前回の続き。
中央銀行が終わる日: ビットコインと通貨の未来 (新潮選書)
- 作者:岩村 充
- 発売日: 2016/03/25
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
産業化するマイニング
ビットコインは「枯れた技術」の組み合わせです。ですから、その構造が理解され、かつ、その価格が急騰するとなれば、ビットコイン探しは、文字通りゴールドラッシュのような様相を呈することになります。最初のころのマイニングはパソコンの空き能力を使って、いわゆるバックグラウンド・ジョブのようにして行うという点で「牧歌的」ともいえるものだったようですが、たちまちのうちにハッシュ計算を効率よく行うためのASICという専用のチップを使うのまでは常識となり、やがてもっと本格的に組み上げた専用のハードウェアを売る業者も出現しました(略)
マイナーたちはプールを作ると言って、共同してマイニングを行うようになりました。(略)[現在]ごく少数のプールによって大部分が行われていて、単独でマイニングを行っている例はほとんどないようです。
(略)
[プールが巨大化し]設備へのリースあるいはレンタルで参加するのが普通になり、ついにはネット上で交わされる契約書と資金の授受だけのものに近付いている、それが現状のようです。
ビットコインのリスクと限界
ビットコインのマイニングの寡占化が進み、その過半を一つのプールが担うようになった場合を考えましょう。彼らが共謀すれば、ブロックチェーンの延び方をコントロールすることができます。特定の取引を排除したり、その反対に有利に取り扱ったりすることも、ビットコインの多数決ルールの下では可能だからです。もっとも、そうした戦略的行動をしても、普通は得るものがありません。なぜでしょうか。(略)
損をするのは、マイニングという産業に膨大な資金をかけて参入した自分たちなのです。そうなると、そこまでの計算パワーを持っていたら、ブロックチェーンを支配していることで何か不正なことを試みるよりも、マイニング競争そのものでより多くのビットコインを獲得した方が得のはず、そういう論理がマイナーたちに働くのではないでしょうか。
実際、ナカモトペーパーの論理展開には、そうした雰囲気があります。(略)
第一の落とし穴は、今のビットコインのやり方だと、ブロック形成ごとに新規に生成されるコインの数が四年に一度の割合で半減してしまうことから生じます。つまり、ビットコインの価格が四年間に倍増のスピードで上昇し続けないと、新規のビットコインを獲得することによる利益はだんだん減少してしまいますから、マイニング産業を支配することで他人の権利を侵すことの誘因の方が相対的に強くなってきてしまいます。これは、四年に一度の割合でコインの生成速度を一気に半減させるという、いささか荒っぽいビットコインの設計が生じさせている問題なのですが、この設計は遠くないうちにもビットコインのリスク要因として浮かび上がってくる可能性があります。(略)
第二の落とし穴は(略)アルトコインの中からビットコインの有力な競争相手が生じ、そのコインの大きな割合を特定のプールが保持していたとします。そうしたプールのメンバーたちにとっては、ビットコインのブロックチェーンを意図的に混乱させ、利用者を自身がさらに多数のコインを保有するアルトコインに惹き付け、自分のアルトコインの価値を引き上げたいという誘惑が生じる可能性を否定できないでしょう。(略)
こうしたシナリオが描けてしまうのは、POWモデルの貨幣においては、マイナーたちの競争がその移転取引の公正さ維持に決定的な役割を果たすよう制度設計されているにもかかわらず、彼らのコインの価値維持に対する責任が大きいとは限らないという仕組みになっているところにあるとも言えます。ですから、こうした弱点を補うためには、ブロックの正当性維持にかかわるマイナーに応分の責任を負担させれば良いという考え方もあり得ます。(略)
要するに自身が関与するコインの価値が下落したら自分が損をするような仕組みを作れば良いということになります。
硬直した供給スケジュールの下では、ビットコインに対する人気つまり需要が少しでも変化すると、その価格は大きく揺れ動くことになります。ビットコインが注目を浴びて以来の価格急上昇と急下落の繰り返しは、その硬直的な供給スケジュールに原因があると考えて良いように思われます。
(略)
これでは、ビットコインを買い物の決済に「貨幣」として使うことはできても、金融契約を支える価値尺度つまり「通貨」として使うことはできないと言うほかはありません。
では、どうしたら良いでしょうか。どうしたらビットコインを貨幣から通貨へと「格上げ」できるでしょうか。
答えは簡単です。ビットコインを生成するときの原価を一定にして(あるいは、少なくとも合理的に予測可能なものとして)、その原価を超えたらビットコインの供給がどんどん増えるようにし、それを下回ったら供給が抑制されるようにすれば良いのです。
(略)
マイナーたちは、このコインの市場価格が百ドルを超えそうなときはマイニングに参入し、逆に百ドルを下回りそうなときには撤退するということになります。そのようにマイナーたちが行動すれば(略)
コインの価格(つまり貨幣価値)は変わらないという状況が生み出されるはずなのです。これは、経済学の教科書の入門編で言う「限界費用価格」の応用問題そのものだと言っても良いでしょう。
ゲゼルの魔法のオカネ
[ゲゼルが提案したスタンプ付紙幣は貨幣にマイナスの金利をつけられるので、金融政策を「流動性の罠」から解放する]
貨幣を作る技術がアナログの印刷技術からデジタルの電子技術に進歩したらどうでしょう。ゲゼルの「魔法のオカネ」は筒単に実現できてしまいます。それどころか、ゲゼルが求める範囲を超える「高性能」のオカネを作ることも難しくありません。状況に応じて利子率を柔軟に変更でき、プラスにもマイナスにもなるようにプログラムすることができるからです。
(略)
「ゲゼルの魔法のオカネ」の世界では、量を動かすことによる金利(市場金利)への影響は、同時に貨幣利子率を動かすことにより消し去ってしまうことができます。貨幣供給量は増やしたい、しかし金利は下げたくない、というような状況なら、貨幣供給量を増やす一方で貨幣利子率を上げてやれば、量の増加から生じる影響を中立化しながら金利を操作したり、その逆のことをやったりという、今の金融政策では曲芸としか言えないようなシナリオを、普通に実行することができてしまいます。(略)
中央銀行の政策決定にかかわる仕事をする立場の人だったら、少しばかり興奮を覚える材料になるかもしれません。(略)
金利と量という手段を使い分けて、今までの中央銀行ではできなかった新しい金融政策を展開することができるかもしれない、そんな気がしてくるはずだからです。
しかし、それはどうでしょうか。望ましいことなのでしょうか。そもそも可能な話なのでしょうか。もう少し考えてみましょう。
[ヽ(=´▽`=)ノ まとめるの面倒になったので、その先は本を読んで下さい]
所得格差はさらに拡大し、
中央銀行の危機が始まる
グローバル資本市場の中での競い合いゲームから降りることは、そうでなくても豊かになる力を失いつつある日本を、もっと貧しくする危険があります。グローバル資本市場の時代とは、政府が企業を選ぶのではなく、企業が政府を選ぶ時代なのです。(略)
あまり楽しい予想ではありませんが、所得格差は拡大することはあっても、縮小する可能性は小さいだろう、そう私は思っています。(略)
グローバル労働市場は一部のエリートなどと呼ばれる人たちの間でしか存在しないのです。そうした条件の下で世界の国々が互いに繁栄あるいは国力を競い合うという状況では、どこの国の政府も労働よりも資本を優遇する方向へと突き進まざるを得ません。そうである限りは、もし私たちの日本が、首尾よく程々の成長は取り戻せたとしても、その果実の多くは、株主たちや彼らに近い立場にある幹部従業員と経営者あるいは資本市場のプロフェッショナルたちに帰属し、大多数の人々には行き渡らない、そうした状況が続くことは、希望あるいは善悪好悪の問題ではなく予想の問題としては、ありそうだと認めざるを得ないのです。
(略)
格差の問題は流動性の罠の問題以上に深刻なダメージを金融政策に与えるものになる可能性があります。(略)
私たち日本人の多くは「失われた二十年」における所得の低下を「長く続くデフレ」の結果と思い、その状況から脱するため(略)
日銀の異次元緩和を歓迎しました。しかし、本当の危機はデフレから抜け出した後に来るのではないでしょうか。景気が程々に回復したとします。しかし多くの人々の暮らしは良くならない、所得格差のさらなる拡大に吸収されてしまって良くならない、物価が上がってむしろ生活は苦しくなった、そうしたことが起こってしまったときに生じる人々の疑念、それが中央銀行の本当の危機の始まりを告げるものになるのではないかと私は思っています。
(略)
金融政策の本質は現在と未来を交換することです。豊かな未来が展望できているときは金融政策の力も大きくなります。しかし、展望できる未来がそれほど豊かではなくなれば、今は経済政策の主役のような顔をしている金融政策も、徐々に退場へのシナリオに入らざるを得ないでしょう。金融政策というのは貨幣制度の維持にとって必須のものではありません。中央銀行が独占的な貨幣の発行者であることは金融政策の有効性を確保するためには必須に近いものですが、その金融政策が機能しない、あるいは大多数の人々に豊かさを保証するものでないと人々が思い始めれば、中央銀行が独占的に貨幣を発行することへの合意も崩れ去るでしょう。金融政策は、19世紀に入ってからの世界が幸運にも成長の時代に入ったことの余得のようなものとして始まったに過ぎないからです。
中央銀行は終わるのだろうか
私はこの数年というもの、あまり遠くないうちに「中央銀行が終わる日」が来てしまうのではないか、そういう懸念を抱き続けていました。バブル崩壊後の日本、リーマンショック後の米国そして欧州、そうした国々の中央銀行たちが陥った状況を見ると、それが彼らの決定の誤りや政策の失敗によるものとは思えなくなっていたからです。(略)
誤りでも失敗でもないのに機能が不全に陥って行くのであれば、仕組みそのものを考え直さなければなりません。
(略)
経済全体に成長の潜在力があるときになら、金融政策は何もできないわけではありません。流動性の罠に陥るほどの大きなデフレ要因が現れても、思いきった金融緩和をして、将来の緩和効果を現在に借りてくればよいのです。(略)
問題は、そこまでの将来の豊かさが私たちに残されているかどうかなのです。
[人口構成から見ても]日本は厳しいと思います。欧州も同じでしょう。何とかなる可能性がありそうなのは米国で(略)米国の金融政策では「出口」の議論ができるのに日本ができないのは、日銀が怠けているとか下心があるのを隠しているとかによるのではなく、本当にできないのではないかと私は思っています。
(略)
日本について描けるのは貨幣価値の部分崩壊に近いほどの突然の物価のジャンプアップが来て、その後にまたしぶといデフレが戻ってくる、そういうシナリオだけになってしまうのではないか、そのように思えてならないのです。
(略)
そうしたサイクルの中にあっても、せめて最悪の循環相に陥るのを和らげることぐらいはできます。その方法は銀行券に利子を付けることです。銀行券を「ゲゼルの魔法のオカネ」にすれば良いのです。そうすれば「流動性の罠」に陥った金融政策が「しぶといデフレ」の局面で、高すぎる金利(マイナスになるべき局面なのになっていない、という意味で「高すぎる金利」です)となって、景気をさらに下押ししてしまうことくらいは防ぐことはできます。それは物価のジャンプアップの可能性を減らしてもくれるでしょう。ただ、そこでの問題は、いくら中央銀行が「ゲゼルの魔法のオカネ」を作り出しても、それをデジタル系の技術から作り出す限り、その魔法のオカネが自由かつ効率良く飛び回る空間がなかなか見つからなかったことです。(略)
[しかし、ビットコインの]仮想空間は、十分に「ゲゼルの魔法のオカネ」が自由に飛び回れる世界になれそうだからです。(略)
私は中央銀行たちの円やドルがビットコインたちと華々しく競争して負けるというシナリオはまずないだろうと思っています。理由は円やドルのような信用貨幣の方が、ビットコインたちのようなPOW貨幣よりもはるかに安く、地球資源に負担をかけずに作り出せるからです。
(略)
中央銀行の姿が未来の貨幣の世界にない、消えてしまうということが起こるとすれば、それはビットコインたちに負けるのではなく、ときにフィンテックなどという言葉で表現される民間企業や銀行たちによる世界的な決済サービス開発競争の中で、中央銀行たちが自らのいるべき場所を見いだせないときに起こることだろうと思うのです。