波乱万丈シュンペーター 資本主義、社会主義、民主主義

トーマス・K・マクロウによる冒頭序文の履歴が波乱万丈すぎ。

「自分は何者か」

シュンペーターは、幼少時から波乱に満ちた生涯を送ってきました。「自分は何者か」という内なる疑問の声が湧くのもまず当然の環境だったといえます。(略)[1883年チェコに生まれ]4歳の時に父親が亡くなり、母とともにオーストリアに移住します。(略)
 母ヨハンナは、息子の類い稀な才能を直ちに見抜き、できる限り最高の教育を受けさせようと決意します。この目的を遂げるため――また彼女自身の社会的な野心もあり――32歳の時に、オーストリア軍の65歳の退役将校と再婚します。再婚相手が高位の貴族でもあり(略)ウィーンのテレジアヌム(貴族の子弟が通う中等教育機関)に通うことができました。
 当時のウィーンは、オーストリア・ハンガリー帝国の華麗な首都です。音楽の都、芸術の都、世界に名だたる科学・文学・哲学の中心地として知られていました。一家は帝国議会の裏正面からわずか30メートルほどにある高級アパートを一フロアすべて借り切ります。(略)若きシュンペーターは、ここで10歳から23歳まで過ごします。ここで身に着けた貴族的な、洗練された物腰は、生涯変わることがありませんでした。
 しかし、自分は一体、何者なのか――。片親を失った小さな町の実業家の息子なのか。何事でも一番を求める野心的なステージママの息子なのか。地方からウィーンに流れ込んだその他大勢の中流階級の一人なのか。それとも、オーストリアの誉れ高い貴族の一員、義理の父親の威を借りた人間なのか――。シュンペーターは後に、自分が度々「とんでもない紳士気取り」の役回りを演じていたと述懐しています。
 友人や同僚から幾度となく指摘された浅焦い肌、「東洋風」のエキゾチックな顔立ちも、アイデンティティーを揺るがす一因になりました。類い稀な頭脳もそうです。(略)
多くの天才少年の例に漏れず、目上の人にはよくかわいがられましたが、同じ年頃の同性の友人にはほとんど恵まれませんでした。ハンサムでチャーミングだったため、女性にはめっぽうもてました。10代から50代半ばまで幾度となく情事を重ね、日記にも「間違いない。自分には女性を扱う才能がある」と淡々と言いています。
(略)
[ウィーン大学卒業後ヨーロッパを周遊]
各国の重要な経済学者に残らず会って直接話を聞こうと考え、30歳になる頃にはそれを実現していました。その間にイギリスの上流階級の女性と結婚。力イロで弁護士業を営み、一財産築いた後は、経済学の教授となり、才ーストリア・ハンガリー帝国の複数の大学で教鞭を執りました。
この時期までに、論文・書評三十数本と主著三冊を発表。二冊目の『経済発展の理論』は、経済学の20世紀の古典として今も知られています。(略)1914年には、31歳の若さでコロンビア大学から名誉学位を授与されるという異例の待遇も受けます。
 そうした中、第一次世界大戦が勃発します。(略)大学で唯一の経済学の教授だったため、徴兵は免れましたが、信じがたい思いで1914-18年の惨劇を見守ります。(略)
根は平和主義者だったシュンペーターは、戦争の流れを変えるため、オーストリア・ハンガリー帝国にドイツとの同盟解消を要求し、アメリカの仲介で単独講和を結ぶべきだと考えました。事は思い通りには進みませんでしたが、シュンペーターは徐々に政治に手を染めるようになります。研究に割く時間は、必然的に減っていきました。

戦後、財務大臣

[終戦後、オーストリア・ハンガリー帝国は解体]社会が混乱を極める中、1919年に発足した初代内閣には、財務大臣ヨーゼフ・シュンペーターの姿がありました。
シュンペーターが考えた経済復興策は、ほぼすべて理にかなったものでした。起業、外国借款、自由貿易の奨励といった政策です。ただ、どれも大きな成果は期待できませんでした。結局のところ、オーストリアもドイツと同じ敗戦国であり、政府の手足を縛る過酷な講和条約の影響から逃れられなかったのです。加えて、シュンペーター自身が政治家の資質を欠いていたことも明らかになり、在任期間は七ヵ月にとどまりした。(略)
財務省を去った後も、権力と華やかな生活への憧れはやみませんでした。ウィーンが好きで、首都から200キロ以上も離れたグラーツ大学の単調な生活に戻る気がしなかったのです。そこで、銀行を設立する特別免許を1920年に取得します。シュンペーターが政権内で不当な扱いを受けたと感じていた議会にいる友人たちが、償いの意味で免許取得を取り計らってくれました(略)。その後三年間、シュンペーターは経済的に大成功を収めます。銀行経営にはタッチせず、個人的な投資でまた一財産築きました。しかし、1924年にウィーン株式市場が暴落。投資先の新興企業もたちまち倒産します。シュンペーターは私財をすべて失ったばかりか、多額の負債まで抱え込みました。
 政治にもビジネスにも嫌気が差し、喉から手が出るほど職を必要としていたシュンペーターは、アカデミズムの世界に戻ります。一流の学者としての世界的な名声は健在でした。日本の優良大学二校とベルリンの二流校から声がかかりましたが、またとないチャンスはドイツ有数の名門校ボン大学から来ました。(略)
あまりにも短い、人生最高の幸福な時間が始まったのです。申し分のない職を手にしたシュンペーターは、若く美しい花嫁アニー・ライジンガーを迎えます。シュンペーターはアニーの虜になっていました(最初の結婚は大戦中に破綻し、イギリス人の夫人は故郷に帰っていました)。
 しかし、悲劇がシュンペーターを襲います。ボンに移ってから八ヵ月後、変転極まりない人生で唯一変わらぬ存在だった母のヨハンナが急死。その六週間後、今度は23歳のアニーが出産中に亡くなり、産まれた男の子もわずか数時間でこの世を去ったのです。
 三人の死にシュンペーターは打ちひしがれました。ウィーンにいる友人に「何もかもが嫌になり、もう何が起きても構わない」と書き送っています。「罰が当たったのかもしれないが、こんな仕打ちは……」。シュンペーターに残されたのは、仕事に没頭する習慣と、資本主義の全貌を理解しようという執念だけでした。
(略)
シュンペーターは1932年までボン大学の教壇に立ち続けますが、その間、二度ボンを離れ、ハーバード大学客員教授を務めています。最終的にハーバードに移籍するまで、大西洋を五回横断しました。ヒトラーが政権を取るわずか四ヵ月前にドイツを離れたのは、シュンペーターの人生で数少ない幸運な出来事でした。

私財を失う

 資本主義の下で起きる創造的破壊は、過酷なプロセスであることが少なくありません。自らも1924年に私財を失ったシュンペーターは、この点をよく理解していました。本書でも「成功と失敗は金銭で測られ、出世すれば金が入り、身を落とせば金を失う。(……)[資本主義は]『巨万の富』の夢と『どん底の生活』の悪夢を描き、それを容赦ないスピードで現実のものとしてきた」と書いています。常に容赦なく変化することが資本主義の証しなのです。
(略)
資本主義の精神的なよすがの問題についても、何ら幻想は抱いていません。「騎士が探し求めた聖杯に比べれば、株式取引所は安っぽく見える」。日記にも「これまで多くの人に受け入れられてきた理想の中で、誰かのビジネスにならなかったものがかつてあっただろうか。そう思うことが少なくない」と記しています。
シュンペーター自身の精神の底流は深いところを流れており、資本主義の行き過ぎに心を痛めていました。それでも、世界の人々の物質的な生活水準を引き上げることが今なお人類最大の願いであると感じていましたし、そう悟っていました。問題はどうやって資本主義を維持していくのか、資本主義の力をどのように利用し、どのように自滅を防ぐのかでした。これは本書が発している明確なメッセージの一つですが、資本主義は大半の人が考えるより遥かに脆弱で、資本主義を発展させ維持していくのは想像を遥かに超えて難しいのです。
(略)
本書の完成が近づいていた、1941年の講演で「私が倫理的帝国主義と呼ぶもの――アメリカの考え方に従って世界の秩序を維持しようというエートスを持つ帝国主義」を批判しています。1944年の日記にも「アメリカの爆撃機の下で、世界の平和と民主主義を確立できるのだろうか」と書き、同じような先見の明を示しています
(略)
アメリカ政府が戦時中に行った日系人10万人以上の強制収容に衝撃を受け、英米によるドイツヘの絨毯爆撃に慄然とし、B29が役下した焼夷弾と原爆で日本の都市が壊滅したことに戦慄を覚えました。(略)
シュンペーターは、第二次大戦と冷戦を背景に長期的にアメリカの軍国化が進めば、文化的・政治的に悲惨な結果を招くことを非常にはっきりと見抜いていました。たとえそれがソ連の牽制にどれほど必要だったとしてもです。
 1940年代初めの一時期、こうした発言の多くは周囲の不評を買いました。友人や同僚の一部でさえ、眉を顰めたのです。社会的には人生で最もつらい時期の一つでした。

トーマス・K・マクロウによる伝記本。