夢遊病者たち 2 大公暗殺

夢遊病者たち―第一次世界大戦はいかにして始まったか - 本と奇妙な煙のつづき。

第二巻。

イタリアのリビア侵攻

 こんにちではほとんど忘れ去られているイタリア=トルコ戦争は、ヨーロッパの国際体制を著しく撹乱した。イタリアの進駐に対するリビアの闘争は、現代的なアラブ民族主義が出現するうえでの、初期の決定的な触媒となった。イタリアがこの大それた、不当な略奪行為をはたらくのを後押ししたのは協商国であり、これに対して、三国同盟をなしていたイタリアの同盟国は不承不承に黙認したに過ぎなかった。この布陣は何やら示唆的である。列強の干渉は三国同盟の脆弱さ、そして言うまでもなくその支離滅裂さを露見させた。(略)
 しかしこの時点では、後にイタリアが協商国へと鞍替えすることをはっきりと窺わせるものはなかった。(略)
リビア侵攻に乗り出した際、イタリアはヨーロッパの大部分から、多かれ少なかれ嫌々ながらではあったが支持された。このこと自体が注目すべき情勢であった。なぜなら、親オスマン的なヨーロッパ諸国の連合が全面的に崩壊したことが露呈されたからである。一八五〇年代には、ロシアによるオスマン帝国の略奪を牽制するために、各国の協調関係が作り出された――その結果がクリミア戦争である。この寄り集まりはかたちを変えて、露土戦争後の一八七八年のベルリン会議で再建され、一八八〇年代半ばのブルガリア危機の間に再結成された。しかし、今やこうした協調関係はどこにも存在していなかった。イタリアとの戦争の初期の段階で、オスマン帝国はイギリスとの同盟を求めたが、イタリアとの関係悪化を恐れたロンドンはこれに応じなかった。その後に続いた二度のバルカン戦争は、協調関係を修復の余地がないほどに破壊した。
 極めて重大の変化が生じつつあった。イギリスはオスマン帝国の統一を持続させることでロシアを黒海に閉じ込めようという、一世紀にわたる取り組みから次第に身を引いていった。
(略)
トルコ両海峡の守護者がイギリスからドイツへと徐々に変わっていったことには、極めて重要な意味があった。なぜなら、この変化はヨーロッパの二つの同盟ブロックへの分裂と表裏一体のものとして起こったからである。かつてはヨーロッパに協調関係を生み出すのに一役買っていたトルコ両海峡問題は今や、二極体制の反目にこれまで以上に深く巻き込まれることとなった。

焦るオーストリア

 オーストリアハンガリーにしてみると、二度のバルカン戦争はすべてを変えた。何より、二度の戦争はヴィーンがどれほど孤立しているか、そしてバルカンの諸事件についてのヴィーンの見解が、各国の外交機関からいかにわずかな理解しか得られていないのかを白日の下に晒した。サンクトペテルブルクオーストリア=ハンガリー帝国に敵愾心を抱き、バルカン地域におけるヴィーンの利益を完全に無視しているのは言うまでもなかった。それよりも気ががりだったのは、他の国々の冷淡さであった。オーストリアが国の南方で根底から安全を脅かされたこと、そしてこの脅威に対して対抗措置をとる権利がオーストリアにあることを国際社会が認めたがらなかったのは、大きな態度の変化を反映していた。西欧列強は伝統的にオーストリア中欧と東欧における安定の支柱と見なし、ゆえにいかかる犠牲を払っても保持されねばならない国家と見なしてきた。(略)
[1907年以降急速に浸透した同盟ブロックによりその重要性は減少し、オスマン帝国に続く]
「ヨーロッパの第二の重病人」とする見方が広まったことで、この傾向は強まった。
 とりわけ不安を抱かせたのは、ドイツの支援が本質的に不熱心だったことであった。

緊張緩和と危機

 「外務省に入省して以来」と、一九一四年五月初頭にアーサー・ニコルソンは書いている、「こんな静穏にはお目にかかったことがない」。ニコルソンの述懐からは、第一次世界大戦前の二年間の最も奇妙な特徴の一つに気づかされる。すなわち、軍拡に弾みがつき、文武双方の指導者たちがますます軍国主義にのめり込んでいった当特にあってなお、ヨーロッパの国際体制は全体として、驚くべき危機管理とデタントの能力を誇っていたのである。これは、開戦前の一年半の間、大戦争の可能性が減じつつあったことを意味しているのであろうか。それとも、デタントの兆しは、同盟ブロック同士の構造的な対立の深まりという現実を覆う隠れ蓑に過ぎなかったのであろうか。

各国の思惑

[サゾーノフからパシッチへ伝えられた手紙の中で]
セルビアの約束の地はこんにちのオーストリアハンガリー領に横たわっているのであり、最近貴国が追い求めているような、ブルガリアが道をふさいでる方向にはありません。
(略)
避け難きオーストリアの衰退についてのこうした語り口は、協商国の政治家たちの論理の中で繰り返し出会うもので(略)
セルビアは二重君主国という時代遅れな機構を一掃すべくあらかじめ運命づけられた、近代性の先駆者として姿を現した。
(略)
[三年兵役制による増強でも]フランス軍は、指揮官たちがドイツの脅威に単独で立ち向かうのに必要だと信じる兵員数には達しなかった。(略)ベルギーを通過して急襲をかけることで、厳重に要塞化されたアルザス=ロレーヌ地域を迂回可能になる[がベルギーの中立侵犯は西部戦線のイギリス派遣部隊の支援を失う。だが来るべき戦時にイギリスが腰を上げるかは定かではない]
(略)
ベルギー大使が一九一三年春に記したところでは、イギリスとの友好関係が「強固さや有効さ」を減じるにつれて、フランスの戦略家はロシアとの同盟の紐帯を「強める」必要をますます感じるようになった。(略)
それは事実上、ロシアの手中に主導権を引き渡すという、譲歩を意味するものであった。フランスにはこの危険を引き受けるつもりがあった。なぜなら、彼らが何より危惧していたのは、ロシアが危険なほどの速さで行動することではなく、むしろまったく動こうとしないことであり(略)「第一の敵」たるドイツよりもオーストリアを打ち負かすのに精力を注ぐようになることだったからである。
(略)
イギリスの政策決定者たちは(略)然るべく引き金が引かれればバルカンでの揉め事がヨーロッパ規模での戦争に転換されるようなメカニズムが作り出されてしまったことを十分明確に認識していた。そして彼らはこの可能性を(略)両義的に捉えていた。
(略)
 大戦勃発前の数年間、二つの問題がドイツの戦略家や政策決定者たちの心中を支配していた。第一は先に論じたように、もしも戦争が起こるのだとしたら、ドイツはどれだけの間、敵を撃退するのに十分な相対的強さを保持し続けると期持できるかという問題であった。第二の問題は、ロンアの意図に関係していた。すなわち、ロシアの指導部はドイツに対する予防戦争を積極的に準備しているのかという問題である。この二つの問題は組み合わさっていた。それと言うのも、ロシアは本当にドイツとの戦争を求めているという結論が出た場合、高くつく政治的譲歩によって今は戦争を避けようという議論はかなり根拠薄弱に思えたからである。もし戦争の回避ではなく延期こそが問題なのであれば、同じ筋書きが後ではるかに不利な状況で繰り返されるのを待つよりも、敵がふっかけてきた戦争を今のうちに受けて立った方が有効であった。サライェヴオでの暗殺事件に続く危機の間、こうした思考がドイツの政策決定者たちに重くのしかかった。

暗殺決行

周囲で歓声が上がると、彼は雷管に点火し爆弾を投げる準備をした。緊張の瞬間であった。爆弾の雷管が音を立てたら(略)後戻りはできず、爆弾を投じなければならなかったからである。メフメドパシッチは爆弾を何とか包みから出そうとしたが、土壇場になって誰か――おそらく警官――が後ろから駆け寄ってきたように思い、恐怖のあまり動けなくなった。この時の彼は、一九一四年一月に鉄道の車中でのオスカル・ポチョレック殺害計画を中断とした時とまったく同じであった。車は通り過ぎた。次の暗殺者[ネデリコ・チャブリノヴィチが](略)雷管を街灯柱に打ちつけた。雷管の鋭い爆発音を聞いて、大公の警護役であったハラハ伯はタイヤがパンクしたと思ったが、運転手は爆弾が車めがけて飛んでくるのを目にして、アクセルを踏んだ。大公自身が爆弾を見咎めて手で払い落とそうとしたのか、あるいは爆弾が座席後方に折り畳まれた屋根を跳ねただけだったのかは定かではない。ともかくも爆弾は狙いを逸れて地面に落下し、後続車の近くで爆発し、車内にいた数名の将校が負傷して、道路に穴があいた。
 この災難に、大公は驚くほどの平静さをもって応じた。
(略)
[チャブリノヴィチは青酸カリを飲み川へ身を投げたが、毒は質が悪く喉と胃袋を焼いたのみ、夏場の暑さで水位が下がった川で警察官たちに直ちに捕らえられた]
 大公は危険地帯を直ちに立ち去ろうとせず、負傷者への処置を見届け、市の中心部にある市庁舎への行列を続けてから、自分たち夫妻が病院に負傷者を見舞えるように[命じた](略)「さあ行こう」と彼は言った、「この者はどう見ても正気ではない。式次第を進行させようではないか」。
(略)
最年少のヴァソ・チュブリロヴィチは(略)夫の脇に座る大公妃の姿を思いもかけず目にして、戦意を失った。(略)「彼女が気の毒になったのです」。クヴジェトコ・ポポヴィチもまた、恐怖に駆られて手を出せなかった。(略)
 ガヴリロ・プリンツィプは最初、虚をつかれた。爆発音を聞いた彼は、計画が既に成功したのだと思い込んだ。彼はチャブリノヴィチの持ち場に走り寄ったが、そこで目撃したのはまさに、捕らわれたチャブリノヴィチが毒に喉を焼かれて苦しみに身をよじる姿であった。(略)[しくじった同志を射殺しようとした瞬間、大公の車列が通過]
車はスピードが出ており、確実に射撃できそうになかった。(略)夫妻がすぐに戻ってくることを理解した彼は[再度待ち伏せることに]
(略)
[大公は市庁舎に到着。「市民は衷心より、満腔の歓喜をもって奉迎つかまつる所存であります……」という市長の演説は大公の怒りで遮られた]
「私は貴君の客人としてここに来たが、貴君らは爆弾でもって奉迎つかまつったのだぞ!」。[妻のとりなしで大公は落ち着きを取り戻し](略)
「よろしい、続けてくれたまえ」。市長が何とか演説を最後まで行うと、再び沈黙が訪れた。フランツ・フェルディナント自身が用意していた数枚の答礼演説の原稿が、第三車両で負傷した将校の血に染まっていたのである。フランツ・フェルディナントは優美な演説を行い、機転を利かせて朝の事件に言及した。「民衆が私と妻を迎えてくれた声高らかな歓迎のことで、私は市長に心より感謝している。喝采に、暗殺の試みの失敗に対する歓喜の表現を見出したのだからなおさらだ」。
(略)
[予定をとりやめ駅に向かうよう勧められたが、大公は病院の副官を慰問することを希望]
 ガヴリロ・プリンツィプ、一世一代の瞬間であった。(略)車がほとんど止まっているくらいゆっくりと動いているのを視界に捉えた。腰に結ばれた爆弾を外せるだけの時間はなく、その代わりに彼はリボルバーを抜き(略)直射距離から二発の銃弾を放った。(略)時間がゆっくり流れているように思えた。大公妃の姿が彼を一瞬立ち止まらせた。「彼の横に座っている夫人を見て、ほんの少しの間、撃つべきかどうか悩みました。同時に妙な気分になりました……」。(略)
一発目の銃弾は車のドアを貫通して大公妃の腹部に命中し、胃の動脈を断った。二発目は大公の首に当たり、頸動脈を切り裂いた。(略)
 自動車が去った後方では、群衆がガヴリロ・プリンツィプを取り囲んだ。彼がリボルバーをこめかみに当て自らの命を絶とうとすると、銃はその手から奪い取られた。青酸カリの包みを飲み込むことも叶わなかった。彼は周囲の群衆に殴られ、蹴られ、杖で叩かれた。警察が留置場に引っ張っていかなければ、彼はその場でリンチされて殺されていたであろう。
 コナク宮殿に到着した時にはゾフィーは既に息絶えており(略)フランツ・フェルディナントは昏睡状態にあった。(略)近侍のモルザイ伯は、制服の前部を切って呼吸を楽にしてやろうとした。血が噴き出し、侍従の制服の黄色のカフスに染みをつけた。

死後

フランツ・フェルディナントは大衆受けしなかった。彼はカリスマ性に乏しく、怒りっぽく、癇癪持ちであった。小太りで鈍重な風采は、家族や親友たちと一緒の時にはどんなに彼の表情が生き生きとし、真っ青な目を輝かせるのかを知らない人たちには好かれなかった。(略)
彼は受けた仇を決して忘れない「憎み上手な人物」であった。彼の激怒は恐怖の的であり、大臣や高官たちが「心臓をどきどきさせずに彼を待っていることは滅多になかった」。真の友と呼べる相手はほとんどいなかった。他人と接する際には、不信が感情を支配していた。「初めて会った人間は誰でも下品な悪漢だと見なす」と、彼は一度語ったことがある。
(略)
暗殺の日に書かれた日記の中で劇作家のアルトゥア・シュニッツラーは、暗殺の「最初の衝撃」がいかに早く消え去り、大公の「ひどい不人気」の記憶によって掻き消されていったのかを記している。
(略)
 いずれにせよ、フランツ・フェルディナントの評判はその死に方ゆえに変化した。その過程は、とりわけ印刷メディアによって、信じられない速さで現実化された。(略)
新聞報道は、この事件にふさわしい圧倒的な感情を引き起こした。(略)
亡き大公の活力と政治に関する先見の明や、愛ある結婚生活の暴力的な結末、三人の遺児たちの悲嘆(略)老帝の諦念と意気阻喪を、詳細に書き連ねた。
 さらに、大公の私的な人柄や家庭生活が初めて世間の目に晒され(略)現実味のある感情を生み出した。

セルビアの反応

オーストリアにおいて特に強く注意が向けられたのは、犯行に対するセルビアの反応であった。ベオグラード政府は然るべき礼節を守ろうと努力したが、オーストリアの目には最初から、公的な弔詞の表現と、セルビア人の大半が感じそして表明したお祭り気分との間に大きな落差があることがはっきり見て取れた。
(略)
サライェヴォのニュースは「熱狂した民衆」に歓呼で迎えられ、「獣的としか書き表せない」狂喜乱舞が繰り広げられた。(略)通りやコーヒーハウスがハプスブルク家への一撃を慶するセルビア愛国者で埋め尽くされていた
(略)
 オーストリアの疑念は、セルビア国粋主義的新聞の鳴りやまぬ罵声によってさらに強められた。(略)
殺害の責任はオーストリア自体にあると責め立て、ヴィーン政府はセルビアの関与という「嘘」が喧伝される状況を操っていると非難した。別の記事は暗殺者を、「立派な、誇るべき青年たち」と称賛していた。(沢山あった)この手の記事は定期的に翻訳されてオーストリアハンガリーの新聞に抄録され、大衆の復讐心を駆り立てるのに一役買った。とりわけ――一片の真実が含まれていたために――危険だったのは、ベオグラード政府は大公に対する陰謀についてヴィーンにあらかじめ正式に警告していたのだと主張する記事であった。(略)一方でオーストリアが怠慢であったことと、他方でセルビア政府が予め知っていたことを仄めかすという二つの傾向をもつこの主張は、一片の真実を有していた。
(略)
 さらに、もっと簡単に回避できたはずの過失もあった。(略)[駐ロ大使はロシア紙に]ボスニアにおける反ヴィーン扇動を正当化し、失地回復主義グループヘの関与を疑われていたセルビア臣民に対するオーストリアの措置を非難する声明を出した。
(略)
 パシッチもまた虚勢を張るという誤った判断をとって、事態を泥沼化させた。(略)[演説で]もしオーストリアが「痛ましい出来事」を政治的に利用してセルビアに対抗しようとするなら、セルビアは「自らを守り、己の使命を果たすことに躊躇しないでしょう」と警告した。事件が呼び起こす感情がまだ生々しかった当時にあって、これは度を越したジェスチャーであった。
(略)
[こういった意見が]オーストリアを激怒させるのは必定であった。オーストリアがそこに見出したのは無礼と狡猾、欺瞞に他ならず

次回に続く。