ブルース・スプリングスティーン自伝・その5

前回の続き。

『デディケーション』

 スティーヴがバンドを抜けたあと、おれはバンドのコーラスの精度をあげる必要があると考えた。そこで地元の店で歌うシンガー数人の声に耳を傾けたあと、パティをおれの自宅に招き、“オーディション”をすることにした
(略)
当時、おれは“デディケーション”という愛称をつけた1963年のシボレー・インパラに乗っていた。この車はゲイリー・U・S・ボンズがカムバックしたアルバム『デディケーション』におれが曲を書き、プロデュースに参加したあと、「ディス・リトル・ガール・イズ・マイン」のヒットを記念して本人がおれにプレゼントしてくれたものだ(車の時計は[ボンズの61年のヒット曲にちなみ]永遠に「三時一五分前」をさすよう故意に止められていた」

DEDICATION / ON THE LINE

DEDICATION / ON THE LINE

  • アーティスト:GARY US BONDS
  • 発売日: 2009/02/27
  • メディア: CD

バンダナお断り

[ディズニーランドに入園、回転式ゲートを通って]30フィートほど進んだところで、行く手を阻まれた。そして、ちょっとこちらに来てくださいと脇のほうに連れていかれ、このまま園内にいたいのなら、バンダナをはずしてくださいと言われた。そうしていただければ、[ストリート]ギャングのブラッズやクリップスの一員と勘ちがいされることもないでしょうし、スペース・マウンテンに乗り、気分が悪くなっているあいだに走行中の車から狙撃されることもないでしょうと、当局は仰せになった。
 スティーヴのバンダナは赤色でも青色でもなく、曖昧な色調であり、彼の“外見”のほかの部分と同様、注意深く選ばれたものだった。なにしろ男用バブーシュカを考案した男の選択なのだから。つまり、これをはずすなんてことが……おれはミッキーの機動歩兵たちに教えてやりたかった……あってたまるか!結束の固いところを見せるべく、おれも頭に巻いた“ボーン・イン・ザ・USA”のロゴのはいったバンダナを誇示し、同様にはずすのを拒否する。いまやおれたちは数人のガードマンに囲まれ、その中のお偉いさんにこう言われる。お仲間(スティーヴの奥さん!ファン第一号のオビー!)に関しては“大目に見る”ことにしますが、そちらのおふたりに関しては、頭に巻き物をつけたまま入園を認めるわけにはまいりません。
 「こんなところ、こっちから願いさげだ!ファシストのネズミめ、くたばっちまえ!ノッツ・ベリー農園に行くとしようぜ!」そう捨て台詞を吐き、おれたちは出ていく。
(略)
ティーヴはいまや、ありとあらゆる罵倒語をわめきたてる人間類語辞典と化し、しわがれ声で卑猥な言葉を並べたてている。その標的はミッキーお抱えの右派の殺し屋集団であり、ミスター・ディズニーの白人のパラダイスを見張る秘密結社だ。ノッツ・ベリー農園に到着すると、チケットを買う前に、チケット売り場の係にこう言われる。頭にバンダナを巻いたままでご入場いただくことはできません、と。どいつもこいつも、なんなんだよ!これが陽光輝く南カリフォルニアの正体か?

結婚、パニック障害

[24歳の女優ジュリアン・フィリップスと結婚]
唯一の気がかりは、ほかの女とは二、三年以上関係をつづけたことがないという事実だった。(略)
不安に駆られるようになったおれは、深夜、カチカチと鳴る不気味な音によく目が覚めるようになった。(略)
 今になって思えば、自分が精神的にまいっていることを周囲に知らせるべきだった。だが自分が落ちこんでいること、恐怖心によって行動や感惰ががんじがらめになっていることを、おれは誰にも言わなかった。誰かを今度こそ愛することができるし、それを実行するだけの力が自分にはあると信じる必要があった。結婚式のあと、おれは何度も不安によるパニック障害に見舞われ、そのたびに医師の助けを借り、必死で闘った。(略)
被害妄想にも取りつかれ(親父ゆずりの傾向だ)、悶々と日々を過ごした。
 ある晩、ロサンジェルスの高級レストランで美しい妻を前に座っていたとき、頭の中でひとつの声が聞こえてきた。(略)
彼女は今後のキャリアのために、あるいは……ほかの何かを得るために、おれを利用しているだけだ、と。そんなことは嘘っぱちだった。ジュリアンはおれを愛していたし、何かを搾取しようとする悪意などいっさいなかった。それを理性では把握していたのだが、そのときのおれは現実世界の外にいて、真実に目を向けることができなかった。
 おれはまた深い溝へと少しずつ滑り落ちていった。そこでは憤怒、恐怖、不信、不安、そしてうちの家族に浸透する女嫌いが、おれの中の天使たちと闘っていた。またもや何かを所有することの恐怖が湧きあがっていた。(略)
おれのことなど誰が気にかけたり、愛したりするものか。本物のおれを。おおらかな顔の内側に棲む、本物のおれ。異常に性的関心が高まるときもあれば、まったく関心がなくなるときもある。パニック障害に何度も苦しみ、気分の波のグラフの線が大きくあがったときには鼻持ちならない行動をとり、それをずっと隠そうとするおれのことなど、誰も愛せるはずがない。(略)
 ある晩ベッドにはいろうとすると、ジュリーはすでに眠っていた。暗がりの中、ベッドサイドのランプに反射し、おれの結婚指輪が光った。それまでは結婚指輪を一度もはずしたことがなかった。絶対にはずすことはないだろうし、はずすべきではないと、おれの中の何かに言われていたのだ。ベッドの端に腰をおろし、軽く引っぱったところ、指輪がするりと指からはずれた。おれは絶望の波に襲われ、気を失いそうになった。脈拍が急上昇し、心臓が胸から飛び出しそうになる。おれは立ちあがり、洗面所に行き、顔と首に水を浴びせ、ようやくわれに返り、洗面所の蛍光灯の下、また指輪をはめた。そして寝室の暗がりへ、おれの謎と恐怖が満ちている場所へ戻った。愛する妻がベッドに寝ていて、皺の寄ったカバーに体の輪郭が暗くやさしく浮かびあがっている。おれは彼女の肩に手を置き、てのひらを彼女の頬に這わせ、深々と息を吸った。肺に空気が満ちるのを感じると、おれはカバーをめくりあげ、ベッドに横たわり、眠りについた。
(略)
[85年ヨーロッパ・ツアー]
ステージの左手には妻が立っている。ハネムーンのあと夫婦として一緒に旅に出たのはこれが初めてだというのに、おれは彼女の目の前で自分がばらばらと砕けていくような気がする。歌いながら、演奏しながら、おれはずっと考えている……ここにいるのが耐えられない。(略)パニックで今にも爆発しそうだ。

父の躁鬱

年齢を重ねるにつれ、激しい燥状態に陥るようになった。(略)
ごくふつうに話しかけても、不可解な返事をした。
 「親父、今日は外で過ごすと気持ちよさそうだよ」
 煙草の煙を吐き出す合間に、親父は応じた。「なるほど、おまえはそう考えているわけか」
 親父は現実と妄想のあいだを漂いつづけていた。動きまわるのをやめられなくなり、やがてふいにスイッチがオフになると、また体重が増えはじめ、鬱状態に陥り、数カ月ものあいだキッチン・テーブルからまったく動かなくなった。あるとき、親父はカリフォルニアからニュージャージーまでノンストップで運転し、おれの家のドアに“残念。おまえに会いたかった”という伝言を残し、おふくろの親戚(親父の頭の中ではつねに自分を批判する暴徒の温床)のところに車を走らせ、彼らに罵言雑言を浴びせると、すぐにUターンし、また六日間ぶっつづけで車を走らせ、西海岸に戻った。
 親父は助手席におふくろを座らせ、血迷ったように国じゅうを走りまわった。
(略)
ハイになっているときには自己中心的な力強さが満ちているが、そのあとには長い鬱の期間が延々とつづく。その気持ちはよくわかった。親父ほど極端ではないが、おれにも同じ経験があった。躁鬱病、すなわち双極性障害。それはうちの一族のなかにぽつぽつと出現する病だ。
 気持ちはわかるよ。おれはそう言ったあと、こう付け加えた。だが、このままいくといつか親父は誰かを傷つけることになる。それはおふくろかもしれないし、親父自身かもしれない。だがおれはふたりなしでは生きていけない。おれは親父なしじゃ生きていけないんだよ。(略)
 親父は三日間、入院した。観察され、検査され、投薬治療を受けたあと、地上に、おれたちのところに戻ってきた。(略)
おれたちは以前よりずっと親しくなった。連絡を取りやすくなったし、打ち解けやすく、愛しやすくなった。親父はよく若いころを振り返り、“いたずら好き”で“ハイカラ”で“愉快”で“踊るのが大好き”だったと語った。そんな親父は見たことがない。おれの知る親父は、ひとりふさぎこみ、神経をとがらせ、くつろいだ雰囲気や穏やかな感じがまったくなかったが、晩年はやさしさが表面に表われてきた。
(略)
 サンセット・ブールヴァードまで気軽なドライブに出かけると、路上でこんな冒険をしたことがあるという空想のまじった思い出話を、親父は一風変わった口調で、だが無邪気に話してくれた。おれは拝聴した、よりによって……親父の人生哲学を!(略)
 つまり親父の話の大半は……頭の中の……シナプスとかいうやつがうまく神経伝達物質をやりとりできずに生じる幻にすぎなかった。現実世界、そして以前は禁止されていたさまざまな話題について話したり批判したりすることが、いまやダグ・スプリングスティーンの生き甲斐になった。スフィンクスがしゃべりはじめた!親父は素の自分を、あるいはその一部をほのかに見せはじめた。胸の内をさらけ出しはしなかったので、話を聞いていると謎が深まり、おれは親父の深い思いをいっそう知りたくなった。

4th Of July, Asbury Park (Sandy)

ダニー・フェデリーシ

ダニー・フェデリーシがメラノーマにかかり(略)体のあちこちに癌が転移していた。(略)
[控室にやってきた彼は]途中言葉に詰まり、てのひらをもう一方の手にのせて、おれがすでに知っていることを話そうとした。ダニーの目に涙が浮かび、おれたちはたがいに顔を見つめ合った……35年のつきあいだ。(略)
ダニーはおれたちと最後のステージに立った。2008年3月20日インディアナポリスのコンセコ・フィールドハウスでの公演だった。バンドのメンバーはみな、これが終わりだとわかっていた。もうステージでダニーを見ることはない。
(略)
 おれはダニーが厳しい依存症と闘って勝利するのを見た。彼が人生を作り替えるのも、バンドが再結成した最後の10年では、あの大きなB3オルガンの後ろにしっかりと座りつづけるのも見た。文句も言わずに大きな勇気と意志の力で癌と闘うところも。ダニーはあくまで明るい運命論者だった。(略)
最後の夜、何を演奏したいとダニーに訊くと、「7月4日のアズベリー・パーク(サンディ)」と答えた。アコーディオンを担いで、おれたちが若い時を過ごした夏の夜のボードウォークにもう一度戻りたかったのだ。世界のすべての時間を費やして木道を歩いていたあの夜に。

クラレンス・クレモンズの後継者

[クレモンズ亡き後をどうするか、甥のジェイクが候補に]
 スティーヴはジェイクについて、「あいつは黒人だ。サックスを吹く。名前はクレモンズ。あいつしかいない!ほかには考えられない!」と言っていた。スティーヴはおれが挙げたほかの候補を却下した……白人だったから。
 スティーヴの言いたいことはわかった。人種が分断されていたアズベリー・パークでの駆け出しのころにさかのぼって、クラレンスが象徴していたあの“もの”、あの“世界”、あの“可能性”は、彼の圧倒的な黒人らしさと結びついていた。それはまちがいない。(略)
 おれもスティーヴは正しいと思ったが、本物の“ザ・ビッグ・マン”はひとりきりで(略)
[誰も]クラレンス・クレモンズの代わりを務めることなどできない。だから、本当の問題は“次にどうするか”だった。次に……今このとき。
(略)
 ジェイクは最初の本業の打ち合わせに、あろうことか一時間遅れでやってきた。おれは待ちながらカッカしていた。(略)
ジェイクは到着したとき、課題の曲を“ある程度”習得していた。
 教訓その1――Eストリート・バンドに“ある程度”はない……いかなることにも。(略)
 「はっきりさせておく。おまえはクラレンス・“ビッグ・マン”・クレモンズの座を埋めるオーディションでここに来てるんだ。ちなみに、それは仕事ではなく、くそ神聖な地位だ。ブルース・スプリングスティーン(と三人称で自分を呼んで)のためにクラレンスが吹いた、いちばん有名なソロをやるんだぞ。隣に40年立って、一緒にソロを作ってきた男だ。その曲を“ある程度”マスターした?どこに……いると……思って……るんだ?わからないなら教えてやる。おまえはロックンロールの砦にいるんだよ。ブルース・スプリングスティーンの音楽をくそ完璧にマスターせずに、よくここへはいってくる勇気があるな!おまえは自分に恥をかかせ、おれの貴重な時間を無駄遣いしている」
 おれはふだん、こういうしゃべり方はしない。このときは(略)ジェイクがどんな人間なのかを知る必要があったのだ。

 鬱はいきなり襲ってこない。じわじわと忍び寄ってくる。60歳になってほどなく、おれは30年前にテキサスの埃っぽい夜に経験して以来の鬱に陥り、それが1年半続いた。これに気づく人は[妻以外]ほとんどいない。
(略)
相談して、五年間使っていた薬をやめて(略)
 しばらくはそれでうまくいっていたのだが、奇妙な例外がひとつあった。涙だ!バケツ何倍もの涙、海かというほどの涙、冷たく黒い涙が、一日のどの時間にも、ナイヤガラの滝よろしく流れ出す。(略)『バンビ』で涙……『黄色い老犬』で涙……『フライド・グリーン・トマト』で涙……雨でも……涙……晴れても……涙
(略)
おれはおそろしく深刻で不吉な予感と悲しみに満たされた。すべてが失われた。すべてが……あらゆるものが……未来がまっ暗で……重荷を軽くしようと思ったら、バイクを100マイル以上で走らせるか、ほかのことで自分を苦しめるしかなかった。おれは無謀になった。極端な運動が日課となり、数少ない療法になった。過去にない激しさでウェイトを持ち上げ、大西洋を横断するほどバドルボードを漕いだ。
(略)
[治ってツアーに出たが]
ツアー終了後の軽い鬱が予想された。(略)
今回の落ちこみはそれまでとはまったくちがう体験だった。(略)“激越性鬱病”と呼ばれるものにやられ、その間、自分の皮膚の中にいることがとてつもなく不快で、抜け出したくてたまらなくなった。危ない感じがして、嫌な考えが次々と湧いた。何をしても気持ちが悪かった。立っても……歩いても……座っても……あらゆることがいらだたしい不安をかき立て、起きているあいだ一分おきにそれを振り払いたくなった。死や凶事の予兆ばかりを待ち望み、睡眠が唯一の休息になった。
(略)
読書はおろかテレビを見ることさえ、そのときのおれにはできなかった。音楽を聴いたり、ノワール映画を見たりといった、ふだんは大好きなことがことごとく耐えがたい不安を引き起こすので、やるにやれない。自分が何者であるかを教えてくれる好きなことすべてから切り雛されると、どこかに滑り落ちていく感覚が危険なほど高まった。おれは、居心地の悪い借り物の体と心に居着いたよそ者になった。
 これがひと月半つづいた。その間ずっと外国にいた。
(略)
 こんな調子では生きていけない。これを永遠につづけるのは無理だ。初めて人を奈落の底に向かわせるものが理解できた気がした。理解できたという事実、それを実際に感じることができるという事実がおれの心を空白にした。おれは冷たい恐怖の中に取り残された。そこに命はない。あるのは骨に埋めこまれた、どこまでもしつこくていらだたしい苦悩だけだった。それはおれが持っていない答えを要求しつづけた。片時の休息もなかった。目が覚めると、それが始まる。だから……眠ろうとした。12時間、14時間寝ても足りなかった。夜明けの薄明が恨めしかった。(略)
おれは勃起すらしなかった。(略)おれは歩く案山子だった。(略)