戦前建築界の右傾化状況 磯崎新と藤森照信〜

戦後語られなかった、戦前戦中「モダニズム」についての磯崎新藤森照信の対談。その前に、東京大空襲に協力したレーモンドの話。

モダニズムはどう戦争を切り抜けたか

藤森照信 (略)建築界は、日本の建築家が戦中、戦後をどう切り抜けてきたかについて触れません。文学とか演劇とか絵とはそこが違う。しかし、戦争は日本のモダニズムにとって最大の試練でした。
 切り抜け方は単純じゃなくて、あの渦中で何かをあきらめた人もいるし、逆に大事なものを得た人もいるんですよね。得た人の代表は丹下健三だと思うんだけど、ちゃんと明らかにしておかないといけない。
(略)
磯崎新 終戦の年に僕は十四歳でした。三、四年くらい上になると堤清二みたいな人がいる。この人たちは戦前もある程度知っていて、むしろ戦後意識がはっきりしている。建築家でもそのジェネレーションは、戦後いきなり左翼になりますね。でも僕は、まだ下なんです。軍国少年教育を受けたことは確実です。とはいっても日本主義のイデオロギーなんてわからない。気が付いたら、まわりにみんな左翼になってる、そういう時代なわけですよ。(略)
レーモンドは別格でしたが、吉村順三さんも、それから前川國男さん、坂倉準三さん、丹下さんも大江宏さん、白井晟一さん、全員四十代ですよ。(略)
その先生達から僕は習ったわけだよね。でも、戦争前のことは誰もしゃべらないんだよ。(略)
丹下さんは最後までしゃべらなかったね。板倉さんだってしゃべらないしね。うんと晩年に、前川さんあたりが「あの頃の日本はね……」と言うのをちょろっと言われたくらい。他はもう誰も話さないし、聞いたことがないですね。
藤森 しゃべりたくないし、聞けば、何か過去の秘密をつつくような。
(略)
磯崎 [パージされて]四十代はみんな上がいないわけですよ。僕から見ると、僕のちょっと上の世代はほとんどミッシング・ジェネレーションです。つまり戦争でみんな死んでいる。もちろん建築にいけるかどうかなんてわからなくて、目的不明みたいなかたちで挫折したりして、建築とは関係のない世界に行っちゃった人が多い。そうすると僕の前の十年がほとんどいないんですね。いないというか、いるんだけどちょっとタイプが違うんですね。その上が「例の会」に集まっていた丹下さんのジェネレーション。みんな助教授になったばかりの人達。もちろんこの間に大谷幸夫さんとか、もうちょっと上の浅田孝さんあたり。みんな死んでいた可能性もあるでしょ。(略)[浅田は]広島の原爆のあと三〇キロメートルのところにいたんだから。
(略)
藤森 それともう一つは思想的な困難。あの激変をもろに受けると、以後、明るく積極的に生きていくのは難しい。(略)夢なんてもてるかみたいな。周りはみんな死んでいるんですから。浅田さんにはニヒリズムを感じました。静かで控えめだけど、コワい感じがあった。
磯崎 (略)丹下さん達のちょっと上のジェネレーションの建築家達は(略)軍需に関わっていたことはわかるわけ。下の連中は下の連中でいきなり左翼ですから、突き上げていました。浅田さんはその狭間にいた。あの人はだから面白いですね。超ねじれて向こうに突き抜けている。

アントニン・レーモンド

藤森 (略)コンクリートに関しては、レーモンドのほうがコルビュジエに先行していて、世界的に見ると、ペレ、レーモンドの順です。(略)「エラズリス邸案」を一九三三年にレーモンドがパクるわけです。コルビュジエに批判されて、レーモンドはおそらく、お前だって俺のコンクリートから影響を受けただろうと思ったんじゃないか。というのは、ペレが打ち放しをしているのに、コルビュジエはそれに興味をもたず、レーモンドの自邸の後に初めてやろうと思う。
(略)
コルビュジエを思い返しても、柱の太くなった壁みたいなもんです。平らな面で打つということをしない。面で打つということを平気でやったのはレーモンドです。それは、前川さん、丹下さんまでずっと引き継がれて、さらには安藤忠雄までくるわけですよね。(略)
面を平気で使えるということが、戦後の日本のモダニズムを世界の中で際立たせる力の一つになったんじゃないかって思う。
(略)
ルイス・カーンイエール大学で二つ美術館をつくっている。(略)[最初の方の]外壁を見ると打ち放しを全然使ってないんですよ。インテリアの柱には使っています。一方、後のイギリス美術館は柱、梁の打ち放しなんですよ。間にガラスをはめる。あれは丹下さんからの影響だと思っているんですよ。(略)
[カーンは来日して広島平和記念資料館を見て]コンクリートが知的で強靭で美しいものをつくれると気づく。(略)
磯崎 とはいえ、カーンの最初の美術館の天井は手の込んだ立体トラス、円筒形の階段などは打ち放しです。これは柱梁なんかの線材的な型枠とはまったく違う。コンクリートの表現はプラスティシティにあると考えていたのじゃないかな。造型性を重視していたわけです。
藤森 そう考えると、アメリカの構造って基本的に鉄ですからね。鉄のほうが打ち放しより安かったんですって。
磯崎 圧倒的に鉄が安いだけでなく使いやすかった。(略)
藤森 大工の手間を考えると、アメリカは鉄。日本は鉄筋コンクリート
(略)
磯崎 (略)レーモンドのいちばん面白いところはコンクリートにプラスして、木造でしょ。「夏の家」でもクラブハウスにしても、木造でやっているわけじゃないですか。ただ、その木造のディテールが、日本的なディテールと違う。(略)
藤森 レーモンドは、日本の木造の魅力を日本の現代建築家に教えたのは自分だって言う。モダンな木造のつくりかた、日本の伝統的な木造をどう使えばモダンになるかというのを教えたのは自分だって。吉村さんは無口な人なんだけど、「俺だってレーモンドにたくさん教えたよ」って、ぼそっと言ってました。(略)
[「夏の家」の]面取り柱を独創と言っていいのは、真壁の壁って日本では土でやるもんなんですが、板でやるっていうのは日本人の誰も考えなかった。それはやっぱりレーモンドの中のアメリカの板壁のつくりからきている。
(略)
レーモンドとしては「エラズリス邸」は組積造だから、重苦しくてよくないと。でも基本的なプランのバタフライはすばらしい。自分だったらあれを木造におきかえて見事にやってみせるっていう気持ちでやっていた。すると、コルビュジエがレーモンドがパクったって発表する。レーモンドの自伝には、自分のほうがいかにコルビュジエのものよりすばらしいかを書き送ったって載っている。そうして、コルビュジエが、確かにお前のほうがうまいと言ってよこした長文の手紙の内容が載っています。
(略)
「夏の家」の建物はモダニズムの歴史の中で決定的に大事で、コルビュジエ的造形を木造でできるっていうことを証明した。だから木造モダニズムはここから始まると思っているんです。木造モダニズムって世界で日本にしかありません。だってモダニズムって、鉄とコンクリートでつくるものですから。
 木造モダニズムが、どれだけの豊かさを日本の建築界にもたらしたかをたどると、前川さんの流れでは丹下さんとの「岸記念体育会館」を生む。(略)戦後は池辺陽の「立体最小限住宅」に繋がり、さらに吉村順三の名作木造住宅群を生む。
(略)
レーモンド作品のつくり方でわからなかったことがあるんです。彼は、丸太を半割りにして、柱に抱かせて梁にしているんですよね。「夏の家」もそうだし、オフィスもそうでした。今見てもすばらしいと思います。まず、とても安い材を使用し、合理的な構造で、見た目もなかなかいい。あのつくりは誰が考えたのだろうと、ずっと疑問だった。日本の民家はこういうつくり方はしていないし、ヨーロッパでも見たことがない。
 それが、やっと最近わかったんです。(略)
[武田五一]は仮設の技術をよく知っていて、それにそっくりだそうです。丸太を半割りにして柱を挟んで、昔はボルト締めじゃないから繩で締める。それをレーモンドが見たんですね。ただレーモンドが偉いのは、その仮設建築で使われていた方法を本建築までもってきたところです。(略)
江戸時代の頃は、こういった半割り丸太の梁を、手挟みと呼んでいた。レーモンドはこの方法で、合理的で軽くて、すばらしい表現をやってみせるんだけど、さらに言うと、数寄屋や書院、社寺建築のようにならないかたちで、木造建築をちゃんとつくってみせるということを、「夏の家」でやった。
(略)
藤森 両方[レーモンドとコルビュジエ]ともオーギュスト・ペレの影響を受けた。
磯崎 オーギュスト・ペレは、伝統的な柱(カラム)をコンクリートで置き換えていますが、シカゴ派のルイス・サリバンは最初から鉄骨のフレームです。それをル・コルビュジエとミースがそれぞれ受け継いで、コンクリートを可塑的なシェルにまで繋がる側から、徹底して格子状の空間へと展開させたのではないでしょうか。

東京大空襲に協力したレーモンド

藤森 レーモンドは大変な功績を残した人です。日本のコルビュジエ派は、レーモンド、前川、丹下、磯崎とずっと受け継がれてくる。ただ戦後になると、レーモンドヘの批判がいっぱいある。その一つは、“お前が東京を空襲で焼いただろ”という批判です。東京空襲はレーモンドなしにはあり得なかったことを、相当早いうちから日本の建築家は知っていた。たとえば、高山英華さんのように都市防空を担当した人は、レーモンドに対して怒りがあったわけです。(略)
レーモンドは自伝に事情を書いています。日本の軍国主義を終わらせたいと思ったから自分は米軍に協力したということなんです。具体的には、一九四三年、ユタ州の砂漠のダグウェイ試爆場に実験のため、レーモンドの技術指導で日本の木造の広大な下町を再現した。(略)[それにより木造家屋には火だと気づき]焼夷弾の実験をやった。(略)
[東京を焼こうと思った、自伝には書いてない理由、それは彼がユダヤ人だったから]
彼の自伝を読むと、何人もの兄弟はアウシュビッツ収容所で死んでいる。(略)
 以前、僕がレーモンドはユダヤ人だと書いたら、秘書から、とてもユダヤ人だったとは思えないと抗議されたことがありました。だから、言わないようにしていたんです。レーモンドの調査のためにチェコに四回行ったんだけれど、四回目に行ったときに聞いたら、向こうの人が嬉しそうに[レーモンド展の]パンフレットを見せてくれた。(略)展覧会のタイトルが「あるユダヤ人一家の生涯」というんですよ。(略)
レーモンドが一九三七年に日本を去る、その前年に日独防共協定が結ばれています。(略)
 もう一つ、レーモンドのことでわかったことがあって、米国で名前を変えているんです。英語のまま読むと、ライマンというのが、チェコ時代の姓なんです。
 数年前、プラハのテレビ局が取材で来たんですが、彼らが、なぜレーモンドがプラハを去ったのか、その事情を教えてくれた。チェコには、チェコきっての有名なチェコ工科大学があり、建築学科がある。そこの建築学生クラブが貧しい学生のために、毎年奨学金を集めるためのパーティーをやるんだそうです。そのパーティー経理をレーモンドが担当して、翌日金庫と共に消えた。そのお金でレーモンドは米国に行ったわけです。(略)
もちろん国際手配がかかったけど、アメリカでは捕まらなかった。(略)
日本に来たのは、国際手配を逃れるためだった可能性がある。で、どうやってケリをつけたかというと、日本で捕まり、自分が盗んだお金を倍にして日本から返して許されたそうです。

右傾化する建築界

[磯崎との雑談の中で前川國男が]
「戦争中に、あいつら[浜口隆一と丹下健三]は俺を突き上げるんだよ」と。(略)
[前川は日本建築界のリーダーだ、自分達はその弟子だ]今や時勢がそういうようになっているにもかかわらず、はっきりした態度表明をしていないのは何たることかと前川さんを突き上げたそうです。そのときに前川さんは、俺はすでに「新日本建築様式」的なことはやっているんだよ、単に屋根をかけることが日本建築じゃないというように言ったんだそうです。じゃあどういうのが日本のデザインなんだとさらに聞かれて、そのときに前川さんが例えに出したのは巡洋艦だったと思います。(略)[古鷹、青葉などの]軍艦のデザインが日本的なユニークさなんだと言われた。丹下さんが一九四二年の大東亜建設記念営造計画設計競技で一等に入選した前後の頃かな。(略)
[真珠湾攻撃で日本が熱狂する最中]一九四二年の春に丹下さんが、アメリカや英国を無視して日本建築をやるべきだという例の大東亜共栄圏の論文を書いた(略)
冷静になってる連中は、建築界にもいて、今泉善一です。当時、共産党の赤色ギャング事件で捕まって、刑務所に入れられていた彼は、世間の皆がおかしくなっちゃってびっくりしたって。(略)[13年刑務所にいて、敗戦直前出所]前川さんが拾ってくれたんですね。
(略)
そこまでにいたる前川さんの道のりを述べると、大きい転機となったのが一九三〇年の新興建築家連盟創設です。これは共産党がバックアップして進めていた。ところが、結成大会直後に読売新聞が赤の巣窟と報じたことで、連盟は一挙に崩壊する。崩壊後、二手に分かれる。共産党の秘密の党員だったグループと、前川さん、谷口吉郎さん、岸田さんなどのリベラリストモダニストのグループ。(略)
モダニストは、当時ドイツもそうでしたけど、バウハウス共産主義は深く繋がっていた。それがバウハウスの場合は、ヒットラーの登場で潰される。ある人物はロシアに逃げる。ある人物はアメリカに逃げる。残る人もいた。日本でも同じことが起こって、日本は亡命はしないけれど、共産党系の人達はもう、地下に潜る方向へいくしかない。(略)
そのとき、前川さん達は、心の傷をもつわけです。転向意識をもつ。モダニズムは社会を変える強い大きな力としてそれまで考え、それを実践する自分には正義がある、と信じてきたのに(略)社会は捨てデザインだけでいく。
(略)
左翼からリベラルに移っても、モダニズムをあくまで主張したのが、一九三一年の帝室博物館(現・東京国立博物館)のコンペです。あれは正面から立ち向かっている。
磯崎 だけど、前川さんはイデオロギーとしてやったというのではなくて、「負ければ賊軍」というくらいの科白を言うわけです。この前川さんの科白は、なかなか効いていますよ。勝ったら勝ち組、コンペに落ちたから賊だと言われている。この捨て台詞みたいな言葉は、そのときの前川さんになかなか根性があったということを、みんなに見せたと思うんですね。
藤森 それから右傾化まで時間がありまして。十年近くリベラリズムのままですね。
(略)
磯崎 (略)立原道造が丹下さん達の一年前に卒業して、一年間石本建築事務所にいました。一年過ぎて夏になって、胸が悪くなり長期休暇をとるんですよ。そして、彼が旅行に出たときに会いに行ったのが、深沢紅子さん。彼女が岩手にいるので、そこまで行って、そこで堀辰雄論を書くんですね。(略)
内容は、ここで堀辰雄と縁を切りたいと、ほとんどそういうふうに読める。堀辰雄に、せっかくあなたにここまでついてきたけれど、もう無理だというようなことを彼流に微妙に細かく書いているんですね。(略)後に堀辰雄に、そうは言ったけれどもと、信従することのアンビバレンスを弁解する手紙を書いている。そしてそのときに、岩手から同級生の一人に、浜口さんと丹下さんの住所を聞いているんです。堀辰雄と絶縁して文学的に自分のステップを踏んでいく。死ぬ直前ですから。そのぎりぎりのところで、今度は丹下さんにあの回心を促す手紙を書くわけなんです。(略)
僕の考えでは、立原さんはこれまでのヒューマニズムモダニズムのラインではだめで、日本共同体っていうようなものに全身を預けることによって変えるべきだと。丹下さんがそれをやれるというように彼は踏んだんではないかと思います。
(略)
藤森 丹下さんに日本浪曼派のことは、さすがに躊躇があって僕からは聞けなかったんだけれど、戦前の話をしているときに、向こうからおっしゃったんです。日本浪曼派を読んで、「何か自分の気持ちを開いてくれるんだ」と思ったって。
磯崎 それを聞いたのは、藤森さんが初めてですよ。僕らのときは、日本浪曼派なんて言っちゃいけない。それをもし丹下さんがひと言でも言ったら、宮内嘉久とか中高己(佐々木宏のペンネーム)とかが総攻撃をしようと待ち構えているわけです。そういうテンションがありましたね。
藤森 僕は、孫世代の歴史家だから。(略)
でも、立原、丹下、前川っていうのが面白いですよね。いちばん敏感なのは詩人。それに建築が続いていって、根っからのモダニストリベラリストの前川さんがやっと真珠湾で動く……。
磯崎 だけど、そのときでも屋根などはつけない。空間だよなんて言っている。
(略)
開戦直後の社会的熱狂が連盟のメンバーをゆすります。岸田さんは汲み取り便所の使用法なんかをエッセイにしてふてくされます。堀口さんは茶室研究と称して関西の茶庭を渡り歩く、要領よく立ち回れたのは谷口吉郎さんで、早くからコルビュジエ批判をやって転向していたので、ベルリンでシュペーアに会ったりしている。前川さんだけは鈍かった。
 僕の感じで言うと、前川さんの独特なリアリズム思考が常に時代と向き合わざるを得なかったとみえます。テクノロジーだったら形だけど、リアリズムだからその時代にしっかりベーシックとなるようなものと繋ごうと考えている。丹下さんはもうそこはすっぽかしているわけですよ。形式主義にもっていくわけなんです。前川さんは形式主義ではありません。
藤森 そこが先ほどの日本のモダンデザインとしては巡洋艦があるじゃないか、に繋がるわけですね。
磯崎 このあたりの事例は、同じく熱狂の最中に書かれた坂口安吾の『日本文化私説』に出てきます。彼は小菅刑務所とドライアイスエ場と軍艦が同じように美しいと述べています。必要性だけでデザインされて妙に付加されたものが一切ないと。僕は「新即物主義的思考(ノイエ・ザッハリッヒカイト)のエッセンス」が語られていると理解したのですが、前川さんはその気分を伝えたかったんじゃないでしょうかね。政治的なものを超えて、それはテクノロジーの美学で、一九三〇年以降、体制の如何を問わず、たとえば、ロドチェンコのグラフィック、ナチ親衛隊のヘルメット、フーバーダム、ロンドン動物園のペンギン池、日本の軍艦、そのデザイン表現は、新即物主義である点で、共通していました。丹下さんはこのロジックをあえて逆転させたのです。(略)
丹下さんは、美しきもののみ機能的であると言って、言葉をひっくり返すじゃないですか。あれは明らかに前川さんのテクノロジカル・アプローチに対抗した発言ですよね。前川さんは機能的なものこそ美しいという、モダニズムの正統派ですね。
(略)
藤森 生産力理論を進めるにあたり、政府の中に企画院ができ(略)企画院事件を起こした。生産力理論が計画経済になり、それが経済界から総スカンをくって、一つの事件になり、大勢の政府内の人が追放された。岸信介はその中心人物です。
磯崎 みんな満州に行かされる。
藤森 この企画院の流れが、戦後に復活するかたちで経済安定本部になり、さらに戦後復興を上から進める経済企画庁になる。丹下さんは、その経済安定本部と密着しています。だから、丹下さんが戦後になってから、高度成長の時代に経済論、社会論で依拠するロストウの理論は、そこに根がある。

次回に続く。

私と日本建築 (SD選書 17)

私と日本建築 (SD選書 17)