犯罪・捜査・メディア: 19世紀フランスの治安と文化

時間がないのでチラ読み。

フランス人にとってのアパッチ族

1848年の直後に移民たちをひきつけたカリフォルニアの金の輝きと、メキシコのフランスという帝国の夢、そして中央アメリカ地峡の運河貫通計画にはさまれて、19世紀の真ん中、大陸へのフランス人入植の最後の試みを示すある局面が生まれた。(略)
ガブリエル・フェリー、ポール・デュプレシス、ギュスターヴ・エマールのような旅行者たちの多くが、メキシコ遠征の「上官」となるだけでなく、アメリカ西部に関するフランス小説の先駆者ともなったのだった。(略)
定期刊行物は、フランスの介入を正当化すべく、とくに北メキシコの空白地帯の治安の悪さや、アパッチ族の残忍性や、メキシコ当局がアパッチを支配できないことを強調して記事を増やした。(略)
ソノラとパナマ、北はリオ・グランデ、南はダリエンの森に広がる、いわば中央アメリカにおける巨大なラテン帝国としての、新たなフランス・アメリカの夢である。(略)
アパッチ族は生まれながらに乱暴で傲慢で残忍で気まぐれである」。アパッチ族とは、たとえば飽食のように、自ら抑制することのできない快楽や熱情に導かれてさまよう人間なのだ。「アパッチ族の最大の快楽とは、踊りである」。(略)敵は拷問され、女性は虐待され、老人は捨てられる
(略)
 こうして第二帝政の末期には、アパッチ族のフランス輸入の準備はすべて整っていた。大量に普及したこれらの物語によって広まった、文明の屑や障害としてのアパッチ族の姿は、自由主義の帝国が、次いで若き共和国が促進しようとした「下流」階級の統合の新しい戦略ともよく合致するものだったのだ。労働者の脅威を罪のないものとするためには、いまや道徳化され近代社会の価値と規範とに賛同するようになった労働者全体から、反逆し、社会復帰できず、ほどなく徒刑場や処刑台によって排除するほかないこれらの部族を切り離し、ばらばらにするに勝ることはなかったのだ。
(略)
さまよい、餓え、喉を乾かせた民族(略)辛抱強く狡猾で興奮しやすい民族(略)アパッチ族、この狼のような人間たちは、きっと狼のような運命にあるのだろう(略)
 文明の、さらには人類の屑としてのアパッチ族の表象がこのように強化されていったのと同じころ、インディアンと不良たちとをはっきりと結びつける、もしくは部族たちのアメリカとどん底のパリとを巧みにつなぐ物語が増えてゆくようすが見られた。(略)
[あさましい相続事件の渦中に登場するチェロキー族族長、「酋長」を殺した者たちを追いパリの道々で追跡をするパウニー族etc]
こうした連中はパリのインディアンなのである」。こうした言葉の使い方は、あらゆる脅威的な人間や規範外の人間を示すものともなった。(略)10年後、あるパリの医師によって、若い不良たちは「手に負えない野生児たち」と表現された。1884年になっても、従兄弟を殺したとして起訴された男が、「つま先から頭まで本物の未開人のように刺青をしていた」という理由で、司法官によって「正真正銘のアパッチ」として描かれている。
(略)
 次第にわかりやすくなってゆくこうした相関関係に、アメリカが現代化した表象をもたらした、森と狩猟の世界と新興の推理小説が持つ構造との、これまた古典的な類似が加わる。探偵を犬に、犯罪者を猛獣にという行為項の動物化は、推理小説の本質的な要素のひとつだからである。(略)
デュマは「アメリカの原始林もパリの原始林ほど危険ではない」と書いていたが、フェヴァルは『黒服たち』の章に「パリの森」という題をつけている。
(略)
ベル・エポック期のフランス人は、イロコイ族とシャイアン族、シュー族とコマンチェ族の区別を熟知していた。つまりアパッチ族を選ぶというのは明確な動機によるものだった。若い不良たちにとって、それは彼らが感じている断絶の論理をとてもよく表していた。社会の植民地化の前線の隅で保護区に閉じ込められた、おとなしくなったインディアンであるほかのプロレタリアたちとは反対に、彼らは武器を捨てることを拒否していたのだ。次第に規準が確立されてゆく文明の前進堡から追いやられ、労働や工業時代の幻想を拒絶し、出し惜しみされる娯楽を味わえるのかどうかが気になっていた彼らは、高慢で束縛のない自由を渇望していたのだ。残忍で反抗的な戦士である彼らは、文明の進歩を支持する者たちに報復攻撃を仕掛けていたが、その絶望した明晰さのなかで、自分たちの闘いに未来がないことを知っていた。

「ミゼラブル」

軽犯罪の世界の概念と表象も新たに整理される。それまでの、常識破りな人生であるとか個人のモラルとして捉えられた、閉ざされた、独特な、つまりは例外的な犯罪性という考えに基づく、潜入し囲いこみさえすれば無力化できた世界から、当時社会に起こっていた変動とも密接につながった、より拡散する、鈍い、うずくような「社会の傷」としての危険の認識へと移行したのだ。(略)統計学者や社会調査者、それに小説家たちは、ミゼールと犯罪の組み合わせという暗黙の前提を後ろ盾に、犯罪性の社会的な意味を示そうとする、ロマン主義的イマジネールに結びついた新しい描写のパラダイムを吹き込んだ。犯罪は、奇抜、異国的、反自然的の域を出て、堕落という社会的過程の行き着く先、「ミゼラブル」たちのみすぼらしくて悲壮な活動の場となったのである。労働社会が作り出すこの社会の沼地の中で、労働者たちは身の毛もよだつようなミゼールの苦悩に虐げられ、いつだって犯罪の中に沈んでしまいかねない。こうした描写は、新しく強力な普及方法に助けられ、いっそう効力を強めた。この時期は、小説が写実主義的に、すなわち社会派になり、文学的表現の特権的な形式として認められるようになった一大転換期と合致する。そしてその伝播は、同じころ起こった産業出版の考案、普及方法の改良、そして当然のことながら連載小説革命によってさらに活発化したのである。

ファントマとアパッチ

 周縁へと追いやられたうえ、庶民階級からますます切り離されてゆくせまい縁を割り当てられたこうした軽犯罪者たちは、犯罪の玄人となった。ファントマとアパッチたちの関係(略)
アパッチは、自分たちの利益のために行動できることはほとんどなく、自分たちを「協力者、いやむしろ友」にして必要次第で使うファントマのためだけに存在するのだ。なぜなら、とらえどころがなく、なかなか捕まえることのできないファントマは、彼自身はっきりと自白しているように、まさに犯罪の寓意だからである。「私は、世界中が探しているというのに、誰も見たことがなく、誰も見分けることのできない者なのだ!私は「犯罪」そのものだ!」。事実ファントマは、謎に包まれた知られざる雇い主、その場その場で採用したり解雇したりし、支払ったり……支払わないときもある、(略)安月給の軽犯罪者で、団結もまとまりもないアパッチたちは、従順な落伍者の、下働きの、手下の、「ファントマの雇われ」の集団でしかない。
(略)
 ファントマは、大衆小説からそのお涙頂戴の道徳主義を取り除き、写実主義的、さらには超現実主義的な残酷さの、より粗暴で機能的な表現を見せたわけであるが、その引き換えにミゼールと犯罪とは徹底的に分断されることとなった。
(略)
アパッチの大部分は経済発展により周縁へと追いやられたか、さもなくば新しい工業規律をしばしば不明瞭な方法で拒絶した労働者たちであったというのに、アパッチをプロレタリアとの結びつきから切り離し、「職業的犯罪者」や「悪」人たちの閉ざされた世界に帰すためのすべてがなされたのである。

三面記事

 「三面記事とは、小説ではないにしても、記者のすぐれた想像力による短編以外のなにものでもない。事件が起こるのを記者が待っていたら、新聞は二日後に出ることになるだろう」。バルザックも『幻滅』の中で、「パリ雑報が今ひとつ冴えないとき、ピリッとさせるためにでっちあげるまことしやかなガセネタニュースのこと」と書いているが、七月王政期の新聞界に「三面記事」という言葉が現れてからというもの、このような発言は三流新聞に対して長い間なされていたような評価に入れ替わって、何度も見られた。
(略)
情報を提供することに腐心するあまり、コラムは、メディア化の要求と、コラム自身を作る語り方との要求に捕らえられてしまう。というのも情報は、煩雑できわめて体系化された内部手続きに従って選別されるため、思いがけない事態や事件には最終的にほとんど場所が残らないからである。作り上げ、書き上げる手順についても同じで、かなりの場合において、それは職業上のしきたりや要請(速く書くこと、そしてそのために月並みな表現や描写を用いること)が課す、あらかじめ決められた下絵に従っているのだ。こうした性質は結局、現実を作ると同時に型通りで確実な語りの母胎のなかで崩壊させてしまう、既製品のような閉鎖的な言説を作り出す。この現象は、三面記事の記者たちに対して、ますます刺激が高まってゆく読者の気をそそるべく才能と「文学的」手腕とを発揮させながら、ますます速く書くようにも仕向けるという文化産業の矛盾した要求(出来事に密着し、競争相手の裏をかくために先手を打ちさえするというのは、1880年代以降新聞の主要な目的となる)によって、いっそう複雑なものとなる。ジャーナリズムのはしごの下の方で細々と暮らす三面記事の記者たちは、彼らにとっては昇進や栄誉に見えたこうしたコラムの「機能化」に、次第次第に誘惑されていった。
(略)
三面記事と犯罪小説はこうして、読者の日常は語られるに価することなのだと、月並みなことはじつは特別なことなのだと、日々読者に向かって繰り返すのである。
(略)
 「小説も詩人も、社会が作り出すものだ」。なかなか良いアイディアに恵まれない若い作家サルヴァトールの声を介して、デュマはこのように答えている。つまり小説を書くためには動きに身を委ねさえすればよいということであるが、その動きとは、まず社会に身を浸すという動きであり、次に満ち潮と引き潮の揺れのことである。(略)
こうしたテクストが用いた共通のディスクールを捉え、そこから社会的な意味を引き出すという、また別の段階の分析を促すものである。ここで重要なのは、演出されているテーマ群やモチーフというよりも、蓄積と並置によって最終的に意味をなす、テクストの建築、構成、構造である。
(略)
これらの物語が成していた巨大で大量の間テクスト性は、かなり深い構造上の変化があったことを示している。事実関係と犯罪事件を中心とした内的で独白的な従来の語りに、より複雑な記述と注目をし、捜査という別の「出来事」の流れを追うことに専念するようになった別の物語が徐々に代わってゆくのだ。
(略)
三面記事の場合、恐ろしさ、残酷さ、「状況の」詳細など、元来犯罪に、次いで訴訟と刑の執行に注目していた語りは、事実と責任とを体系的に復元する責任を持つ、まったく別の物語へと次第に変わっていった。新聞の見出しの窮屈な枠から逃れることのできたすべての報告にとって、捜査の進展(手がかり、仮説、推測によって区切られ、まず「新事実」の現れない公的な捜査、次に「私的」捜査)こそが物語の中心となったのだ。

時間がないので次回に続く。