権力と孤独――演出家 蜷川幸雄の時代

権力と孤独――演出家 蜷川幸雄の時代

権力と孤独――演出家 蜷川幸雄の時代

  • 作者:長谷部 浩
  • 発売日: 2017/04/22
  • メディア: 単行本
 

唐十郎のもたらした絶望

 独創的な文体と発想を持つ唐十郎の登場は、当時、新劇の養成所出身の若手俳優の憧憬を集めるとともに、ある種の絶望をもたらした。一九四一年生まれで、蜷川と六歳違いの橋爪功は、アングラ演劇が台頭してきた六十年代後半から七十年代にかけての若手の気持ちをこう語っている。橋爪は文学座の分裂によって、芥川比呂志らの「雲」へと移っていた。
 「気がついたら演劇の主流はあっちへいっちゃったんです。多少いろいろな役はつくようになったけど、じゃあ、おれの徒弟制度に苦しめられたこの十年間の汗と涙は、いったいだれが報いてくれるんだと思った。おっと思ったら、客はそのまま行きすぎて花園神社にいっちゃった。

旗揚げ時の恐怖

 渋谷の桜丘に新しい稽古場を借りた。駐車場の上の、鉄骨がむき出しのガランとした稽古場だった。現代人劇場のメンバー十六人全員が集まって拭き掃除をした。当時、七十円だったラーメンをとって引っ越しソバの代わりにした。(略)
俳優から演出家へ。意欲あふれる転身に見えるが、内心は恐怖に震えていたと続けて語っている。
「これまで劇団の研究生だったのが初めて劇団員として自分たちの城を持ったもんだから、実に嬉しそうな顔をして食ってるんだよね。ところが俺の方は、演出家の才能があるかどうかもわからない。ましてや飾るべき学歴も、演劇的な経験もないわけだから、支えとしているものは、カンでしかないでしょう。だから、みんなの無心で喜んでいる姿見ているうちに、急に自分に対して不安になっちゃったのね。そうしたらラーメンが喉を通らなくなったの。それ以来、ラーメンを胃が受けつけなくなってしまった」(略)
これから生涯続く孤独のはじまりだった。

近松心中物語』

近松心中物語』は、それほど好きな戯曲じゃないんですよ」(略)
[ヒット作への]言葉は苛烈である。(略)
 「もちろん秋元さんの『常陸海尊』は、高度成長期以前の貧しかった日本を、きちっと書いたいい戯曲だと思っています。民俗的な伝承の中で、海尊が生き残っていく背景には、貧困とか飢えがある。飢えといっても、神を求めるように救済を叫ぶ民衆の魂の飢えも含めてのことです。
 それと比べると、『近松』は単なるセンチメンタルなラブストーリーに思えてしまう。初演はともかく、今は、スターを使った商業演劇に寄り添う舞台になってしまったと思っています。ただ、僕は、小劇場をはじかれた人間ですからね。初演当時は、「商業演劇でやることがなぜ悪いんだ」と、逆の居直りをしていたわけだから、それなりの野心はあったわけです。(略)
 ただ、舞台がなまじきれいに、しかもおもしろくできてしまったために、『近松心中物語』に似た照明や、花道の使い方をする商業演劇が増えてきて、もう少しで潰れそうだった商業演劇が生き返る手助けをしてしまった。もっとも、僕は、結局商業演劇には敗れたと思っているんですよね。「何にもやれなかった、何にも変えられなかった」と後悔しています。日本だけですよ、劇場でマイク使っている芝居を演劇だといっているのは」(『演出術』)

「人生いいときは三回ぐらいしかない」

 大劇場で蜷川は成功を収めた。しかし演出手法自体が陳腐化していくのはまぬがれなかった。演出家は、演劇的に何か新しい表現を探そうと模索していく。その結果、失敗が続くとよい劇場を押さえられなくなり、次第によい配役が組めなくなっていく。悪循環を断つのはそう容易ではなかった。(略)
「自分の作品がよくないとき、誰にも言えない」(略)
 それは[一人で]抱え込まなきゃ、やむをえないですね。だけど何が辛いって、集団を引っ張っているでしょう。みんなにいいって言い続けなければ、千秋楽まで行けないでしょう。演出家が逃げちゃっている舞台で、俳優は突撃できないですよね。自分で、「行こう、行こう、行け」「いいんだ、楽しいんだ」って言い続けなければいけないんだけど、実際には「俺の作品はよくないな」とわかっている。必ずしもすべてがいいとは思っていないのに、言葉には出せないから鬱屈するんですよね。それは一人で抱えなきゃいけないんだよな。(略)
 でも、人生に三回ぐらいしか、いいときってないんです。それは、もう本当に、よくわかった。自分を守るものは作品のあがりしかない。お客さんの入りがいいから作品がいいってわけじゃないし、入りが悪いから作品が悪いっていうわけじゃない。劇評が悪いからといって本当に悪くもないし、誉められているからってそんなに優れているものじゃない。そこのところの自分の保持の仕方、厳しいというのともちょっと違うんだけど、自分に対してフェアであり続けるっていうのは難しいんですよ(『演出術』)

演出術 (ちくま文庫)

演出術 (ちくま文庫)

『夏の夜の夢』1994年春

 銀座セゾン劇場は、一九八七年、開場するにあたって、すでに世界的な巨匠としての地位を確立していた演出家ピーター・ブルックの『カルメンの悲劇』を招聘した。演出家の要請によって、いったん完成した客席をすべて取り払って、スタジアム状のベンチシートとし、舞台も土を敷き詰めた改造を行った歴史があった。この例があったためか、期間を隔てた九四年、このブルックとヨーロッパで声望の高い山海塾天児牛大、そして蜷川の三者が、またしても劇場を改造して連続上演を行う企画が持ち上がっていた。ところが、ブルックの来日が困難になったために、この企画自体がなくなった。ブルックが来ないのであれば、改造はしないというのである。(略)白石加代子はセゾンでなくても出ますといってくれた。意地になった蜷川は、それならばベニサン・ピットで自主的に上演しようと決意した。蜷川とそのマネージャ、舞プロモーションの小川富子が制作資金を出した。まさしく背水の陣として生まれた舞台である。
 当時の蜷川は、作品的にも精神的にも、そして経済的にも追い詰められていた。「なにしろ食えなかった」と率直な本音をもらし、本人としては不本意で、のちに経歴から消したいとまで言ったミュージカル『魔女の宅急便』を青山劇場で上演したのは、九三年である。
 「当時「自分の演劇の場が狭められてきたな」「いい作品を作り続けていないと、場がなくなっていくな」と危機感を感じていました。僕は下から這い上がってきているから、それも当然だと一方では思うわけです。商品価値がない者に場がなくなっていくのは当然のことです。だからそれは受け入れる。どこかで自分の手でやればいいだけの話だと思っています。『夏の夜の夢』をやったときは、落ち目の破れかぶれという感じだったかな」(「演出術』)

野田秀樹批判

[著者が40枚を費やした野田の劇評の末尾で蜷川についてふれた]
 原稿用紙一枚にも満たない付記で片付けられては、怒るのも当然だろう。けれど、蜷川は直接的には私に抗議したりはしなかった。そのかわりに『演出術』のインタビューの折に、野田の演劇に対して、冷ややかにそして痛烈に批判したのである。たとえば、こうである。
 「野田はワークショップに頼りすぎだと思いますね。俳優にだって、ワークショップに来る人種と、絶対に来ない人種があると思うんですよ。僕にいわせりゃあ、ワークショップには、相当な恥知らずじゃないと行けないですよ。そうなると来ない俳優は使えないでしょう」(『演出術』)
 大変な剣幕である。しかも、さらに野田の盟友、英国の演出家サイモン・マクバーニーを例にあげて批判を続けている。
 「サイモン・マクバーニーのワークショップは、多分もっとはるかにノイジーでしょう。舞台を見ればわかりますよ、さすらいの民のばりばりの一軍が舞台に上がっている、さまざまな人生の実りがくっついて出てきて、俳優が暗闇に立つと、放浪する人々の匂いが立つじゃないですか。野田の舞台にその匂いがあるかっていうと、それはないですよ。マクバーニーは世界性を持つけれども、野田の今のやり方だったら世界性を持たない。そこに、俺は苛立っているわけです。大人になれっていう言い方じゃなくて、もっと違う感性を平気で取り入れなきゃだめだ。「難敵と一緒に仕事しろ、仲間内で酒飲むな」って言っているわけです。交友関係にあまり信頼を置かない方が、僕はいいと思うんだけどな。いずれ野田は年に何本も書けなくなってくるでしょう。時代の変遷を経験していかなければいけなくなってくる。年齢と、世界を捕まえることがどれだけ困難であるかを考えていくと、そのときに自己解体を恐れない姿勢が、ものすごく大事なことになってくる。「ぼろぼろになったって、失う物は失ったっていいじゃないか」と言いたい。そういう果敢な冒険をやったらいいんです」(『演出術』)
(略)
 「演技スタイルの根拠が、野田さん自身の俳優としての身体にあることも、そこには関わっているのでしょうか」とする私の質問に対して、蜷川は野田の演技批判にまで進み、こう締めくくっている。
 「たとえば、俳優が担っている、人間固有の表現が、野田の芝居のなかでは許容されていないように僕には見える。AがやってもBがやっても本当に差異があるんだろうか? それからあの演技には、人間が老いていくことの厳しさが、組み込まれていないと思うんです。
 野田がね、前近代的な匂いを持つ何かから逃れたい、心理主義の罠にはまっていった新劇から遠くありたいっていう考えは十分わかりますよ。でもね、野田の詩的な言葉は僕も好きだけれど、好きだからといって、ただそれだけが目立ってしまうのは嫌なんです。だから、俺は『パンドラの鐘』で、台詞を汚すような演出をしたかったんですよ、詩的な美しい言葉は、汚い現実のなかから立ち上がってくるところに価値があるんです」(『演出術』)
(略)
 この稿がほぼ出来上がった頃、別の用事で野田秀樹と会う機会があった。蜷川について話を向けると、笑顔で応えた。
 「「おまえには嫉妬する」っていってくれたのは嬉しかったですね。なにしろ、蜷川さんは、十六歳で『ぼくらが非情の大河をくだる時』を観てからのスターですからね。
 『TABOO』の頃だったかな、作品としての評価は高くなかったけれど、蜷川さんがもの凄い舞台だといってくれました」
 蜷川は極度の照れ屋だったから、心のなかでそう思っていても、直接本人に賞賛の言葉を捧げたのは、きわめてめずらしい。

海辺のカフカ』2012年春

今、考えているのは、ガラスにみえるアクリル板を四枚使って、その組み合わせを装置にしようかということです。図書館もサービスエリアの休憩室もナカタとジョニー・ウォーカーがしゃべっている書斎も、すべてアクリルのボックスのなかに入っている。ガラスの向こう側にあるひんやりとした空間に収めていきたい。
 それには、『風の歌を聴け』をはじめて単行本で読んだときの印象が作用しているかもしれません。『なんて新しい小説だろう』と驚くと同時に、神戸だなんてまったく思わずに外国の話だとばかり思い込んだのが第一印象だったんです。人にとってものすごく大切な話を、大仰にならずに、ひそやかに描いた。そのひそやかに描かれている繊細なものに、憧れるんですね。
 僕の演出には、大きく分けて二つの傾向があります。シェイクスピアが暴力的で権力と腐敗に満ちた世界だとすると、その反動で世界を繊細に、しかも微細に見つめるチェーホフに逃げ込みたくなる。僕にとっては、村上さんの世界は、微細に世界と対峙する体験です。神話的な世界の奥の奥にあるひそやかな空気とその肌合いと怖ろしさと。ほっとそこで息をつきたくなる。静かな叫び声をキャッチする精神の動きが、懐かしいレコードを聴いているような気分にさせるんです」
(略)
 「[1994年のローリー・アンダーソン来日公演]その劇場の中の通路で偶然、はじめて村上さんとお会いしたんです。そのときに『蜷川さん、僕、ギリシャで蜷川さんの芝居を観ているんですよ』といわれて驚きました。確かめたら、八三年にアテネのリュカベットスという聳え立つ岩山のてっぺんにある野外劇場で上演した『王女メディア』でした。『アジアの辺境のやつがやるギリシャ悲劇なんてたいしたことないだろう』と思われたんでしょうけれど、半分くらいしか観客がいませんでした。翌年は六千人の観客が集まってくれて古代劇場で上演できたのですが、そのときは淋しいものでした。日本で疎外されて、心配されながら外国へ行って、少しずつ面白がられた。その舞台を観られていると思うと、これも何かの縁だなあと思いました」
(略)
 俳優の演技を鍛え上げるテキストとしては、村上さんのテキストって最高なんですね。俳優はリアルであることを大切にして、ディテールを描くことが出来なければいけないんです。また、なおかつリアルなだけでもいけない。観念的なものを俳優が操作しないと表現できない世界があります。世界と対峙するときに、俳優が技術として持っていなければいけない要素がさりげない形で入っている。テネシー・ウィリアムズの短編にもそういうディテールを要求するものがあって、ちょっと似ている。村上さんの小説をヒントに、フライパンで野菜炒めを作っているシーンを作ったり、スクーターにのってハンバーグをかっぱらいにいく場面を作ったりしたこともあります。演劇には匂いや肉体の勣きの記憶を組織する力があるので、そこだけ抜き出しても、おもしろく見えることがあるんです」
(略)
 「四国の森を描くときも、巨大な透明のアクリル板のボックスのなかに樹木が茂っているイメージが、今、僕のなかにあります。観念的な意味を持たせた森に、現代的な空気を持ち込んでいく。モダンジャズの即興演奏と同じように、感覚だけ研ぎ澄まして、さあ行くぞと演出していくのが村上さんの本に対する正しいやり方なんじゃないでしょうか。神経をうまく張り巡らせて、瞬間で決定していく。そのためには、無駄だってわかっていても四国の森を見に行きたい、行かなきゃダメかなって思っています(略)
時々ねえ、村上さんって演劇をよく知っているなあって思うことがあるんです。今なにがいやだって、村上さんに芝居を観られる日がいちばんいやだね。稽古場なんか来てほしくない。初日も会いたくないね。できたら村上さんに(本番の舞台を)観てほしくない。俺、気が弱いんだよ、そういうとこ」