民主主義を直感するために 國分功一郎

後半の対談部分をチラ読み。

民主主義を直感するために (犀の教室)

民主主義を直感するために (犀の教室)

  • 作者:國分功一郎
  • 発売日: 2016/04/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

民主主義にはバグがある

(対談:山崎亮)

行政をおだてろ

國分 山崎さんはご著書で、役所の中にも、住民と一緒になってやっていこうというアツい行政職員がいるというお話をされていますね。
山崎 いますねえ。おもしろくて、熱い人がいますね。でも、その人たちは評価の対象になりづらい。アツい人ほど窓際にいる気がします。
國分 そうでしょうね。小平市のことで言うと、市役所からは「この住民投票の結果を東京都に送付したら、それで市の役割は終わりです」って言われましたからね。
山崎 すごくやる気ないですねえ(笑)。
国分 でもこれ、怒っちゃいけないなと思ったんですよ。つまり、役所はやり方を知らないんです。住民の話を聞きながら一緒にやるという経験がないから、「どんなクレーマーが来るんだろう」と、びくびくしちゃうんだと思うんです。
(略)
山崎 (略)[五年ほど研究職として兵庫県庁に関わった]ときに感じたんですけど、行政の仕組みって、本当に大変なんですよね。旅行命令簿とか決済書類とか、最高に面倒くさい。(略)
 ですから、そんな身動きが取りづらい場所で働いている行政職員たちがいるんだということを、きちんと理解する必要がある気がします。「何で行政がそんなこともできねえんだ」と批判するだけだと、「わかっていない人が言ってるだけよね」と思われて、「もう聞きたくない」となってしまう。そんなとき、行政システムは“蓋を閉じればいいだけ”という仕組みになっているんですよ。
國分「行政は貝みたいな存在だ」って書いてましたね。
山崎 そうなんです!つついたらバシャッと殼を閉じちゃう。閉じてしまったら、後からいくらつついても開かない仕組みになっている。だから、むしろおだてないといけないんですよ。気持ちよくしてあげなきゃいけない。おだてて、すべてのプロセスはあなたのおかげですと。あなたの成果ですと言いたい。
 これは別に、自分たちの思いを通したいからじゃなく、そういう人に出世してもらわないと困るんですよね。だから、僕らがやったことを全部その人の手柄にしたい。その人の手柄として、議会やメディアに出したい。行政の中からそうしたことができないなら、外側から少しずつアツい行政職員が評価されるシステムを作っていかないといけないと思うんです。
 だから、國分さんの言うように、「反対!」と言って攻撃するということを繰り返していても、手も足も出ません。「反対」ではなく「提案」だということを理解してもらったうえで、國分さんの運動のようにツールとして署名を使うとか、さらに対案を出しながら、こうしたらどうですかと訴えていくのが賢明なやり方だと思いますね。

國分 ウィリアム・モリスという人は19世紀のイギリスの思想家で、デザイナーで、建築家であるというような、本当に多くの顔を持った人で、イギリスにおける最初期の社会主義者です。
 その頃の社会主義者たちって、「どうやって蜂起して、革命を起こすか?」ということばっかり考えているんですね。だけど、モリスは「革命なんて来るに決まってる」と思っていた。そして、「明日革命が起きたらどうしよう? 革命が起きたら、豊かな社会になるじゃないか! 豊かな社会になったら、いったいどうやって生きていけばいいんだ……」とひとり、革命後の社会での生き方について真剣に考えていた。(略)
「人々の生き方が変わらないんだったら、ずっと寝てたほうがマシだ!」なんてことも書いていたりもしますよね。
(略)
山崎 フーリエやオウエンがつくったまちの一部は世界遺産になっていますが、ハードとソフトの両面を考えていたという意味で、すごく尊敬しています。
 その後、彼らがつくったまちのハードの部分は、多くの人に参照されています。だけど建築家たちは「どんなかっこいいカタチをつくるか」、つまり、ハードばかりを考えるわけですね。だから、そっちばかりが継承されていってしまった。でも、いつの間にか抜け落ちた「どう生きていくか」というソフトの部分も、本当はすごく大事なんです。

変革の可能性としての市民政治

(対談:村上稔)

國分 住民運動に反対する人は、日本は「間接民主主義」や「議会制民主主義」というかたちで民意をくみとっているのだから、それ以外の手段を出してくるのはおかしいと言うんですね。(略)
 政治哲学者の大竹弘二さんは『atプラス』で連載中の「公開性の根源」のなかで、この点に関わる非常に重要なことを指摘されています。16〜17世紀の近代初期、宗教権威が失墜したヨーロッパは、宗派間の争いに端を発する内戦に苦しみます。そのとき、政治的決定の正統性を保障するものとして、「主権」という概念が発明されました。国家には主権という最高決定権力があるから、国家の決定は絶対だというわけです。これがいわゆる絶対主義国家ですね。この点で重要なのは、宗数的権威に世俗的権威が取って代わったということよりもむしろ、主権が立法権として定義されたことです。国家の最高権力は一定の領域内のルール、すなわち法を定める権力として定義されたのです。絶対主義国家ではこの主権を王様が担いました。いまの民主主義国家では議会がこれを担っています。
 民主主義といってもわれわれに許されているのは数年に一度議会に代議士を送り込むこと、すなわち選挙によって立法権に部分的に関わることだけですが、それにもかかわらず「民主主義」ということができるのは、立法権こそが主権であるという近代初期に作られた大前提があるからです。(略)
ところが、大竹さんが指摘するのは、立法権として定義された主権によっては、実際の国家は統治されていないということです。実際の統治においては、法は適用されなければならない。そして法の適用は立法権そのものによってはどうにも制御できないのです。つまり、大臣や官僚や警察が立法権のもとで行なう統治行為は、とても主権によっては制御しきれない。近代は立法権として定義された主権によってすべてを統治するという理想を抱いていた。ところがそれは理想に過ぎず、実際には主権のメディアをなす大臣や官僚や警察が統治を大きく担っているということです。
(略)
小平市の鷹の台付近に道路を造るという決定をしているのは、都庁の職員なのです。僕らは都庁の職員は選べないし、都庁のどこかの部屋で行なわれている政策決定にはまったく関われません。そして都市計画は住民の許可を必要としない。ここに道路を造ることになりましたと「説明会」をやればいいだけです。
 こんなひどいことが行なわれているのに、なぜこの社会は「民主主義」と呼ばれているのか。主権が立法権として定義されており、行政は決められたことを粛々と実行する単なる執行機関に過ぎないと見なされているからです。
(略)
住民投票を通じて見えてくるのは、近代政治哲学の根源にある本当に単純な欠陥です。実際には行政が決めているのに、主権が立法権として定義されているものだから、主権者が行政に関われない。この単純な欠陥なのです。
(略)
 あと、話はかなり変わりますが、宮台真司さんがよく、「住民投票だとポピュリズムになる」という意見はまったくの間違いで、ポピュリズムを止めるために住民投票が重要だとおっしゃっています。住民投票に向けてシンポジウムが開かれたり、チラシなどを通じて情報が広がっていくなかで、住民は知識を得て、考えるという機会を得る。それが意識の高まりを生みます。こういう過程がないと、声の大きい人の意見で物事が決まってしまう、いわゆるポピュリズムになる。
(略)
村上 保守系と呼ばれる議員は既存の地域団体を使うんです。地域団体というのは、体育協会や婦人会、老人会、町内会、自治会などを指します。これは、公の組織ではない。しかし、地域住民にしてみれば、限りなく「公っぽい」組織なんですね。町内会長が出てくれば、シャツを着て出なきゃいかんという感覚がある。公機関に選挙活動はできません。だけど町内会は、公の組織じゃないから、選挙活動ができるわけです。保守系の議員さんはこういう地域の「公っぽい」団体を利用して選挙をしているんです。だから強い。
 これが地方議会の底辺部を支えている構図なんです。そして自民党の首長はそういう議員をおさえて市長や知事になる。だから、陳情に対しては働きますが、全体の政策に対して哲学的な考えで立案したり議論をするという感覚がないんです。しがらみこそが彼らの行動原理なんです。

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