研究不正 - 科学者の捏造、改竄、盗用

冒頭、あの有名科学者も不正してたなんて話があるので、あれひょっとして擁護?と思ったけど、やっぱり小保方さんはアウト判定。
訴訟を警戒してか、なぜか日本人不正者だけイニシャルになってたので、実名を併記。

研究不正 - 科学者の捏造、改竄、盗用 (中公新書)

研究不正 - 科学者の捏造、改竄、盗用 (中公新書)

 

研究不正は、大昔からあった。

 『背信の科学者たち』は、ガリレオニュートンダーウィン、メンデルのような歴史上の偉大な科学者にも問題があったことを指摘している。
 ・プトレマイオスギリシャロードス島で観測を行ったという天体図は、アレキサンドリアの図書館で盗用したものであった。
 ・ガリレオの実験はおおざっぱで、とても彼の提唱するような正確な法則は作れないはずであった。彼は、観察よりも「思考実験」を好んだ。
 ・ニュートンは、著書『プリンキピア』のなかで、自分のデータを修正し、精度をあげ、理論と合致するように改めた。
 ・ダーウィンは、無名の動物学者による自然淘汰と進化の研究を盗用した。
 ・メンデルは、「メンデルの法則」にあわせて、エンドウ豆を「クッキング」した疑いがあることを、統計学者のフィッシャーが指摘している。

なぜ日本で不正が急増したか

2000年まではほとんど目立った研究不正はなかったが、21世紀に入ってから急速に増えてきた。(略)
一つには、国立大学の法人化(2004年)の前あたりから、大学の財政が苦しくなり、競争的資金がないと研究ができないようになったことがあるのではなかろうか。論文発表、評価、研究資金獲得などの圧力のなかで、選択と集中が進み、競争が激しくなった。研究者たちは、圧力とストレスにさらされ、不正に走る人が増えてきたのであろう。加えて、わが国は、研究不正に関して初心であり、あまりにも無関心であったことがある。

捏造RNA論文の巻き添えを食った人

[KT=多比良和誠、HK=川崎広明]
 RNA学会が東大に調査を求めた論文リストのなかには、HKが理研ライフサイエンス筑波研究センターにいた当時の論文二報が含まれていた。その論文は、RNAとは関係ない転写因子の研究であった。当時、筑波大学のKT研究室の大学院学生であったHKは、分子生物学の指導を受けるために、理研の横山和尚の研究室に送られてきた。そこで発表した論文にも疑惑がかけられたのである。
 理研で指導に当たった横山は、その二つの論文の再現性を自分自身で確認した。実験を再現するのは、口で言うほど簡単ではない。その当時、理研バイオリソースセンターの諮問委員会委員をしていた私は、室長の横山から、再現性に関する詳しい報告を受け取ったのを覚えている。横山の再現性報告は外部委員会で承認され、不正はなかったことが明らかになった。しかし、それにもかかわらず、なぜか理研は横山に冷たかった。彼は台湾の医科大学に移籍し、研究を続けている。横山は、大学院生であったHKの指導をしたばかりに、この事件に巻きこまれ、再現実験で苦労をし、その上外国に出ざるを得なくなった。横山も研究不正の犠牲者の一人である。

ノバルティス事件(ディオバン事件)

[NS=白橋伸雄、YA=青野吉晃、IK=小室一成]
 五大学のすべての研究に大阪市立大学のNSが参加していた。統計が非常によくできる人という触れこみであったが、彼を知っている臨床統計学の専門家は、大橋を含め、一人としていない。(略)彼は、データの統計的分析を行っただけでなく、効果を判定する委員会にも参加していた。ノバルティス社の社員がすべての情報に介入、操作できる立場にいたのである。
 NSに非常勤講師のポストを提供した大阪市立大の研究室には、400万円の奨学寄付金がわたっていた。大学は、何もしない無給の講師の契約を10年間毎年更新していた。これは別に不思議なことではない。紹介を依頼された教員は、企業の魂胆など知らないまま、産学連携にもなるし、寄付金も入るし、ということで受け入れたのであろう。特別問題になるようなことがなければ、給与を払っているわけではないので、教授会が非常勤講師の契約更新に口をはさむことはない。問題ある人を隠すのに、大学ほど都合のよいところはない。
 慈恵医大の研究者は、「自分たちにはデータ解析の知識も能力もない」と語っている。これは驚くべき証言である。「知識も能力もない」研究者はノバルティス社に丸投げするほかなく、ノバルティス社は研究者の無知につけこんで、自由に都合のよいデータを作ったことになる。その意味で、ノバルティス事件は、わが国の臨床研究の抱える構造的な問題を反映していると言える。(略)
ノバルティス事件は、STAP細胞事件よりも、はるかに根が深いと言わざるを得ない。
(略)
それぞれのその後(略)

  • 年間売り上げ1000億円を目指す「100Bプロジェクト」の黒幕、YA(営業本部長)は、問題が発覚する直前に、他の外資系製薬企業の社長に転出した(略)
  • 千葉大学のIKは、阪大教授を経て東大教授となった。千葉大学の調査委員会は論文の撤回とIKの処分を東大に勧告した。東大は千葉大の報告を受け、外部調査委員会により検討した結果、「東大の教員として教育研究という職務を適切に遂行しない蓋然性を推認させる不正行為があったとは認められない」という結論になった。(略)

STAP細胞事件

[HO=小保方晴子]
 この頃、世間の注目度は最高に達した。科学から遠い人ほど、HOを支持し、組織の問題にした。対応が悪かったこともあり、理研は一番の悪者にされた。五月半ば、iPS細胞について講演したとき、私は、金融関係の女性から、理研はつぶすべきだという意見を言われた。一方、科学に近い人は、早くから相当に危ない研究であることを察知し、HOを厳しく批判したが、STAP細胞のすべてが完全な虚像とまでは思っていなかったのではなかろうか。私もまた、少しくらい新しい何かがあるのではと期待していた。しかし、そのような甘い期待は、次に述べるゲノム解析データにより、完全に消え去った。STAP細胞のねつ造が確実になったのだ。

 私は、なぜだまされたのか、という率直な質問を若山にぶつけた。HOが彼の研究室に来て最初の半年くらいの間は、実験がうまくいかず、彼女は悩んでいたという。2011年11月、HOからわたされたSTAP細胞を使って若山がキメラマウスの作成に成功したのをきっかけに、次々にデータが出始めた。そして、STAP細胞から、STAP幹細胞も作れるようになった。
 TCR遺伝子の再構成の実験でも、若山の研究室では誰も証明できなかったが、HOが実験するときれいなデータが出てきた。論文を書くために、このようなデータがあればよいと言うと、数週間後にできてくる。その上、彼女はプレゼンテーションが上手でCDBの執行部も感心するくらいだったという。みんな、HOはすごいと思うようになった。その一方、彼女の知らないような話をすると怒るので、怒らせないよう会話に気をつけ、誰も研究の話をしないようになったという。
 なぜだまされたのか、少しは分かったような気がしたが、それでも、なんでここまでの不正を見抜けなかったのかという疑問は残ったままであった。

著者の数、ギフト・オーサー

1993年、第三回イグ・ノーベル文学賞を受賞したのは、ページ数の100倍の人数の著者がいる医学論文であった。著者数976名は、当時としては、からかいたくなるほど、異常な著者数であった。しかし、それから20年以上経った今、1000名を超すような論文が、毎年200報近く発表されている。
[2015年のヒッグス粒子質量測定論文は著者数5154名]
(略)
 著者数が多くなるのは、大規模な共同実験のためである。たくさんの患者を対象にした臨床研究、大がかりな設備を使う物理学の国際共同実験(略)このような研究では、著者の一人が一回引用しただけで、論文の引用回数は何千にもなる。論文引用という基準で評価するのは難しくなる。(略)
1000人を超すような論文では、研究不正を行った人が紛れこんでいたとしても、見つけようがない。次に述べるギフト・オーサーのような人が入ったとしても分からないであろう。(略)
婉曲に、名誉オーサー、ゲスト著者などと呼ぶ場合もある。
 オーサーシップをギフトとして贈る方は、何らかの見返りを期待しているに違いない。その分野で著名な人の名前が入っていれば、論文審査に通りやすいかもしれない。研究に関係していなくとも、上の地位の人を著者に加えておくと、将来、人事のときに有利になるかもしれない。研究の便宜を図ってくれた人も、お礼の意味で著者にしておこう。縄張りを主張するかのように、自分から著者にするよう、圧力をかけてくる人もいる。狭い社会であれば、むげに断ることもできない。
 研究に貢献していない人が著者に名を連ねるのは、「研究の誠実性」の観点からすると大いに問題である。
(略)
[モスクワの有機化合物研究所のストルチコフは10年で]948報の論文を発表したことにより、第二回イグ・ノーベル文学賞を受賞した。(略)この研究所を利用した人は、研究所長の名前を入れる習慣のためであったというが、施設を借りただけであれば謝辞に書くべきであった。イグ・ノーベル賞が、からかいたくなったのも無理はない。

実験ノート

 実験ノートをつけない研究者は、帳簿をつけない銀行員のようなものである。研究者としての資格がない。STAP事件のとき、HOの実験ノートが新聞紙上を賑わせた。そのあまりにも幼稚な内容に驚いた。日付も入っていないと聞き、あきれてしまった。実際にそのノートを見た研究者は、彼女は実験の意味を何も理解していないのではないかとさえ思ったという。
 私が実験をしていた頃、実験ノートには、実験の通し番号をつけ、必ず実験の目的、方法、結果、考察、反省などを書いた。日付はもちろんのこと、細胞数、化合物の量、測定時間、計算式なども細かく書いていた。実験に失敗したときは、その分析をノートに書いた。そのせいか、今でも実験に失敗した夢を見ることがある。(略)
ノートをさかのぼって調べた結果、実験条件の間違いが偉大な発見につながった例がある。2000年にノーベル化学賞を受賞した白川英樹は、学生が試薬の濃度を1000倍にしたために、受賞理由となったポリアセチレン・フィルムの合成に成功した。(略)
 実験ノートは、研究不正の疑いを晴らすときにも、その疑いを証明するときにも、最大の証拠となる。それゆえに、大切に保管することが求められている。研究不正を疑われた研究者は、研究記録を紛失したなどと言い逃れる。データをまったく記載していなかったり、コンピュータがいっぱいになったので削除したり、中国からの留学生が帰国の途中、資料・サンプルともに海中に落としてしまったなど、その言い訳は様々である。このような弁明を聞くと、ますます疑いが深まるというものである。
アメリカに留学した人は、実験ノートの扱いが日本とあまりにも違うことに驚いたであろう。アメリカで実験ノートの管理が厳しい理由の一つは、アメリカの特許が、先発明主義をとってきたからである。早く発見した者が特許を獲得するため、裁判になったとき、実験ノートが重要な証拠として採用されることになる。実験ノートは、重要な財産でもあるのだ。2013年以降、アメリカも他国と同じように、先に申請した特許が承認される先願主義に近づけた制度となったが、実験ノートの管理が厳しいのには変わりない。

利益相反

 「利益相反」を「利害関係」と単純に理解している人が多い(略)
[製薬会社から寄付を受けている]医師には、公益に貢献するという医師としての社会的な責務と、製薬企業のために何らかの貢献が期待されている立場が並存していることになる。もし、企業からの財政的支援を隠して、公的な立場で製薬企業の研究をすれば、利益相反の問題となる。製薬企業の講演会をたびたび引き受け、本来の大学の仕事である教育と研究がおざなりになるようなときも、「利益相反」と指摘されても仕方がないだろう。
 誤解のないように強調しておかねばならないのは、「利益相反」そのものが悪いわけではないことである。製薬企業との共同研究が悪いわけでもない。それがなければ、よい薬を世の中に出せない。大学人が、社会に貢献しようとすれば、多かれ少なかれ「利益相反」状況になる。「利益相反」を頭から悪いこととしたら、「象牙の塔」に閉じこもった古き良き時代の大学に逆戻りしてしまう。
 どうすればよいか。まず、「相反」するような関係にあることを公に宣言しなければならない。その上で、寄付金があればその額と使用目的、製薬企業からの労務の提供などを透明化しなければならない。大学も企業も、外からの問題指摘に対して、隠すことなく説明する責任をもっているのだ。

  • なぜ研究不正は繰り返されるか

ストーリーの誘惑

 問題は、自分の立てたストーリーにこだわり過ぎることである。(略)
 東大分生研のSKの場合がそうだった。彼の研究室では、データを「仮置き」するという独特の習慣があった。このようなデータが出るはずだという予想のもとに、たとえば電気泳動の画像を「仮置き」する。それに合うようなデータを出すことを、大学院生たちに強要したことにより、ねつ造が起きた。

ネイチャー、サイエンスの誘惑

 インパクト・ファクターの高いジャーナルに発表論文があれば、有利であるのは確かである。ネイチャー、サイエンスクラスのジャーナルに発表できれば、研究費は保証されたようなものである。(略)研究者たちは、まるでネイチャー、サイエンスの魔力に引きつけられたかのように、不正に手を出してしまう。
(略)
 2013年にノーベル医学賞を受賞したカリフォルニア大学のシェクマンは、イギリスの新聞、ガーディアン紙に、「ネイチャー、セル、サイエンスはいかに科学をダメにしているか」という原稿を寄稿した。彼は、これらのジャーナルに論文を掲載し、それによってノーベル賞を受賞し、翌日授賞式に出るのだが、今後は、もうこの三誌には論文を載せない、と宣言した。これらのブランド・ジャーナルの編集者は、真の科学というよりは、目を引くような論文を載せたがる。そのため、撤回論文も多い。論文の掲載スペースを意識して制限しているのは、まるで、限定版ハンドバッグを作り、価値を高めようとするファッション・デザイナーのようなものだという。
 しかし、シェクマンは、これらのジャーナルに発表した論文でノーベル賞を受賞したのである。利用した後で、もう使わないと言っても説得力がない。さらに、彼が、eLifeというネット公開ジャーナルの編集に関わっている点も、割り引いて考えなければならない。とはいうものの、シェクマンの主張が的を射ているのは確かだ。

研究資金の誘惑

 大学、研究所というと、最先端の研究室が並んでいると、人々は思うであろう。しかし、現実には、何十人の研究員を抱え、設備の整った大研究室もあれば、店長一人といった零細店舗もある。東大のような大きな大学には、大都会のショッピングモールのようにきれいに飾った大きな店が多いが、地方大学は、地方都市の商店街のようだ。きらりと光る個性ある店舗があるものの、なかにはシャッターを閉じたような店もある。格差は、いたるところで広がりつつあるのだ。(略)
[国立大学の運営費交付金は、法人化以来10年で10%減額]
今、大学は電子書籍代も払えないほど追い詰められている。(略)
文科省科研費の採択率は、30%以下。大型研究費となれば、採択率は10%に届かない。私が現役の1990年代までは、2000万円くらいが最高額であったが、今は億を超す研究費も珍しくない。(略)
 外部資金獲得競争に勝たなければ研究ができないとなれば、そこに研究不正の生まれる素地ができてくる。一方、何億というような高額の研究費の獲得に成功すれば、それが逆に圧力となる。申請書で約束した成果を出さないと、研究費は途中で打ち切られるかもしれない。教授は、大学院生に早くデータを出せと圧力をかける。圧力はストレスになり、ストレスは増幅し、判断の過ちを招く。

若くて優秀、しかしどこか狂ってる

 ラッカーは証言する。スペクターは、一見、非の打ち所のない青年であった。実験はまるでベートーベンのピアノ演奏のように見事であった。その上、ハードワーカーであった。彼のプレゼンテーションは多くの人を魅了した。彼は、ラッカーがどのようなデータを欲しているかを察知し、そして、そのようなデータを提示しては、ボスの信用を得ていった。シェーンについても、ボスのバトログは、「非常に頭がよく、科学システムを熟知し、物事の覚えがきわめて早かった」と述べている。
 しかし、スペクターは感情的にも精神的にも病んでいたとラッカーは言う。ねつ造しても、罪の意識はなかったが、いつか露見することを無意識のうちに望んでいたのではないかと思われた。スペクターのような性格は、ねつ造をする若い研究者に共通しているように思える。彼らは、みんな頭がよい。学問の世界が今どこまで明らかになっていて、次にどのようなデータがあれば、さらに大きく一歩進めるかを理解している。そのことをきちんと分かっていなければ、ねつ造しても相手にしてもらえない。彼らは、指導者であるボスが、どんなデータをほしがっているかを知っている。それに合わせてデータを作り、さらに信用を得ることになる。

不正者による告白

 2012年の暮れ、スターベルは、研究不正を告白する本を出版した(略)
私(スターベル)はフローニンゲン大学の優雅なオフィスに一人いる。研究データを入力したファイルを開く。そのデータの予想外だった数値である「2」を「4」に変えた。ヒョッとしてと思い、念のため、オフィスのドアを見たが、閉まっていて誰にも見つからなかった。データのたくさんの数値が並んだマトリックスを統計分析ソフトにかけるために、マウスをカチッと鳴らした。私が変更した新しい結果を見た時、世界は論理的状能に戻った。
 しかし、データ改ざんはだんだんエスカレートしていく。とうとう、論文のほぼ全部のデータをねつ造するまでにいたった。
(略)
今まで誰も私の研究過程をチェックしたことがない。彼らは、私を信頼し、私は、すべてのデータを自分自身で作った。あたかも、私の隣にクッキーが入った大きなジャーがあり、母はいない、鍵は掛かっていない、ジャーには蓋もない状況だった。手を伸ばせばすぐ届く範囲に、甘いお菓子が一杯に詰まったクッキーの大きなジャーがあった。その場所で私は毎日、研究をしていた。クッキーの大きなジャーの近くには誰もいなかったし、監視もチェックもされなかった。私がする必要なことのすべては、手を伸ばしてクッキーを取るだけだった。
(略)
 心理学会会報の書評によると、妻の横で目覚めたシーンを描く最後の章は、詩的で、素晴らしくよく書かれている。しかし、その部分は、レイモンド・カーバーとジェイムズ・ジョイスの文章のコピーであるという。スターベルは、まだ懲りていないようだ。

なぜ数学に不正が少ないのか

 医学、生命科学系と比べると、物理学、数学系に研究不正が少ないのは、確かである。物理学には、シェーン事件のようなとんでもないねつ造があったが、数学の世界では、目立った研究不正の話は聞かない。
(略)
・数学には、正しいか、間違っているかの二者択一の答えしかないため、ねつ造が入りこめない。
・数学はロジックに支えられている。その点が「現象」に支えられている医学生物学との大きな違いである。もし、間違いが入ればすべてが崩壊するという重みが、不正の入りこむ余地をなくしている。
・論文の審査は、審査員が理解するまで終わらない。審査に一年、出版までには二年くらいかかるのが普通である。

ソーシャル・メディア審査

 「性悪説」に基づき、匿名で行われるソーシャル・メディア審査は、一方的かつ攻撃的であるため、標的となった本人にとっては不愉快なことであろう。しかし、ソーシャル・メディアがなければ、SKの研究もSTAP論文も生きのびていたかもしれないことを考えると、その貢献を認めないわけにはいかない。それにしても、「性善説」に基づくピア・レビューがこれほどまでに無力であったことに驚くばかりである。これまでピア・レビューを信じ、査読を受け、査読をしてきた一人として悲しくなる。
 研究不正の告発は、諸刃の剣である。研究不正を追及する手段としてではなく、悪意をもって、狙いをつけた人の中傷にも使うことができるからだ。そのような標的にされたらたまったものではない。名前が出ただけで、研究者コミュニティから白い眼で見られ、疑いを晴らすのも容易でない。最近、そのような事例が日本でも起こっている。幸いなことに、裁判により告発された側が勝訴した。