犯罪・捜査・メディア・その2「居心地のよい」監獄

前回の続き。

「居心地のよい」監獄

王政復古期の末期から執拗に見られるようになってきたこのような主題は、宮殿のような監獄と「見せかけの博愛主義」に対して声をあげたトックヴィル省察(略)
「越冬」監獄(天候のよくない季節、浮浪者や軽犯罪の再犯者を威嚇するかわりに、その陣営から入所希望者を集めてしまう、快適すぎる監獄)というヴァリアントの中に同じ主題は見られた。(略)
憤りと愁訴のスタイルを結束させたこの監獄のイメージは、1885年から1914年にかけての大量発行新聞のとてつもない普及によって増幅され、大幅に飛躍した。ぜいたくな独房、豊かな食事、ぬくぬくと暮らす囚人、懲罰なき刑罰といった伝統的なモチーフに、社会に対する罪を犯して罰を受けている悪人たちが、監禁の間、善良な市民が享受しているものよりも上等な生活状況に恵まれているという、民主主義制のもとで独自の深みを持つことになるひとつの論拠が加わったのである。
(略)
 こうした話題は、1895年以降、フレーヌ監獄が開かれたことによって非常に強く支持されることになる。(略)
「われわれは、宮殿に似た監獄を建てるという、このいまわしい道を進んでしまったわけです。その監獄には、パリの人々の多くが、裕福な人々でさえ自宅に持っていないような、とても豪華な浴槽があるのです」。二年後にはロリオ議員も、囚人は兵士よりもよく扱われているのではないかと推測している(略)
1901年、医師のルジュンヌも、「フレーヌ監獄は物質的に兵舎よりも住みよいのだ」と言っている。「殴られる以外にないはずの」悪党や無頼漢が、祖国の防衛のためにみずからを犠牲にしている徴兵された若者や兵士以上の快適さ、制度、ぜいたくを享受しているというのは、新聞にとって、飽くことなく告発されるべき、許しがたいスキャンダルだった。
(略)
 囚人たちは、朝は肉の入っていないスープを、夜は野菜たっぷりの料理を食べている。木曜と日曜には、骨を抜いた百グラムの肉が与えられる。ここまで健康的で豊富な食養生を、囚人百人のうち八〇人は自宅で受けられない。そのため囚人の多くは、天候のよくない季節は安心してここに過ごしに来るのだ。食事が十分でないと思う者は、労働の収益で献立をよりよくすることさえできる。
(略)
 監獄という環境が犯罪の原因になるのだという恒例の論拠に、やがて、犯罪増加の直接的な責任は監獄にあるのだという論拠が加わった。
(略)
アパッチひとりを養うのに一日ニフランがかかる(略)「連中はなにもせずに肥えてゆくのだ」。監獄が、「犯罪者が仕事の疲れを癒す快適な宿屋」になってしまったという考えは一般的なものとなり、広告のうたい文句にまでなるほどだったが、それは言葉が急速に大衆化したことを示していた。
フレーヌ監獄では、ペテン師たちのために、
あらゆる配慮とぜいたくが君臨しています。
律儀な人々が生地をこね、ひもじいと叫ぶとき、
あちらの独房にはパン・デュ・コンゴ〔ココナツ菓子〕があるのです。
(略)
こうして、処罰権と処罰義務の表明として捉えられたこのメディアによる懲罰監獄という主題への没頭は、1885年に実現された監獄教育の支持者と、見せしめとしての刑罰ないしは「厄介払い」政策の支持者との間の弱々しい平衡状態にひびを入れたのだった。

ロマン主義の監獄

 読者が視線を新聞の下のほうへ、日刊の連載小説が栄えるあの一階へと滑らせていったときに見出すのは、これとはまったく別の監獄だった。
(略)
 こうした小説が広めた監獄の表象は、とりわけ新聞が吹聴する表象とはかなり異なるものだった。多くの場合これらの物語は、監獄を悲痛な場所として紹介する。監獄は絶対的な規則の場所なのだ。(略)囚人はあらゆる規範、形式、際限のない命令によって枷をはめられた存在なのだ。(略)
 このように息の詰まる場所に閉じ込められ、囚人はほどなく沈黙と落胆という苦しみに陥ってしまう。監獄に押しつぶされずにすむ者は稀である。犯罪文学の中で少しずつ頭角を現してゆく犯罪の天才の典型である元徒刑囚のロカンボルもまた、はじめはコンシェルジュリー監獄、次にマザス監獄で、監獄の印象に打撃を受けている。「彼の独房に不意に入る者があったならば、きっと彼の青白さと衰弱とに驚いたことだろう。……彼は神経をやられており、泣いてさえいたのだ」。(略)「独房制度はおそらくあらゆる監獄制度の中でもっとも恐ろしいものにちがいない。つねに一人でいることで、この囚人はほどなく精神の力と肉体の力とを失ってしまったのだ。予審にたどり着いたときには、すでに半分負けてしまっていた」。ロカンボルに続く犯罪の超人たちも、概して同じ苦しい経験をした。(略)
「非凡で、天才的で、人の目に見えないあの人物が、遅かれ早かれ対抗する障害を打ち破り敵の仕事を打ち砕くことになる正義という途方もない力によって逆に打ちひしがれ、ほかの人間たちと同じように、独房の四つの壁の中でうなだれていた」。(略)
監獄の印象はきわめて重くのしかかってくる。ファントマのような、もっとも強い者さえも打ちのめしてしまう。
(略)
ロマン主義の周縁で生まれた連載小説は、生まれてすぐに受け継いだイメージを乗り越えるのに苦労していた。それがどのようなジャンルであれ、監獄は新聞の下方に居場所を持つ文学にとって、ロマン主義的イマジネールから遺贈された墓の比喩であり続けたのだ。ゴシック文学であれ熱狂文学であれ、暗黒小説がどれだけ監獄を、荒れ地や朽ち果てた城館とともに物語を取り巻く環境の主要なモチーフのひとつにしたかは知られており、その名残はユゴー、ネルヴァル、ボレルの中に長いこと見られた。ロマン主義歴史小説の君主、ウォルター・スコットもこの鉱脈をたどっており、そのようすはよく知られた『エジンバラの監獄』に表れている。その足を社会的ロマン主義がつなぎとめた。死刑囚の密房、地下牢、ないしは独房としての監獄は、社会がみずからの周縁と向かい合い、義務と権利、権力と反抗、道徳と法律といった数々の主要な軋轢が表れているのを目の当たりにする、問題だらけの空間となったのだ。よって、償いや更生や贖罪が実現されるべきなのも、監獄の壁の中ということになる。
『死刑囚最後の目』に始まり、『マリー・チュドール』もしくは『リュクレス・ボルジア』に至るまで、監獄はユゴーの描く悲劇の中でも特権的な場所のひとつとして現れる。
(略)
20世紀初頭の一大作品群では、監獄はもともとの使命から努めて引き離されている。たとえばアルセーヌ・ルパンはサンテ監獄の独房から「新聞のキャンペーンを率い、卓越した腕を見せ」たし(略)
ファントマがみずからの独房を一種の風車小屋にし、以下のようにたびたび利用していたのも同じ目的からである。「彼にとって監獄は、好きなように出て行って活動に励んでは、自由が必要なくなると戻ってくる、宿屋のようなものだった」。隔離を打ち破り、監視の裏をかき、推理小説の主人公たちは制度を愚弄してみずからの自由を主張する。その点で彼らは、そのころ新聞で花開いていた議論に、面白い方法で近づいていたことになる。ほどなく脱獄は、監獄に期待できる唯一のこととなった。「アルセーヌ・ルパンは脱獄するはずだった。それは避けられない、必然的なことだった。なかなか脱獄しないので驚かれるほどだった」(略)監獄は一時的な場所でしかなく、脱獄の前の一種の待合室のようなものだったのだ。
(略)
脱獄が不可能なときには、処刑台が物語を展開させることになる。なぜなら脱獄できるのは主人公だけだからだ。そのほかの手先やいかさま師や下っ端は、早朝、薄明るい空のもと、独房から出てゆく。もうひとつの見せどころである処刑の話もまた、社会的ロマン主義ステレオタイプと関係回復させてくれるものだった。(略)
監獄のロマン主義的表象にうんざりした読者は、別のものを要求していた。独房の藁が持つ湿気よりも、脱獄の興奮や処刑の戦慄を好んだのだ。