野戦郵便から読み解く「ふつうのドイツ兵」

検閲

検閲のなかでもなお体制や戦争指導、上官などに対して批判的なことを書いた兵士は少なくないし、手紙を実際に読み進めていくと、現在地を記すような「軽度」の違反から、自ら働いた盗みをあけすけに語るもの、実名を挙げた上官批判、国防軍の非合理的な戦争指導の批判、戦争そのものへの批判、果てはゲッベルスヒトラーの批判まで、検閲の危険を十分に意識していたとは考えにくい記述に次々とぶつかることになる。全体としては、検閲という枠組みにおいても自らの意志を語ることが決して不可能ではなく、むしろ多くの兵士は率直に語っているという印象を、あくまで経験的にではあるが多くの研究者が述べている。その理由としては、行き交う手紙の数は膨大であり、実際に検閲にかかるという経験は稀であったこと、休暇で帰還する兵士に持っていってもらう「迂回路」も存在したこと、また妻子をもたない若い兵士の場合はとくに検閲への警戒が緩かったことなど、さまざまな理由が指摘されている。また、「銃後」の家族との唯一の通信手段である野戦郵便の厳しすぎる検閲は兵士の士気を害しかねないとの懸念から、検閲をある程度緩める配慮をおこなっていた。(略)
 現在ドイツの文書館で所蔵が確認されている野戦郵便は30万通弱と推計され、300億〜400億という総数を考えればごく一部にすぎない。(略)あからさまにナチ的な手紙がさほど見つからない事実からは、戦後の基準から見て問題のある手紙は本人・遺族が寄贈していない可能性も、大いに考えられる。
 これに、社会階層の偏差の問題が付け加わる。たんなる「無事の報告」を超えて、兵士の内面や戦争経験への詳細な手がかりを与えてくれる史料を探す研究者は、十分な教育を受け、表現力、文章力がある市民層出身の兵士に行き着くことが多い。(略)
[限られた史料数とバイアスを考慮すると]手紙の分析によって得られる知見がドイツ国防軍兵士全体の傾向を代表するものであるということは、決してできない。

ある無線士ハンス=カール・S

(以下HKと略)

「国民は戦争に疲れており、私もそれを知っていますが、何か不思議なものだけが戦闘を続けさせています」
1944.11.24
(略)
[1943年18歳で入隊]
その前に三ヵ月間RADで労働奉仕を務めることになる。
 しかし、RADからの手紙は留保の多い、熱狂とは程遠いものだった。「思考は完全に停止してしまいました」、「読書できませんし、物音と騒がしさがそれを私に許さないのです」(略)
「ナチ党色が強く、私は何も感じませんでした」「私は、党が催すようなこういうお祝いは、あまり支持する気になれません。静かにじっくり思いをはせる時間のほうが私は好きです」
(略)
 もう一つの戦略は、鈍感になること、あるいは「皮膚が厚く」なることであった。「下士官口調」の不愉快さに対しても「みんな徐々に(もしくはきわめてすぐに)皮膚が厚くなる」し、叱りつけすぎる上官を前にしても、「しかし鈍感さが勝つ」(略)「兵士たちの鈍感な本質が徐々に全員に共通のものになってきました。ヒトラー・ユーゲントがその点大いに貢献したのですが、あなたもそれにすぐに順応しましたか」と、「鈍感さ」経験の共有を、第一次世界大戦に従軍歴のある父にも求めている。(略)
「人間は習慣の奴隷です。もはや何も感じません」
(略)
[鈍感になってやりすごそうとした]HKは訓練期間中にハンブルク空襲に遭遇(略)目撃したのは、破片の山や破壊された市場、垂れ下がる路面電車の架線、地下室に生埋めになった人びとなど、生々しい暴力の傷跡であった。(略)もっとも激しい空襲のあとにHKの記述にあらわれるのは、既存の自分の認識枠組みをはるかに超えた現実の検察と、感覚の麻痺である。
(略)
ハンブルクで破壊された数々のものに、私はもはや何も感じません。(略)見るのは悲惨さと人気のない通りです。ときどき、自分が夢のなかにいるような、あるいは前からここがすでにそうであったかのような気がします。破壊された街を見るというのは、奇妙な気持ちです。我々の子どもたちもまだハンブルクの廃墟の前に立っていることでしょう。建てるのに我々が数百年かかり、四回の夜間攻撃で破壊されたものが、ヒトラーの「私に四年の時間をくれ」という言葉によって建て直されるわけがないからです。青空の下に住んでいる人たちが、そのことを一番よくわかっています。(略)
百万都市が廃墟と化したことを正しく認識できなかったのです。今や私はもはや何も感じません。この麻痺した感情がどこから来るのか、私にはわかりません。
 このあとHKはさらにゲッベルスにも批判の矛先を向けているが、野戦郵便においてナチ指導者、とくにヒトラーを批判することは、検閲にかかった際の危険性からもきわめて稀であり、いかにHKが受けた衝撃と動揺が大きかったかを垣間見ることができる。

ハインリヒ・ベルの手紙

ベルも、知性の欠如した戦友たちとの共同生活を忌み嫌っていた。
 もっとも恐ろしいこと、もっともぞっとすること。それは、理性的な言葉を交わすこともできないような数多くの人びとと共同生活を送るということです。それは本当に残酷なものです。……かなりの数のうすのろたちと一緒に、狭いところに閉じ込められるというのは、本当に恐ろしいことです。囚われの身になったかのような気分に非常になりますし、「そこではもはや」私は別の人間なのですし、本来の私ではありません。……もはやそれは人生ではなく、私は別の顔をまとっているのです。別の姿。ああ、とても悲しいことです。
 ベルは、タバコを吸うときに「うすのろたち」に火をもらいにいくのもいやだ、映画館でせっかく静かに一人で座っているのに話しかけられて、愚かな会話の相手をしなければいけないのはぞっとするなどと、嫌悪感をしきりに記している。
(略)
高学歴層の兵士たちがとくに強い違和感を抱いたのが、戦友同士で頻繁に話題となる女性経験の自慢や酒豪自慢、猥談であった。
(略)
「彼らは、自分たちと同じように振る舞わない人間を対等に見なしていない」のであって、軍隊のなかで出世を目指すような「何者かになろうとする人」は、こうした「男性性」の試練を乗り越えなければならなかった。

ダメ上官

「この人〔曹長〕を見るといつも虫酸が走ります。まったく使えない人間で、どうやったら我々にもっともいやがらせができるか考えるだけが仕事なのです。それ以外は一日中食っちゃ寝、もしくは仕事部屋へ行くという状況です。私も彼が嫌いです。みんな彼を無視していますが、それがいちばん良いやり方なのです」というような、無能で怠惰、しかもいやがらせしかしない上官。あるいは暴力をふるう、会話が要領を得ない、詐病であると言いがかりをつける、シュナプス(強い蒸留酒)をため込んで部下に分け与えない、ライオンのように吠え立てる、無意味な作業をさせられるなど、横暴で理不尽、あるいは無能な上官に対する不満に事欠くことはない。
(略)
部隊を離れることになった中隊長についてある兵士は、「人間としては彼に同惰します。彼自身意気消沈していますし、泣き出さんばかりです。彼は試練に耐えられなかったのです」と言いながら、その適性のなさを厳しく批判する。
  後方部隊なら模範的なボスになれるでしょうし、地方でも多分そうでしょう。彼はしばしばあまりにお人好しすぎ、間違ったところで厳格で、確固とした見解をもたず、自信もあまりありませんでした。そして今泣いているのです。……上等兵ふぜいが自分の上官についてこんなことを言うのは悲しいことです。しかしかつての砲兵中隊ではみなそうだったような将校が、ここではほとんど見あたらないのです。苦しみを背負うのはもちろん我々なのです。
(略)
「指導部の上流階級の人びとは、前線で何が起きているのか、まったくわかっていません。前線からの報告が乏しく、彼ら自身苦境をちゃんと理解していないのだとしても、どうしてそういうことになるのでしょう」
(略)
 しかしそうした上官との数々の軋轢にもかかわらず、上官と友好的な関係を構築し維持していくことが、軍隊において安定した生活を送るためには決定的に重要であった。中隊長など直属の上官との強力なコネをもつことで、中隊本部での事務作業など、危険でない安定したポストを得られたり、住居や食糧、車両などが特権的に与えられたり、休暇が希望通りにもらえたり、ときには昇進によって故郷へと戻ることができたりなど、数多くの点で有利な立場に立つことができたからである。

前線と後方

 ラトヴィアの後方地域に滞在していた別の兵士は(略)「不吉な後方根性」への違和感をあらわにしている。(略)
新たに赴任してきた前線経験のない教官のことを、「典型的な陸軍操典下士官」だ、と評価する兵士もいる。(略)
こうした評価の裏側には、ある種の後ろめたさやコンプレックスが潜んでいることもあった。(略)
「三ヵ月も故郷で訓練を受けていると、卑怯者のように思えてきます」と漏らしているし(略)別の兵士も、「おまえは遠く離れたところで突っ立っているわけにはいかない」という、内面から沸き上がってくる衝動を書き記している。
 こうした後ろめたさと、後方にいる兵士たちへの憤りとを頻繁に記していたのが、ベルである。「軍曹や主計将校といったお偉方がうろうろとほっつき歩いている、この小さなねぐらにも、でっぷりと太った首筋をさらし、非常に不安げな眼差しをした、本当に数え切れないほどのならず者たちがいます。銃声を一度も聞いたことがないという人間が、何千人もいます」「後方に下がれば下がるほど、これらの後方地域のならず者たちはどんどん傲慢になっていくのです」「この後方地域ではどこでもそうなのですが、人びとは鈍感で無関心、戦友らしくありません。とくに下劣な事務仕事のならず者たちは……」などと憤りを隠さない。その一方で、妻に会いたい一心からドイツ本国への転属をさまざまに画策していた彼は、次のようにも記している。
ああ、それによって私も兵站の卑怯者という、世の中に存在するなかでもっとも嫌悪すべきならず者の仲間入りを果たすことになるのかどうか、私にはわかりません。
 君も知っているように、今のところつねに良心の呵責を感じています。というのも、私は今まできちんと前線にいたことがないからです。……それでもここ二ヵ月の経験からいえば、すでに二年間「ロシア」にいる兵士のうち三日と前線にいたことのある兵士は30%もいないのです。

負の平等

不安定な戦友意識を「構造的」に安定させる要因があったとすれば、それは(略)「みんなが平等に不幸になることだけが、みんなを満足させられる」という負の平等であったろう。(略)「些細な差異をも見逃さない」嗅覚に優れた兵士たちは(略)全員が等しく不幸なときだけ連帯感が生まれた。もっともやっかみの対象になりやすいのが、一人だけたくさん手紙が来るということであった。とくに大戦末期、「銃後」の家族が避難することで手紙のやりとりが困難になるなかで、家族からの手紙が来る兵士には、やっかみの視線が向けられた。手紙を受け取れなかった戦友たちは不満を募らせ、罵ったり、怒りの表情をあらわにしたりすることがしばしばであった。(略)
故郷から何も送られてこない者たち同士痛みを分かち合おうと44年末に戦友たちと話し合っていた兵士も、翌年家族が無事避難を終えて自分に手紙が送られてくると、すぐさま嫉妬の対象になったという。「私が何かを言うと、我が妻は勇敢で、だからこそ家に残ったのだ、などと彼らは文句を言うのです。言わせておけばいい、私は黙っている。君は正しく行動したんだから」という文面からは、そうした嫉妬のすさまじさを垣間見ることができる。別の兵士も、「一番手紙が来るので、今のところ「一番嫌われている」人間です」「私に対してたくさん手紙が来ることについて戦友の怒りを感じますが、放っておきましょう」と、その視線の厳しさを肌で感じていた。

解離:自己の二重化

戦場に残された破壊の痕跡を目の当たりにしながら、待ち受ける戦闘への投入を前にして、次のように記す。
   私に要求されているようにそんなにうまく、軽はずみに「屍を乗り越えて」いけるものなのかどうか、私にはわかりません。……ある種の夢うつつの状態にいる必要があります。すべては「悪夢」でしかないのですが。実際、ひどく破壊された死の町を歩いてみると、すべてがもはや現実ではないような気がしてくるのです。それは現実ではありえないし、現実であってもならないのです! それから私は冷静になり、もはや仰天することもありません。
  すべてはただの夢なのです!一騒動が過ぎてしまえば、恐怖も最終的に乗り越えられると思います。経験するのではなくただ見ることによって、そして起きたことを現実へと結びつけないことによってのみ、それは可能です。
  人間は機械でなければなりません、人間であってはならないのです。「人間であること」のスイッチを切ることができるなら、それはいいことです。
(略)
そうした二重化戦略をとることによって、すでに主体が何らかの変調をきたしていることに、彼自身気づいていた。
 そしてさらにその10ヵ月後、前線経験を数多く経て大戦末期の東プロイセンにいた彼は、次のような手紙を母親に向けて書き送ることになる。
   ですから私は、他の人間が不幸に見舞われていたとしても、もはや何も同情できません。私ができるのはただ、冷たく笑うことだけです。泣いている女性たちや子どもたちの隊列がひっきりなしに通り過ぎるのをただ冷たく笑う、避難する母親の腕のなかで凍死し、見知らぬ家の前にある机の上に置かれた死んだ子ども、その横には書置きと、誰か同情する人に埋葬してもらえればと百マルクが置かれていても、それを冷たく笑うだけです。これが東プロイセンにおける撤退の様子ですし、同情するということを私は忘れてしまいました。すべての悲惨さがもはや現実のものとは思えなくなって、数々の光景が目の前をただ素通りしていくという感じなのです。そのような悲惨さが現実であるはずがありません!顔を撃たれて血まみれになっている若い奴を見ても、もはや同情は湧いてきません。これはただのまぼろし、おそらくは夢幻なのでしょうか、それとも現実なのでしょうか?
(略)
   かつては戦闘という領域は、私にとって「タブー」でした。とにかくうんざりして、耐えがたかったのです。しかし今ではまったく違います。私は自分の新たな保護装甲を見つけたのです。そこからは何も入り込ませないような立ち位置を。

次回に続く。