真説・長州力 1951‐2015・その2

前回の続き。

真説・長州力 1951‐2015

真説・長州力 1951‐2015

 

キラー・カーン

[アポなしで店をたずねインタビューを申し込んだら]
 「おっ、おっ、俺に長州のことを聞くのか?」
 小沢は喉に詰まった何かを吐き出そうとするかのように太きな軀を折り畳んだ。
 「俺は、俺は長州という人間が嫌いだった。あの野郎、刺し殺してやろうと、そのぐらいの気持ちになったこともある」
 必死で怒りを抑えるように軀を震わせていた。(略)
[慌てて退散し、翌日電話。小沢は落ち着いており、長州はどうでもいいが]
子どもがまだ小さいとき、一番俺が稼げるときに、スパッとプロレスを辞めたのはやっぱり長州なんですよ。
(略)
アメリカにいるときに、大塚さんからの電話で長州が新日本に戻ったことを聞いて、俺はただ、びっくらこいてね。長州は、あれだけ男同士みんなでやろうって言ったのに、なんでまた金に転んで戻ったんだと。猪木さんの会社に後ろ足で砂をかけた人間でしょ? 意地でも戻らないでしょう。新日本に戻ったということは馬場さんのことも裏切ったんですよね。俺は悔しくて一晩泣き明かした」
(略)
[父の跡を継いだばかりのマクマホンJrは小沢を高く評価しており]
 「お前が何か困っているのならば、どんなことでも解決してやるからと言ってくれた。俺のことが必要だと。それでスケジュール帳を見せてくれたんですよ。そうしたらいろいろと試合が組んである。ほとんどがメインイベントなんですよ。そのときは頭を駆け巡りましたよ。ここでは二万ドルは取れる、あそこならばもっと取れるとか」
 それでも小沢の意志は変わらなかった。すでに日程が決まっていた試合をこなした後、87年11月末に引退。

橋本真也

[ドン荒川にけしかけられた橋本の蹴りでヒロ斎藤が左手甲を骨折。長州とマサは控室に橋本を呼びつけボコボコに]
[小林邦昭談]
もう死ぬ一歩手前ですよ」
小林はこの夜、橋本の部屋に電話を入れた。
「(略)悪い雰囲気を引きずりたくないじゃないですか。(略)
[移籍は新日側から頼んできたこと、移籍金は受け取ってないこと説明すると]橋本は「ぼくたちはそんなこと聞いていませんでした」と素っ頓狂な声を出した。(略)
橋本は小林に「すいませんでした」と謝った。この謝罪をきっかけに橋本は長州たちと打ち解けるようになった。

越中詩郎

 越中も長州の現場監督時代に引き上げられたレスラーの一人でもある。
[三銃士の台頭で押しやられた小林邦昭越中で勝手に誠心会館との抗争を始める](略)
だから最初はいい気はしていなかったと思いますよ。なんだよ、勝手なことをやりやがって、と。最初は試合として認めてもらえなかったんですから」(略)
[92年正月の東京ドーム、小林☓齋藤彰俊戦が全試合終了後に行われ、控室に戻ると]
長州が一人で待っていた。ほかのレスラーはすでに引き揚げていた。
 「(略)長州さんはこんな反響があると思っていなかった、みたいな顔をしていましたよ。そして、ニタッと笑って、“次はお前だ”って」
(略)
 長州は越中の勘の良さを認めたのか、八月には天龍源一郎が主宰していた団体、WARに乗り込んでこいと命じている。(略)
 越中たちは新日本とWARの対抗戦の布石となった。(略)
[93年、反選手会同盟は、「平成維震軍」と改名]
 「長州さんから、新日本本隊と離れてくれ、お前らで興行やってくれと。それはまた大変だったんですよ。でも、それやっても客が入った。しばらく新日本のリングに上がらずに外をずっと回っていて、またどっかで会ってということを長州さんは考えていた。(新日本の興行に)合流したときにまたインパクトがある。そのタイミングなんかは、もう滅茶苦茶いいですよ」
 越中新日本プロレスヘの“中途入社”としての分をわきまえていた。(略)
 「平成維震軍は三銃士と絡まない。三銃士は三銃士。(長州の考えは)メインはあくまでも生え抜きの三銃士。その脇で盛り上げろと。後に関わり出したのは、蝶野が(三銃士の中で)浮き始めたときぐらい」
(略)
[やがてマッチメイクに絡むことに]
――それは狡いぞ、それは狡いぞ。俺にみんなやらせるのか。俺の右腕なり左腕になってもらわないと困る。
――お前もキャリアを積んでいるんだから、そういうわけにはいかないぞ。
 長州の苦労を考えれば、とても自分は勘弁してくださいなんて言えないと、越中は溜息をついた。
(略)
 「次のシリーズはだいたいこういう流れで」
 長州と越中が席に着くと永島が紙を渡した。紙をじっと見つめる長州の顔が険しくなった。今日は長くなりそうだ。越中は暗い気持ちになった――。
 「(一つのシリーズで)三十何試合やって、次の日の朝10時に会社に行かなければならないわけですよ。
(略)
「当日になって、何かレスラーが気にくわないことをやったり、問題を起こしたりすると、“あいつは駄目、外せ”と。(略)
 「当然、人間関係はぐちゃぐちゃになるわけじゃないですか。いい扱いをされる選手はおーってなるし、そうでない選手は端っこの方で……(陰口を叩く)。当然、それは長州力の方に行きます。その負担をぼくが半分にしてあげられたか……」
(略)
 「よく言っていたのは、みんな平等にチャンスはやるということ。絶対に長州さんはチャンスを与えています。ただ、それを摑む、摑まないかはそいつ(の力量)。例えば記者会見で頓珍漢なことを言って、客が離れたら見放される。ぼくから見ていても、誰かをかわいがっているというのはなかった。好き嫌いなし。それも立派だった」
(略)
 「ぼくがちょっと囓って大変なんだから。長州さんはがっちり囓っているんですよ、ぼくでも分かり得ない部分がまだあるんです。
(略)
 「他団体との交渉なんかも闘いなんですよ。その最前線の駆け引きで長州さんが負けたことは一回もないですから。それは凄いですよ。結局ねじ伏せますよ。Uインターのときもね」

平成の黄金時代

[坂口長州体制で財政は健全化]
 「ドームをこなせると収益がまったく変わってくる。テレビの放映権料も上がっていましたし。あの頃にビルを造るべきでしたね」
 89年に坂口が新日本の社長を引き継いだときにあった10億円の借金は、10年足らずで完済した。
 「(略)坂口さんが“長州、今日で借金終わるぞ〜、銀行、行くかあ”って。応接室に通されると“これで全部終わりです”。そこで坂口さんが冗談で“次から違う銀行にします”と言った。そうすると向こうは“いやいや、少し残しましょう”って。帰り道、坂口さんが“銀行ってこういうもんだぜ”と話したのを覚えています。坂口さんは(経理に)細かいから良かった」(略)
 「いつもぼくは坂口さんに“細かーい”って文句を言っていた。文句を言っていたけど、あの人が一番まともでしたね。坂口さんはちょっと馬場さんに似ているところがあって、あのときはみんな人間関係がうまくいってた」(略)
[坂口談]
 「新日本を作ったのは猪木さんですけれど、育てたのは坂口さんとぼくです、って。長州の名言だよ。(略)
 「ドーム興行が成功。三銃士が出てきて、グッズが売れた。『闘魂ショップ』って俺が考えたんだよ。(略)最初は切符やTシャツを売って、家賃分ぐらいになればいいと思っていた。ファンの集まれる場所になるしね。そうしたら、両国の『G1クライマックス』のチケットを闘魂ショップで先行発売ってやったら徹夜で並ぶ人が出てきた。麻布署から怒られたんだよ。(略)切符の売り上げだけで4000万とか5000万あった」
 この時期の新日本プロレスは派手な社員旅行でも知られていた。
 「俺の方針は、儲かったらみんなでいい思いをしよう、金残して税金払ってもしょうがねぇじゃんって。ハワイに家族みんな連れて百何十人で行ったりよお。ゴルフコンペに優勝したら自動車一台だもの。ハワイは四、五年(連続で)行ったんじゃないかな。

大仁田を拒否した猪木

大仁田はプロレス専門誌の記者から、猪木と長州に溝ができていると聞いていた。猪木の小川に対して、長州も「爆弾」を欲しがっているというのだ。[大仁田は乱入し長州に対戦要望](略)
これに猪木は過剰に反応した。[全社員を招集。営業部員は賛成で意思統一して部屋に入ったが、猪木に圧倒され何も言えず](略)
――お前らはあいつの毒を知らない。
――大仁田は殺しても、殺せないんだ。
――あいつをなぜ新日本のリングに上げちゃいけないか、分かるか? あいつは負けても消えない。負けても勝った人間の上を行っちゃう毒を持っている。だからあいつには触っちゃいけない。(略)
 猪木が大仁田を嫌うのは、二人が同じ種類の人間であり、近親憎悪なのだと神尊は考えるようになっていた。
(略)
[大仁田談]
「[東京ドームの]試合が終わったときに、絶対長州に辿り着けると確信した。(略)なぜかというと、最初に佐々木健介を当ててきたから。長州さんがウエルカムじゃなかったら、蝶野とか武藤とか、あの辺が出てきただろうね。プロレスってさ、先を読まないといけないのよ」
(略)
[その後、蝶野、ムタらと試合をしたが]
肝心の長州の動きがなかった。大仁田は次第に焦りと不安を感じていたという。
 「長州さんって、あんなに不器用だと思わなかった。(挑発に対する)返しも悪いしよぉ。そのときに現れたのが、真鍋だった。誰かいないと絶対に持たないと思ったんだ。それで三角関係をつくろうと。“おい、真鍋、俺と長州どっちが好きじゃ”って言ったりね」(略)
「みんなやらせだとか言っているけど、あれはまったくのアドリブだよ。全部シビアなやりとりだよ。この男を使わないと長州に辿り着かないと思った。(略)
[真鍋をビンタしたらテレ朝の偉い人が怒って]もう真鍋は大仁田のところに行かせないと言ったんだ。ところが、その日の視聴率がバーンッて上がっちゃったわけよ。そうしたらコロッよ」(略)
 [大仁田のマネージャー]神尊はたびたび長州と会って話をしている。長州は引退した自分が復帰することは受け入れられるのかどうか、その相手が太仁田でいいのか思案しているようだった。(略)
[埒があかないと見た神尊は永島勝司を焚き付けた](略)
 「“なんか動いてくれないと、こっちもしびれを切らしますよ”と話をしたんです」
[永島が独断で“長州の汗が染み込んだ”Tシャツを大仁田に手渡し既成事実を作り、ようやく長州が重い腰を上げる]

新日の分岐点

新日本の綻びは、大仁田が長州に試合をする気があるのかとじりじりしていた頃に始まった。
[99年6月24日坂口が大株主の猪木から社長退任を告げられる](略)
俺も10年社長をやったし、借金を返したし……いつまで社長をやらないといけないんだろうというのも俺の中ではあった」
 背景にあったのは1月4日の橋本対小川の試合だったと坂口は考えている。
「あの時、俺が号令をかけていないのに、長州も選手もみんな会社にやって来たね。あのときは長州が一番頭にきてたな。現場監督やっていたからね。“社長、小川の野郎はどうするんですか”ってね。(略)
[功労者の]坂口を突然社長から外すのはひどい仕打ちだと憤ったレスラーたちが自宅に訪ねてきたという。
 「選手は武藤と蝶野、そして橋本は来れなかったので、かあちゃん(妻)を寄越したな。あと営業の偉い奴らが来た。どうするんですかってね」
 彼らが知りたかったのは、坂口が新日本を割って新団体を興す意志があるかどうかだった。
 しかし――。
 「俺は今の会社にずっといて、ちゃんと見てきたから、余計なことはしたくないって言った。でも、なんかみんな本気だなって、あのときは嬉しかったね」
 坂口は証券会社と相談して、新日本プロレスの上場を進めていた。その動きも猪木の癇に障ったのかもしれない。自分が立ち上げた新日本が手の届かない場所に行ってしまうという不安もあったろう。
 坂口は会長に棚上げされ、社長には藤波が就任した。(略)
金融機関から信用のあった坂口の退任、そしてこの後のプロレス人気の冷え込みもあり、株式上場計画は頓挫することになった。(略)
[長州は三銃士の中では]橋本を買っていたという。
 「インパクトをつくれるのは橋本が一番。橋本とはいろいろとあったけど、かわいい奴だよ。神経がずぶとくてね。あんなデブでも素質と素材がある」
 そして「こっちの素材はちょっと(足りない)」と言って頭を指さして笑った。
 「ゼロワンを作って出ていくときは止めましたよ。ああ、何度も会ったな。でもチンタの意志は固かった。チンタは意地を張って出て行ったんだろうな」(略)
 この時点ではそれほど危機感はなかったという。
 「橋本だけでなく、敬司も蝶野も出て行くとしんどいなと。でもチンタだけだから。敬司はのらりくらり[全日移籍と]天秤にかけた。蝶野は二人とも出て行ってほしかったんだろうな。なんか見ていて分かった」
(略)
[坂口談]
「俺が社長をやっていた頃は本当に会社がまとまっていたんだ。みんな和気藹々として仲が良かったし、選手離脱もなかった。俺が社長を外れてから、ガタガタっときちゃったな」
[2001年夏、長州が総合格闘技出場を認めなかったため、猪木が現場監督から外す。その後、溝は埋まらず長州は退団]

保永昇男

長州の取材を続ける中で、何度もその男の名前が出た。
――長州さんのことを一番知っているのは保永じゃないかな。
――保永さんは最後まで長州さんを守った男です。
(略)
[WJ]旗揚げから天龍と六連戦をやると聞かされたとき、保永は長州の軀を案じたという。
 「新日のときの馳や健介のように、フォローしてくれる若手がいれば負担が減るわけじゃないですか。でもそういうわけにはいかなかった。天龍さんも妥協しないタイプだし(略)
 保永はWJでレフェリーの仕事以外に、若手レスラーのコーチも務めた。(略)
 主たるレスラーが去った後も、保永は毎日自宅のある船堀から久が原の道場に通った。(略)
 コーチだけでなく、保永が料理を作ることもあった。(略)
 そのほか、鉄製のトレーニング器具の作製、建物の不具合が出ると工具箱を持って保永が出て行った。WJが活動停止をした後、道場の壁に書かれた「WJ」の文字を消さなければならなかった。業者に頼む金はなかったため、手先の器用な保永がペンキで塗り直し、リキプロのロゴを描いた。
 保永はWJから出て行ったレスラーを庇った。
 「所詮レスラーというのは個人事業主の集まりなんですよ。だから、仕方がないんじゃないかな。健介は健介で、もっと安い場所で道場をやったらどうかという話をしていた。でも長州さんは、うんと言わない。それ以外でも、健介はよかれと思っていろいろとアイデアを長州さんに持っていっていたけど、長州さんは“俺はやんない”ということがあった。もう限界だったんだろうね」
 WJで給料が出たのは旗揚げから数ヶ月のみ、リキプロでも保永はほとんど金を受け取っていない。(略)
[リキプロ閉鎖の際、増築部分を現状回復する必要があるとわかり、保永が車を売り自腹で払った。さらに水漏れが見つかり保永がDIYで修理](略)
 「石井たちはもう新日の巡業に出ていましたからね」
 事も無げに言った。
 後から保永が立て替えた修復費を支払いますと石井が連絡を入れると「いいよ」と断った。そういうわけにはいかないからと話して、何度目かにようやく金を受け取ってもらったという。
 長州は新日本に戻る際、保永も誘っている。しかし、保永はそれを断った。
 「レスラーだったら何人いてもいいですけれど、新日を見たらレフェリーの頭数は揃っていたんですよ。だから、俺はいいですと」

アントニオ猪木

何度も交渉したが猪木は取材を受けなかったと伝えると、長州は「ああ、そうですか」と頷いた。そして、はあと溜め息をついて、「ああ」と意味にならない声を何度も出した。(略)
 しばらくしてから長州は猪木の話を自ら始めた。
 「よく猪木さんってどういう人って聞かれるんです。凄い人だとかそれぐらいしか言えない。なぜ、この人が凄いのか……(こう思っているのは)ぼくだけかもしれない」(略)[逡巡があって]
 「ぼくはあんまり難しい話をしたくない。これが(取材の)最後だっていうので……やっぱり(言っておかなければならない)。あの人には絶対になれない。真似る人間はいたとしてもなれない。
(略)
 「プロレスは筋書きがあるとかみんな書いている。でも、あの人はシュートです。なんのシュートというのかは……あの人のリングの中のパフォーマンスはシュートです。だから凄い。それはぼくも経験しているしね」
(略)
試合をやっていくとリングの中でドンドン深いところに入っていく。この人はどこまで深くまで入っていくのか。オーバーと思うかもしれないけれど、深海の深いところ、どこが海底なのか分からないところまで……」
(略)
[ある試合中]
 「殺せと言われた」(略)
 「長州、殺せと。そのとき、うわっと反応するものがありました。この人はそこまで行く人なんだと」(略)
 「最初は聞き取れなかった。あの人、本気でリングで死ぬことを求めていたのかもしれない。だからあの人には敵わないんです」

マサ斎藤と健介も取材拒否

長州は何度か「マサさんは取材に応じた?」と訊ねてきた。斎藤の妻と交渉を重ねたが、長州については話したくないと言っていると断られた。そのことを伝えると長州は寂しそうな顔をした。
 もう一人は佐々木健介だ。佐々木については、WJ時代に自分が500万円を借りたことにされていると長州が声を荒らげたことがあった。(略)
長州は斎藤の場合と違って、佐々木が取材を断ってきたと聞くと鼻で笑った――。
 長州はしばらく考えた後、口を開いた。
 「得たものは、人を見る目。お前に俺の何が分かるって言われるかもしれないけど、なんとなく分かる」
 「では、失ったものは?」
 「ああ、家族ですね。自分の子どもをよく知ることができなかった。みんな元気にやっているんですけれど、ずっと一緒にいて成長を見たかった。(そうした時間は)取り返せない」

長州力 最後の告白

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真説・佐山サトル タイガーマスクと呼ばれた男
 

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