夢遊病者たち 2 その2 最後通牒

前回の続き。

ドイツ

 ドイツの指導部は、オーストリアセルビア攻撃がロシアの干渉をもたらし、同盟国への支援をドイツに余儀なくさせ、そして露仏同盟との戦争、つまりは大陸規模での戦争を引き起こすというリスクをどう評価していたのであろうか。幾人かの歴史家は、ヴィルヘルムとベートマン、そして彼らの軍事面での助言者たちは(略)
軍事的攻撃力のバランスが急激に三国同盟の側に不利に傾いており、ドイツにとって時は尽きつつあるという理由で、再三にわたり予防戦争を主張してきた。ここで戦争をすればまだ勝てるだろう。さもなくば、向こう五年間のうちに軍事力の差が拡大して、協商国の有利が揺るがし難いものになるだろう、と。(略)
[しかし]主要な政策決定者たちがロシアの干渉の可能性を信じておらず、ロシアを挑発したいと願ってもいなかった点が銘記されるべきである。(略)
[ヴィルヘルムが]七月後半になっても軍備を整えるのに乗り気でなかったことは、ドイツの危機への対応を特徴づけていた。これは(略)紛争をバルカンに封じ込めたいというドイツの指導部の願望を反映したものでもあった。(略)
 とりわけカイザーは、紛争を局地化できるという自信を抱き続けていた。(略)フォン・カペレ総督に、「ツァーリは今回は大逆者に肩入れしないだろうし、ロシアとフランスは戦争の準備が整っていないだろう」から、「軍事的な紛糾の種がさらに蒔かれるとは信じていない」と語った。(略)カイザーはかねてから、ロシアの軍備は進行しているが、あえて攻撃に踏み出そうとするまでには一定の時間がかかるだろうという意見であった。アルバニア危機の直後の一九一三年十月末、彼はセジェーニ大使に、「さしあたりロシアが懸念材料となることはない。これがら六年、この方面から恐れを感じる必要は一切ない」と語っていた。
(略)
オーストリアハンガリー政府がドイツ軍の力を甚だしく信頼しており、ドイツ軍は、まずはロシアに行動を思いとどまらせ、それに失敗したらロシアを倒すだけの力を持っていると信じていた

最後通牒

 ヴィーンの最後通牒が、セルビアはおそらくこれを甘受しないだろうという想定に基づいて作成されたものであったことは確かである。
(略)
パシッチはただ、ロシアが見解を明らかにするまではいかなる決定もすべきではないと決定しただけであった。(略)
摂政のアレクサンダルはツァーリに電報を送り、セルビアは「自らを守れない」こと、そしてベオグラード政府には「陛下[すなわちロシア皇帝]が受け入れるよう御助言なさるのであれば」、最後通牒のいかなる項目をも受け入れる用意があることを明言した。イタリアの歴史家ルチャーノ・マグリーニは(略)べオグラード政府は実際には最後通牒を受け入れ、戦争を避けようと決心したのだと結論づけている。「当時知られていた状態からして、セルビアは恐るべき脅迫に屈する他ないと考えられていた」。
(略)
 セルビアの背筋を叩き直してくれたのは、ロシアからの再保障であったのかもしれない。
(略)
スパライコヴィチは、ロシア外相が「オーストリアハンガリー最後通牒をうんざりしながら非難し」、いかなる国家にとってもこのような要求を受け入れるのは「自殺行為を犯す」ようなものだと断言したと報告している。サゾーノフはスパライコヴィチに、セルビアは「ロシアの支援を非公式にあてにして」よいと保証した。しかし彼は、この支援がどのようなかたちをとるのかははっきりさせなかった。なんとなれば、これは「ツァーリが決定し、フランスと協議する」問題だからであった。その間、セルビアは不要な排発を避けるべきである。もし攻撃を受け、自衛できない時は、まず軍隊を国内の南東部へ後退させるべきである。その目的はオーストリアの占領を受け入れることにではなく、むしろセルビア軍をその後の配置に備えて維持することにあった。
(略)
セルビア大使館付武官はスパライコヴィチに、軍事評議会が「最大限の戦争準備」を行う姿勢を示し、「セルビアを守るために万策を講じる」と決議したと語った。とくにツァーリの決意の固さは皆を驚かせた。
(略)
七月二六日と二七日、ロシアが一七〇万の軍隊を動員しており、「オーストリアハンガリーセルビアに襲いかかったら、直ちに強力な攻撃を開始する」計画だという知らせを告げる、歓喜の電報がスパライコヴィチから届いた。ツァーリセルビアが「獅子のごとく戦い」、自国内の要塞から自力でオーストリアを叩きのめすであろうと確信している(略)
ドイツが争いに参加しなくても「オーストリアハンガリーの分割」を実現するチャンスが十分にあるとツァーリは信じていた。雲行きが怪しくなったらロシアは、「ドイツに対しても勝利を確実にすべく、フランスの軍事計画を実行する」だろう、と。
 セルビア外務省の元総務課長であったスパライコビッチは興奮し、政策の提言を始めている。「私見では、我々には、この出来事を賢明に利用してセルビア人の完全なる統一を達成する絶好の機会が与えられています。ゆえに、オーストリアハンガリーが我々を攻撃してくるのが望ましいのです。その時には、神の御名の下に前進!」(略)
パシッチは、セルビア人の統一は平時には達成されず、大戦争の炎のなかでこそ、そして強国の助けがあってこそ、それは鍛造されるのだと長らく信じてきた。(略)戦争への道はもう視界にあった。セルビアにしてみれば後戻りはありえなかったであろう。
(略)
[ついに皇帝フランツ・ヨーゼフは宣戦布告書の署名。その報せは]
当時58歳のジークムント・フロイトを熱狂させた。「この30年間で初めて、私はオーストリア人であると自覚し、このあまり望みのない帝国に今一度チャンスが与えられたかのように感じている。私のリビドーのすべてがオーストリアハンガリーに捧げられる」

小康状態

 確かに、平和的な結果に終わるのではないかというサゾーノフの考えが一時的に復活したように見えた瞬間もあった。既に確認したように、自分たちの戦争準備が現実味を帯びたことが、ベオグラードに土壇場での譲歩を促すだろうという期持をかけて、七月二五日に最後通牒セルビアが受け取った後、オーストリアは小休止状態にあった。サゾーノフはこれを、ヴィーンが退却を模索しており、交渉による解決を申し出ようとしているサインだと読み違えた。「最後の最後まで、交渉の用意があること示すつもりです」と、彼はフランス大使に七月二六日に語った。(略)
いずれにせよ、最後通牒を提示した後のオーストリアの小康状態は、自分たちの方針の正しさに対する疑念にではなく、ベオグラードは最後には譲歩するだろうという期持に基づくものだったのである。ロシアの動員準備の知らせは当然ながら、こうした期持のよりどころを奪った。列車に乗るコサック兵の壮観に誰よりも興奮したのは、彼らの姿にセルビアの統一と自由のための最後の戦いの兆しを見出したミロスラフ・スパライコヴィチであった。(略)
サゾーノフはベオグラードに、イギリスの調停の申し出を受け入れないよう、はっきとした口調で助言していた。
(略)
ロシアとフランス、イギリスの世論を考えると、ロシアではなくオーストリアが攻撃者と見なされることも肝要であった。「我々はオーストリアが全面的に非のある立場に立つようにしなければなりません」と、サゾーノフはパレオログに七月二四日に語っている。
(略)
「戦争は既に決定事項となったのであって、ロシア政府とドイツ政府の間の電報の洪水はすべて、歴史的ドラマの舞台を整えるためのもの以外のなにものでもなかったのだ」[とドブロロリスキー将軍](略)
[それでもなおロシアとフランスは]平和政策について語り続けていた。

イギリスの介入はあるのか

[八月一日ベルリンが総動員令を発した数分後にロンドンから「フランスを攻撃しなければ、イギリスは中立を維持し、フランスの中立を保証する」というイギリス外相グレイとのやり取りが届く。動員をやめたい皇帝と参謀総長モルトケが激論]
モルトケはとても興奮し、唇を震わせながら自らの立場を主張した。カイザーと宰相をはじめとする人たちは彼に嘆願したが、どうにもならなかった」。ドイツが動員中のフランスに背中を晒すのは自殺行為に等しい、とモルトケは論じた。(略)モルトケが、ドイツによる鉄道路線の支配が危うくなるという理由から、ルクセンブルク占領を邪魔しないようにと哀願すると、ヴィルヘルムはこう返答した。「別の路線を使えばいい!」。議論は膠着状態に達した。そのなかで、モルトケはほとんどヒステリー状態に陥った。エーリヒ・フォン・ファルケンハイン陸相との私的な会話で参謀総長は、「自分は完全なる敗者だ、カイザーによるこの決定は彼がまだ平和を望んでいることをはっきりさせたのだから」と、涙ながらに打ち明けた。
(略)
 それから間もなく、新たな電報がリヒノフスキから届いた。この間に、心待ちにしていた午後三時半からのグレイとの面会が行われたが、ドイツ大使を驚かせたことに、グレイはイギリス、あるいはフランスの中立を提案しなかっただけでなく、他の閣僚にこの問題をもちださなかったようであった。
(略)
 しかしながらその間に、フランスの中立というイギリス政府の提案を温かく受け入れたカイザーからの国王ジョージ五世への電報が到着し、ロンドンに仰天をもたらした。おそらくは、その日にグレイの言動が二転三転した理由は誰にも分かっておらず
(略)
[午前零時宮廷に戻ったモルトケにロンドンからの電報を見せながら皇帝は言った]
「ついに貴公はお望みのことをできるぞ」
(略)
[グレイは駐英フランス大使カンボンに、そちらは同盟により揉め事に巻き込まれるが、こちらには行動の自由があると語った]
「もしイギリス政府が今日にでもこの件全体に足を突っ込めば、平和は守られるでしょう」と[カンボンはジャーナリスト[に語った](略)
グレイとの会合で、彼は同様の議論をもちだした。「イギリスがはっきりとヨーロッパの戦争を傍観するとひとたび考えられるようになったら、平和維持の機会は極めて危うくなるでしょう」。ここには再び、平和か戦争かを決定する責任を他人に押しつけるという、あの反射の歪みが姿を現している。
(略)
カンボンにしてみれば、フランスは「ロシアが攻撃を受けた場合、助けるよう義務づけ」られているのだとグレイに泣きつくよりなかったが、さしあたり、オーストリアかドイツがロシアを攻撃しようとしている証拠はなかった。イギリスに介入の意思があるという宣言が中欧両大国に、イギリスに諮らずにやりだした政策を思いとどまらせる効果があるとはあまり思えなかった。
 この苦境の根本をなしていたのは、英仏協商の歴史に深く根差した視点の食い違いであった。カンボンはいつも期持まじりに、イギリスはフランスと同様に協商を、ドイツとの均衡を保ちドイツを抑制するための手段と見ていると推測していた。イギリスの政策決定者たちにとって協商はより複雑な目的を追求するためのものであったということを、彼は見落としていたのであった。協商は何より、大英帝国のばらばらの領土に害をなすのに最適の場所を占める国家、すなわちロシアによる脅威を逸らすための手段であった。

ドイツの失態

 八月一日にドイツの軍事動員の瞬間が迫った時、ベルリンの政策立案者たちはさらに二つのひどい失態を演じた。西部での配備計画の実行には、迅速かつ即時のベルギー侵攻が必要であった。(略)
[だがもしドイツが待てば、グレイの敵対者は、ドイツではなくロシアとフランスが事を先に進めていると指摘し]
イギリスの介入主義者たちは、最も効果的な論拠の一つを奪われることになったであろう。(略)
ティルピッツ提督は後に、腹立たしげに疑問を呈示している。「なぜ我々は待たなかったのか」、と。
 八月二日のベルギー政府への最後通牒の提出は、もう一つの破滅的な過ちであった。(略)
何もせずにベルギー領に侵入して横断し、責任者が自らの行為を詫び、後から賠償によって既成事実として処理した方がましだったであろう。これこそが、イギリス政府がドイツに対して予想していたことであった。(略)
戦略的要地に立ち入らなければ、イギリスはドイツ軍のベルギー通過を開戦事由と必ずしも見なさないという見解を、繰り返し表明していた。
 他方でドイツの文民の指導者たちは、最後通牒を、ブリュッセルとの何らかの取引を引き出し、それゆえイギリスを戦争の外にとどめることを可能にする唯一の方法だと思っていたため、これに代わる案はないと考えていた。
(略)
[しかしベルギーに]通牒を届けた瞬間から、すべてがドイツにとってひどく悪い方向へと進み始めた。モルトケがただベルギー南部を突き進んでいれば、軍事的な便宜上からの逸脱行為で済ませられたかもしれない。
(略)
報道の嵐がベルギーと協商国を襲い、至るところで憤激を巻き起こした。べルギーでは愛国的感情が爆発した。
(略)
 ドイツ人の多くが、徹底的に抗戦するというベルギーの決定に衝撃を受けた。(略)ベルギー駐在ドイツ大使館の外交官の一人は嘆息した。「おお、哀れな愚か者よ!なぜスチームローラーに道を譲らないんだ。彼らを痛めつける気はないが、我々の進む道からどかなければぺちゃんこになって地面に埋まってしまうだろう。おお、哀れな愚か者よ!」。

総括

オーストリアでは、青二才の無法者と国王殺しの国民が辛抱強い年長の隣人を際限なく挑発し刺激しているという物語が、ベオグラードとの関係をどのように維持していくのかについて冷静な評価を下す際の妨げとなった。その裏返しにセルビアでは、貪欲な全能のハプスブルク帝国に虐げられ抑圧されているという妄想が同じ役割を果たした。ドイツでは、将来の侵略と分割という暗い構想が一九一四年夏の意思決定に取り憑いていた。中欧両大国から繰り返し聡辱を受けてきたというロシアの物語には同様のインパクトがあり、過去を歪めると同時に現在を明確にした。なにより重要なのは、オーストリアハンガリーの没落は歴史的な必然なのだという、広く伝播した語りである。

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