ブルース・スプリングスティーン自伝・その4

前回の続き。下巻に突入。

『闇に吠える街』のジャケット

「ビコーズ・ザ・ナイト」を共作した縁で、おれはパティ・スミスと知り合いになっていた。〈ボトムライン〉での公演中に訪ねていくと、サウスジャージー在住の写真家の名前を教えてくれた。「この人に写真を撮らせるべきよ」ある冬の日の午後、おれは南に車を走らせ、ニュージャージー州ハドンフィールドに行き、フランク・ステファンコと会った。フランクは、音楽活動を始めたころのパティの写真を撮っていた。地元の食肉加工工場で働きながら、空いた時間に写真の仕事をつづけていた。フランクはぞんざいだが、おおらかな男だった。たしかおれの記憶では、カメラをその日だけ借り、隣の十代の少年を呼び出して照明をひとつ持たせ、撮影を始めた。おれはフランク夫婦の寝室の花柄の壁紙を背にして立ち、カメラをまっすぐに見て、とっておきの“悩める若者”の顔をしてみせ、あとはフランクに任せた。そのうちの一枚が『闇に吠える街』のジャケットになった。

闇に吠える街(REMASTER)

闇に吠える街(REMASTER)

おれは休んでいると、安らげない

 ロード離れると、人生は難しくなる。ショーがもたらす夜ごとのアドレナリンが放出されなくなると、手持無沙汰になり、内心でつねにくすぶっていたことが頭をもたげる。(略)
やがて気づいた。おれは休んでいると、安らげない。安らぐためには、休んではいけないのだ。
(略)
1980年のおれには、家庭というのはぞっとする、強制的なものだった。(略)
 『闇に吠える街』の収録曲ではそういう生活を、暗く、重苦しく、耐え忍ぶ世界として描いた。奪いもするが、あたえもする世界として。“工場のせいで耳が悪くなるが、工場のおかげで生きていける”という世界。それがおれは怖かった。基準にできるのは親父の体験だけで、家庭生活に安らぎを覚える男を身近に知らなかった。自分以外の人間のために、すべてを包みこむ愛のために、重荷と責任を負う自信がなかった。
 これまでに経験したつきあいや愛から、おれはそういうふうにできていないのがわかった。家庭生活にまったくなじめず、ひどく放将になった。それどころか、恥じてはいるが受け入れてもいる自分の中の根深い怒りが、むきだしになってしまった。それは夜ごとにキッチンで寝ずの番をしていた親父の休火山のような沈黙そのもの、血に煙る怒りをおおう静けさそのものだった。(略)
非の打ちどころのない美女たちをさんざん、それも手荒に失望させてきた。その巨大な“無”を長いこと抱きかかえてきて、それが気に入っていた。(略)
人を必要としすぎると痛い目をみるかもしれない、受け身にまわったほうがいいと考えたのだ。(略)
どんな関係も、二年もすればかならずだめになるのだ。こっちが去るか。相手が去るか。(略)
かわいいガールフレンドは大勢いた。その娘たちのことは好きだったし、向こうもおれのことが本当に好きだった。原因は彼女たちの暗示するもの、家庭の重荷を負った生活だった。
(略)
いるなら、あの時間を超越した世界が広がる頭の中……スタジオの中のほうがいい!でなければ、ステージのほうが。そこではおれが時間を支配する。伸ばしたり、縮めたり、進めたり、戻したり、速めたり、遅くしたり。おれが肩をひょいと動かし、スネアのビートが変わるだけで。

『ザ・リバー』

 『ザ・リバー』は、愛と結婚と家族が恐る恐る舞台の中央に出てくる初めてのアルバムになる予定だった。
(略)
 『闇に吠える街』のサウンドはきっちりと統制が取れていたので、今度のアルバムにはライブを再現したようなざらつきや、のびのびした感じを持たせたかった。サウンドにもっとゴミを入れたかった。
(略)
 1979年当時、音楽制作の価値基準はまだ、70年代後半の主流である南カリフォルニアサウンドの影響が大きかった。その技法の特徴は、楽器どうしの音をやたらと分離させること、しばしば細部にいやというほど注意を払うこと、エコーをほとんどかけないか、部屋の反響だけにすることだ。当時、ほとんどのスタジオには敷物が敷きつめられ、エンジニアはそれぞれの楽器を最大限にコントロールできた。
 イーグルスリンダ・ロンシュタットなど、多くのグループがそうしたサウンドで大きな成功を収めていて、それなりの長所もあったが、おれたちの東海岸の感性には合わなかった。ルームマイクで録音して、ドラムスが炸裂し(エルヴィスの「ハウンド・ドッグ」のスネアの音がおれの理想だ)、シンバルが鳴り響き、楽器の音がたがいにまざり合い、騒がしいホームパーティーから喧嘩が始まったような歌声が欲しかった。あまりコントロールされていないサウンドが。
 それはおれの好きな初期のロックンロールの録音方法だ。バンドと部屋の両方にマイクをつける。するとバンドと部屋の両方の音が聞こえる。(略)スタジオの空間が、“あのサウンド”を求めるミュージシャンたちのまとまりのなさや、現実感、たがいの邪魔にならざるをえない一体感をもたらすのだ。
 それは『闇に吠える街』のレコーディングの終盤でたまたま気づいたことだった。〈レコード・プラント〉は改築のためにAスタジオの内装をはがしていた。(略)壁のコンクリートがむきだしになっていた。これだ!ドラムスのこの残響、この攻撃性こそ、ひたすら“スティーーーーーーック”と連呼していたころに探し求めていたものだ。〈パワー・ステーション〉では、できるかぎり部屋鳴りをとらえられるようにと、マイクをバンドの上に高くセットした。
(略)
“コンセプト・アルバム”と呼ばれるほどには一事にこだわらないアルバムを作りたかった。自分の声から生まれるもの、経験が心の内外に描いてきた地図に記されているものだけを作りたかった。いったん提出した一枚ものの『ザ・リバー』は、そこまで達していなかったので、おれたちはまたスタジオに戻った。
 ニューヨーク・シティのホテルの部屋からセントラルパーク・サウスの四季の移り変わりをながめながら、また一年が過ぎた。
(略)
レコーディングの予算を使い切ってしまうと、今度はフランシス・フォード・コッポラ式に、貯金箱を壊して有り金を注ぎ込んだ。おかげで文無しになったが、いい曲をたくさん録音できた。
(略)
 家庭と血と結婚に対する責任が自分の人生のどこに収まるのか理解しようとするうち、ついにそれらがアルバムを貫いた。おれのレコードはつねに、自分の心をどこに置けばいいのか理解しようとする人間のサウンドだ。おれはひとつの人生を思い描き、それを服みたいに試着して、似合うかどうか確かめる。他人の靴をはき、日のあたる道と暗い道を歩かされるが、それをそのまま自分の人生にはしたくないかもしれない。それは光と闇に片足ずつ置いたまま、明日を追いかけるようなものだから。
(略)
コロムビア〉と契約してほぼ10年、ミリオンセラーのアルバムが数枚あり、大規模なツアーもやったというのに、おれのものになった金はたった2万ドルだった。時間切れだ。少し金を稼がないと。

自制心の鬼

[プレイメイトから〈プレイボーイ・マンション〉に誘われたけど断った話をすると、みんなから「正気かよ」と言われる]
度が過ぎた自制心のせいで、ささやかな楽しみも自分で制限してしまった。おれのDNAの残念な部分だ。労働?シャベルを渡されたらせっせと穴を掘って、朝日が昇る前に中国までたどりついているさ。それが自制心の鬼の長所だ。願望を叶えるエネルギーが無尽蔵に湧き出し、周波数がぴたりと合えば、大きな力になる。それがおれにはいいのだ。観客がぞろぞろと会場にはいってくるとき、友よ、おまえは、もうへとへとになっている。ロールスロイスに飛び乗って〈プレイボーイ・マンション〉に行き、ドクター・リアリーや、ヒュー・ヘフナーや、ミス六月や、ミス七月やミス八月と夜更けにLSDをやって、ばか騒ぎをしていたからだ。そのときおれは、血のように赤い月の下で穴を掘っている。だが、朝になったら、その穴はもう掘り終わっている!………そしておれは、赤ん坊のように眠っている。困った赤ん坊ではあるが、すやすやと。

ヒッツヴィル

ヒットが出た。大ヒットだ。「ハングリー・ハート」はトップ10にはいり、アルバムの売り上げが倍増して、ライブに……女性が増えた。うれしい驚きだ。それまでは熱烈な若い男性ファンがライブの観客のかなりの割合を占めていた
(略)
 自分のバンドがすごいのはわかっていた。おれたちに仕事ができないのなら、できるやつを連れてきてみろ(ブライトンでのショーの数日後の夜、ピート・タウンゼントとロンドンのクラブに出かけたところ、アルバムを一枚出してる若手のバンドが迫力のある演奏をしていた。奇妙な名前のバンドだった。U2か……覚えておくとしよう)。[6年ぶりの]1981年のヨーロッパツアーで俺たちは国際的に活動するバンドになった。

 『ザ・リバー』ツアー(略)のおかげでようやく借金を返し終わり、銀行にひと財産預けてある状態になった。(略)
これまでおれは一貫して中古車に乗ってきた。2000ドルの57年式シボレーから6000ドルのコルヴェットに買い替え、70年式のフォードのピックアップ・トラックを普段用にしていた。冬になると後輪のスリップ防止に切り株を荷台に積んで重しにし、モンマス郡の凍った道路を走ったものだ。
 借金も返し、キャリアも確立したのだから、かなり気楽になれるはずだったが、おれは気楽になれる人間じゃない。だから一万ドルを“新しい”車に使うべきか頭を悩ませた。もう31だったが、新車など買ったことがなかった。ついでに言うと、スタジオの経費を別にすれば、一万ドルなんて金を自分のために使ったこともない。(略)
自分の稼いだ金に違和感を覚え、尻がこそばゆかった。それでも歯を食いしばってディーラーまで行き、1992年式のシボレー・カマロZ28に乗って帰ってきた。まるで純金のロールスロイスを運転しているようで、やけに人目が気になったものだ。

ネブラスカ(REMASTER)

ネブラスカ(REMASTER)

ネブラスカ

 住む家も見つからず、次にどこで曲がるべきかもわからなかったおれは、いくらかでも自分でどうにかなる音楽制作の領域に没頭することにした。過去の蜘蛛の巣にからめ取られて、子供時代に歩いていた世界に目を向けた。いまだになじみがあり、おれに呼びかけてくる世界に。
 『ネブラスカ』は、自分の子供時代とその謎について知らないうちに考えていたのがきっかけでできた。政治問題や社会的テーマを意識していたわけではない。(略)
生まれ育った小さな町の通りへ行けば、『ネブラスカ』の世界が幻のように目の前に現われた。
 うちの家族、ボブ・ディランウディ・ガスリー、ハンク・ウィリアムズ、フラナリー・オコナーアメリカン・ゴシック短篇集、ジェイムズ・M・ケインのノワール小説、テレンス・マリックの映画の静かなバイオレンス、チャールズ・ロートン監督のただれた寓話『狩人の夜』。それがみなおれの想像力を導いてくれた。あとは、眠れない夜におれの町を漂う生気のない声。午前三時の静けさの中、昔住んでいた家の前に車を走らせ、べたつく暑さを肌に感じ、通りの静けさに耳を澄ましていると、ときおりトレーラーが恐竜のうなりのようにギアをきしませ、埃を巻きあげながら、サウス・ストリートをくだってルート33にはいり、町を出ていく。そしてまた……静寂。
(略)
曲作りにはホワイト・ゴスペルと、初期のアパラチアン・ミュージック、ブルースを取り入れた。歌詞は細部にこだわった。(略)
 ブラックなおとぎ話を作りたかったのだ。(略)
今まで書いてきたロックミュージックとは毛色がちがった。表面上は平穏で、抑制がきいているが、その下には道徳が曖昧で不安な世界が広がっている。
(略)
 スタジオ代に金が消えていくのにいらだって、ギター技術者にレコーダーを買いに行かせた。(略)
 使いに出したエンジニアは日本製の4トラックレコーダー、タスカム144を買ってきた。(略)2トラックを残して歌を入れ、ギターを弾けば、コーラスやギターパートを重ねたり、タンバリンを追加したりできる。(略)ギターのディレイユニットはエコープレックスを使い、海辺に持っていくようなでかいラジカセでミックスした。かかった費用は1000ドルぐらいだった。
(略)
[スタジオで録音しなおしたが、きれいな音になって独特の雰囲気が消えてしまった]
最終的に、音楽の可能性とすべての袋小路を探索してみて、おれは納得した。ジーンズのポケットに入れて持ち歩いていたオリジナルテープを取り出して言った。「これだ」
(略)
 『ネブラスカ』と『ボーン・イン・ザ・USA』の前半は、同時に録音された。一枚のアルバムを作っているつもりでいたのだが、『ネブラスカ』はかたくなにほかのものを寄せつけなかった。(略)
[二枚組で]出そうかと漠然と考えもしたが、それではあまりに統一感がなく、両者は対極にありすぎた。そもそも『ネブラスカ』は泥くさい素朴な録音で、LPでの商品化も危ぶまれた。ひずみがあり、ハウリングを起こし、通常の録音機材に革命を宣言するようなものだった。カセットテープ版でのみリリースしようと話し合ったが、やがてチャック・プロトキンがアトランティック・スタジオで原盤を製作するための古いカッティング旋盤を見つけ出し、ハイファイ録音ではないおれの最新音源がついにレコード盤になった。

『ボーン・イン・ザ・USA』

おれはサンバースト塗装のギブソンJ-200でいくつかコードを弾き、ノートをぱらぱらとめくり、手を止め、ベトナム帰還兵をテーマにして作っていた曲の歌詞の一節をつぶやいた。まだ目を通していない脚本の表紙を見て、その題名に節をつけて口ずさんでみた。おれは“USAで生まれた”。
 「ボーン・イン・ザ・USA」というタイトルは、ポール・シュレイダーが書いた脚本のタイトルページからそのまま頂戴した。脚本はオハイオ州クリーヴランドで活動するバー・バンドの試練を描いた物語だった。のちに映画は『愛と栄光への日々』と改題のうえ公開された。おれの書いた主題歌も「ライト・オブ・デイ」としたが、これはポールからたまたま拝借したタイトルが幸運にもおれの出世作となった恩返しのつもりだ。
(略)
 すでに完成した素材のポップな側面があまり気に入らず、もっと深く、重く、シリアスな曲が欲しくなったのだ。おれは待った。曲を書き、録音し、さらに待った。何カ月もスランプに陥り(略)
[やがて]涸れた井戸から汲みあげられる最後の水のしずくのように、ゆっくりと曲が現われた。「ボビー・ジーン」「ノー・サレンダー」「ダンシン・イン・ザ・ダーク」(略)ついに雨がやってきたのだ。(略)
 「ボビー・ジーン」と「ノー・サレンダー」は、人を結びつけるロックの力とスティーヴとの友情に捧げた曲だ。「マイ・ホームタウン」は60年代後半のニュージャージーの小さな町における人種間の緊張と、その後10年間の脱工業化をとらえ
(略)
[ある日訪れた]ジョン・ランダウはおれに、アルバムをずっと聴いていたがシングルらしい曲がない、と言った。火にガソリンをかけるような一曲が。それはもっと仕事をしろということだったが、さすがのおれも、仕事だけはもうしたくなかった。穏やかにジョンと言い合いをし、別の曲が必要だと思うなら自分で書けばいい、と言った。
 その夜、おれは「ダンシン・イン・ザ・ダーク」を書きあげた。自分の疎外感と疲労と願望を歌った曲、スタジオからも部屋からもアルバムからも逃げ出して……人生を楽しみたいという曲だ。これがおれとしてはポップミュージックのメインストリームのもっとも遠くまで行ったアルバムと曲だ。アルバムのヒットと大衆を魅了するのにともなう危険について、おれはつねに迷っていた。(略)
自分をさらけ出し、不快なスポットライトを浴び、人生のいくらかを差し出すほどの価値があるだろうか。核となるメッセージや意図が薄められたり、こちらの善意が空疎なシンボルに倭小化されたりするおそれがある。おれは『ボーン・イン・ザ・USA』でそういうことをすべて経験した。だが、聴衆はこちらの音楽が力強く長続きすること、文化やファンの人生に影響をあたえられることも教えてくれる。そういうステップを慎重にたどっていくと、やがて大きな裂け目が現われ、飛び越えなければならない。