメリカ・ツアーの際、私は何かのアートワークについて検討しようと思って、プラザのボンゾの部屋のドアをノックしたんだ。するとミック・ヒントンが出てきて、「ええとね、今日はそんなに調子が良くないから、気をつけろよ」と言った。実際、ボンゾは人を疑うような目つきで、支離滅裂で、完全に自制心を失っていた。彼がコカインをやっていたのは明らかだった。意識が飛んだかと思うと、また戻って来る、という感じでね。これは真っ昼間の話だったけれど、とにかくまともな会話が成立しなかった。基本的に彼は退屈していたんだね。だから時間をやり過ごすために、彼はヘロインやアルコールに頼ったんだ。
デニス・シーハン ショーとショーの合間の日々にボンゾはもう耐えられなくなっていた。もし彼の手に家に帰るためのジェット機があったらなら、彼はそうしていただろうな。
(略)
グレン・ヒューズ 私とジョンの関係は酷い形で終わりになった。『狂熱のライヴ』のプレミア上映がLAで行われた時(略)私たちは一杯飲んで、ちょっとコカインを吸った。楽しく過ごしていたんだ。ある意味でね。それで私たちはビバリー・ヒルトンに戻り、ジミーと一緒にちょっとコカインを吸った。
(略)
[プレミア上映の]パーティー会場に赴くと、子どもだったジェイソンがドラムを叩いていた。それで私はバーに行ったんだけれど、その時、視界の片隅に5~6メートル先に紛れもなく"ボンゾ・モード"になったボンゾがいたんだ。そしてあろうことか、彼はクマのように飛びかかってきて、私のアゴに一撃を食らわせた。それはかなり酷いケガで、下の歯が1本、大きく欠けてしまった。(略)
外にはロールス・ロイスが6台並んでいてね。ボンゾはそのうちの1台が私用だと思ったみたいで、そのフロントガラスにレンガを投げて粉々にした。私が彼を目にしたのはそれが最後だった。あれについては今でも悲しく思っている。私は彼のことをとにかく愛していたから、酷く胸が痛んだよ。
オークランド事件
[グラントの7歳の息子ウォレンがトレーラーの正面についている標識が欲しいと駄々をこね、ビル・グレアムのセキュリティ・スタッフがそれを取り上げ、ウォレンが倒れ、それを目撃したボンゾが股間にキック]
ジム・マットゾルキス ピーター・グラントはずっと、「(お前は)私の息子にそういう口の利き方はできないはずだぞ」と言い続けていた。
(略)
グラントはとにかく私を殴りまくった。
(略)
ジャック・カームズ 私はあのドアの外側にいたんだ。文字通り、袋だたきになっているかわいそうな彼から1・5メートルくらいのところにね。あの一件が示しているのは、あの時点の私たちがどれほど現実離れした世界に生きていたかということだね。(略)
ミッチェル・フォックス (略)あれはビル・グレアムとバンド(略)との巨人同士の激突だった。要するにすべては、あの時誰が誰の縄張りに足を踏み入れていたのか、という話だったんだ。
サイモン・カーク もちろんあれの根底にはドラッグがあった。Gはいつもはみんなを説得して落ち着かせる役目だったんだけれど、ただし、彼もみんなと同じくらいコカインをやっていたから、平常心を常に保てていたわけじゃなかった。
ジャニーン・セイファー ビンドンがいなくてもオークランド事件は起きていたかって?絶対にそれはないわ。(略)あの一件の責任はすべてビンドンにあると思う。その火を煽ったのがリチャード・コールで、それにピーター・グラントの妄想が拍車をかけたのよ。(略)
ビンドンはケンカがしたくてうずうずしていたし、リチャードもそれは同じだった。(略)ピーターに、「これを受け入れるつもりか?」と言って彼を挑発して、それでドラッグが招いた狂気と妄想にかられた彼は、ほんの1分半の間に、「お前ら、奴をつかまえろ!」となったのよ。
(略)
ピーター・バルソッティ(ビル・グレアムのスタッフ) あそこにいた人間の中で、唯一まともなのはプラントだけのように見えたな。ただし、あの状況には無実の奴なんて一人もいなかった。一人もね。
ロバート・プラント 私は、部下の愚連隊が酷い態度でうろついているという事実にヒヤヒヤしながら、〈天国への階段〉を歌わなければならなかった。あれは二つの暗黒勢力がぶつかって生じた出来事だった。(略)
ジミー・ペイジ 私は現場にいなかった。だから何が起こったのかは知らないんだ。そのことを聞いたのはあの会場を離れてからだった。だから私は知らないんだ。これについては特に話したくもない……。
(略)
ユニティ・マクリーン (略)本来彼らは、「ウォレン、二度とそんなことはするな。(略)」と言うべきだった。でもピーターはウォレンにそうは言わなかった。そしてビンドンとコールが喜ばせたいと思っていたのはピーターだった――ロバートとジミーじゃなくてね。
(略)
ヘレン・グラント あのオークランドの一件のせいで、父とバンドの間にはかなりの悪感情が芽生えてしまったと思う。特にロバートとの間にね。
ジャニーン・セイファー (略)ホテルにはビンドンとコール、それにグラントとボーナムに対する逮捕令状が届いていたの。それで私たちは真夜中にそこから逃げ出したんだけれど、確か誰も訴追はされなかったと思う。スティーヴ・ウェイスが"何か"をやって、それで話が収まったのよ。でもビル・グレアムは絶対に彼らを許さなかった。
プラントに悲劇
[オークランドからニューオリンズに飛び、プラントは息子の死を知る]
ロバート・プラント (略)ある瞬間にニューオリンズにいて、新しい世界の人気者になって、そして何の予告もなく突然一本の電話を受け取ってみればいい。息子が死んでしまった、っていうね。歌う意志をすべて失ってしまわなかったことが、私にとっての幸運だった。(略)
ジャニーン・セイファー (略)ニューオリンズからニューヨークまでの移動には私も(ロバートに)同行した(略)
ジミーとジョン・ポールとピーターがお葬式に行かなかったのは信じ難かった。
リチャード・コール ジョン・ポールとは連絡が取れなかったんだ。(略)ジミーの居場所は誰も知らなかった。
(略)
ニック・ケント ペイジとジョーンズとグラントが葬式に来なかったことにプラントが苛立っていたと聞いたよ。それは、レッド・ツェッペリンはもはや家族ではない、ということを意味していた。
ベンジー・レフェブル ロバートがジミーとGに葬式に来てもらいたいと思っていたとは私は思わない。彼は人生にだまされたように感じていたと私は思うね。(略)
彼は自分たちの頭がおかしくなっている時にツアーに出掛けたことについて、自分自身に腹が立っていた。
マイケル・デ・バレス ジミーとピーターがカラックの葬儀に参列しなかった理由を今になって推測したところで、どこを向いてもヤク中患者だらけだったあの状況を誤解してしまうだけさ。あれは別に愛情や敬意が欠けているとか、そういうこととは何も関係がなかった。
(略)
サイモン・カーク カラックが亡くなった時、私はボンゾの口から奇妙な言葉を聞いた。「クソッタレのジミーとあの魔術のクソめ」とね。まるでジミーがオカルトに手を出していたことが、あの子の死に何か関係があるかのようだった。たぶんあれはボンゾの反射的な反応だったんだろうけれど、でも、悪い宿命の黒い雲が、彼らを覆っているように思えたんだ。(略)
ロバートはあのことから今でも完全には立ち直っていないと私は思う。
(略)
クリス・ウェルチ オークランドやカラックの死といった話題には誰もが近寄り難かった。それについて質問することが怖かったしね。でも私は一度だけ、ジミーに"悪しき宿命"について質問したことがある。そうしたら彼はとにかく神経をピリピリさせながらこう言った。「オレたちは音楽を作る単なるミュージシャンだ」と。
『イン・スルー・ジ・アウト・ドア』
ロバート・プラント レッド・ツェッペリンには2~3度、大きな転換期があった。1970年のあの素晴らしく快活なノリは、すべて神経症みたいな感じに変わってしまっていた。(略)
1977年のツアーが終わったのは私が子どもを亡くしたからだったが、しかし、実際のところ、あのツアーは終わりになる前から終わっていたんだ。とにかくすべてが滅茶苦茶だった。あの時、あらゆる物事の中心になる軸はどこにあったというんだ?(略)
みんながみんなから断絶していて、自分の欲望の世界を広げようとしていた。
(略)
家族のところに戻った時には、ボンゾがいろいろな面で支えてくれた。けれどもメディアがあの件に大挙して群がってきて状況を更に悪化させたために、苦しい思いを強いられてね。(略)
サセックスのフォレスト・ロウにある教員養成大学のルドフル・スタイナー・センターでの仕事に応募したんだ。あの状況から抜け出したくてね。
(略)
その後ボンゾがジンを手にしてやって来て、私をなだめてくれた。何かかなり笑えることをやったりしてね。(略)あれにはとても助けられたよ。そして彼が言ったんだ。「さあやろう。オレたちみんなでクリアウェル・キャッスルに行って、何か書いてみようじゃないか」と。
(略)
ジョン・ポール・ジョーンズ クリアウェルに再び集まった時はちょっと変な感じだったな。私としてはあまり居心地が良くなかった。自分から、「なぜオレたちはこれをやるんだ?」と言ったのを覚えている。私たちは精神的な面でも体調の面でも良い状態じゃなかった。
(略)
ジミー・ペイジ (略)アバがポーラーという名称のスタジオを所有していて、そこをぜひ国際的な知名度のあるバンドに使ってもらいたがっていると聞いたんだ。おまけに彼らは3週間分のスタジオ使用料を無料にすると言ってね。それで私たちはそこ(ストックホルム)に行ったんだけれど、雪が降っていてとんでもなく寒かった。
(略)
ジョン・ポール・ジョーンズ ロバートと私の関係は以前よりも少しだけ近くなっていた。(略)いつもどこかでビールを飲みながら、「オレたちは何をやるんだ?」と話し合っていた。そしてそれが『イン・スルー・ジ・アウト・ドア』へと発展していったんだ。基本的にあのアルバムの曲を書いたのは"私たち"だった――つまり、彼と私の二人だけだったんだ。それから私の手元には真新しい機材もあった――"ドリーム・マシーン"と呼んでいたヤマハGX1がね。あれが私のインスピレーションを刺激してくれたんだ。(略)ボンゾが現れ、そしてジミーが姿を見せた頃にはほぼすべての曲作りを終えていた。
ジミー・ペイジ 『プレゼンス』の時、ジョンジーは実質的に何も(曲や曲のヒントを)思いつけなかった。だから彼に対しては"何か提供してくれよ"という気持ちがあってね。それであの"ドリーム・マシーン"がとにかく彼には刺激となり、そしてそれが幾つかの曲に繋がっていったんだ。
(略)
ロバート・プラント ジョンジーと私はそれまで一度もお互いに引き寄せられたことがなかったのに(略)なぜか気が合い始めていたんだ。ちょっと不思議な感じだったけれど、でもそのお陰ですべての物事がそれまでとは違う感触のものになった。それが〈オール・マイ・ラヴ〉と〈アイム・ゴナ・クロール〉だった。私たちは〈コミュニケイション・ブレイクダウン〉の焼き直しを作るつもりはなかったけれど、でも〈イン・ジ・イヴニング〉はかなり良い出来だと思ったね。
(略)
サム・アイザー もしも彼らが〈オール・マイ・ラヴ〉をシングル発売していたら、ナンバー・ワンを獲得できたはずだった。あの時のラジオでどれよりも頻繁にかかっていたのがあれだったからね。
ロス・ハルフィン 私としては、ジミーは『イン・スルージ・アウト・ドア』を恥ずかしく思っていると思うんだ。彼は〈オール・マイ・ラヴ〉を毛嫌いしていた。でもあれはカラックのことを歌った歌だったから、彼も批判はできなくてね。
ジミー・ペイジ 自分が80年代に今正に足を踏み入れていくような感じがして(『イン・スルー・ジ・アウト・ドア』を聞くと)ちょっとゾッとするんだよね。(略)あれはとにかく身の毛がよだつ時代だった。
(略)
ロバート・プラント ペイジと一緒に書いた〈ウェアリング・アンド・ティアリング〉は大好きだった。私たちはとにかくパンクの連中が言う、「ああした金持ちのクソ野郎たちに何が分かるんだ?」という発言にむかついていたんだ。(略)
私たちはサイコビリーとヘイゼル・アドキンスの精神病的な面については彼らよりもよく知っていた。
ネブワース
デイヴ・ルイス ピーターから言われたんだ。「いいか、もしオレたちがカムバックするんだったら、とにかく何よりもどでかい形でやらなくちゃいけない。もしそれがネブワースだっていうなら、オレたちはネブワースでやるぞ」と。あの年、確かフーがハマースミス・オデオンとレインボーでやったんだ。
(略)
ジョン・ポール・ジョーンズ ロバートはネブワースをやりたがっていなかった。その理由も私には理解できた。でも私たちは本気であれをやりたいと思っていたし、彼も実際にやれば楽しんでくれるだろうと思ったんだ。とにかく私たちが彼をまたライブの場に引き戻すことができれば、とね。
ゲイリー・カーンズ (略)
彼らはデンマークでやる(ウォームアップ・ギグの)ショーをブッキングした際に変名を使ったんだ。ジミー&ザ・ブラックヘッズみたいなとっぴょうしもない名前でね。それで私たちは現地に行って、誰も聞いたことがないバンドのために、大量の機材を会場に運び込んだ。そうしたらいろいろな人が私に近寄ってきて、「このバンドは誰なんだ?」と訊くんだよ。でもスタッフは誰も口を割らなかった。ピーター・グラントの怒りの鉄槌を頭に食らいたくなんかなかったからね。
バンドの面々はナーバスになってちょっとビビってもいた。なぜって、彼らはもうずいぶんと長い間、人前で演奏していなかったからさ。ショーの初日、会場には60~80人くらいしか客がいなかったけれど、全員がとにかく熱狂していた。次の晩のコペンハーゲンでは、もう制御不能だった。
ロバート・プラント ネブワースに向けた準備期間中、私たちはとにかく神経質になっていた。でもまた自分たちが一つに戻れたのは素晴らしかった。
(略)
ベンジー・レフェブル サウンドチェックの際、ボンゾはジェイソンを自分のドラム・キットの後ろに座らせて、それで自分はその音の調子を確かめるためにミキサーがあるタワーにやって来たんだ。彼は私に言ったね。「なんだよこいつは、おい。こんなのは今まで聞いたことがないぞ。素晴らしい音だ」と。それはほとんどのミュージシャンに共通する問題だった。つまり、彼らは自分たちの音をまともに聞いたことがないんだよ。
ロバート・プラント ネブワースの会場が近づいてきた時、初日のショーのためにチケットを買った22万人の人波が目に入ったんだけれど、あれには度肝を抜かされたね。
(略)
ジミー・ペイジ 私には嬉しい気持ちなんてまったくなかった。2回目の週末の時は調子が良くなかったしね。(略)
でも実際のあのイベントは素晴らしかった。ヘリコプターに乗って会場入りする際、あの巨大な人間の波が見えたんだ。息を呑むような光景だったよ。
終焉
フィル・カーソン リチャードは本当に気だての良い奴だった。でも彼はピーターのせいである時点で完全におかしくなってしまったんだ。
リチャード・コール 最終的にピーターを動かして私を追放したのはロバートだ。(略)ペイジーやボンゾを追放するよりは私を追放するほうが簡単だったからね。
(略)
ロバート・プラント リチャード・コールは何年にもわたって――まったくなんの権限も持たせてもらえない立場に置かれていることに、激しいフラストレーションを感じていた。彼はツアー・マネージャーではあったが、問題を抱えていてね。(略)
どんどん頼りなくなっていって、そして悲しいかな、グループの首にぶらさがる重荷になってしまったんだ。
(略)
ベンジー・レフェブル ロバートは無理矢理連れ戻されたんだ。それで彼はバンド活動への参加に同意するための諸々の条件みたいなものを用意してきた。それはたとえば、「とにかく自分たちの曲だけをやろう。オレたちには本当にあの30分のギターソロが必要か?」といった感じのものだった。あれは時代の移り変わりを自覚しよう、という試みだった。それと、"それまでとはちょっと違うやり方でスタートを切る必要がある"、ということをね。あのヨーロッパ・ツアー全体が、果たしてアメリカで上手くいくのかどうかを確認するための一種のテストだったんだ。お互いがお互いに耐えられるのかを試すためのね。
(略)
サム・アイザー 最後のあのツアーは、彼らにとっての転換点だった。彼らは本当に素晴らしいショーをやれるようになっていてね。彼らはギターソロを省き、ドラム・ソロもお払い箱にしていた。演奏時間は2時間で、しかも内容は素晴らしかった。シェリーから聞いたんだけれど、「ピーターがあれは素晴らしかったと言っていた」、らしいよ。
(略)
デニス・シーハン ボンゾは時々ちょっと好戦的になることがあって、そういう時は彼を落ち着かせる必要があった。(略)
ルームサービスはもう終わっていて(略)外に行って、ハンバーガーやフライドポテトを買ってきたんだ。私がそれを手渡すと彼は包み紙がされたままのそれにかぶりついてさ。「ボンゾ、包み紙がそのままだよ!」と私が言うと彼は、「それでもやっぱり上手いぞこれは!」と言ってね。
デイヴ・ルイス 1980年のツアーは時代に無視されたツアーだった。彼らは14日間のショーをやったのにイギリスのメディアにはレビューが1度しか載らなかったんだ。今それを思うと信じられないけどね。あれは20万人が目にしたネブワースの後のツアーだったのにさ。ジミーにはどうすべきか分からなかったし、ピーターもそれは同じで、とにかく彼らはやり続けなければならなかった。自分たちのオーディエンスがそこにいるはずだと、彼らはそう願うしかなかったんだ。
かなりの量のドラッグが行き渡っていたのは私も知っている。でも彼らが下した決断の幾つかが良くなかったんだ。あのヨーロッパ・ツアーはイングランドを避けていた。その理由は、彼らがメディアに対し不安を感じていたからだった。でも彼らならハマースミス・オデオンで5回はやれたはずだし、そうすればオーディエンスを呼び戻すことができていたんだ。
あれは滑り出しが良くて、その後ちょっと落ち込むというおかしなツアーだった。ボーナムはニュルンベルグで倒れたんだけれど、でもその後は少し持ち直したし、彼らの音楽も良かった。あれだったら彼らはアメリカにも行けていたと私は思う。
(略)
ジミー・ペイジ ボーナムと私は次のアルバムをどんな風にするのかを話し合っていた――力強い激しいものにしよう、とね。1980年のツアーではいろいろなことがかなり興味深いことになっていたが、骨の折れるものでもあった。たぶん(あそこで)バンドは解散していたのかもしれない。分からないけれどね。でも分かっていたこともある。それはボーナムと私は絶対にあれ(次回作)をやりたいと話し合っていた、ということだ。
ジョン・ポール・ジョーンズ あれは単にまた一回りしてきたようなものだった。もう一度再生するみたいな感覚があってね。全員がまたあのバンドをちゃんとしたレールの上に戻そうと、懸命にがんばっていた。最低の時期を経験して、その後でまた浮上しつつあったんだ。
(略)
トニー・アイオミ つねに何らかの事故が今か今かと待ち構えているような状態だったんだ。吐いた後にまたコカインを吸って飲み始めるジョンを私は何度か見ていたからね。
(略)
グレン・ヒューズ 最後の頃の彼は本当に酷い飲み方をしていた。彼をとことんまでむしばむ何かがあったんだ。アルコール中毒が彼を破壊したんだね。そのせいで彼は孤独になり、偏った行動へと導かれ、そしてダメになったんだ。彼は不幸だった。どれほどの金を持っていようと、クルマを何台持っていようと関係ないのさ。アル中はその人間を破壊するんだ。あれは酷かった。
フィル・カーロ ツェッペリンは十字路に差し掛かっていたんだと思う。(たとえ続けていても)もう長続きしなかったと思うね。ジミーとボンゾはヘロインをやっていたんだ。(略)ロバートはすでにドラッグを断っていて、そうしていない自分以外の面々に苛立っていた。
(略)
ロバート・プラント 私たちがクルマでリハーサルに向かっている時、(ジョンは)それほど嬉しそうじゃなかった。彼は、「もうドラムを叩くのはうんざりだ。みんなオレよりも上手いんだからさ」と言ってね。(略)
サンバイザーを引きちぎって、それを窓から放り投げたんだ。そして言った。「よし、こうしよう。リハーサルに到着したら、お前がドラムをやる。それでオレが歌う」とね。
(略)
ベンジー・レフェブル ロバートとジョンジーと私はロンドンにあるブレイクス・インに泊まっていた。それで翌朝、ブレイにクルマで向かう道すがら私が、「ジミーの家に寄って、みんな起きているか確認してみるかい?」と言ったんだ。(略)(到着したら)ジミーがうろうろしていてね。「ボンゾは起きてる?」、「いや」、「彼はどこで寝ているんだい?」、「らせん階段の上の部屋だ」と言うので私は、「了解。オレが彼をベッドから引っ張り出してくるよ」と言ったんだ。ジョンジーは私の5~6歩後ろにいた。私たちはその階段を上がっていった。すると、そこに死んでいるボンゾがいた。
(略)
ヤーン・ユヘルスズキ ボンゾの遺体がジミーの邸宅で発見されたことを認めたこと自体、私には驚きだったわ。彼らならそんなことはひた隠しにすると思っていたから。
(略)
ハーヴェイ・リスバーグ ピーターはボーナムの死に本当に心がずたずたになっていた。あの時点での彼が、他のメンバーよりもボーナムに近い存在だったのかどうかは私には分からない。でも彼は絶望的なまでに落ち込んでいたから、(彼は)他のメンバーとは違った関係をボンゾとの間に築いていたんじゃないかと私は思うんだ。
ピーター・グラント たぶん(ボンゾは)私の人生における最高の友だったと思う。そう、確かに私は彼がホテルを破壊するのを目撃したことがある――私もそれを手伝ったんだからね!しかし彼は常にバンドのためを思ってくれていた。そして彼自身の家族のためをね。
(略)
ピーター・グラント 迷う気持ちなんてまったくなかった。これっぽっちもね。グループの面々はジャージー島に行って、そこで決断した。(略)私は、「やれるはずがない」と言ったんだ。(略)"バン!"となってそれで終わりだった。
ロバート・プラント 通りの角に立って、ボンゾと過ごした12~16年間の自分の人生を束にして、その思いを胸に抱きつつ息が詰まるような思いをしながら目には涙を浮かべて、それなのに自分がどっちの道に進むべきなのか分からない、という状況は、とにかくありえないほど奇妙な体験だった。ただし、ほかの諸々のことはさておき、ツェッペリンと共にあった夢のすべてが終わったのだと、それは分かっていた――何の前触れもなくね。
不遇の80年代前半
デジリー・カーク ジミーとピーターは『愛の嵐』を何度も何度も見ていたわ。あの二人はあの映画に出演しているシャーロット・ランプリングに取り憑かれていたの。
(略)
クリス・ウェルチ ジミーが瀬戸際で踏みとどまって戻ってきてくれたことは嬉しかった。ファームはセラピーみたいなものだった―――ただし自分だったなら自分のセラピーの一部としてポール・ロジャースを選んだかどうか、分からないけどね。最大の問題はチケットの売れ行きだった。フィル・カーソンは思ったよりチケットが売れないことに本当にイラついていた。
(略)
コニー・ハムジー (略)
彼が"ロバートと上手くいっていない"と言うので私がその理由を尋ねると、彼は、「ロバートはジョン・ボーナムの死を私のせいにしているからね」と言った。「どうして?」と訊いたら彼は、「なぜなら彼が私の家で死んだからだ」と話していた。ジミーはヘロインはまったくやっていなかった。彼はもうやらないと言っていたわ。彼は既にヘロインで地獄を見ていたのよ。それで私が彼のスイートのベッドに横になったまま単刀直入に、「どうしてあのドラッグに手を出すようになったの?」と訊いたの。彼ははっきりと、キース・リチャーズが彼をそれに向かわせたと言っていたわ。
フィル・カーロ 最初のツアーが半分くらい終わった時点でジミーはヘロインをやめていた。でも彼には飲むべきクスリが他に101種類くらいあった。彼は別のものをやっていたんだ。言うまでもないが24時間彼につきっきりでいると、こっちの頭がおかしくなってくる。
(略)
デイヴ・ルイス ファームの仕事はしんどかった。あの頃は、"ジミーは彼自身の潜在能力に匹敵するプレイができていない"と気付いていただけにね。
(略)
トニー・フランクリン ジミーはファームのセカンド・アルバムが前作より受けが良いわけじゃなかったことに落胆していた私たちみんながそうだった。でもショーのチケットは売り切れていたし、ツアーは順調だったから、それはそれほど私たちに影響はしていなかった。
ジミー・ペイジ あれはとにかく私が"こういう風に続けていきたい"と思っていた形じゃなかったんだ。ポール・ロジャースは近寄り難い男だった。どのバンドよりもここは居心地が良いぞ、というんじゃなかったんだ。特に最後の方はね。
(略)
ジョン・ポール・ジョーンズ 最初のうちは自分が仕事にありつけないなんて思ってもいなかった。レッド・ツェッペリ以前の私はテレビ、ラジオ、映画のすべてに関する仕事をしていたんだからね。だから"まともな仕事を手にしなければならない"といった不安はまったく感じていなかったんだけれど、でも80年代にはそれがなかなか難しかった。
最初に私が"何か仕事をもらってこよう"と決心した時には、誰も私を真剣に受け取ってくれなかった。私は、「いやちょっと待ってくれよ。オレはプロのミュージシャンでありアレンジャーでありプロデューサーだぞ。あんたが想像する以上に多くの人たちとオレは仕事してきたんだ」と思ったね。一度ミッションの仕事をやってからは状況がましになったけれど、でもそれでも当時は厳しかった。ジョン・ハイアットのアルバムをプロデュースしたいと思った時には、レコード会社の人間から、「私たちにはあなたとジョン・ハイアットの関連がまったく想像できません」と言われたのを覚えている。
私はアレンジの仕事が好きなんだけれど、それは(略)短時間でやるもので、しかもそれが本当に楽しく思えるからなんだ。アーティスト側からもらう指示は、大半が私が『オートマチック・フォー・ザ・ピープル』のアレンジを手がけた時のような感じでね。あの時マイケル・スタイプは手書きのちょっとしたメッセージを私にくれたんだけれど、そこには、「私たちはあなたがやっていることを気に入っています。もしも〈エヴリバディ・ハーツ〉の真ん中くらいから入ってくるストリングスをあなたにお願いできたら、素晴らしいのですが」とあった。
デイヴ・ルイス 80年代初期がどんな感じだったのかを話す時は信じられない気分になるね。なぜならライヴ・エイドまではツェッペリンは消えた存在だったんだからさ。彼らのカタログはカーペットの下にしまわれてしまっていた。みんなはデフ・レパードやカルトを追っかけていたんだ。その状況をライヴ・エイドが少しだけ変えてくれて、それでロバートがツェッペリンの曲をやり始めるようになったんだ。80年代中盤になってみると、いつの間にかビースティ・ボーイズが彼らをサンプリングしていて、それでまたそこから人気が戻ってきたんだ。その後、1990年にリマスター盤が発売になった。
ライヴ・エイド
ジョン・ポール・ジョーンズ ライヴ・エイドの時はね、会場入りした時は最高の気分だったんだ。でも私は無理矢理自分にあれをやらせたんだ、実際はね。ああいうことをやる時に私に声がかからなくなったのは、あの時以降だと思う。
ベンジー・レフェブル 私たちはロバートのツアーの真っ最中でね。あれはとにかくすべてがちょっとトチ狂っていた。ジミーは脳みそが混乱していて、そのせいで彼は自分の指に対して出すべき指示を送れなかったんだ。(ジミーは)信じられないくらいナーバスになっていたけれど、でも彼は自分の力を証明したがっていた。
フィル・カーロ (略)
リハーサルの休憩時間の時、ロバートが、「〈天国への階段〉はやりたくない」と宣言したんだ。ジミーは私に言った。「こうなるだろうって、オレには分かっていた。オレたちは今日の午後は最後までこのゲームに付き合わなければいけなんだ。明日の朝になって奴が"やっぱりやる"と言うまでずっとね。これは単なるくだらないゲームなのさ。で、奴はクソッタレの老いほれの尻軽女というわけだ」と。それでライヴ・エイドのクイーンのテレビ中継をロバートの隣に座って見ていたら、彼は、「クソッタレめ!オレたちはあれを上回ってやるぜ」と言ったんだ。
フィル・コリンズ 私は控え室で彼らに合流したんだけれど、まるで自分が新人のような変な気分だった。トニー(・トンプソン)は素晴らしいドラマーだが、ただし、複数のドラマーと一緒に演奏する時にはちょっと自分の態度を考えておかなければならない。一歩引き下がって、自分のエゴをあまり出さないようにしないといけないんだ。
(略)
フィル・カーロ あれは最悪だった。フィルが演奏に参加したんだけれど、でも〈天国への階段〉の時には彼のマイクを全部オフにしなければならなかった。なぜって、彼はあの曲を演奏できなかったんだ。事前に彼にはテープを渡してあって、私たちが何をするのか伝えてあったのにさ。彼は、「謝るよ。君たちの曲がどれほど複雑なのか分かっていなかった」と言った。
ロバート・プラント あまりに自分たちの音が酷くて、そのせいですべてを文字通りぶち壊してしまったんだ。私の声はしわがれていてまともに歌えなかったし、ペイジのギターはチューニングが狂っていて、しかも自分のギターの音が聞こえなかったんだ。でもその一方であれは驚愕の状況でもあった。というのも、またしてもかすかな望みがありがたくない方向に行ってしまったわけでね――数多くのレッド・ツェッペリンのギグとまるで同じようだったんだ。ジョンジーはまるで死んでるみたいにその場に静かに佇むだけだったし、二人のドラマーはそれ(再結成なんて無理なんだということ)を証明していた……、まあ、つまりはさ、だからこそレッド・ツェッペリンを続けなかったんだ。あの規模の観客から感じる興奮がどんな感じなのか、私は完全に忘れていたしね。
フィル・カーソン ライヴ・エイドの後、ミードウランズでロバート・プラントのショーをやったんだ――チケットは完売だった。それでそのショーに私がジミー・ペイジとポール・シェイファーとブライアン・セッツァーを招待してね。ジミーがステージに登場した時には、会場の天井が落っこちるかと思うほどのもの凄い歓声だった。ホテルへ戻る際のロバートはちょっと不機嫌だった。彼は、「ジミーがステージに上がるといつもああなのか?」と言った。それで私は、「いや、ああなるのは彼が君と一緒にステージに立つ時だけだよ」と答えた。
(略)
ジミー・ペイジ [1988年のアトランティック創立40周年記念]パーティーでは、あまり触れられたくないことがたくさんあったな。ジョンジーと私はジェイソンと一緒にリハーサルしたんだけれど、それ自体はかなり良い感じだったんだ。私たちは演奏曲目についても同意していたのに、最後の瞬間になって……、ロパートが〈天国への階段〉をやらないと決め込んでしまってね。それで文字通り最後の瞬間まで混乱が続いて、辛らつな言葉の応酬が続いてしまって、それが私をかなり動揺させた。本当にね。
ピーター・グラント (ライヴ・エイドは)かなり酷い出来だった(略)とはいえ、アトランティックの記念ライヴに比べれば、全然ましだった。
再編劇、『ノー・クォーター』から排除されたジョンジー
ジミー・ペイジ レッド・ツェッペリン用の曲を書いていた時は、どんな手法を使うべきか、正確に分かっていたし、頭の中にあるロバートの声を前提にして書いていた。『アウトライダー」が少々不安定だったのはそういう部分だったのかもな、と思う。
ジョン・カロドナー (略)ジミーは本気でツェッペリンを再結成したかったんだ。でもそれが実現できなかった時、彼は自分の中にツェッペリンの曲をアメリカのキッズのために演奏するツアーをしたいという衝動があることに気づいたんだ。(ジミーとカヴァーデイルは)3月末にニューヨークで会い、すぐに意気投合できたので、そのままレノに行って曲を書き始めた。
(略)
まず言えるのは、デヴィッド・カヴァーデイルはロバート・プラントを更に良くしたシンガーだということだ。レッド・ツェッペリンの曲を歌うデヴィッドを一度聞けば、もう議論は無用だろう。
(略)
ガイ・プラット (略)
カヴァーデイルは機会があればいつでもプランティを口撃していた。(略)
彼とジミーはかなり波長が合っていた。私たちがホワイトスネイクの曲を覚えなくちゃいけない時も、ジミーの音を拾う能力は素晴らしかったよ。もちろん私は、彼がかつて究極のセッションマンだったことを忘れていたわけだけど。そういうスキルはすべて血肉となって彼に完全に同化していたんだ。
デヴィッド・ベイツ ジミーはファームとカヴァーデイルと『アウトライダー』(略)を試したわけだけれど、何一つ上手くいかなかった。彼には、シンガーが必要なんだとはっきりと分かっていた。しかもブルース・ロックを歌える声を持っているシンガーがね。でも、ロバートの後に一体誰を持ってこれると思う?
(略)
ビル・カービシュリーが言ったんだ。「ロバートとジミーをもう一度組ませるというアイディアをどう思う?」と。
(略)
ジョン・ポールの名前は挙がったかって?ビルと私の考え方としては、「一度につき一つずつ取り組んでいこう」という感じだったと思う。単にロバートからジミーに話してもらうことだけでも、大きな障害だったしね。
(略)
ロバート・プラント 自分がジミーを恋しく思っていることに気付いたんだ。彼の演奏をね。でも私はなんらかの形で"どんな形であれレッド・ツェッペリン再結成には何もかかわらない"という自分自身のこだわりに言い訳を見つけなければならなかった。そのこだわりは実際のところかなり偽善的でもあったけどね。なぜなら私は自分のバンドでツェッペリンの曲をやっていたんだからさ。
(略)
避けるべきは、自分たちが間違った人間の手に落ちて好き勝手に扱われて、結局は、なんというか、やけに生き生きとしたピンク・フロイドみたいになってしまうことだった。(略)
何かを回顧する目的のための単なるお遊びなんてご免だったんだ。
グリン・ジョンズ 90年代のペイジとプラントによるジョン・ポールの扱い方は恥ずべきものだったし、気分が悪くなった。股間を蹴り上げられるのは、いつだって一番良い奴なんだよな。それでも彼は十分に幸せだとは思うけどさ。
ジョン・ポール・ジョーンズ なぜ彼らがあれをやったのか、私には今でもよく分からないんだ。ある時どこかのジャーナリストから、「『ノー・クォーター』をどう思いますか?」(略)と質問されたのを覚えている。それで私は、「あれは私が書いた曲の中で最高の出来映えの一つだと、ずっと思っていたんだけど」と答えた。
ベンジー・レフェブル "アンレデッド"のプロジェクトにジョンジーが参加しなかった件は、たぶんロバートには何も関係がなかったと思う。あれはすべてをコントロールしたがるジミーによるものだったはずだ。
バネッサ・ギルバート あの一連の出来事の後、私がジミーやロバートに会うと必ず最初に彼らの口から、「ジョン・ポールから何か聞いてるか?」という言葉が出てきた。私も、なぜ二人は彼を除け者にしたんだろうと思ったわ。あれは単なる"エゴ"と"恐れ"だったんでしょうね。彼を相手にしないほうが話が簡単だ、っていう。
(略)
ジョン・ポール・ジョーンズ(ロックンロールの殿堂の殿堂入り記念式典にて) 自分一人でサウンドチェックをやったのを覚えている。そこには他のメンバーの影すらなかった。だからそういう部分については、たいして何も変わっていなかった。ジェイソンがドラムを叩くことに関しては、またしても一部からちょっとばかりうるさい声が聞こえていた。すべてはピーター・グラントのせいだと私は思っている。
温和になったピーター・グラント
エド・ビックネル みんなからよく、「どうやったらピーター・グラントと友人でいられるんだい?」と訊かれるんだけどね、私はいつも、「ああ、私が知っている彼は、私が何かで読んだ彼じゃないんだよ」と答えるんだ。
(略)
彼はボ・ディドリーやリトル・リチャード絡みのとびきりの話をしてくれた。恐らくそれは、彼らの方が実際のところレッド・ツェッペリンの面々よりも人間として大きかったからだろうな。
ピーターは近所では"温和な人"として認識されるようになっていた。
(略)
毎日イーストボーンの海岸沿いを散歩していた。「60歳の誕生日までに~キロまで落とすんだ」と言ってね。彼は孫たちの存在をとても喜んでいた。
(略)
アーメット・アーティガン 彼が私のホテルの部屋に会いに来たんだ。その姿を目にした時は、それが"あの彼"だとは信じられなかった。110キロ以上は落としていたはずだ。仕立ての良いスーツにカッコいいネクタイをしていて……、まるで銀行マンのようだったよ。彼は完全な別人になっていたけれど、ただし、あのキラキラする目ととても温かみのある笑顔は相変わらずだった。
エド・ビックネル 彼は、ロード・ジョン・グールドという男と一緒に結婚式用のクルマを手配する仕事をしていたんだ。帽子と制服で身を包んだ彼が(略)教会まで新婚カップルを連れて行って、その後またイーストボーンにあるグランドホテルに彼らを送り届けるんだ。
ロード・ジョン・グールド (略)カップルが結婚式をあげている間、私たちはサンドイッチをぱくつきながら外で座って待っていて、その後彼らをクルマで送ったんだ。それぞれが現金で30ポンドもらった。その時ピーターが彼独特の言い回しでこう言ったのを覚えている。「ああ、クソったれめ、ジョン、数年ぶりに手にした現金だよ……いいもんだな!」とね。
エド・ビックネル ある晩、彼が、「イーストボーンの桟橋で行われる芸能コンテストの審査員をやってくれと頼まれたんだけれど、お前も一緒にやらないか」と言ってきたんだ。それでその2週間後、(元)レッド・ツェッペリンとダイアー・ストレイツのマネージャーが、桟橋の端っこでどうしようもない酷いバンド連中の審査員を務めたってわけだ。
(略)
サイモン・カーク 彼に最後に会ったのは1994年のバッド・カンパニーのショーでだった。(略)[ホテルに戻って]クラブ・ソーダをちびちびやりながらお互いと昔話をしたんだ。私は(最後に)涙目になりながら彼を抱擁し、そして大好きだったと伝えて、上の階に上がっていった。それっきり、彼と再び会うことはなかった。彼は私が一緒に仕事をした中で最高のマネージャーだった。
ロバート・プラント 最後にピーターと会ったのは1995年、ロンドンのウェンブリー・アリーナのバックステージでだったな。彼は優しくて温かくて弱々しい男になっていたけれど、とにかく素晴らしい思い出を幾つも甦らせてくれた。70年代の終わり頃に私が目にしていた男とは別人だったね。彼はクリーンだったし、思考も明晰だった。彼は自分の手で大きな山を幾つも動かしたことを知っていた。アーティストたちのために、自分の手で世界を変えたことをね。
スティーヴ・アルビニ
ジミー・ペイジ オーガニックな演奏をするバンドにとって最大の問題はそれを録音する人間を見つけてくることなんだ。私たちにはスティーヴ・アルビニがいて幸運だった。というのも、彼はマイクを使う際のEQの方法を本当によく理解していたからね。録音のための古いテクニックをさ。それと、アビイ・ロードのあの素晴らしいスタジオで仕事をするのは最高だったな。
スティーヴ・アルビニ 『ウォーキング・イントゥ・クラークスデイル』でのジミーとロバートは、恐らくレッド・ツェッペリン時代以上にお互いと協力し合っていたと思う。ツェッペリンはジミーのバンドだったし、彼がロバートをシンガーとして雇った形だった。でもその後、ここまで来る間にロバートはソロとしてかなりの成功を収めてきたわけでね。ジミーはその実績を尊重していたんだと私は思う。そして今度は仲間として、同僚としてのロバートと彼は仕事をしていたんだ。唯一の作者として、あのレコードの責任を一人で負うんじゃなくてね。
二人とも無益なツェッペリンの亡霊を呼び覚まさないよう、かなり意識していたね。でもあれは彼らがかなり自然な形で導き出した共同体験だったんだ。それにしても、ジミーの趣味の幅がとてつもなく広くてね。彼はいつもプロディジーの溢れ出すような攻撃性とアドレナリンがどれほど気に入っているのかを話していた。