愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか

中島岳志島薗進の対談本をチラ見。

自由民権運動と「一君万民」ユートピア思想

島薗 中島さんの考えでは、設計主義的な漢意を否定して、古代社会の中に天皇と人民が一体化するような「一君万民」の理想を見出していく、ユートピア主義こそが右翼思想の源流だということですね。(略)
中島さんは、国学的な側面から王政復古を説明されましたが、私自身は、儒教の影響を重要視しています。(略)
日本の儒教では、祖先への「孝」よりも君主への「忠」のほうを重視する傾向が強くありました。
 ですから、維新という運動も、天皇に対する忠誠を掲げる復古であり、革新であると儒教的に理解されていたのではないでしょうか。(略)
 また、明治維新の年には、「祭政一致布告」が出されます。天皇による神道的な祭祀と政治とを一体化させ、国民的団結を強化し、国家統一を進めるのだという宣言です。(略)
政治統合の基軸となる天皇を国家の中心に置いて「上からの」統合をめざす、非常に儒教的な要素の強いものです。
 このように日本的な儒教思想が、明治維新の王政復古には強く流れ込んでいます
(略)
中島 中下級武士たちが「一君万民」的なユートピア思想に基づいて、天皇親政をめざし、討幕を果たしたにもかかわらず、明治維新後にも、階級社会は続いたし、国家は、まだ藩閥政治を続けていた。なぜ一部の特権化した人間が新しい国家を牛耳っているのか。これは、「江戸幕府のようなもの」がもう一度できたに過ぎないのではないか。(略)
[そこで「第二の維新」を起こそうとしたのが一連の士族反乱]
(略)
 自由民権運動と言うと、左派的な運動だと現代では分類されがちですが、当時、自由民権運動にコミットした人たちというのは、非常に強い天皇主義者が多かった。つまり、「一君万民」に基づいたナショナリストたちだったのです。(略)
[板垣退助の最初の団体名は「愛国公党」、のちには「愛国社」を作った]
彼にとって自由民権運動は、天皇のもとで「一君万民」を実現する愛国運動であり、万民の平等によって封建政治を打ち破ろうとするものだったからです。
(略)
自由民権運動の中から、日本の近代右翼の源流と言われる玄洋社が生まれてくる[玄洋社の三原則のひとつが「人民の主権を固守すべし」]

親鸞暁烏敏、国体論

島薗 たしかに右翼思想が参照する本居的な国学というのは、浄土教と非常に親和性があると思います。そしてさらに遡ると、浄土教の思想は、他の仏教諸潮流と同様、天台本覚思想というものに結びついています。(略)
非常に簡単に言えば、衆生は本来的には悟っているので、それを自覚さえすればよいという教えです。(略)あるがままの現実の肯定へと展開する傾向が強まったのかもしれない。
中島 (略)歴史を振り返ると、親鸞と結びついた三井甲之や蓑田胸喜の思想は、相手が右であろうが左であろうが、合理主義者や国家改造者を徹底的に批判し続け、全体主義の地ならしをしてしまった。(略)
二・二六事件が失敗したことで、北一輝をはじめとする革新右翼の敗北が決定的になると、「原理日本」の存在感はさらに強まっていきました。
 つまり日本の全体主義は、親鸞思想の影響のもとに加速していったのです。
島薗 ただ、親鸞主義が天皇制国家に随順していくプロセスを見る場合、同時に国家神道の社会的影響の広がりを見ていく必要があるのではないでしょうか。(略)
[『歎異抄講話』で注目された浄土真宗の僧侶]暁烏敏清沢満之の影響のもと、ただひたすら阿弥陀仏の慈悲を信じる絶対他力の信仰を確立します。(略)
近代以前の浄土宗では、『歎異抄』はそれほど高い地位を得ていませんでした(略)[清沢満之グループにより]一気に人気が高まっていった(略)
[暁烏敏は]トルストイなどを好み、「非戦論者」を自称していたにもかかわらず、1931年に満州事変が始まると、その直後に立場を転換させて「戦をするといふことが或は本当の道かもしれんのである」と言うようになるわけです。(略)
真宗の教団活動の中に、全面的に国体論を持ち込もうとする(略)
 ここで重要なことは、暁烏敏の宣言が受け入れられたのが、当時の日本社会で「国体」や「皇道」がごく当然のように浸透していたからだということです。(略)
彼が説法する相手の民衆門徒の側は、親鸞の教えに感銘を受けるとともに、もうひとつ、とてつもなく影響力の大きい教えを内面化していた。それが何かと言うと、教育勅語の教えです。(略)
1930年代の暁烏敏は、一般の多くの人々が自分とは異なる精神構造を持っていることに気づかざるを得ませんでした。子供の頃から国家神道の教育を受けてきた人たちの間では、天皇崇敬や国体思想が当たり前の前提となっている。多数の門徒と接する現場の布教者でもある暁烏敏もそれに歩調を合わせざるを得なくなる。(略)
 暁烏敏の例を見ると、親鸞主義だけが際立って国体論と結びつきやすい要素があったかどうかは、もう少し慎重になったほうがいいかもしれないと私は思います。実際、国体論と結びついた宗教や宗派は他にあるわけですから。

田中智学、八紘一宇石原莞爾

島薗 だいたい教育勅語が発布されて10年がたったころですね。(略)すでに国家神道は正統的なイデオロギーとして地位を確立していました。(略)
 したがって、仏教は「私的な信仰」という限定的な領域だけで活動を許され、最終的には国家神道に協力するという姿勢を取らなければならなかったのです。
 この時期以降、宗教的信仰を国家社会の発展や変革のヴィジョンと結びつけるには、信仰を国体論と結びつけることが不可欠になります。田中智学は、まさにそうした課題に積極的に挑んだ人物でした。
 若き日の田中智学の主張は日蓮宗と日本仏教の革新というところにありました。(略)
[田中智学が日蓮主義と国体論を結合させて「八紘一宇」をつくり、それを現実で実践しようとしたのが石原莞爾]
中島 (略)石原莞爾は、妻と「合体」し「完全に結合」したいと言うんです。そのためにあなたも国柱会に入ってほしいと執拗に手紙を書く。(略)
 この妻と自分との透明な一体化の延長上に、「仏との一体化」「世界との一体化」の世界があると石原莞爾は考えている。つまり世界人類だってこういう透明な関係を結べるはずだと。
(略)
玄洋社のような伝統的右翼の思想には、設計主義的なヴィジョンはほとんど出てきません。
 ところが大川周明北一輝ら革新右翼は違います。彼らは「上からの」革命によって、国家を改造することをめざしていく。きわめて設計主義的です。

国家神道

島薗 戦前の皇室祭祀で大祭の教は13にものぼりますが、わずかな例外をのぞいて、ほぼ全部、新たに明治期に定められたものなのです。実は古代から宮中で行われていたものは、新嘗祭だけなのですね。もうひとつの例外は神嘗祭で、これは伝統的に伊勢神宮で行われていたものを宮中でも執り行うことになった。
(略)
[1870年の「大教宣布の詔」の「大教」(=国家神道)は]他の宗教とは異なる「治める教え」ということです。(略)
国家神道は「祭祀」や「教育」に関わるもの、あるいは社会秩序に関わるものと考えられたのに対して、その他の「宗教」は死後の再生や救いの問題、あるいは超越者への帰依に関わるものだとされていた。
(略)
近代西欧の制度にならって政教分離はしているが(略)国家神道は諸宗教を組み込んでその上に乗っかることができるように、明治維新の時にすでに構想されていた。

新宗教

島薗 居場所やトポスということに関して、宗教運動という見地から見ると、1920年代から1970年前後まではひとつながりに見える部分があるのです。(略)
[都市化する地域で]新たな仲間を見出す運動が活発になっていったのです。だいたい30代、40代以降の女性が中心になって、小集団でお互いのプライベートな問題を打ち明け、仲間を作るという動きが広がって宗教集団が形成されていった。(略)[戦争をまたいで]50年間ぐらいは、かつて村にあったような共同性を新たな形で都会の中で再現するものとして新宗教が機能していました。(略)
エリート候補の煩悶青年というより、「おばちゃん」をはじめとする民衆が支えた運動ですね。
 たとえば、日蓮系の新宗教である霊友会は、小さな集団で家庭集会を持ち、そこで参加者たちはそれぞれ自らの悩みや信仰体験を語り合うんです。霊友会から派生した立正佼成会も「法座」と呼ばれる小集団活動が大きな特徴になっています。
 ところが1970年代以降は、今言ったような顔の見える関係の中でお互いを理解し合いながら連帯関係を持っていくタイプの宗教運動が閉塞気味になり、宗教集団がどんどん個人化していく。(略)
 たとえばオウム真理教の場合は、ヘッドギアを着けて、目もつぶって、ひたすら教祖の声を聞いている(略)集まっているといっても、横の関係は薄い。
 統一教会エホバの証人のように仲間の連帯が濃い宗教集団もこの時代におおいに広まっているけれども、どちらも一般社会と距離を置きますね。これを私は、「隔離型」と言っています。共同性を作るけれども、一般社会への筋道が見えず、仲間だけの団結で安定感を得るようなタイプの宗教が存在感を強めてきたと思うのです。

冷めた全体主義

島薗 今の宗教ナショナリズムは、世襲議員や経済力のある人々が、一部の官僚や企業リーダーをはじめとするテクノクラートと一緒になって、宗教勢力を利用している結果だと思います。つまり、戦前のような民衆の熱い天皇崇敬のようなものは見られません。(略)
しかしながら、戦前とパラレルに進んでいる戦後において、全体主義がやはりよみがえるのか、と問われれば、答えはイエスです。もうすでに現在の日本は、いくつかの局面では全体主義の様相を帯びていると考えてもいいでしょう。
 もちろん、戦前とは大衆の熱の帯び方が違います。「下からの」というより「上から」静かに統制を強めるような、冷めた全体主義です。
 たとえば、NHKはじめマスコミがかなり統制されてきています。それこそ戦前が戻ってきたとも言えるし、中国のメディア状況のようでもあります。我々国民が真実を知ることができず、強要された国家の宣伝に我々は従うようになってきている。つまり、これは全体主義的な傾向でしょう。
(略)
中島 全体主義が戻ってくるとしたら、そのきっかけは、東アジアからアメリカが撤退したときなのではないかと考えています。つまり、アメリカという後ろ盾を失った時、その不安に、日本人が耐えられないのではないか、ということです。(略)
しかも中国との関係性はきちんと構築されていない。そうなれば、一瞬の出来事をきっかけに、根のない大衆が、権威主義的パーソナリティに飛びつく可能性が十分ある。
(略)
島薗 現在の日本で天皇に対する熱狂的な信仰はないと申し上げましたが、しかしその代わりに、中国や韓国への対抗意識から、広範囲な層にわたってナショナリズムの高揚が見られます。そしてそのナショナリズムを政治的に活用しようという動きが露骨になってきている。そこに、国家神道的な思想が動員の道具とされているわけです。
(略)
中島さんが繰り返し批判している、自称保守主義者たちも性急さの病に取り憑かれています。明治維新以来の150年をふりかえって日本の弱さを点検すべきなのに、国体論的な日本に戻れば、本当の日本に戻れるような短絡的な発想でいる。